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2000年12月10日 の記事一覧

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アレックス・カブレラ

アレックス・カブレラ(Alexander Alberto Cabrera 、1971年12月24日 - )
オリックス・バファローズに所属するプロ野球選手(内野手)
和信ホエールズ在籍時は、亜力士(「アレックス」の中国語表記)という登録名でプレーしていた。
打席で構える際に背中を後方に反る独特の構えが特徴。


プレースタイル
ここまで年単位での打撃不振が一度もなく、日本球界を代表するホームランバッターの一人として不動の地位を確立している強打者である。豪快なフルスイングが身上のパワーヒッターで、地面スレスレや目の高さのボール球だろうと振ってくる打ちたがりな性格である。しかしバットコントロールは極めて巧みで、度々打点狙いの軽打や右打ちも見せるなど、6年間で4度の3割をマークしている。力任せのフルスイングが多く、手首や腰などの故障が多い。反面その回復力は非常に高く、ここまで死球、打球直撃以外では大きな戦線離脱はほとんど無い選手でもある。

守備では主に一塁を守るが、見た目や印象とは裏腹にグラブ捌きが上手く、捕球の能力には定評がある。反面投手との連係、送球、バント処理などの際に雑な動きも見られ、エラーも多い。1年目には、4試合ライトを守ったことがある。緩慢な守備、走塁が時折見られる。これが西武退団の一因と言われている。しかしオリックスに移籍後、特に大石大二郎が監督に就任してからはそれまでに比べ走塁にも一生懸命取り組んでいるようである。

強靭な筋力で打球を上方向に上げる打撃をするため、特大本塁打も多い反面、特大すぎるがために、ドーム球場の天井に打球が直撃し、本塁打を損したエピソードも多数ある(球場ルールによってまちまちだがルール上、天井に当たった打球は、そのままフライとしてプレーが続行される)。札幌ドームでは完成から現在まで6度、天井に当たった打球があるが、いずれも彼によるものである。天井に当たって二塁打になった際、「間違いなく200mはとんでたね」とインタビューに答えたことがある。東京ドームでもぶつけ、ぶつかった打球は外野のレフト近辺のフェアゾーンに落ちたが、東京ドームのローカルルールで天井に当たってフェアゾーンに落ちてきたボールはそのままインプレーとして扱われる為、記録上は「ヒット」となった。この打球の推定飛距離は190メートルともいわれている。

シーズンオフにはベネズエラで開かれるウィンターリーグに参加している。カリビアンシリーズ制覇に貢献したこともあり、また、この参加がもっぱら自主トレ代わりのオフシーズントレーニングとなっているようである。しかし2006年冬は母親の体調不良もあり、同リーグにほとんど参加しないまま来日。すると2007年開幕は、オープン戦を含め不調のスタートとなった。


来歴

MLB時代
アメリカではシカゴ・カブス3Aに所属。

その後、メキシカンリーグや台湾の中華職棒を経て2000年アリゾナ・ダイヤモンドバックスのマイナーリーグでプレーし、開幕から53試合で35本塁打というマイナー・リーグの記録を打ち立てる(マイナーリーグ・メジャー合計44本塁打)。その年のシーズン中盤にはメジャーに初昇格していきなり初打席本塁打、第2打席三塁打とデビュー戦から活躍を見せ、故障により31試合の出場にとどまったが、5本塁打を放ち翌シーズンも戦力として期待された。

2000年シーズン終了後、アリゾナ・ダイヤモンドバックスの監督交代をもって西武ライオンズへトレード。

西武時代
2001年、この年より西武ライオンズでプレー。64試合で30本塁打に到達というプロ野球タイ記録を作るなど長打力を発揮、シーズン通算で49本塁打を放ち、NPB1年目の選手の最多本塁打記録を樹立し、この年同時に入団したスコット・マクレーンとともに「ツインバズーカ砲」を形成した。圧倒的な本塁打のペースと超人的な打棒で日本プロ野球界を席捲、三振もリーグ最多という豪快なプレイスタイルで一躍、時のスタープレーヤーとなる。

2002年、2年目となるこの年には更に飛躍を見せ、前年に劣らないペースでホームランを量産。前年は終盤に来て失速を見せていたが、その反省を活かした同年は息切れすることなく最後まで好調を維持。この年王貞治、タフィ・ローズと並ぶ日本タイ記録・シーズン55本塁打という金字塔を打ち立てた。四球数はリーグトップで、勝負を避けられる場面も多くありながらの歴史的記録達成であった。打率.336、55本塁打、115打点、さらには出塁率.476、長打率.756という数字を残し、不動の4番打者としてライオンズのリーグ優勝に大きく貢献した。パ・リーグMVPにも輝く。日本シリーズで破れたとき「このチームはおこちゃまだ」という趣旨の発言をした

2003年、50本塁打を放ち、3年間で150本塁打以上を記録した史上初の選手となった。また、2年連続50本塁打は、落合博満が1985年・1986年に達成して以来2人目。2年連続打率3割・50本塁打、入団から3年連続での100打点を達成。なお、本塁打王は51本塁打を打ったローズに譲った。50本塁打を打ちながら本塁打王を取れなかったのは、この年のカブレラが史上初であり、現在も唯一。

2004年、オープン戦で大阪近鉄の山村宏樹から死球を受け右腕を骨折、前半戦の大半を棒に振ったが、驚異的な回復で6月後半に復帰、64試合の出場で 25本塁打を放った。さらに同年よりパ・リーグに導入されたプレーオフでも北海道日本ハムファイターズとのファーストステージ第3戦に逆転満塁本塁打を放つなどリーグ優勝に貢献、続く中日ドラゴンズとの日本シリーズでも岡本真也から満塁本塁打を放つ[1]など3本塁打を放ち、ライオンズの12年ぶりの日本一に貢献、優秀選手賞を獲得した。日本一に輝いた時、「もう俺たちはガキじゃない!成長したんだ!」と発言している。

2005年、敬遠四球はリーグ最多の15個で、2位のフリオ・ズレータらの6個を引き離してダントツだった。四球数・出塁率ともにリーグ2位で、勝負を避けられる場面も多かった。5番を打つ和田一浩が首位打者を獲得し、この2人が相手投手に与えるプレッシャーは相当なものだった。3度目の打率3割、リーグ3位の92打点、36本塁打を挙げた。6月3日のセ・パ交流試合対横浜戦(インボイスSEIBUドーム)の2 回、三浦大輔から放った打球はレフトの屋根に当たって左中間のグランドに落ちた。これはインボイスSEIBUドームのグラウンドルールにより認定本塁打とされた。なお推定飛距離は180メートルとも言われ、一説には実質的日本最長飛距離の本塁打とも言われている。打球が直撃した屋根の鉄骨部分には記念プレートが取りつけられている。7月11日の対千葉ロッテ戦(インボイス)の2回に小林宏之から来日200号本塁打を放つ。538試合での200本塁打はラルフ・ブライアント(元近鉄)の578試合を大きく更新する最速記録となった。

2006年、小笠原道大と同点(100打点)で、自身初となる打点王のタイトルを獲得した。三冠王を狙える位置にいたが、本塁打は小笠原に1本及ばず、打率は松中信彦に9厘及ばずにどちらも2位だった。2年連続3割30本塁打を記録。8月7日の日本ハム戦で、亀田興毅似のルーキー木下達生から2ランHRを放ち、8月2日のボクシング世界戦:亀田対ランダエタ戦での借りを返したと新聞で報道された(カブレラとランダエタは同じベネズエラ出身であり、なおかつ同郷だったため)。なお、ボクシングの試合の翌日である3日には、報道陣に対して「アンビリーバブルな判定だ!」と声を荒らげていたが、「知り合いなのか?」と記者団に聞かれると「実は全然知らない」と苦笑していた。シーズン中、スポーツ紙でたびたび移籍を考える発言をし巨人や中日といったセリーグの球団に売り込むような発言が目立ったが、2007年の9月に「契約がまとまれば生涯西武でもいい、またこのチームで現役を終えたい」など以前の確執は解消されたような報道がされた。

2007年、4月29日の対千葉ロッテマリーンズ戦(グッドウィルドーム)で成瀬善久から来日250号本塁打を放つ。733試合での250本塁打は元近鉄のラルフ・ブライアントに並ぶ最速タイ記録となった。7月にケガで欠場するが、7月31日の本拠地・グッドウィルドームでの日本ハム戦で復帰した。しかし復帰後は調子が上がらず、一時はリーグトップに立っていた打率も徐々に下がり、打撃三部門において前年から大きく数字を下げてしまった。不動の4番の座もG.G.佐藤に譲ることもたびたびあった。ライオンズ入団以降、規定打席に到達して30本塁打に達しなかった初のシーズンでもあった。それでも打率.295(リーグ8位)、81打点(リーグ5位)、27本塁打(リーグ3位)で、打点と本塁打はチームトップと、主軸打者として立派な数字を残した。得点圏打率はチームトップの.331を記録。4年ぶり3度目のベストナイン(一塁手部門)を受賞した。

10月30日、西武ライオンズがカブレラとの翌年の契約を結ばない方針であることが明らかになり、11月30日付で自由契約公示された。自由契約後はオリックスが獲得に乗り出し交渉を行ったが、薬物疑惑(後述)により交渉は難航した。

オリックス時代
2008年、1月9日にオリックスと1年契約、年俸2億5000万円プラス出来高5000万円で正式に契約を交わした。背番号は西武と同じ42に決まった。(尚、これまで42をつけていた清水章夫投手は13に変更となった)メディカルチェックで陽性反応が出たら、契約を破棄できる契約となっている。5月9日の対埼玉西武戦(京セラドーム大阪)で岡本真也から本塁打を放ち、史上3人目のセ・パ13球団から本塁打を達成した。春先は極度の不振に陥ったが、月が経つにつれて徐々に調子を上げ、8月は月間で4割の打率を残し月間MVPを獲得するなど、チームのAクラス入りに大きく貢献した。8月20日の対楽天戦(スカイマークスタジアム)で青山浩二から来日300号本塁打を放つ。934試合での300本塁打は田淵幸一の1072試合を大きく更新する最速記録となった。10月29日に自身初となるゴールデングラブ賞を受賞(ただし該当の一塁手部門は「該当者なし」が53票と最多であったが有効投票数である143の過半数(72以上)に満たなかった為に受賞した。カブレラの得票は40票であった)。オリックスの一塁手がゴールデングラブ賞を獲得するのは1987年のブーマー・ウェルズ以来だった。

2009年、2009 ワールド・ベースボール・クラシック・ベネズエラ代表候補に選出されるが最終メンバーから落選。4月23日の埼玉西武戦(京セラドーム)の1回裏、打者後藤光尊のファウルボールが3塁走者・カブレラの右足小指を直撃し、全治2ヶ月の骨折を負った。7月7日のソフトバンク戦で一軍復帰を果たし、この試合で大隣憲司から決勝打を放った。この月は出場全試合で安打を放ち、月間打率.409で自身6度目となる月間MVPを獲得した。8月7~9日に行なわれたチームイベント「Bs大坂夏の陣」にて、外国人選手の名前に漢字を当てる企画の中で台湾時代の登録名の「亜力士」が再び使用された[2]。その後はスタメンで名を連ねてきたが、左胸から背筋に痛みを訴えて9月19日に再び登録抹消。打率こそ.314をマークしたものの、65試合の出場、13本塁打39打点はいずれも来日後最少だった。因みに、7月19日に1軍登録日数が8年に達し、国内移籍が可能なフリーエージェント資格取得の条件を満たしたため、来季から外国人枠を外れて日本人選手扱いとなる。


薬物疑惑
異常に筋肉が発達した体型、2005年ごろから身体が一回り小さくなり本塁打の数も激減したこと(筋肉増強剤の服用をやめたせいだと考えられる)等から、薬物使用が噂されている[3]。

2007年12月13日、ミッチェル報告書の中で薬物使用の疑いがある選手として名前が挙げられている。それによると、カブレラがダイヤモンドバックスに在籍した2000年9月、球団のクラブハウスに届いたカブレラ宛の荷物にアナボリックステロイドホルモンと数百錠の錠剤(後に市販の痩せ薬であることが判明)があるのをクラブハウス係員が発見。カブレラには荷物が紛失したことにしてコミッショナー事務局に報告した。その後、事務局から依頼された麻薬取締局が薬物を検査している間に、選手契約が西武ライオンズに譲渡されたとしている。

カブレラ地蔵
西武時代、文化放送ライオンズナイターの企画の一つとして、発泡スチロール製の「カブレラ地蔵」が作られたことがある。その後、所沢の石材会社が本当に石で造ったカブレラ地蔵を寄付、西武ドームの入口横に建てられていた。しかし2008年3月17日、当人が退団したことを理由に、地元の神主による「御霊払い」の儀式を受けて撤去された。地蔵の受け取りをカブレラやオリックスに打診したが、拒否されたために以後は球団事務所によって保管されている(その後カブレラが一時不振となったために地蔵を渡してほしいとオリックス側から要請されたが西武は拒否)。奇しくも20日のパ・リーグペナントレース開幕戦は西武ドームで当人が移籍したオリックスと西武が対戦し、オリックスが勝利となった。

背番号
42(2001年 - )

タイトル・表彰
本塁打王:1回(2002年)
打点王:1回:(2006年)
最高出塁率:1回:(2002年)
最優秀選手(MVP):1回(2002年)
ベストナイン:4回(一塁手部門・2002年、2007年、2008年、指名打者部門・2003年)
ゴールデングラブ賞:1回(一塁手部門・2008年)

個人記録

初記録
初出場:2001年3月24日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(西武ドーム)、4番・指名打者として先発出場
初安打・初打点:2001年3月27日、対オリックスブルーウェーブ1回戦(グリーンスタジアム神戸)、2回表に川越英隆から
初本塁打:同上、6回表に木田優夫から
初盗塁:2001年4月10日、対オリックスブルーウェーブ4回戦(西武ドーム)、6回裏に二盗

節目の記録
100本塁打:2002年9月13日、対大阪近鉄バファローズ25回戦(大阪ドーム)、9回表に吉川勝成から ※247試合目で達成、ラルフ・ブライアントに次いで史上2位のスピード
150本塁打:2003年9月14日、対日本ハムファイターズ27回戦(西武ドーム)、4回裏に伊藤剛から ※380試合目で達成、史上最速
200本塁打:2005年7月11日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(インボイスSEIBUドーム)、2回裏に小林宏之から ※538試合目で達成、史上最速
250本塁打:2007年4月29日、対千葉ロッテマリーンズ7回戦(グッドウィルドーム)、6回裏に成瀬善久から ※733試合目での達成、ブライアントに並んで史上最速タイ
1000本安打:2008年7月10日、対東北楽天ゴールデンイーグルス14回戦(クリネックススタジアム宮城)、3回表にドミンゴ・グスマンから中前適時打 ※史上251人目
300本塁打:2008年8月20日、対東北楽天ゴールデンイーグルス19回戦(スカイマークスタジアム)、6回裏に青山浩二から ※934試合目での達成、史上最速
1000試合:2009年7月31日、対埼玉西武ライオンズ14回戦(スカイマークスタジアム)、4番・一塁手として先発出場 ※史上431人目

13球団からの本塁打
セ・パ13球団から本塁打 ※史上3人目
2009年シーズン終了時点での達成者は、カブレラを含めてフェルナンド・セギノール・フリオ・ズレータ・・谷佳知・和田一浩の5人。

登場曲
La Colegiala(HABANA CLUB BAND)
西武在籍時から使用している登場曲である。西武時代には、ビジターの試合で打席に立つ際に応援団がトランペットで演奏する事もあった。


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