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ブログ更新者⇒ドカント
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2001年04月 の記事一覧

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金森栄治

金森 栄治(かなもり えいじ、1957年1月24日 - )
元プロ野球選手(外野手・捕手)。1985年から1992年の登録名は「金森 永時」(読み同じ)。
学生時代「鈍臭い亀」というキャッチフレーズが付いており、プロでのあだ名は「ドンちゃん」「ドンガメ」。

来歴・人物
PL学園を経て早稲田大学に入学。早大時代は3年まで山倉和博の控え。4年時に頭角を現し、1978年春のリーグ戦で首位打者を獲得。岡田彰布の後の5番を打ち、その年秋の9季ぶりのリーグ優勝に貢献した。

主将の中屋恵久男とともに、結成間もないプリンスホテル野球部に進み、1981年の都市対抗野球で首位打者に輝き、社会人ベストナインに選ばれ、この年オフに広岡達朗監督率いる西武ライオンズにドラフト2位で入団。


プロ時代
2年目の1983年、74試合出場、打率.293と台頭、1983年の日本シリーズ第6戦では延長10回に読売ジャイアンツ投手・江川卓からサヨナラヒットを放った。1985年には打率.312をマークし、ベストナイン、ゴールデングラブ賞に選ばれた。自分から死球を狙いに行くことが多く「当たり屋」として知られ、デッドボールのパフォーマンスでファンを沸かせたのはこの頃である(大抵は苦しんで倒れこんでしまうのだが、本人はパフォーマンスではなく、本気で痛かったそうである)。また、足を投げ出し実際に当たったが、球審から死球を認めてもらえず、その打席でホームランを放ったこともある。

1984年、1985年と2年連続して死球王でもあり、デッドボールになりそうな(しそうな)投球が来る瞬間に、必ず独特の甲高い声で叫んでいた。ちなみにこの頃、デッドボールの多さから、「東の金森、西の達川」と呼ばれ、「爆笑生傷男」の異名をとる。その後、負傷もあって出番は減り1988年途中、北村照文との交換トレードで阪神タイガースに移籍、1989年には打率.306の成績を残したが1992年限りで自由契約となった。しかし、野村克也監督率いるヤクルトスワローズに拾われ、代打の切り札として再生。1995年には代打で.324の高打率をマークし、期待に応えた。
コーチ・監督時代
1996年限りで現役を引退し、ヤクルトの打撃コーチ補佐に就任。球団に打撃コーチ補佐として推薦したのは当時の野村監督で「あいつは選手に何も教えなくていい。ベンチにいてくれるだけでいい」と言わしめた程である。その後古巣・西武の打撃コーチ補佐、ダイエーのスコアラー、阪神のコーチ、ソフトバンクの打撃コーチを務めた。打撃コーチとしての評価は高く、現役時代のイメージとは裏腹な理論派である。謙虚な性格ゆえ広岡、野村といったクセのある指揮官にも可愛がられていた。

2007年よりNHK・BS大リーグの野球解説者となる。同時にBCリーグ・石川ミリオンスターズの監督に就任。初年度からチームを優勝に導き、プロ野球ドラフト指名選手(内村賢介)を送り出した。2009年限りで退団した。

2010年からは千葉ロッテマリーンズの一軍打撃コーチに就任

エピソード
現役時代から広岡を父親のように慕っていた。選手とは一線を画していたと言われる広岡だが、早稲田の後輩ということもあってか、金森を「ドンちゃん」と呼び、息子の様に接していた。しかし広岡は金森が入団した当初「あの子は体が小さいから駄目だな」と言っていたらしく、長期にわたって活躍するとは思っていなかったようである。
1985年シーズン15個を記録した死球数だが、翌1986年シーズンでは6個と半分以下に減少した。これについて金森は、「(1986年)シーズン前のキャンプでマシン相手にボールの避け方を練習した」「一般女性(西宮球場でリリーフカー運転の経験あり)との婚約が決まって、自分だけの体ではなくなりましたから」と述べている。
ヤクルト在籍時の1993年9月19日の対巨人戦(東京ドーム)で、巨人の投手橋本清(PL学園の後輩)から背中を通過する投球に激怒し、橋本にツカツカ詰め寄ろうとした。だが、ベンチから両チーム選手総動員の大乱闘となり、乱闘の途中で巨人・堀内恒夫コーチが輪の中でユニフォームを破られ、顔を引っ掻き回され、古田敦也から脇腹を殴られるなど、凄まじいものとなってしまった。その後、金森は騒ぎを起こした原因を作ったことを関係者に謝罪している。また、死球(寸前を含めて)に絡んで激怒したのもこれが唯一だった。
阪神移籍後、最初のデットボールを食らった際、観衆から「おめでとう!」の声が飛び交った。
阪神時代、甲子園で外野への飛球をグラブに収めようと、当時まだあったラッキーゾーンのフェンスによじ登る。しかし無常にもボールには届かなかったばかりか、バランスを崩した金森もラッキーゾーンの内側に転落してしまった。その瞬間読売テレビの実況アナウンサーは「金森も入った!」と絶叫。この場面はテレビの『珍プレー』番組で何度も取り上げられた。
ヤクルト時代に野村に「ただ数字だけで判断しないで欲しい。ベンチのムードメイク、練習の態度など若手の見本だ。ウチの貴重な戦力。私が監督をやっている限り、置いてくれ」と球団に頼み込ませるなど、その評価は高かった。
西武コーチ時代、アレックス・カブレラが非常に慕っており、期限切れでコーチを退任した時に「僕もやめる」といわしめたほど。一方で原因は不明だが、当時他の首脳陣から孤立してしまい、作戦会議などには出席せずカブレラ専属コーチのようになっていた。
その後、ダイエーのスコアラーに就任。フリオ・ズレータを発掘。スコアラーという肩書きでは有ったが、王監督から打撃補佐的な役割を依頼され、金森はしばしばグラウンドに出ては選手の練習を手伝った。2003年春季キャンプでは、城島健司や井口資仁にアドバイスすることも多く、その後二人の打撃開眼に大きな役割を果たした。尚、城島とはその後も強い師弟関係で結ばれ、城島が出場した日米野球や佐世保自主トレなどにも、金森は必ず姿を見せている。
阪神コーチ時代、鳥谷敬と藤本敦士の起用法をめぐり早稲田の後輩・岡田彰布監督と対立したといわれ(2004年はリーグ最下位のチーム打率でもあった)、1年で退任した。とはいえ岡田については自著で「すこぶるつきの好人物」と評している。
また、彼の打撃指導は基本的に軸足に体重を残してボールをできるだけ引き付けて打つというものであり、どちらかといえば力のあるバッター向きのものであるが、それを赤星憲広や藤本のような非力な打者にまで当てはめているとして藤田平から批判を受けた。しかし、この指導法はカブレラや和田一浩といった力のあるバッターには好評であった。和田は「今でも北陸遠征に行った時は、食事を一緒にします。弟子はどこまでいっても弟子ですので」と語っている。
上記からも分かるように、野球に関しては妥協を許さないものの、基本的に人の悪口は一切言わず、自著でも書かない。またコーチとしても、選手が「練習したい」と言えば何時間でも練習を手伝う。球界でも好漢として知られる。
大学時代は加藤久(現京都サンガF.C.監督)と同学科であったが、加藤は体育会の学生としては勤勉であったためレポートや試験の答案を写させて貰う事もあったと著書に記している。

タイトル・表彰・記録
ベストナイン:1回(1985年)
ゴールデングラブ:1回(1985年)
通算1000試合出場 1995年9月29日(328人目)

個人記録
初出場/初安打・初打点:1982年9月9日ロッテ戦(西武) 8番捕手で先発/5回深沢から2点適時打
初本塁打:1983年5月13日近鉄戦(日生) 7回柳田からソロ

背番号
26(1982年 - 1988年途中)
5(1988年途中 - 1992年)
32(1993年 - 1996年)

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