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2000年10月 の記事一覧

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松坂大輔

松坂 大輔(まつざか だいすけ、1980年9月13日 - )
ボストン・レッドソックスに所属するプロ野球選手(投手)。背番号は18。

概説
父は北海道稚内市出身で、母は青森県外ヶ浜町出身。弟・松坂恭平は愛媛マンダリンパイレーツに所属していた元野球選手。妻は元日本テレビアナウンサーの柴田倫世。夫婦の間には2005年12月に誕生した長女と、2008年3月に誕生した長男がいる。
「大輔」という名前は、1980年に大旋風を巻き起こした甲子園のアイドル、早稲田実業の荒木大輔のように甲子園で活躍できるようにという家族の願いからつけられたものであり、その親の願い以上の結果を甲子園、プロで残している。
愛称は「マツポン」「マツ」「ダイスケ」、アメリカメディアでは「Dice-K」「D-Mat」という愛称が使われている。ボストンでは「Dice-K」が好まれる。本人は「D-Mat」をサインに使うこともある。渡米後の代理人はスコット・ボラス。
「目標が、その日その日を支配する」という句を座右の銘にしているが、これは横浜高校創立者黒土四郎が愛した詩の一行である(黒土四郎の先輩後藤静香が創作した『第一歩』という詩)。

経歴

プロ入り前
5歳から小学3年生までは、地元東京都江東区の福住剣友会で剣道に打ち込む。小学3年生で江東区の東陽フェニックスに入部し野球を始める。中学時代は江戸川区の江戸川南リーグ(リトルリーグ)に所属。リトルリーグ時代にNHK教育テレビジョンの『天才てれびくん』に出演した経歴がある。

横浜高校時代は、「サボリのマツ」と言われるほどの練習嫌いであったが、2年次の夏の甲子園県予選での対横浜商業高校戦で、自身の暴投によるサヨナラ負け以来奮起し、MAX152km/hの豪速球・切れ味鋭いスライダー、カーブ、チェンジアップを武器に超高校級の投手として「平成の怪物」と注目を浴びた。またバッテリーを組んでいた捕手は、入学時に現在俳優の上地雄輔、上地の引退後は小山良男だった。

1998年の第70回選抜高等学校野球大会ではすでにずば抜けた完成度の投球と小山、後藤武敏、小池正晃らチームメイトの活躍で他校を寄せ付けず優勝。最後の夏となった第80回全国高等学校野球選手権大会では、準々決勝で上重聡を擁するPL学園を相手に延長17回という長丁場の試合に250球を投げ完投勝利。翌日の準決勝、明徳義塾戦でも1イニングに登板し、逆転劇を呼び込む。

決勝戦では、嶋清一以来59年ぶり史上2人目となる決勝の京都成章戦ノーヒットノーランという快挙。圧倒的な活躍で春・夏連覇を達成した。また、新チーム結成後、1997年秋季県大会ブロック予選から翌年国体決勝まで、公式戦44連勝を記録した。

1998年度新人選手選択会議では、指名順位1位で西武ライオンズ、横浜ベイスターズ、日本ハムファイターズの3球団が競合の末西武が交渉権を獲得(ハズレ1位として横浜は古木克明、日本ハムは實松一成を指名)。当初ドラフト直後の会見では、「自分の意中の球団は横浜ベイスターズでした」と語っていたが、西武へ入団した。

西武時代
初先発となった東京ドームでの1999年4月7日の日本ハム戦では155km/hの直球を披露、8回2失点の好投で初勝利を記録し、まさに鮮烈なデビューを飾った。その試合での片岡篤史の豪快な空振りはプロでも変わらぬ“怪物”ぶりを示す映像資料として現在でもよく放送される。同じ試合で、マイカ・フランクリンへの投球が胸元の際どいコースに行き、フランクリンが怒りをあらわに詰め寄ったが、それに動じた様子を見せないなど、強心臓ぶりも見せた。

同年4月21日の千葉ロッテマリーンズ戦では黒木知宏と投げ合い、0-2で惜敗。この試合後に「リベンジします」と宣言した松坂は、4月27日のロッテ戦で再び黒木と投げ合い、1-0でプロ初完封を記録しリベンジを果たした。このことから、松坂の「リベンジ」は、プロ同期で同じく鮮烈なデビューを果たした上原浩治(読売ジャイアンツ)の「雑草魂」とともに同年の新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれている。

5月16日のオリックス・ブルーウェーブ戦では、すでにプロ野球界において孤高の存在であったイチローとの初対決が話題となったが、イチローを3打席連続三振(1四球)とほぼ完璧に抑えた。試合後のヒーローインタビューでは「自信から確信に変わった」と語った。7月24日に行われたオールスター第1戦に先発して3イニングを投げ、高卒新人としては史上最多となる5奪三振を記録。3回表に味方の失策によって2点を失い、自責点0ながら敗戦投手となったものの、この試合の優秀選手賞に輝いた。オールスター新人賞も受賞した。

また、シドニーオリンピックの野球アジア予選に参加し、9月15日の台湾戦に先発。古田敦也(ヤクルトスワローズ)とバッテリーを組み、1失点完投勝利を挙げて日本の五輪出場に大きく貢献した。

1年目は結局16勝を挙げて最多勝。高卒新人としては史上初となるベストナイン、ゴールデングラブ賞の受賞を果たし、高卒新人の投手としては堀内恒夫以来、33年ぶりとなる新人王に輝くなど、その実力を見せ付けた。

2000年は、津野浩以来、15年ぶりに10代での開幕投手を務めた。プロアマ混成のシドニーオリンピック野球日本代表に選ばれ、まず9月17日のアメリカ戦に先発。10回2失点の好投を披露するも、チームは延長13回サヨナラ負け。中5日で先発した9月23日の韓国戦では、初回から4点を失うものの、その後は立ち直り、計161球を投じて9回5失点にまとめるも、またしてもチームは延長の末に敗れた。中3日で再び韓国と対戦した9月27日の3位決定戦では、具臺晟と投げ合い、0-0の投手戦が続いたが、8回裏に李承に痛恨のタイムリー二塁打を打たれるなどし、3失点完投負け。好投も報われず、日本は五輪野球で初めてメダルを逃す結果となった。

シーズンでは小野晋吾(ロッテ)との最多勝争いを制して14勝を挙げ2年連続の最多勝に輝いたが、不祥事が発覚し、オフに世間からバッシングを浴びることになる(エピソード参照)。

2001年にも15勝を挙げ最多勝を獲得したが、高卒の新人年から3年連続での獲得は史上初である。また沢村賞を受賞したが、15敗と負け数も多かったため、選考委員からは反対意見も出た。結局、両リーグで唯一の15勝投手であることや、240回1/3という圧倒的な投球回数などが評価されての選出となったが、2年連続での「該当者なし」という事態は避けたいという思いも選考委員にはあったと思われる。藤田元司委員長(当時)は、「松坂の150キロを越える豪速球は沢村さんをほうふつさせる。将来の松坂に対する期待を含めて選んだ」とコメントしている。

2002年は開幕6連勝という順調なスタートを切ったが、5月13日の大阪近鉄バファローズ戦で右ひじを痛め、何度か復帰するものの、本来の投球は戻らずに長期離脱。日本シリーズでも巨人打線に打ち込まれて2敗するという悔しいシーズンとなった。

2003年は前年の怪我から奮起し、自己最多タイ(当時)の16勝を挙げ、自身初めて最優秀防御率のタイトルも獲得した。アテネオリンピックの野球アジア予選では、11月6日の台湾戦に先発し、7回無失点の好投で勝利。五輪出場の条件である2位以内をほぼ決定づけ、大会の最優秀投手にも選ばれた。

2004年7月10日のオールスター第1戦で2番手として登板し、2イニングを無安打無失点で4奪三振という好投を披露し、自己最速タイとなる156km/hも記録した。本塁打を2本以上打った選手がいなかったこともあり、松坂がこの試合のMVPに輝いた。

同年のアテネオリンピック野球日本代表に選ばれ、8月17日(現地時間)のキューバ戦に先発。4回にユリエスキー・グリエルの打球を右腕に受けるアクシデントに見舞われるも、8回まで無失点に抑える力投を披露し、完封も期待された。結局、9回に3点を失ったものの、石井弘寿(ヤクルト)のリリーフで逃げ切り、松坂は五輪での初勝利を手にした。中5日で先発した8月24日の準決勝・オーストラリア戦では、8回途中まで1失点の好投も報われず、0-1で惜敗して金メダルの夢はついえた。チームは翌日、カナダとの3位決定戦に勝利したため、松坂は銅メダリストとなった。

レギュラーシーズンは2位に終わったが、この年から導入されたプレーオフの第1ステージで3位の日本ハムと対戦。第1戦では、8回途中7失点と打ち込まれたものの、打線の援護で勝利投手となった。福岡ダイエーホークスと争った第2ステージでは第2戦に先発し、完封ペースだったが、打線の大量援護もあり、6回無失点で余力を残して降板。これが功を奏し、最終の第5戦に中3日で先発が可能となって、6回1失点の力投を見せた。勝利投手にはなれなかったものの、チームは延長10回の末に4-3で勝利し、リーグ優勝を果たした。

中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、まず第2戦に先発。立浪和義に同点3ラン本塁打を打たれるなどし、6回1/3を8失点で敗戦投手。2勝3敗と王手をかけられた第6戦では、苦しみながらも8回2失点でしのぎ、勝利投手となって逆王手をかけた。翌日の第7戦には中継ぎで3番手として登板し、1イニングを無失点に抑えて日本一に貢献した。この直後に柴田倫世との結婚を発表した。

また、同年11月11日の日米野球第6戦に先発し、1失点完投勝利。アメリカ選抜チーム相手の完投勝利は、荒巻淳(毎日)以来、51年ぶり史上2人目の記録となった。

2005年5月18日のセ・パ交流戦・阪神タイガース戦でプロ野球選手として阪神甲子園球場で初登板。高校時代には同球場で15連勝、被本塁打0という記録を持っていたが、桧山進次郎に先制2ランを浴び、試合も2-3で惜敗。甲子園での被本塁打0という記録は途絶え、連勝記録も15で止まった。

同年の防御率が2.30と優れていたにもかかわらず、14勝13敗と負け数もかなり多かった。打線の援護が少なく、野手の失策も多かったため、松坂が6月27日の日本ハム戦後に「球際に弱い選手が多い。僕も含めてですが、一つ一つのプレーが軽すぎる。若い選手が多いんだから、もっとガムシャラにやってほしい」と野手批判ともとれる発言をした。後日、野手ミーティングに参加してお詫びしたという。評論家からは「打線の援護がないのは、投球のリズムが悪いからだ」と度々指摘されており、本人も自覚して改善を目指し、翌2006年にその効果が表れたようである。
2006年、第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に日本代表として出場。3月4日の台湾戦では4回1失点、3月14日のメキシコ戦では5回無失点、そして3月20日のキューバとの決勝戦では、試合前に首を痛めながらも気合の投球で4回1失点に抑え、先発したすべての試合で勝利投手になった。結果的に、大会最多となる3勝、防御率1.38という成績が高く評価され、大会の最優秀選手(MVP)に選ばれた。

同年6月9日のセ・パ交流戦・阪神戦で1失点完投勝利を収め、高校時代に大活躍した甲子園でのプロ初勝利を記録し、自ら本塁打も打った(バッティングで後述)。また、6月16日のセ・パ交流戦・横浜戦で、江川卓(所要193試合)を抜きドラフト制度導入後最速(191試合)の100勝を達成する(その後、同年8月25日に上原浩治が同じ191試合での100勝を阪神戦にて達成し、松坂の記録は最速タイとなった)。

10月7日、ソフトバンクとのプレーオフ第1ステージ初戦に先発。厳しい内角攻めで4死球を与えたが、斉藤和巳との熾烈な投げ合いを制し1-0で完封勝利を挙げる。チームはその後2連敗し第1ステージで敗退したため、この試合が松坂の渡米前の最後の公式戦となった。

シーズン終了後、ポスティングシステムを利用してボストン・レッドソックスが5111万1111ドル11セント(約60億円)で独占交渉権を獲得し、契約に至った。AP通信によると、契約内容は6年総額5200万ドル(約61億円)。1998年の夏の甲子園よりレッドソックスは松坂に注目しており、同球団のスカウトが決勝戦の試合を観戦していた。レッドソックスファンであるクリストファー・ヒル国務次官補は、六カ国協議が行われる北京への出発前に記者会見で「今日のマツザカの交渉はどうなった?」などと交渉の行方を気にかけていた。

レッドソックス時代
2007年4月5日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャーリーグの公式戦初先発。気温2度という厳しい寒さのカウフマン・スタジアムで、最速95マイル(約153キロ)の速球と多彩な変化球を武器に、7回までをソロホームランによる1失点のみに抑え、10奪三振で初勝利を挙げた。

5月第3週にはア・リーグ週間MVPを受賞。レギュラーシーズン最後の登板となった9月28日の対ミネソタ・ツインズ戦では、石井一久の14勝を上回り、日本の新人投手としては史上最多となる15勝目(12敗)を挙げた。

プレーオフでは10月5日、ア・リーグのディビジョンシリーズでロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムとの第2戦に初登板し、4回2/3を3失点で勝敗はつかなかった。クリーブランド・インディアンスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、1勝1敗で迎えた10月15日の第3戦に登板したが、4回2/3を4失点で降板し、敗戦投手となった。10月21日の第7戦で松坂が再び登板し、5回を2失点。松坂は日本人メジャーリーガー初のプレーオフ勝利投手となった。

西武時代の先輩である松井稼頭央の所属するコロラド・ロッキーズとのワールドシリーズでは、2勝0敗で迎えた10月27日の第3戦で登板。自らのタイムリーヒットなどもあり(バッティングで後述)、6点の援護を得て、5回1/3を2失点。松坂は日本人メジャーリーガー初のワールドシリーズ勝利投手となった。レッドソックスは翌日の第4戦にも勝利してワールドシリーズ優勝を果たし、松坂はチャンピオンリングを手にした。

1試合の平均球数は108.8球で、これはメジャーリーグでトップとなる数字だった。

2008年3月25日に東京ドームで行われたオークランド・アスレチックスとの開幕戦に先発し、5回2失点で勝敗はつかず、チームはサヨナラ勝ちした。その後、無傷の8連勝を記録するも、5月27日のシアトル・マリナーズ戦で右肩回旋筋腱板の張りを訴え、故障者リスト入り。6月21日に復帰したものの、オールスター初出場はならなかった。

8月14日の対テキサス・レンジャーズ戦を7回無失点に抑え、14勝2敗という成績にMLB公式サイトのトップにてCY-Kと、愛称のDice-Kに歴史的名投手サイ・ヤングの名前をかけてもらうという名誉を受けた。

9月21日のトロント・ブルージェイズ戦では、野茂英雄が3度記録した16勝を上回り、日本人最多となる18勝目を挙げた。

前年と同じ顔合わせとなった10月3日のディビジョンシリーズ第2戦・エンゼルス戦では、5回3失点で勝敗はつかず、チームは9回に勝ち越して勝利した。10月10日のリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦・タンパベイ・レイズ戦では7回0/3を無失点に抑えて勝利投手となった。10月16日の第5戦では、4回0/3を5失点で降板したが、チームは7回2死まで0-7からの大逆転でサヨナラ勝ち。しかし、チームはリーグ優勝を逃して2年目のシーズンを終えた。

この年は前年に比べ与四球が増えたものの、レギュラーシーズンの被打率はリーグ1位の低さを誇り、走者が貯まると更に下がる。プレーオフを含めて満塁のピンチは15度あったが、押し出しと犠飛こそあったものの、全てノーヒットに抑えた。

またロードでの試合は無敗で.8620という勝率を記録しメジャーリーグ歴代勝率25位にランクインした。

サイヤング賞の投票では4位となった。

2009年の第2回ワールド・ベースボール・クラシックでは、東京ドームで3月7日に行われた第1ラウンドA組の第2戦・韓国戦に先発し、初回に金泰均に2ラン本塁打を浴びたものの、以降は立ち直って4回2失点にまとめ、打線の援護もあって勝利投手となった。ペトコ・パークで3月15日に行われた第2ラウンド1組の初戦・キューバ戦では、6回無失点の好投で2勝目を挙げた。ドジャースタジアムに舞台を移した3月22日の準決勝・アメリカ戦では、4回2/3を2失点で勝利投手となり、3勝目を挙げた。チームは翌日の決勝戦で韓国を破って優勝を決め、最多勝の松坂が2大会連続で最優秀選手に選ばれた。

シーズン序盤ではいきなり大不振に陥り、故障者リスト(DL)入りしてしまう。地元ボストンを中心とした米国の複数メディアにおいて、WBCの後遺症が指摘された。

タイトル・表彰など
新人王(1999年)
最多勝利:3回(1999年 - 2001年)
最多奪三振:4回(2000年、2001年、2003年、2005年)
最優秀防御率:2回(2003年、2004年)
沢村賞:1回(2001年)
ベストナイン:3回(1999年 - 2001年)
ゴールデングラブ賞:7回(1999年 - 2001年、2003年 - 2006年)
オールスター出場:7回(1999年 - 2001年、2004年 - 2006年)※2002年と2003年は負傷により出場辞退
WBC最優秀選手:2回(2006年、2009年)

バッティング
バッティングも上手い事で有名である。高校時代は4番を務めていた時期もあり、高校通算14本塁打を記録。打撃に悩む野手に打撃のアドバイスを送ることもあるらしい[8]。パ・リーグに所属する投手は打撃練習をほとんどしないが、松坂は気分転換もかねてトレーニングに取り入れているという。しかし、レッドソックスに加入した2007年の春季キャンプでは、マイバットを持参したにもかかわらず、打撃練習をさせてもらえなかった。高校時代の恩師である横浜高校の渡辺元智監督は、松坂が打者として活躍していたら巨人の高橋由伸を右にしたようなバッターになると語った。
2000年8月7日のオリックス戦では、9回2死満塁の場面で代打として登場。栗山聡からファールで粘った後の7球目をセンター前ヒットし、2打点を挙げた。DH制施行以降では投手のヒットは4人目である。
2002年の日本シリーズでは、当時の伊原春樹監督は投手を8番に置き、9番打者をシーズン同様に高木浩之とすることを示唆していたが、松坂には7番を打たせた。
2006年6月9日のセ・パ交流戦・阪神戦(甲子園)では、8回表2死3塁の場面でダーウィン・クビアンの150km/hの高めのボール球を叩いて2ラン本塁打。DH制施行後、パ・リーグの投手としては4人目の記録となった。
メジャーリーグでの松坂は、DH制を採用しているア・リーグのレッドソックス所属のため、2007年6月10日の交流戦・対アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦が初打席となったが、ランディ・ジョンソンから2打席2三振を喫し、6月22日のサンディエゴ・パドレス戦でも、グレッグ・マダックスを相手に2打席とも内野ゴロに倒れ、1年目のレギュラーシーズンは無安打に終わった。しかし、10月27日のワールドシリーズ第3戦・対ロッキーズ戦では、3回表2死満塁の場面でジョシュ・フォッグの初球を叩き、メジャーリーグ移籍後初ヒットを放って2打点を挙げ、自らを援護した。ワールドシリーズでレッドソックスの投手が2打点を挙げたのはサイ・ヤング、ベーブ・ルースに続いて史上3人目のことである。

交通違反もみ消し事件
2000年9月13日に当時交際中で現夫人の柴田倫世の自宅マンション前にて、球団名義の車で駐車違反を犯してしまう。松坂はその年の8月に犯した、時速50kmオーバーのスピード違反で一発で免許停止状態になっていたこともあり、身代わりとして西武球団の黒岩彰広報課長(元スピードスケート選手・カルガリーオリンピック銅メダリスト、後の同球団代表)が出頭した。

しかしその行為が写真週刊誌に報道されたことにより、松坂は道路交通法違反(無免許運転、駐車違反)、黒岩ともども犯人隠避の疑いで東京地検に書類送検されている。その結果、略式起訴により罰金19万5000円の略式命令を受けた。当時の小野球団社長及び黒岩は責任を取って辞表を提出するにまでに至った。また、松坂が当時埼玉県警から交通安全キャンペーンのイメージキャラクターに選ばれていたこともあり世間からは激しい批判を浴びた。球団側は松坂を無期限の自宅謹慎処分としたものの、謹慎処分は一ヶ月足らずで解除された。 後にこの事件について記者会見が開かれたが、もみけし事件について聞かれても、自分は知らない、黒岩が勝手にやった事だと発言するだけだった。

エピソード
松坂は、アマチュア時代の高校野球の連覇などの輝かしい戦績に比べ、プロ入りしてからは優勝争いや五輪のメダル争いなど大舞台でしばしば打たれ、優勝に縁がない投手だった。加えて松坂がケガで戦列を離れた2002年に西武が優勝したため、ファンの間では「ダイスケの呪い」などと言われることがあった(ホークスの松中信彦らとともに「逆シーズン男」と呼ばれたことも)。

しかし2004年は、アテネオリンピック準決勝では好投しながら打線の援護がなく敗れたものの、ペナントレースでは順調に白星を重ね、特に弱いとされたポストシーズンで、ダイエーとのプレーオフ第2戦と第5戦に好投し、西武をリーグ優勝に導いた。直後の中日との日本シリーズでは、第2戦に先発し6点の援護を貰うも7回に集中打を浴びてKOされ、呪い再びかと思われたが、王手をかけられた第6戦では、序盤リードを奪われながらも結局2点に抑えて自身初のシリーズ勝ち投手となる。さらに翌日の第7戦にもリリーフ登板し、日本一に貢献。

2006年のワールド・ベースボール・クラシックでも3勝を挙げ日本の世界一に大きく貢献。この大会のMVPに選ばれ、大舞台に弱いという「呪い」を完全に払拭した。


WBCでのエピソード
2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で唯一の3勝をあげ、最優秀選手(MVP)に選ばれた松坂は、MVPのトロフィーを受け取った直後にTVのインタビューで、「MVPとったんですけど、これ(=トロフィーの円盤状の飾り)もうとれちゃったんですね。この辺がアメリカっぽいですけど」と苦笑いしつつ、「後で自分でアロンアルフアでくっつけて直しますけど」と冗談を言ってのけた。その後、実際に販売元の東亞合成から松坂へアロンアルフアが大量に送られた。

優勝を祝うシャンパンファイトにおいて、甲子園で投げ合った同い年の上重聡・日本テレビアナウンサーに「今日のピッチング気合入ってましたね」と問われた松坂は、日本帰国後に開幕するパ・リーグのペナントレースをうっかり忘れたのか、「もうそりゃ、今日最後だから。今年最後だから」と口を滑らせた。「今年最後ではありません」と突っ込まれると、「それくらい気持ちを入れていたってことです。帰ってもしっかりやります」と自己フォローしていた。実際、この年オフのWBC祝勝コンベンションにおいて、「WBCが終わり、そのままシーズンオフになれば良かったとさえ思った」ほどの、プレッシャーと達成感があったと語っている。

2009年の第2回ワールド・ベースボール・クラシックでも3勝を挙げて最優秀選手に選ばれた。しかし、松坂自身は今回も選ばれるとは思っておらず、インタビューの際「岩隈くんに悪いなと思いました」とコメントを残している。

剣道と速球
松坂は少年時代、剣道も習っていた。2006年の少年野球教室で、「球を速くするにはどうすればいいですか?」という質問に「剣道をすると背筋と手首が鍛えられて良いよ」と答えており、少年時代の剣道が現在の速球の下地となっていることがわかる。

松坂世代
松坂大輔と同学年の選手(杉内俊哉、和田毅、木佐貫洋、藤川球児、永川勝浩、東出輝裕、村田修一、森本稀哲など)には、投手を中心にプロで活躍する逸材が揃っており、彼らは総称して『松坂世代』と呼ばれている。また、東出や村田とは高校時代からの顔なじみであり、東出の当時の恋人(現在の東出夫人)にも逢ったことがある。

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