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2000年05月 の記事一覧

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栗原健太

栗原 健太(くりはら けんた、1982年1月8日 - )
広島東洋カープ所属のプロ野球選手(内野手)。



経歴

アマチュア時代
山形県天童市山口の焼肉店に生まれる。小学3年生から野球を始めエースで4番。中学時代のポジションは投手。陸上でも3種競技(走り高跳び、100m走、砲丸投げ)で市大会を制覇している。当時の日大山形の渋谷良弥監督は栗原身体能力の高さを見て大型投手としての構想を描きスカウティングした。しかし日本大学山形高等学校入学後に打撃をやらせてみるとバットコントロール、スイングスピード共に図抜けており、オーバーフェンスを連発。内野手に転向となった。1年夏にチームの5番打者となり、秋には早くも4番打者を任せられた。2年春の東北大会では打率7割2本塁打をマーク。2年夏に甲子園に出場したが、4打数1安打1打点で1回戦敗退。3年春には11球団のスカウトが二重丸をつけたという。(ホームラン1999年6+7月号より要約して抜粋)高校通算39本塁打。

1999年ドラフトでは、1999年11月当時の週刊ベースボールにてヤクルトも上位指名での獲得を狙っていたというが、3位で広島東洋カープに指名され、推定契約金4500万円で入団。

プロ入団時から並外れた筋力で、金本知憲(現阪神)や浅井樹(現打撃コーチ)らに匹敵する数値で周囲を驚かせた。高校3年時には背筋力280キロ、スクワット330キロ、ベンチプレス120キロだった[1]。また50mを6.0秒、100m11秒7で走るなどパワーだけでなく走れる選手としてスカウトから評価された。右の長距離砲として期待され、入団時の触れ込みでは「江藤2世」と言われたが、高い弾道のホームランが多い江藤に対して、栗原はライナー性の打球が中心であり、打球自体はあまり似ていない。

プロ入り後
2000年、2001年は怪我との戦いもあり終始2軍だったが、2年目にはウエスタン打率.306と規定打席未到達ながら打撃センスの片鱗を見せた。

2002年、開幕から2軍の4番に座り、フレッシュオールスターに出場。阪神2軍監督の岡田彰布が目玉選手に栗原の名前を挙げ、スタメン4番に据えるなど期待の高さをうかがわせた。試合では無安打と結果は出なかった。8月30日に1軍初昇格。9月5日広島市民球場での阪神戦でスタメン出場2試合目に藤川からプロ入り初安打となる本塁打を打つ。この年のウェスタン成績は打率.305 6HR 6盗塁でリーグ打撃3位だった。10月に行われた第14回アジア競技大会野球日本代表では、広島からは栗原が派遣された。初の国際試合ながら6番一塁で出場し、中国戦では本塁打を打つなど活躍した。なおこの大会ではプロ各球団一名ずつ選手を出したが、後にチームメートともなる喜田剛も派遣されていた。

2003年は春期キャンプを訪れた長嶋茂雄から「将来球界を代表する打者になれる」と指導を受けた。しかしシーズンでは1軍と2軍を行ったり来たりであった。ウエスタン・リーグでは打率.315、13本塁打、53打点で、本塁打と打点の2冠に輝き、打率はリーグ2位だった。また三振も24と非常に少なく、3年連続で打率3割超えも果たした。

2004年のオープン戦で、本人が幼い頃からファンだった清原和博にバットを貰い、「バッティングは気合だ」という教えを受けた。その後、バッティンググローブには「気合」の文字が刺繍されたデザインを使用。この年は嶋重宣とともに初めて開幕スタメンに名を連ねた。序盤は打撃不振だったが、巨人戦にホームランを連発。レギュラーの座に近づく年となった。最終的には90試合に出場し、11本の本塁打を打ち、同じ内野で右の大砲候補だった新井貴浩よりスタメンになる事も多かった。レギュラーの座を掴むかに見えた。しかし10月2日の阪神戦で、同点の9回裏2死2、3塁。空振り三振の球を捕手が後ろへ逸らし、3塁走者であった嶋がホームインした際に、栗原が走っておらず一塁でアウト。勝機を逸し試合は引き分けに終わった。本人は「ファールだと思った」と主張したが、監督の山本浩二に悪い印象を与え、次の日に登録抹消。残り試合は若手主体の打線で戦ったにも関わらず、試合に出られなかった。この年の12月にカープのホームランガールと結婚し、翌年7月に女児誕生、同年12月に女児を伴い妻と披露宴を挙げた。

2005年は怪我で出遅れた事もあり、調整の意味で二軍の試合に数試合出場した。その際入団から栗原を見ていた二軍監督の木下富雄から「栗原はもう由宇には戻ってこないだろう」と言わしめる程に[要出典]、安打と本塁打を量産。主に1塁を守っていた野村謙二郎の2000本安打達成後に一軍昇格。新井がホームラン王争いをするまでに活躍していたこともあり、主に野村と併用され、77試合に出場した。尚、シーズン終盤は三塁手の新井が打球を右肩に受けた影響もあってか、互いの守備位置を交換していた。

2006年は背番号を「50」から清原と同じ「5」に変更。1月、単身自費でアメリカに渡り、メジャーリーガーとともにトレーニングを行った。この年から毎年キャンプ前にはアメリカでトレーニングを行っている。体脂肪は10%から9%に減らしながら、体重は100kgに増やした。シーズンでは初めて数試合4番に座った他、7月の月間MVPを取るなど成績を上げた。だが8月に腰に違和感が生じ、検査したところ椎間板ヘルニアと診断された。8月23日に手術を受け、残りシーズンを棒に振った。皮肉にも7月の月間MVPを一緒に受賞した黒田博樹も戦線離脱の憂き目に遭った。途中離脱をしたにもかかわらず、勝利打点はチームでは嶋重宣に次ぎ、また本塁打で2ラン以上の割合がリーグ1位と、勝負強い打撃で活躍した。怪我による離脱を除けば、ほぼ不動のレギュラーを手中にしている。

2007年、目標をシーズン通しての出場、50本塁打とした。前年に続きアメリカアリゾナ州で始動。嶋、吉田圭と共に自主トレを行った。怪我の間に13%に上がっていた体脂肪を9%に戻し、また1日6食療法で今回は92kgに減量した。後半戦は骨棘による肘の痛みなどもありながら全試合出場を果たし、リーグ打撃5位と好成績を収めた。9月13日には阪神の絶対的なクローザーになった藤川球児からレフトスタンド中段に本塁打を放つ。この年藤川が浴びた最初の本塁打だった。シーズンで長打率.500を超えた右打者で三振が二桁で済んだ打者はセリーグでは栗原だけである[2]。勝利打点11は前田智徳、新井の8を抜きチーム1位と、勝利に貢献した。また左右どちらでも打率3割越えと右左での対戦でも苦にしなかった。

2008年は、新井のFA移籍により、開幕から4番を任される。シーズン序盤こそヒットを打っても打点に繋げられず苦しむ時期があったが、交流戦前後から一気に調子を上げ、7月には月間打率.408を記録、勝負強い打撃でチームのクライマックスシーズ進出争いに貢献し、最終的には100打点越えを果たした。本塁打を除く打率(リーグ3位)、安打数(リーグ2位)、打点(リーグ4位)で自己ベストを更新しチームを代表する打者となった。特に安打数は内川と僅差で惜しくもタイトルを譲る形になる。故障や不調もあったものの、全試合で4番に座り、2年連続のフル出場を達成。打席数616はリーグ3位を記録した。また精密な打撃にさらに磨きがかかり、三振数も68と規定打席に到達したシーズンの中で最も少なくなった。これは100打点以上を上げた12球団の選手の中で最も少ない三振数である。10月29日に新井とともに、自身初となるゴールデングラブ賞を受賞した(受賞者が2人なのは1993年の今中慎二と桑田真澄以来、15年ぶり)。オフには前年より懸念だった肘のクリーニング手術を行い、最大1.5センチの遊離軟骨を4つ除去した。[3]

2009年、右のスラッガー候補として第2回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の最終候補に選出され、本人も出場を熱望していたものの、手術明けの肘の状態を考慮されて落選する。引き続き予備登録選手としてエントリーされていたため、3月20日(日本時間)の韓国戦で右足を負傷した村田修一の代替選手として急遽代表に招集され、準決勝の前日から代表チームに合流[4]。慌しい日程の影響もあり、試合では3打数で2三振1併殺と結果を残せなかったが、優勝メンバーの一員となった。WBC優勝の勢いを買ってレギュラーシーズンに突入したものの、開幕から腰痛に苦しみ、3年ぶりの先発落ちも経験。それでも開幕直後は好調を維持していたが、チーム全体が極度の打撃不振に陥ったことから栗原にマークが集中し、調子を大きく落としてしまう。最終的に本塁打以外全ての数字を前年より下げ、特に打率は.257と大きく落ち込んだ。

秋期キャンプ初日にサードの守備練習を開始。再びサードへのコンバートが有力視されている。

人物・プレースタイル
野人のようなワイルドな風貌だが、笑顔と人懐っこく謙虚な性格など人柄もいい。その風貌と名前をもじり、スポーツ新聞では以前、"クリ原人"と書かれていたが、2006年にニックネームを募集し、"コング(栗原)"に決まった。2005年のホームランキング新井貴浩とあわせてキングコング砲と呼ばれていた。

長打力が魅力のスラッガーにしてはバットコントロールもよく、2008年は小笠原、ラミレス、ウッズ、金本、村田、中村紀など他球団の主軸バッターよりも三振が少なかった。選球眼もチームトップの四死球54と出塁率も高い。変化球の対応は元来うまく、近年は速いストレートへの対応力もさらに向上した。逆方向へのシャープな打撃も多く、コンスタントに広角に長打を打てる器用さとパワーを持ち合わせ、スイングミスの少ない打者でもある。同じ東北出身の落合博満のように、バットのヘッドを内から外に投げ出すような「インサイドアウト打法」を打撃の手本とした。これはスイングスピードと高い技術を必要とするが、少年野球の頃から取り組んでいる[5]。

若い頃は脱臼癖があった。2軍の試合でダイビングキャッチを試みた時に肩が抜けてしまい、当時の2軍首脳陣からダイビング禁止令が出るなど、その圧倒的なパワーを誇る体とは裏腹に、やや怪我しやすい体質でもある。

メジャー志向が強く、将来的にメジャーでプレーしたいという夢を語っている[6]が、一方で自身のブログなどで、カープや広島という土地柄に対する強い愛着も見せている。

エピソード
高校時代から非常に練習熱心で、打撃練習では血の豆が噴出し、指には常に絆創膏が巻かれており、38度の熱でも練習を休む事はなかった。
広島に入団した2000年から2002年まで日本の現役プロ野球選手で唯一の山形県出身選手だった。2003年に高橋敏郎がヤクルトに入団して以降、2008年現在では山形県出身の現役選手は栗原を含め4名まで増えた。4人のうちの2人が広島に在籍している(広島のもう一人の山形県出身選手は梅津智弘である)。
2004年には初めて地元山形県野球場での横浜戦(横浜主催試合)で2試合ともスタメンだったが、地元の大声援が逆にプレッシャーとなり、全くいい所が無かった。そして最後の打席は当時不調でずっと控えに甘んじていた新井貴浩を代打に出された。現在でも地元に近い宮城球場では関係者が大勢かけつけるためか、あまり成績が良くない。しかし、2008年7月1日のYZ.タカスタにおける対横浜戦で本塁打を放って、チームも勝利。ようやく故郷に錦を飾ることができた。
阪神から移籍した喜田剛とは顔が似ており、ファーム時代も重なるため、野球ファンから栗原本人、もしくは兄弟かと間違われると喜田が語っていた。
2008年は全試合で4番を務めたが、不調だった序盤戦に、試合前のメンバー通達の時点では4番を外されたことが2試合ある。これらの試合はどちらも雨天中止になっており、最初から中止を見越した上で栗原に発破をかけるためのブラウン監督の策だった。
2008年には旧本拠地の旧広島市民球場で最後の本塁打、2009年には新本拠地のマツダスタジアムでチーム初本塁打、その後この年新設された広島県三次市のみよし運動公園野球場と、新潟県新潟市のHARD OFF ECOスタジアム新潟でそれぞれ球場プロ第1号本塁打を放つなど、メモリアル弾をよく打っている。
ブログがあり、その内容は自身の野球論や、その周辺に携わる裏方の人、広島の歴史、家族の話などである。
ひじの状態を考慮されてWBC代表から落選した際、代表監督の原辰徳は栗原を呼び、「今回は外れることになったが、お前は将来日本の4番を打つ人間だ」と激励した。他の落選選手が、落選通達後すぐに代表キャンプを離れる中、栗原は最後まで残って特打ちを行い、それを聞いた原は「素晴らしい話だ。今年は(国内リーグで)巨人もたくさん打たれることになるだろうが、僕は心の中で拍手しているだろう」と、栗原のプロ意識を賞賛した。この練習に対する姿勢を見ていたため、本戦で村田が負傷した瞬間に原は栗原の追加招集を決め、負傷退場の5分後には栗原へ連絡が届いたという。

個人記録
初出場・初打席:2002年8月31日、対中日ドラゴンズ23回戦(ナゴヤドーム)、9回表に玉木重雄の代打で出場、山井大介から遊撃ゴロ
初先発出場:2002年9月4日、対阪神タイガース23回戦(広島市民球場)、7番・三塁手として先発出場
初安打・初本塁打・初打点:2002年9月5日、対阪神タイガース24回戦(広島市民球場)、2回裏に藤川球児から中堅左へソロ本塁打
初盗塁:2003年4月16日、対読売ジャイアンツ4回戦(東京ドーム)、7回表に二盗(投手:高橋尚成、捕手:阿部慎之助)
100本塁打:2009年4月7日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、5回表に久保康友から左越2ラン
1試合で2度の被打撃妨害:2009年8月28日、対横浜ベイスターズ18回戦(横浜スタジアム)、5回表、7回表に記録。(捕手:武山真吾)

タイトル・表彰
ゴールデングラブ賞:2回(一塁手部門・2008、2009年)

背番号
50 (2000年 - 2005年)
5 (2006年 - )



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