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2001年07月 の記事一覧

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新庄剛志

新庄 剛志(しんじょう つよし、1972年1月28日 - )
元プロ野球選手(外野手)。
現在は、タレント、実業家、クリエイター(商品プロデューサー、画家等)、地方競馬馬主。
長崎県下県郡美津島町(現対馬市)生まれ。福岡県福岡市南区出身。

1990年より阪神タイガースでプレーした後、2001年よりアメリカ・メジャーリーグに在籍。
サンフランシスコ・ジャイアンツに在籍した2002年にはリーグ優勝を経験して、日本人選手として初めてワールドシリーズに出場した。
2004年には北海道日本ハムファイターズに入団。2006年にチームの25年ぶりのリーグ優勝、44年ぶりの日本一に貢献した後、引退。
2007年に紺綬褒章を受章。徹底したパフォーマンスとファンサービスに力を入れたプロ野球史上類を見ない選手だった。
日本ハム時代の登録名はSHINJO。
元妻はタレントの大河内志保。

人物
一般的な野球選手のイメージとはかけ離れた高いタレント性とショーマンシップ、華やかさ、独特の言動で知られる。「記録はイチローくんにまかせて、記憶はボクにまかせて」と自身で語るように「記憶に残る」タイプの選手であった。野球選手としては屈指の強肩と打球判断、俊足を生かした外野守備力を誇り、リーグ外野手の年間最多補殺を3回、最多刺殺を2回記録。生涯成績でも外野手として日米通算100補殺以上を記録している。打撃については調子の波があり、年間打率は2割台中盤の年が殆ど。年間20本塁打以上は5回記録しているが、年間打撃成績の評価におけるひとつの到達点とされる打率3割や本塁打30本に到達した年は一度もない。かつての指揮官野村克也には「打撃以外は一流」と評された。もっとも、生涯成績ではNPB通算200本塁打、日米通算1500安打といった節目の記録に到達している。これらの記録達成時の自身のコメントには、達成できるだろうとは予想していなかったとのことで十分な満足感が伺え、打撃は苦手とよく発言していた。反面、守備に対しては、所属球団との契約交渉において補殺数出来高契約を求めたこともあり、自身の日々の発言からも自信が覗えた。

阪神時代途中までは「ジーンズがはけなくなるから」と下半身強化トレーニングをしていなかったと告白し、打撃練習も手に豆さえできないくらいで片付けていると報じられてきた。しかし、幼少期から、努力している姿は人には見せない子供だったと新庄の父親は語っており、プロに入ってからも、同様の同僚の証言や「人に個人練習している姿を見つかると、練習をやめてしまう」といったエピソードも聞かれる。アメリカで太股に肉離れを起こして以降は、故障箇所をカバーする筋肉をつけるため、ハードな筋力トレーニングを続けており、北海道日本ハム時代の同僚である岩本勉は、鬼気迫る表情でバーベルを担いで片足屈伸を続ける姿を目撃した時には、圧倒されて声をかけられなかったと証言した。

メジャー時代頃から、勝利を目指す大前提のもと、「野球を楽しむ」といった発言が目立ちはじめ、北海道日本ハム移籍以降は、チームメートにも「楽しもう」というメッセージを投げかけ、試合中でさえ笑顔をみせることが多々あった。「魅せる野球」にこだわり、独自に考案したファンサービスを積極的に行った。漫画家の水島新司は、「新庄ほど常にファンのことを考え、楽しんでもらおうと思っている選手はいない。日本プロ野球界において、たった一人で球場を満員にできる唯一の選手だ」と評している。

そうした派手な言動が目立つ反面、パフォーマンスを行う際には、必ず事前の了解を取りつけるなど周囲に対する気遣いも強く、そうした人柄も人気を支える一因となっている。オールスターゲームのファン投票でも常に上位に入り、出場回数も多い。2006年の日本シリーズでは監督のトレイ・ヒルマンより先に胴上げされた。

2006年4月18日、同年限りでの引退を表明。自身のHPやテレビ出演にて、概ね以下のように引退の理由を語っている。

守備の衰えと体力の限界
視力の低下(遺伝性の眼病によるものとされる)
足(左内太股)の故障
引退発表からシーズン後半にかけてマスコミの注目度は日に日に増し、新庄のパフォーマンスは『新庄劇場』と形容されて連日のように報道された。

現役引退後は、タレント、画家、実業家として活動している。プロ野球界からは距離を置いており、野球評論も行っていない。しかし、元同僚の森本稀哲とは連絡を取り合っているという。また、2007年8月18日・8月19日放送の、日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』で女優の黒木瞳と共にチャリティーパーソナリティーを務めた際、同番組内に盛り込まれた巨人-ヤクルト戦の中継放送に対して、「俺ならあの場面で(ホームランを)打てたんですけどねー!」とコメントしたのが、引退後プロ野球と関わった唯一の事例である。また、爆笑問題が進行を務めた同番組の深夜枠では、現役復帰に意欲を見せる発言をしている。

幼い頃から、相撲大会で負けて泣きながら帰宅すると、翌日には再挑戦し10人抜きで優勝してリベンジを果たしたり、町内対抗ソフトボール大会で負けた審判の判定にひとり抗議するなどの負けん気の強さを持っていた。反面、得意のかけっこでは足の遅い友達を待ってゴールし、先生に「この子はタイムが計れない」と言わしめたり、裕福ではない家庭環境の中でも、幼稚園時には誕生日の母親にお金がかからないプレゼントを差し出し「お金がないけん、ごめんね。おめでとう!」と告げるなどの優しい気持ちも持ち合わせていたことが、旧知の人物により証言されている。そういった性格は現役時代にも、野村阪神時代からは敗戦後のコメントをたとえ自身は活躍していても敢えて控えていた点や、(真意が相手に伝わらず、それがもどかしい経験に繋がってしまうこともあったが)幾度か自身の代わりに若手他選手の抜擢を監督に進言したことがある点(#MLB時代、#北海道日本ハム時代参照)でも伺える。また自身は幼い頃から、将来お金持ちになり親孝行しないといけないと考えていたことを語っている。

幼い頃から受けていた父親の教育方針は「不言実行」の教えであり、それに賛同するような自身の発言もある(#プロ入団前参照)。しかし、自身は目標ごとについては「有言実行」を目指す考えであることが伺える。阪神時代から、自身の時々の目標をインタビューなどで積極的に公言してきた。それら掲げてきた目標の難易度の高低(その結果も)は様々であった。その動機は、目標を公言することで、実現できなければ恥ずかしいという感情をモチベーションにするといった考えであり、そうすることでより頑張れる性格であると自己分析していた。また、現役引退後もテレビ番組出演時や記者発表の場において、目標を掲げる発言は目立っている。

好きな色は赤。プロ入り時から赤色でいくと決めていて、リストバンドも赤色のものを日本時代は貫き通した(#野球用具参照)。一軍デビュー時は、周囲からの「赤は派手すぎる」という声もあったが、「赤=新庄剛志」で自分を覚えてもらいたかったとのこと。また、それは活躍出来ないことには恥ずかしい派手な赤色を着用することで自分を追い込みたかったからという。色を決めた理由は、人に自分のラッキーカラーは赤色だと言ってもらったのがきっかけ。着替えで最後に赤いリストバンドを着けることで気持ちが盛り上がるという。好きな数字は1。シンプルだし、格好いいと思うからという。

食生活において一番の好物は、母親手製の黄粉餅。大の甘党であり、市販のデザートにはヨーグルト等に付いている砂糖を入れて食べるという。但し、粒餡は大の苦手であり、本人曰く「見ると、ゴキブリの卵を想像する」とのこと。

経歴
1989年
西日本短期大学附属高等学校3年時の第71回全国高等学校野球選手権大会福岡大会4回戦ではサヨナラ安打を放ち、勝利に貢献。決勝の福岡大大濠戦ではサイクルヒットを達成するもチームは敗れ甲子園出場を逃す。高校時代に全国大会出場はできなかった。
ドラフト5位で阪神タイガースに入団。背番号は「63」。
1990年 - 阪神タイガース在籍
1991年
9月 初の一軍昇格。
9月10日 東京ドームでの読売ジャイアンツ戦にて初出場。代打として初打席初安打初打点を記録(投手:香田勲男)。
1992年
亀山努と共に『亀新フィーバー』を巻き起こし、チームの躍進に貢献。
規定打席に僅かに及ばず、新人王を選定する記者投票でも同僚の久慈照嘉に僅かに及ばず2位となる。
1993年
背番号を「5」に変更。
10月1日 阪神甲子園球場での中日ドラゴンズ戦にて初の4番スタメン出場。4打数2安打を記録。21歳8ヶ月3日での4番スタメン出場は2008年終了時点で阪神球団最年少記録である。
初めて規定打席到達(以後、NPB在籍時は1995年、2005年を除いて到達)。ベストナインを初受賞(以後は2000年、2004年に受賞)。また、ゴールデングラブ賞を初受賞(以後、NPB在籍時は1995年を除いて受賞)。
1994年
オールスターゲームにファン投票セ・リーグ最多得票で選出され初出場。
1995年 
シーズンオフに「センスが無いので引退します」と突然の引退宣言。当時の藤田平監督との確執が噂されたが、後日引退を撤回。
1996年
10月9日 シーズン最終戦となった阪神甲子園球場での中日戦の1回に金森隆浩から満塁本塁打を放つ。同イニングに塩谷和彦も同じく金森隆浩から満塁本塁打を放ち、1イニングに2満塁本塁打のプロ野球史上初の珍記録を残した。
球団よりの派遣でハワイ・ウィンターリーグに参加してヒロ・スターズでプレーする。
1997年 
打率2割1分と低迷していたにも関わらずファン投票2位でオールスターゲームに出場した為、セ・リーグ応援団による集団応援ボイコットを受けた。
1999年
3月5日 オープン戦(対巨人・藤崎台県営野球場)で投手としてリリーフ登板。三者凡退に抑える。
6月12日 阪神甲子園球場での巨人戦で敬遠球を打ちサヨナラ安打を記録(投手:槙原寛己)。
7月27日 倉敷マスカットスタジアムでのオールスターゲーム第3戦で初のMVPを獲得し、2年前の屈辱を実力で晴らす。
2000年
7月20日 阪神甲子園球場での巨人戦で通算1000試合出場を達成。
シーズンオフにフリーエージェント(FA)宣言して日米の複数球団と入団交渉。アメリカ・メジャーリーグのニューヨーク・メッツへFA移籍。背番号は阪神時代と同じ「5」に決まった。
12月27日 タレントの大河内志保と入籍。このとき1992年から結婚までの8年間、大河内と同棲していたことを公表した。
2001年 ニューヨーク・メッツ在籍
同年に起きたアメリカ同時多発テロ事件がニューヨーク市に影を落とす中、結果敗れたが終盤まで続いたプレーオフ進出争いに貢献する。
ルーキーオールスター(新人ベストナイン)受賞。
ベストドレッサー賞受賞。
シーズンオフにデシー・レラフォード内野手と共にサンフランシスコ・ジャイアンツ、ショーン・エステス投手との2対1トレードにより移籍。背番号は「5」。
2002年 サンフランシスコ・ジャイアンツ在籍
10月19日 日本人選手初のワールドシリーズ出場達成(対エンゼルス第1戦・エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム)。同シリーズでの日本人選手初安打も記録。
シーズンオフにFAとなり、再びニューヨーク・メッツへ移籍。背番号は「5」。
2003年 ニューヨーク・メッツ在籍
6月 打撃不振で故障明け調整出場以外では初のマイナー落ち。傘下AAA ノーフォーク・タイズでプレーしてシーズンを終える。
7月 ロースター40人枠から外れる。
シーズンオフにメジャーリーグ数球団から契約オファーがあったがNPB復帰を決意し、2004年シーズンから北海道に移転する北海道日本ハムファイターズへ移籍。登録名は「SHINJO」、背番号は「1」。
2004年 - 北海道日本ハムファイターズ在籍
5月10日 ファンサービスの一環として、自身の本塁打時の談話にて独特の打法命名を始める。
5月30日 函館市千代台公園野球場での埼玉西武ライオンズ戦で日本通算1000本安打を達成(投手:張誌家)。
7月11日 長野オリンピックスタジアムでのオールスターゲーム第2戦で、オールスター史上初となる単独ホームスチールを決めるなどして大活躍。試合前の宣言通りMVP獲得。またヒーローインタビューでは、プロ野球再編問題を受けて「これからは、パ・リーグです!」と述べる。
2005年
4月23日 東京ドームでのオリックス・バファローズ戦で日米通算1500試合出場を達成。
6月5日 ナゴヤドームでの中日戦で日米通算200号本塁打を達成(投手:山本昌)。
2006年
4月18日 東京ドームでの恩師の中村勝広監督率いるオリックス戦で、1本目の本塁打に「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法」と名付け、ヒーローインタビューで突然の引退表明。この日の1本目の本塁打を最後に打法命名を封印する。
6月16日 札幌ドームでの広島東洋カープ戦で第1打席に日本通算200号本塁打を達成(投手:佐々岡真司)。
8月22日 岩手県営野球場での東北楽天ゴールデンイーグルス戦で日米通算1500本安打を達成(投手:渡邉恒樹)。
9月15日 2007年夏の参院選への出馬を、自民党と民主党が要請していたことが判明。球団事務所は打診があったことを認める(その後新庄本人が断ったとのこと)。
9月27日 レギュラーシーズン最終戦となった札幌ドームでの福岡ソフトバンクホークス戦にてこの日限定で、背番号をプロ野球選手生活で最初に背負った「63」に変更。チームがレギュラーシーズン1位通過を決めた試合終了後、引退セレモニーを行う。
10月2日 CM出演契約をしているダイドードリンコから『D-1 COFFEE』の「SHINJO引退記念缶」が12月までの限定発売。同時に『SHINJO引退記念キャンペーン』も展開される。
10月26日 日本シリーズ第5戦(対中日・札幌ドーム)の現役最後の打席で、涙でまともにボールが見えず3球三振を喫する(投手:中里篤史)。4勝1敗で北海道日本ハムは44年ぶり2度目の日本一に輝く。日本一が決まると、トレイ・ヒルマン監督より先に選手・首脳陣・スタッフから胴上げされる。
10月27日 札幌ドームで引退会見。11月のKONAMI CUP アジアシリーズ 2006は、気力と体力の限界を理由に出場辞退を表明。
10月30日 日本通算200号本塁打を記念して作成したメモリアルバットの販売収益金1000万円を「北海道の青少年のスポーツ振興のため」として道へ寄付。
11月18日 札幌で行われた優勝パレードに私服で参加。ファイターズの新庄剛志としての最後の姿となる。
シーズン中から球団より引退撤回の要請を受けていたが本人の意思は固く任意引退の手続きがとられる。
現役引退後 - タレント転身
12月21日 インテリジェンス社とCM契約を結ぶ。現役引退後最初のCMモデル出演で、同社が運営する転職雑誌・ウェブサイト「デューダ」のCMに登場する。
2007年
1月28日 自身の公式ホームページ「CLUB SHINJO」を再開。HP上で今後の活動の方向性などを報告。
3月1日 2006年度ゴールデン・アロー賞・スポーツ賞受賞。
6月21日 前年の寄付について紺綬褒章受章。
12月28日 自身の公式ホームページで新庄志保(大河内志保)との離婚を発表。
2008年
1月28日 株式会社レハサフ設立。自身の公式ホームページ名を「CLUB SHINJO」から「LHSF_COLONY」に変更。
5月19日 レハサフ社が新庄の元同僚である森本稀哲とマネジメント契約を結ぶ事が判明。後日に締結。
11月28日 東京都内のホテルで「2009年 新庄剛志 全計画」と題し、翌2009年の自身の活動予定を記者発表。
11月29日 - 12月7日 自身の地元である福岡の博多大丸・福岡天神店で自身の絵画展を開催。
12月26日 - 12月31日 野球選手として最後に過ごした北海道の札幌パルコで自身の絵画展を開催。
2009年
9月25日 自身が地方競馬の馬主となり初めて所有した競走馬・タノシンジョイ号(牡2歳・岡林光浩厩舎所属)が船橋競馬場で行われた新馬戦に初出走し勝利した。

愛称
プリンス
「北の」、「球界の」 と冠をつけて呼ばれたりもする。
阪神時代の代名詞は「虎の」「浪速の」「―オブ タイガース」。
ツー
剛志(つよし)から。阪神時代、親友だった広沢好輝らが「ツー」と呼んでおり、その継承。北海道日本ハム時代は同学年である岩本勉らから「ツーやん」、後輩は「ツーさん」と呼ばれていた。
シンちゃん(新ちゃん)
阪神時代、グラウンド整備担当者などの裏方さんから。
宇宙人
他人には予測できないパフォーマンスや性格から。名付けたのは当時ヤクルトの監督だった野村克也。後に阪神の監督となり指導を受ける。

背番号
63 (1990年 - 1992年、2006年9月27日)
5 (1993年 - 2003年)
23 (2003年 AAAノーフォーク・タイズ所属時)
1 (2004年 - 2006年9月26日、2006年9月28日 - 2006年10月26日)

打席登場曲
阪神時代
HEAVEN / 福山雅治 (2000年)
桜坂 / 福山雅治 (2000年)

日本ハム時代
The NEXT EPISODE / ドクター・ドレー (2004年~2006年)
美しき花 / 福山雅治 (2006年)
Numb / リンキン・パーク (2006年)

パーソナルデータ
身長 : 181cm→182cm(2005年)
体重 : 78kg(1993年)→ 75kg(2001年)→ 76kg(2006年)
血液型 : A型
体脂肪率 : 3%(最低時)→ 7%(2005年)
スリーサイズ : 胸囲105cm・胴囲76cm・腰囲95cm(1993年) → 胸囲110cm・胴囲76cm・腰囲86cm(2001年)
股下 : 88cm(2001年)
視力 : 左右とも1.5(1993年)
握力 : 右88・左79(1993年) - 力士並みとも言われる。
背筋力 : 220kg(1993年)
歯 - 阪神時代に、打者に多い打撃時に食いしばり欠けた歯が痛くて集中力が低下し、食事も満足に出来ない時もあったため、また、黒ずんだ歯が嫌であったため約500万円かけて真っ白い歯(歯冠補綴物)に総入れ替えした。

プレースタイル
守備
高校、プロ入り時から外野手であったが、阪神時代には遊撃手、三塁手に転向した時期もあり内野も守れる。1999年、2000年には二塁に、また三塁には1994年、1999年のオールスターゲームでも就いたことがある。。なお、試合内での移動を除く一軍においてのポジションコンバート歴は、1991年遊撃手デビュー→1992年(前任のトーマス・オマリー負傷離脱により)三塁手→(前任の久慈照嘉負傷離脱により)遊撃手→(前任の八木裕打撃不振により)中堅手定着である。また、メッツでのMLB1年目には外野の全3ポジションに万遍なく就いている。
外野守備
全般
「打撃は得意ではないけど、守備は好き」と口にし、プロでの守備のほとんどを守ったセンターのポジションも「投手の動きがよく見え、投手にアドバイス出来るから」と好んでいる。外野手としては珍しくプロ人生でひとつのものを使い続けたグラブや、守備理論にも独特の合理性のもと拘りを持ち、2006年から日本ハム外野守備走塁コーチを務めた平野謙は、その守備理論には大変驚く点があったという。
ポジショニング
自身は阪神時代に、補殺が狙える状況のセンターでの基本的なポジショニング(位置どり)について、自身の強肩への自信から走者がベースを回って次塁を狙うよう、深めの位置どりをしていると語っている。この位置どりに対して、同状況では基本的に浅めの位置どりを推奨する福本豊(阪神で1999年には外野守備走塁コーチ担当)は苦言を呈し、総じて後方への打球の捕球に自信がない外野手は深く位置どるものであるとも発言している。
自身は阪神時代のポジショニングについて、勘に頼った時には8割くらいは当たっていたと語っている。また、MLB時代も重要な局面での補殺成功の談話の中で、勘が当たっていたことをコメントしている。
センターから両翼の外野手に指示を送るリーダー的存在である期間が長い。阪神時代に自身が急遽セカンドにまわった時にも、その場から先輩外野手に合図を送っている姿が中継されている。
構え
自身はテレビ番組にて、少年野球の子供達にも向けた提言として、「投手の投球モーション時に上半身を屈める構えは、外野への打球の大部分である飛球の場合に上体を起こす事で一瞬目線が浮き上がり、それだけでスタートが遅れてしまう。自分は、常に上体を起こして体の力を抜いた状態で、小刻みなステップを踏んでスタートのタイミングを計る」との勧めをユーモアも交えて実演している
打球判断
投手の投球方向を感知した瞬間、投球方向から予測される打球方向に2歩ほどスタートを切っていたと、自身は引退後に語っている。また、打球落下地点を予測すると、そこへ全速力で到達できるよう一旦打球から目線を切って走る、用語でいう「目が切れる」外野手であると、阪神で同僚外野手となった本西厚博は語っている。
捕球
普通の外野フライもジャンピングキャッチするという捕球スタイルについて、少年野球の指導者から「野球少年に悪影響を及ぼす」と指摘されたことがある。このスタイルは高校時代、先輩が2階から落とす生卵を割らないようにキャッチするというトレーニングを行って身に付けたものだが、阪神時代に打球を顔面に受けたことが原因で大熊忠義コーチから一時禁止されていた。それ以降は引退までジャンピングキャッチを貫いた。なお、自身はジャンピングキャッチの利点について、『ナンだ!?』のトークで「走り込んできて、フライ性打球は上方向にライナー性は横方向に早めにジャンプして、その頂点で打球を見る事で目線が一瞬止まり(ぶれる事を防ぎ)、打球の急な変化に対応できる。そして、頂点から着地しながら捕球する事で、自然と打球の勢いを吸収することができる」との解説をしている。また、自著エッセイでは「着地した直後にはその勢いですぐにスローイングできる」、「これを知人には『新庄式野球力学』と、からかわれることがある」と付け足している。。
時折、追った打球に対して、体を正面に向ける前の状態で捕球することがある。MLBでトレーナー経験もあるフィジカルスーパーバイザーの広戸聡一は、新庄の肉体の一番の特長である、柔らかさ、しなやかさが日本人離れしている上半身を自在にコントロールして、顔は正面を向いて捕球できていると分析する。MLB1年目に行った「真後ろ方向への打球を追い、全身がその方向に向いたままのポケットキャッチ」のように、顔も正面を向けることができづらい状態でも、顔の近辺で捕球できているとのことである
送球
送球の優れている点は、ゴロの打球に対してトップスピードで前進してきて体が前に流れた時など体勢が悪くスローイングへの体重の溜めを作れない状態でも、体全体のバランスと肩、腹筋、背筋などの上半身を生かして良い球が投げられるところであると、栗山英樹は解説する。
補殺を狙う時や内野手の中継への送球など、捕球してから投げるまでの動作時間が抜群に速い。
球界屈指の強肩として知られているが、テレビ番組でその肩について聞かれた際には「あれでも(肩の強さは)落ちたんですよ」と言ってのけた。プロに入ってから高校の野球部の同期に「お前、肩(の強さが)落ちた?」と言われたらしい。阪神時代、送球は普通の外野手と比べると、塁上の受け手に走者が走る距離にして2 - 3mは早く到達しているであろうと、対戦経験から横浜・三塁ベースコーチ担当時の青山道雄は語っている。
外野守備の送球においての遠距離、近距離問わない強肩について広戸聡一は、柔軟な上半身をフルに使えていると分析する。肩のユニットだけではなく(テニスやバレーボールのサーブ時にも必要とされる)全身をしならせて、最後に腕を強く振ることができているとのことである。
送球の球筋が変化してしまっている場合には、ブルペンで投げ込み修正している
他の野手との連携
2006年、日本ハムゴールデングラブ賞外野手部門独占のメンバーである、レフト:森本稀哲、センター:新庄、ライト:稲葉篤紀。特に新庄と森本の連携は抜群で「左中間の深い当たりをどちらかが捕球→体勢が悪い時は相手にトス→ボールを受け取った方が走者の次塁補殺を狙う」というプレーも稀に見られた。2005年の中日戦(ナゴヤドームでの交流戦)では逆にこのプレーを稲葉とやって失敗したこともある。その時は、右中間への安打を捕球した稲葉が後方へトスしたが、新庄は既にその地点を駆け抜けていてボールは更に後方へと転がり、足が速いとはいえない一塁走者のタイロン・ウッズを生還(打者走者の福留孝介は三塁進塁)させてしまった。このプレー失敗を北海道日本ハム・トレイ・ヒルマン監督は「投げ手(森本は右。稲葉は左)が合わなかったから」と述懐している。また、これを機に番組『サンデーモーニング』内で張本勲と大沢啓二はこの種のプレーを総じて「今回の右中間でのプレーの場合、センターから向かってきた右投げの新庄にトスしても新庄も体勢の立て直し(反転)が必要で、ライトの稲葉が体勢を立て直して自分で送球したほうが速かった(逆に、左中間でセンターから向かってきた新庄がトスを受ける場合は、そのままの体勢で送球出来る)」と解説した。
ジャイアンツ時代の2002年6月21日・オリオールズ戦では、センターとして挟殺プレー[24]に加わり、2→4→3→6→4→8(新庄)と、最後は新庄が走者にタッチしてプレーを完成させたことがある。
その他
日本ハム時代には、走者がいる場面で後方への飛球を追い、直接捕球は無理でフェンスに直撃すると判断すると、とっさに振り返って捕球体勢を一度とり、塁間で打球を見極める走者に一瞬「捕られる」と思わせてタッグアップに備えリタッチさせるなど惑わせて、結果的にその走者の進塁を明らかにひとつ少なく抑えるというトリックプレーを稀に見せた。再びフェンスを向いて素早くクッションボールを処理した時もある。
跳ねたクッションボールを直接素手で捕り、そのままスローイングするというプレーも時折見せ、2006年の現役最後の補殺は、東北楽天戦で山崎武司の打球クッションを素手捕りしての、二塁での打者走者補殺であった。
打撃
全般
阪神時代の1998年秋期キャンプにて、野村克也新監督に「バッティングは左手(右打ちの新庄にとって、引き側)と右手(送り側)のどちらでするものですか」と質問した際、自身は左手だと思うと告げると、野村監督には両方とも大事と返答されている。
日本ハム時代、右アンダースローの千葉ロッテ・渡辺俊介投手を大の苦手としていて、「フォームが崩れるから」と対戦を避ける傾向にあった。特に2006年は全ての対戦試合でスタメンを外れた
構え
両手を伸ばしてバットを高く掲げ、呼吸をするように幾度か全身の背伸びを繰り返す。この待機の仕方は『ジャック打法』と呼ばれた(由来:童話「ジャックと豆の木」)。この待機法は形を変え、時には行わず、メジャー2年目頃まで続けた。MLB1年目には相手チームから、両手を上げた脇の下から捕手が出すサインを覗いているのではないかという疑惑をかけられたことがあるが、問題にはなっていない。[
スイング
結果として打撃成績の主要部門においてそれまでの自己最高を記録した(前述のジャック打法は一時やめていた)2000年には、「柏原純一打撃コーチの指導のもとスイングスピード上昇を目指す発言をした」「4月の試合でのヘッドスライディングの際に強打して負傷した左肩をかばってスイングしているうちに余分な力みが無くなった」等と調整過程がうかがえる報道がされる中、自身の本塁打や好打時の談話の中には「(バットの)ヘッドの重みを使えて打てた」というセリフが目立った。スイング時にイメージするのは「バットを鞭のように使って打つ」とのこと。こういったセリフが出た際の打撃について、中継で門田博光は「スイング中ずっと同じ力で振るのではなくインパクトの瞬間に最大の力を伝えている」との解説をしている。同様に、広戸聡一は『ナンだ!?』で、新庄の打球に長飛距離が出る要因について「優れた上半身を生かしてのインパクトへの強い伝達能力」と分析している。また、日本ハム時代はアッパースイングが目立っていたが、これは右腕の筋力が左に比べ強くなりすぎたため、ドアスイングを防ぐために当時の白井一幸ヘッドコーチがアドバイスしたことによっている。
バント
記憶に残るところでは2004年の北海道日本ハムでの最初の打席や、阪神時代に4番打者の時でも、セーフティーバント気味の犠牲バントを時折試み、器用に成功させている。ランナーがいない際にも意表をついて時折セーフティバントを試みる
走塁
ベースランニング
球界屈指の脚力と、打球判断を活かした走力を誇る。三塁打時の走塁は特に速く、二塁から三塁の間はトップスピードに乗り歩幅も大きく更に速い。1997年のある三塁打での、打ってから三塁に到達するまでのタイムは「11秒03」という数字が出ている
スライディング
1993年オープン戦にて二塁盗塁時にヘッドスライディングを敢行し、左肩を強打して重傷を負い、2000年4月にも同じく二盗時に敢行して左肩を強打負傷した苦い経験もあり、これを敢行する頻度は少ない。しかし、2004年のオールスターゲームでは、「オールスターを盛り上げるために」と試みた本塁盗塁時に敢行している。
一塁へ駆け込む際に足からのスライディングを敢行したことが幾度かあり、それは主に重要な局面での敢行であった。ちなみにMLB1年目に敢行した際には左足太腿を痛め、試合の直後に故障者リスト入りをしている。
盗塁
俊足でありながら盗塁は年間一桁台の年がほとんどであった。理由としては首脳陣の判断によりあまり盗塁企画サインが出されなかったこと、出塁率がそれほど高くなかったことが挙げられる。1998年秋期キャンプにて野村新監督が、ヤクルト監督時代に敵将として感じていた、走力に対しての盗塁数の少なさの理由を問うたところ、「盗塁には興味がない」との返答をしたと報道されている
野球用具
アドバイザリー契約
デサント : 1993年 - 2003年
アシックス(ローリングス) : 2002年 - 2005年
※現役最終となった2006年は特定の企業と用具契約を結ばなかった。
グラブ
デサント社製・外野手用
プロ入りして初めての給料を使い7,500円で購入し、4回の補修を重ね、外野手としては珍しくひとつのものを現役引退まで使用した。保管の際の湿気などにも気を配り、自身の「もうひとつの手」と称するほど拘りの代物。グラブ外側の親指部分には「(TH)63」(阪神球団マークと入団当初の背番号)と黒色で刺繍され、引退時まで薄らと残っていた。引退会見では、これの消耗の度合いが限界まで達していたことを語り、前日の最後の試合中にライナーを捕球した際には破けてしまったと語った。ちなみにタグは自身の個人マークとShinjoの筆記体の入ったオリジナルタグが縫い付けられていた。(野茂英雄のグラブに「NOMO」のロゴが入ったオリジナルタグがついているのと同様)。
打球の手元での急変化に対応するため、ポケット(ボールを掴めるポイント)が「中央、土手、先端」の3ヶ所ある(これは外野用グラブの一般的なポケット数といわれる)。自身は、先端部分からボールが半個分ほど出た状態でも捕球できるグラブであると語る。使用時はグラブと手の固定のため、守備用手袋には松脂を塗っている。
バット
デサント社製・34.5インチ・930 - 940g(1993年)
他人から譲り受けたバットを試合で使用することがしばしばある。そのバットで安打や本塁打を打ったと報じられることも幾度かあった。2001年シーズンの全10本塁打のうち、9本は同僚のジョー・マクユーイングなど他人のバットで打っていて、自身のバットで打ったのは1本だけであったと報じられた。
2005年7月23日のオールスターゲーム第2戦(甲子園)では、始球式用の黄金色のバットを試合で使用した(規則上は試合での使用は認められていないが、審判も「お祭りだから」ということで黙認したとのこと)。
スパイクシューズ
阪神時代、足首まであるバスケットシューズのようなハイカットタイプを履いていた。
2005年のオールスターゲームでは、180万円相当のダイヤモンドが埋め込まれたスパイクを履いて出場した。2006年の日本シリーズで奈良県にあるジャガーズ創工社製(Jのロゴ)の金と赤のスパイクを履いた。ちなみに新庄に「J」のスパイクを紹介したのは、池山隆寛で、当時楽天イーグルス打撃コーチに就任したばかりの頃、知人を介してスパイクを提供した。
ユニフォーム
阪神時代、チームのユニフォームはボタンのないTシャツタイプであったが、他の選手に比べて極端にvネックの深いものをオーダーし着用していた。
袖部分が極端に短くタイトなものを、メーカーに特注していた(NPB時代)。常に二の腕部分を曝け出すことで、肉付きが甘くなると鍛えなおすためとのこと。北海道日本ハム時代のユニフォームはビジター用がデサント社製(ホーム用はミズノ社製)であるが、以前はデサントの契約選手であったこともあり、袖部分に加え、胸元部分が大きくV型に開いた特注品を着用している。
背中のアルファベット表記は、阪神時代は「SHINJYO」であったが、メッツにFA移籍した際にアメリカ式で「Y」を抜いた「SHINJO」に変更し、北海道日本ハムでは登録名にもして継続された。
1999年のオールスターゲームでホーム用ユニフォームにビジターの黒帽子で登場、自身初MVPを受賞する。これが、翌2000年から(それまでのホームの)縦縞の帽子を廃止させるきっかけとなったと言われている。また新庄は2000年に、それまで使用されていたビジター用のユニフォームのデザインに意見し、ビジター用のユニフォームから縦縞を無くさせたと言われている。
2005年オールスターゲーム第2戦の試合前にグラウンドに姿を見せた時に着用していたユニフォームは、通常はチーム名がプリントされている胸部分に「SHINJO」、逆に背中に「FIGHTERS」と正反対にあしらわれていた。自身曰く「今日は新庄ファイターズで」。そのまま出場しようとしたが、使用許可は得られなかった。
アンダーシャツ
基本的にタートルネックのノースリーブ。阪神時代初期には、汗が首筋をたれ落ちるのを防ぐために、夏場は長袖では暑いので肩の部分から袖を切り落としていた(自著エッセイによると、タートルネックのノースリーブのものを着用した選手は、日本球界では自身が最初であろうとのこと)。
北海道日本ハム時代には、首部分に自身の個人マークをプリントしている(雑誌『週間ベースボール』によると、この類の個人マークを首部分にプリントしたのは日本球界初)。
アンダーストッキング
アディダス社製サッカー用・黒色(阪神時代初期に代用)
ズボンの穿きこなしとして、裾とスパイク上部が数cmしか離れない穿き方が流行しはじめてからは、通常2枚穿く靴下類の代わりとして着用していた。規則では禁止であるが、自身は都合が良いと考えて初めて1枚のみの着用を始めたところ、皆も始めだしたとのこと
リストバンド
デサント社製・赤色・20cm、15cm、10cm(1993年)
基本的に両手に着用し、二枚重ねにすることもある。NPB時代は基本的に、一番好きな色であり自身のトレードカラーの赤色。MLBでも当初は赤色の着用を希望したが、MLBではチームカラーにある色以外のものを身に付けることが認められないため、メッツのチームカラーの中からオレンジ色を着用(翌年の移籍先のジャイアンツもオレンジ色がチームカラーだったため、3年間継続)。日本ハム時代、プーマ社の赤と黒のチェッカーフラッグ柄を着用していた。
エルボーガード
基本的に黒色が基調(阪神時代の一時は赤色基調)。打撃時に、投手側に向ける肘を死球から守るためのもので、1993年当時はまだ普及しておらず、7月に死球を左肘に受け負傷したのをきっかけに、既存の爪先ガードを切り刻み改良し、即席で肘にフィットするものを球団トレーナーに作成してもらったとのこと。MLBで初めてエルボーガードが使用されだしたのはこれより後年との報道(日刊スポーツ)もあり、現在は日米で普及し重宝されているエルボーガードを非常に早く使用し始めたとされる。

エピソード
プロ入団前
実家が造園業を営んでおり子供のころから重い石碑等を持たされたことから幼少時代から体形に似合わず怪力であった。
小学生時代に8回も交通事故に遭っている。幸い大きな怪我を負う事も無く、野球を続けることができた。しかし、中学時代の授業中に左手小指を切断寸前の大怪我を負ったことがある。本人はこれがもし右手だったら間違いなくプロ野球選手にはなれなかったであろうと語っている。
野球にのめりこんでいったきっかけは、以前活動していた少年サッカーをはじめどんなスポーツでもすぐに一番になってしまってつまらなかったが、野球だけは一番になれず、その奥深さを感じたからである。小学6年のときに「長丘ファイターズ」という野球チームを創部、命名し、ユニフォームも自身でデザインした。
新庄の父親は自身が果たせなかった夢から、新庄には将来何が何でもプロ野球選手になって欲しかったという。肩の強さと足の速さは幼い頃から身についており、6歳の時にはすでに大人よりも遠くまで石を投げられるほどだった。父親が野球を教え始めたのもこの頃である。日課である自宅近くの坂道でのキャッチボールでは、剛志少年を坂上に立たせて父親が坂下から思い切り球を投げ、後ろにそらすと(その位置で待っていればボールは転がり戻ってくるが)「横着せずにボールが戻ってくる前に追いつけ」と言って坂の上まで走らせていた。彼は泣きながらも決して弱音を吐かなかったという。また、小学生の時から家に帰ってきてひとり黙々と何時間もかけて腕立てなどの基礎トレーニングをするなど、人前では決して努力しているところを見せない子供だった。
小学6年の時の町内対抗ソフトボール大会では、サヨナラ負けした時の判定をした審判に泣きながらひとり食ってかかり、なだめる監督にも誤審を訴え続けた。こんなにも負けず嫌いな子供は見た事がないと驚き、その様子を見るに見かねた監督が、そんなに悔しいのなら自分が監督を引き受けるから軟式野球チームを創ってその悔しさを晴らそうと持ちかけると、新庄は2日でメンバーを集めてきた。こうして前述の長丘ファイターズは誕生した。キャプテンでエースで四番の新庄は走・攻・守ともズバ抜けていて、目立ちたがり屋でノーステップでのジャンピングスローをよくやっていたという。チームのコーチを買って出た新庄の父親はここでも手加減なしで、至近距離の猛ノックを浴びせ、新庄は泣きながらも最後までこれについていき、その様子は、監督が「子供がかわいそうなくらい厳しく見ていられない時もあった」と語るほどであった。猛練習の甲斐ありファイターズは結成わずか1ヶ月余りで福岡県大会64チーム中3位入賞を成しとげた。監督曰く「あの親にしてこの子あり」。
親子の絆も厚く、父親の「言うな、行動で示せ」という方針に応えて新庄は「親の行動を見て学んだというか、何もいわなくても見ていて分かった。不思議な親だった」と語っている。また、新庄の自著エッセイによれば少年時の新庄家はひどく貧乏で、子供の頃から親に物をねだった事は一度もなかったが、高校時代に冬場の練習での手のかじかみにたまりかねて革製手袋を買って欲しいと頼むと、父親は自分の手が荒れるのも構わず仕事用の軍手を買うはずの金を使って購入してくれたという。
高校3年の1989年7月31日、夏の福岡県大会決勝戦(福大大濠-西日本短大付)において、サイクルヒットを達成している。但し、本人がテレビ番組『ろみひー』に出演した際、「(単打、三塁打、本塁打をこれまでに放っており、第4打席に長打を放って)三塁打にできる当たりだったが、二塁に止まれば二塁打になってサイクルヒットになるじゃないか」と思い二塁に止まったとのこと。これが原因かは不明だが結局チームは6対4で敗れ、甲子園出場を果たせなかった。
1989年ドラフト会議に向けた阪神の高校3年時選手評価は、元スカウト・横溝桂によると、4段階の「打力:B、走力:A、肩:特選A」であり、長年に渡りスカウトとして選手を評価してきた横溝が、高校生選手の肩に「特選A」をつけたのは新庄のみである。
1989年のドラフト会議において、阪神タイガースに5位で指名されたが、指名順位の低さが気に入らず、しばらくプロ入りを迷っていた。しかし、父親に「お前が行けなかった甲子園(新庄は出場経験なし)でプレーできるだろう」と言われたことがきっかけで、入団を決意する。
ちなみに、この当時、阪神には全く興味が無く、むしろ巨人ファンだったという。
阪神時代
1992年5月26日の横浜大洋ホエールズ戦(甲子園)でその年の初スタメン出場。トーマス・オマリーの故障により出番が回ってきた。第1打席の初球をレフトへプロ初本塁打(投手:有働克也)。この時のポジションは内野(三塁手)。その後、オマリーの復帰により遊撃を経て本来の外野手(中堅手)に戻る。そして亀山努と共に大ブレイクを果たした。この年の阪神は、前年まで低迷が続いていた中、ヤクルトと激しい優勝争いを行い、その快進撃は、それまで無名だった二人の活躍になぞられ『亀新フィーバー』と称された。
1992年9月16日の広島戦で、守備ではファインプレーし、大野豊投手からサヨナラホームランを放った。この時のファインプレーに関しては、両チーム無得点で迎えた8回表二死満塁の絶体絶命の場面(投手:湯舟敏郎)で、山崎隆造が放った右中間を真っ二つに割る当たりをセンターから走り込んできて地上すれすれでダイビングキャッチしたもので、サヨナラホームランと合わせて後に阪神ファンの間で伝説化されたプレーではあるが、当の本人は好プレーでも何でもないと語っている。それによると、ライトを守っていた当時の外野守備のリーダーである亀山努から、センター定位置より右に寄るポジショニングを指示されていたにも関わらず自分の判断で少ししか寄っていなかったため、ぎりぎりのプレーになってしまったとの事である。プレーのあと亀山に、言われた事を守っていれば余裕でしたと謝罪したという。そしてヒーローインタビューでは「優勝」を口にした。しかし、その後の阪神は優勝争いから下降しはじめ、結局2位でシーズンを終えた。以降、阪神ファンの間で選手が優勝と口にすることが「タブー」となった。
1994年秋季キャンプにおいて、山内一弘コーチに「チャンスに強く、常にファンを喜ばせるだけの華がある。王貞治ではなく、長嶋茂雄を目指せ」と声をかけられたが、「長嶋って誰?」と答えた。
練習中に訪れる阪神OBの中で、新庄は田淵幸一を敬遠していたが、川藤幸三には自ら喜んで歩み寄っており、スランプに陥っていた時に川藤から「そんなもん、来た球をカーンと打てばええんじゃ!」という単純な一言をもらって脱出したことがある。また新庄は自著エッセイで、「バッティングの調子が落ちた時はコーチに聞くよりはグラウンド整備担当者などの裏方さんに自分のバッティングの状態を訪ねる事の方が多いぐらいだった。案外彼らがパッと言ってくれる事が復調のきっかけになる事がある。実際にそれから調子を戻した事がある。」と記している。また入団時からの恩師である柏原純一(90~95年二軍、89・99~01年一軍)打撃コーチについては「師匠だと思っている。二軍時代夜遅くまで残って一緒に練習してもらった。『とにかく今年一年は、お前を(ウエスタンの)四番でいくから』と強く後押ししてくれた。一軍に上がってホームランを打った時やメジャー行きも真っ先に報告した」と記している。
1995年6月20日の横浜戦、佐々木主浩から放った本塁打になりそうな打球を自身の名前の書かれた応援旗で叩き落とされ、二塁打になったことがある。新庄本人は「一生懸命応援してくれているので仕方ないですよ。」と言っている。
1995年オフに「センスがないから」と引退宣言し、その後撤回した。この一件は当時右肘や右足を痛めていてオフは治療に専念しようとしていた新庄を藤田監督が無理に四国黒潮リーグに出場させたことにより新庄は球団に横浜へのトレードを志願、それを拒否された上に父親まで不当に批判された経緯があり、「センスがない」という発言は確執の相手であるはずの藤田監督に対する新庄なりの気遣いであった。その後騒動に巻き込まれた父親(ちょうどそのころ体調が思わしくなかった)の病気が悪くなったと聞かされ、「父の命には代えられない。自分のユニフォーム姿が一番の薬」と父を勇気づけるために現役続行を決断した。もっとも、これについての真偽は不明で、書籍「元・阪神」では、退団騒動は一部スポーツ紙による誇張記事が発端で、藤田監督との関係もそれほど悪くなかったと記述されている一方、新庄の父親の著書では藤田監督との確執から一連の出来事が起こったと証言されている。また、この当時は日本プロ野球を引退すれば、大リーグへの挑戦が出来たことも理由の一つであったらしく、後日、「1995年の騒動は、引退して野茂英雄のように大リーグに挑戦したかった気持ちもあったことから起きた」とインタビューで語っている。しかし、インタビュー時にはすでにポスティングシステムが確立していたこともあってか、新庄のギャグの一つと思われ、大きく報道されることはなかった。
1997年のオールスターゲームにはファン投票セ・リーグ2位で出場するも、シーズン最低打率という体たらくに怒ったファンやセ・リーグ応援団が応援をボイコット。「新庄剛志 そんな成績で出場するな 恥を知れ」と書かれた抗議の横断幕までもが掲げられた。新庄は引退会見でこの件について「あれはもう、耐えられなかった。」と語っている。7月23日の第1戦(大阪)では、新庄の打席になるとグラウンドにペットボトルが投げ入れられ、試合が中断する一幕があった。引退後に、現役時代に一番辛かった事としてこの事を挙げており、前出の横断幕に対し「知らんがな」「(ファン投票で)選ばれたから出てるんだよ」と冗談交じりに語っている(SMAP×SMAPにて)。
1998年9月1日ヤクルト戦(甲子園)の7回裏、2点を追い掛ける攻撃で川崎憲次郎から1点差と迫るソロホームランを放つ。この前日の8月31日に、新庄が高校時代、選手として中央では無名の存在に近かったのを発掘しプロへの道を切り開いてくれた恩師である阪神・渡辺省三スカウトが神戸市内のビル屋上から謎の転落死。同じく渡辺に発掘された亀山努からこれを知らされた新庄は「何故」という思いで眠れなかったが、「今の自分があるのは渡辺さんのおかげ。どうしても勝ちたかった」という特別な思いで試合に挑んだ。結局そのままあと一歩のところで敗れはしたが、この年は自己最低打率、7月まで初ホームランが出ず結局僅か6本で終わってしまったほどの極度の打撃不振の中、天国へと旅立つ恩師に贈る手向けの一発となった。
1998年オフの秋季キャンプで野村克也新監督から面接を受けた際、40分ほど監督の話が続いたところで「あまりいっぺんに言われると、オレ頭が悪いので覚えきれません」と言って遮り面接を切り上げた。しかし本人に悪意はなく、それが判ったのか野村監督も「可愛い奴や」と笑いながら振り返っている。これには新庄の計算があったらしく、話を一度に聞いてしまうよりも途中で切り上げたほうがこれから監督と接触出来るチャンスがあるのではないかと思ったという。野村監督は新庄の守備と足に関してはヤクルト時代から認める記述を自著でしているが、打撃に関しては「打撃以外は一流」というふうに語っている。しかし打撃においても潜在能力は認めていたようで、就任一年目からたびたび新庄を4番に据えていて、最初に抜擢した時には「地位が人を育てる」というように理由を語っている。新庄は前出のエッセイ(2001年発売)で「野村監督の言葉で力を出すことができた」と感謝の意を表しており、阪神在籍最終の2000年には打撃において過去最高の成績も残している。同エッセイでは野村監督について他に「ウマが合った」、「選手個人の性格をうまく見抜いて、それを利用する」等とも記している。
同年秋季キャンプ、前述の面接の5日後から野村監督の発案により投手に挑戦し、二刀流と呼ばれた。翌1999年のオープン戦の巨人戦(藤崎台)で初登板した時は球速143km/hを記録し、1イニングを三者凡退で抑えた(元木大介:二飛、二岡智宏:遊ゴロ、後藤孝志:中飛)。球速では更に福岡ドームでの福岡ダイエー戦にて145km/hを記録した。しかし慣れない傾斜のあるマウンドからの投球の繰り返しで左膝を痛め、わずか数試合で頓挫。公式戦出場が開幕に間に合わない結果となってしまった。新庄の投手挑戦について野村監督曰く「(打撃時に活かせるよう相手である)投手の心理を理解させるため」ということだが、阪神OBや野球解説者からは反対の声も多く寄せられていた。もっとも野村監督は当時、「あれだけの強肩の持ち主。どんな球を放るか元捕手として純粋に興味がある」、「あの返球を見たら、誰でもピッチャーをやらせたくなるだろう。下半身の使い方をおぼえたら150キロは出る」等とも語っており、真の意図は明らかではない。
彼が主に大活躍してチームが勝利した試合について、メディアが「新庄デー」という言葉を使用したことは、彼の野球人生において幾度かあるが、1999年5月27日、首位攻防の中日戦(富山市民)では、良きも悪きも両方のプレーをして、チームは敗戦した内容で「新庄デー」と評された。 初回の攻撃で無死一二塁から、三塁にゴロを放ち三重殺となり、阪神劣勢での三回の守備では、満塁から立浪和義のセンター前へのゴロの安打を、前へチャージしてきた際にバウンドを合わせ損ねて後ろにそらし、走者一掃で追加3点を与える痛恨の失策を犯してしまった。この時点で0-7と7点のリードを許したが、6回の攻撃で相手先発投手・サムソン・リーから2点本塁打を放って阪神は反撃を開始し、8回には内野安打で得点に絡んだ。6-7と1点差まで追い上げた最終回の攻撃では、二死一塁から相手クローザー・宣銅烈の9球目スライダーをセンター前に安打して繋いだ。しかし後続が倒れ、惜しくも敗戦となった。自身は試合後、「僕のせいで負けた」と語った。 数週間後の6月12日には、再び「新庄デー」と評された試合(後述)が訪れ、この2試合でのパフォーマンスについては当時、彼を特集する複数のスポーツ雑誌等の記事内においても大きく取り上げられた。
1999年6月12日、巨人戦(甲子園)の延長12回裏攻撃で、槙原寛己投手から敬遠球サヨナラ安打を放った。 一球目の外角への外し方がやや甘い投球を見逃し、自身は「これくらいの球(外し方)なら打てる」と感じ、二球目の同じような投球を三遊間を抜いてレフト前へ転がした。「ショートが二塁ベース上に守っていたのを見て、三遊間に転がせば抜けると確信した。甘い球が来るようにしないといけないので打席の後ろの方に立っていた。打つ時にいつもの足のところに踏み出した」という。巨人側から、打った際に踏み込んだ左足がバッターボックスからはみ出しており公認野球規則違反ではないかと抗議があったが、球審の田中俊幸は、足がバッターズボックスラインの一部分にでも掛かっていれば規則違反にならないとこれを退けた。 このプレーやその映像は、彼を紹介する象徴的なエピソードのひとつとして多く紹介されている。幾つかのテレビ番組では、自身は「柏原純一打撃コーチと事前に練習していた」と語っている。この練習に関しては、実行3日前の広島戦で敬遠された際に、バットを出せば届くのではないかと感じ、尻無浜啓造打撃投手に依頼して大きく外された投球を打つ練習を行っていたと実行後に報道された。なお、実行前の日付のスポーツ新聞でも彼が打撃練習で大きく外された投球を打っている写真が掲載されている。 また、自身はテレビ番組『 いつみても波瀾万丈』では「予め柏原コーチを通して野村監督に敬遠球打ちの許可をとっていて、状況により実行許可の場合はGOサインを出してもらえる様に打合せていた。そして(延長12回裏同点阪神一死二塁の前打者3番今岡誠の打席中にバッテリーミスが起こり走者坪井智哉が三塁進塁したため今岡、新庄共に敬遠されることが予想された際に)柏原コーチが野村監督に許可をとり、新庄の一球目の見逃し後にGOサインが出された。その時の柏原コーチが出したサインが打ち合わせていたものよりオーバーアクションだったため、相手チームにばれないかと焦った」と語り振り返っている。 野村監督をして「アイツは宇宙人」と言わしめたプレーであるが、後年のテレビ番組で野村は、敬遠球打ちの許可を出す際に、敬遠球を打つ事が対戦相手に対しての野球モラルに反してしまわないか迷ったと語っている。自身は敬遠球を打つのはこの一度きりと決めていたと語ったにも関わらず、翌6月13日の同じく巨人戦試合前打撃練習でも、また大きく外された投球を打つ練習をしていたと報道されている。以降しばらくの間、彼を敬遠する際には、相手捕手が投手に対して、投球前ごとに大きく外すようジェスチャーを送る姿が見られた。
なお、敬遠球サヨナラ安打した試合では、ほかにも8回裏の攻撃で木村龍治投手から9球目のシュートをレフトに同点ソロ本塁打するなど、6打数4安打で2打点を挙げていた。12回表の守備では、前回の攻撃での代打起用で内野手が足りなくなった関係で、二塁の守備に就いた。 ヒーローインタビュー(インタビュアー:読売テレビアナウンサー尾山憲一)では、最後に「明日も勝つ!」と宣言して締めた。しかし、翌日の同じく巨人戦でチームは見事に敗戦。自身も前夜から一転、相手先発・上原浩治投手から3打席連続三振を喫するなど、5打数無安打に終わった。同年9月10日の巨人戦で決勝本塁打を放ち、再びお立ち台で「明日も勝つ!」と発言するも、今度は翌日から球団タイ記録の12連敗を喫し、彼がこのセリフを発すると、宣言とは逆にチームは敗戦するというジンクスができてしまった(ジンクスの項目を参照)。
阪神の外野守備について、1999年に外野守備走塁コーチを務めた福本豊は後年のスポーツドキュメンタリー番組「ZONE」で、当時の外野手陣の中において、走者がいて補殺を狙える場面での外野への打球で、肩の強いセンター新庄が捕球出来る場合は優先して捕球を譲るという取り決めをしていたと語っている。それが顕著に表れたのが2000年5月25日の中日戦(甲子園)。同点で迎えた6回表中日無死一三塁の場面で打者レオ・ゴメスが打ち上げたレフト定位置付近への飛球を、レフト坪井が一旦入っていた落下点から離れた所にセンター新庄が走り込んできて捕球して、そのままワンバウンドでバックホームし走者李鍾範を補殺し併殺にしたプレーであると番組は触れている。 このプレーについて新庄はスポーツバラエティ番組「ナンだ!?」で、落下点に入っていた坪井に「どけー!」と声をかけて自分の到達を知らせたと語っている。 またこのプレーについての報道によると、同シーズンの以前の試合内で一度、新庄が打球に追い付いていたにも関わらず坪井が捕球しバックホームしたが間に合わず、致命的な得点を許してしまった事が伏線になっていたとの事で、別の報道で新庄は「ああいう高く上がった打球は自分が捕るって前から坪井と話をしているから。打球が左に流れたからどうかなと思ったけど」と語っている。 結局この試合は阪神が2-1で勝利し、試合後のインタビューでこのプレーについて、野村監督は「あそこがすべてだったな」。また敵将である中日・星野仙一監督も「まさしくプロのプレー」と絶賛したと報道された。
2000年9月30日、甲子園での広島戦で、9回裏に紀藤真琴から、初球サヨナラホームランを打った。これが阪神時代最後のホームランとなった。
かつて新庄が憧れていた選手はダリル・ストロベリー。そのため1992年オフに背番号を63から変更する際に、本当は第一希望の1かストロベリーのつけていた44をつけたかったと自著エッセイに記している。しかし両方とも空き番ではなく結局は5に落ち着いたが、もし44になっていたらランディ・バースやセシル・フィルダーなどが築き上げた「阪神の背番号44は強打の外国人」というイメージを大きく変えたかも知れない。本人は、「カクカクしているから自分に合っていると思う」とコメントしていた。
「ジーンズがはけなくなるから」という理由で下半身のウエイトトレーニング拒否を宣言していた。しかし阪神時代の途中から怪我防止のために考えを改め実際トレーニングをしてみると下半身は太らない体質だという事がわかったと自著エッセイに記している。理想の体型は公衆トイレに多く表示されている男性用のマーク(男性の体が逆三角形にデザインされている)との事。ただ、トレーニングはあくまでも野球のためであって、見せるためだけの体づくりとはトレーニングのやり方が違うとも記している。また、ランナーとしての瞬発的なスピードを維持するために、あえて長距離走の訓練を避けたということらしい。なお、アメリカで肉離れを起こしてからはそれを補うためにジーンズを辞めてまでハードな筋力トレーニングに取り組むようになっている。
プロ4年目に年俸が2200万円(推定)になったので、新庄は約2000万円のメルセデスベンツを購入。残った200万円で生活をしようとしたが、税金のことを忘れていて、結局、叔父に助けてもらったとのこと。
阪神では広沢好輝、桧山進次郎、坪井智哉など仲の良い選手が多く、また若手当時の今岡誠によく食事をおごっていた。今岡は新庄の影響で現在は自らが若手にごちそうしているとのこと。また、井川慶にもプロ初先発の前夜に高級寿司をおごっていて、井川は今でもその時の感謝を口にする。
2000年から阪神は甲子園で行われるホームゲームで自チーム野手の打席入り時毎に個々が指定するテーマ曲を流している。新庄は福山雅治の「HEAVEN」、シーズン途中からは新曲「桜坂」を使用し、後者が阪神在籍最終年においてテーマ曲として定着した。関係者を通してこの話を聞いた福山は自身のコンサートでステージのバックに阪神の球団旗を掲げて演奏し感謝の意を表した。そして新庄がこの年の大阪城ホールでのコンサート前の楽屋に福山を訪ねたことを機に、同じ長崎県生まれでもある二人は親しい間柄となった。
1995年オフに藤田平新監督(当時)との確執により中日へのトレードを自ら勝手に打診するも、就任したばかりの星野仙一監督に説得され残留。そして2000年のFA時にその中日から声が掛かるも拒否。理由は「名古屋の街が好きじゃないから」。当然星野は激怒した。そういった経緯からか、2003年、打撃不振でマイナーに落ちていた新庄の日本復帰が囁かれ、記者の「阪神は獲得に動きますか?」という問いに、星野監督は「獲っても使うとこがないだろ」と言い捨てた。
FAで阪神からMLBに移籍する直前、2000年シーズンの打率2割7分8厘、本塁打28本、打点85という成績の評価、人気選手の放出を引き止めようとした阪神球団が提示した年俸は5年12億円(推定)という破格のものであった。それに対しニューヨーク・メッツが提示した年俸はわずか2200万円(推定)であった。上記の中日以外にもヤクルト、横浜が獲得に興味を示して契約交渉を行った。一時はヤクルト入団の報道もあった。そして2000年12月19日に記者会見で、「やっと自分に合った野球環境が見つかりました。その球団はニューヨークメッツです」と語り発表した。大減俸となってのメジャー挑戦であることから阪神ファンもメジャー移籍を好意的に見る者が多い。本人は照れ隠しなのか「金額の桁を間違えて契約をしてしまった」と語っている。
MLB時代
メッツに入団したかった理由は「メジャーで活躍して有名人になりたかったから」と『いつみても波瀾万丈』(日テレ系)に出演した時に語った。ただしそれはメジャーに行きたかった理由であるにすぎず、低年俸でもメッツにした理由は、「何事につけ目立つ首都のニューヨークに行きたかったから」。(アメリカの首都はワシントンD.C.である)
メジャーに行く直前に自身が所有していたフェラーリをオークションにかけることを発表し、4200万円で落札された。しかし購入者はいまだに引き取りに訪れていない。また「僕のフェラーリ売ります」というCMも話題になった。
同じく2001年から日本人野手(投手以外)としては初めてメジャーリーグに挑戦したイチローとはプレイヤーとして互いに尊敬しており「記録はイチローくんにまかせて、記憶はボクにまかせて」、「僕はヒットに出来るボールを、ヒットになる打ちかたで打っているだけ。ヒットに出来そうにないボールを、毎回違うフォームで打っている新庄さんこそ本当の天才です。」とコメントしあっている。また、互いの外野守備面においても認め合う発言をしている。
メジャーデビューは2001年4月3日の開幕戦(対アトランタ・ブレーブス)、8回表の代走であった。センターフライをタッグアップして二塁を陥れ、後続のロビン・ベンチュラの本塁打でメジャー初得点。さらに直後の守備でダイビングキャッチを見せたうえに、同点に追いつかれて突入した10回表のメジャー初打席で初安打を記録、新庄らしさを存分に発揮した。
新庄の持ち味である遠距離からの驚異的な補殺に対して、実況が「ロケット・アーム」と呼んだことがある。また連日楽しそうにプレーする姿を、ニューヨーク・タイムズ紙は「SHINJOY (シンジョイ)」という言葉を見出しにし報道した。これは「新庄(SHINJO)」と「楽しむ(ENJOY)」を組み合わせた造語である。この言葉は日本球界復帰後も使い親しまれ、自身も気に入っているらしく引退後に所有した競走馬の名前の一部に使用もしている(#現役引退後参照)。
2001年6月22日のベテランズ・スタジアムでの対フィラデルフィア・フィリーズ戦で新庄は6回に、誰もが長打を確信したセンター後方への大飛球を追い続けた末にフェンスの手前でポケットキャッチ、1954年のワールドシリーズでのウィリー・メイズの「ザ・キャッチ」に匹敵するスーパープレーと評されたが、チームが敗れたためこの守備に関してコメントを残すことはなかった。
2001年8月3日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で4番打者として先発出場。メジャーリーグでスタメンで4番を打つのは日本人初。しかしこの日の成績はランディ・ジョンソン投手を相手に4打数無安打(第一打席は振り逃げだった)。
快進撃で優勝争いにまで浮上したメッツのロッカールームでは、4番を張り続ける新庄の勝負強さにあやかろうと、ナインが試合前に新庄の椅子に手を当ててからグランドに出る光景が見られた。
2001年メッツでの1シーズンにおいて、レフト(46試合)、センター(53試合)、ライト(39試合)の外野全てのポジションに就き、それぞれで補殺も決めている。シーズン補殺数は12(外野手メジャー第5位・新人最多、新人外野手球団過去最多)。打撃においては、特に満塁時に勝負強さをみせ(12打数7安打.583)、勝利打点11はマイク・ピアッツァと並び球団最多。この年のルーキーオールスターに選ばれた。
2002年、ニューヨーク・メッツからサンフランシスコ・ジャイアンツにトレード移籍した。メッツ・ボビー・バレンタイン監督は、トレード先のジャイアンツのピーター・マゴワンオーナーに、新庄は「ナ・リーグではアンドリュー・ジョーンズに次いで上手いセンター」と語った。 ジャイアンツでは新庄はセンターを守り、左翼はバリー・ボンズで並んだ。ボンズは「オレはホームランを打つから、守備はおまえに任せるよ」と言い、新庄は誰もが一歩距離をとってしまう存在であったボンズから「グレートなセンター」と言われるほど仲良くなった。
2002年5月11日モントリオール・エクスポズ戦(オリンピック・スタジアム)ジャイアンツ1点リードの8回裏エクスポズ一死一塁の場面(投手:フェリックス・ロドリゲス)で、フェルナンド・タティスが放ったライトフェンス直撃の打球のクッションボール処理をライトがもたつく間に、センターから駆け付けてボールを拾い上げるとそのままホームまで約90メートルをワンバウンド送球し、一塁走者のトロイ・オレアリーを補殺し、あわや同点の大ピンチをしのいだ。その驚異的な補殺に観客は驚愕し、興奮した観客の一部がグラウンドに乱入したほどだった。試合は3-2でジャイアンツが勝利し、そのプレーについて同僚のジェフ・ケントは「あれはオールスターのプレーだ」、ジャイアンツ・ダスティ・ベイカー監督は「文句なしの送球だ。あれで救われた」と大絶賛し、敵将のエクスポズ・フランク・ロビンソン監督も「新庄を褒めるべきだ。ウチが得点できなかったのも仕方ない。とにかく見事な送球だった」と語った。
2002年10月19日、アナハイム・エンゼルスとのワールドシリーズ第1戦(アナハイム・9番DH)で日本人選手として初めてワールドシリーズに出場した新庄は第2打席にジャロッド・ウォッシュバーンから中前打を放った。この安打が日本人選手ワールドシリーズ初安打となり、使用したバットは「TSU No.5」と自筆サイン入りでアメリカ野球殿堂博物館に展示されている。 なお新庄のDH起用についてベイカー監督は「守備面を考えれば新庄を守備に就かせたいが、(当時新庄は相手先発が左投手時限定スタメンで且つ第3戦~5戦はDH制ではなくなるので)シリーズを通して出場するレギュラーメンバーの配置のリズムを崩したくないから」と語ったと報道されている。 10月27日、両チーム3勝で迎えた最終・第7戦(アナハイム)のジャイアンツ1-4で3点を追い掛ける9回表最後の攻撃、ホームランが出れば同点の場面で代打出場した新庄だったが、相手クローザー・トロイ・パーシバルの前に空振り三振に倒れた。ジャイアンツはそのまま1-4で敗れ、3勝4敗で惜しくもワールドシリーズ制覇を逃した。
2003年、メジャー3年目のキャンプで必死に頑張る若い選手を見て「自分の代わりに彼らに(オープン戦で)チャンスを与えて欲しい」と首脳陣に提言をした所、「消極的な選手である」と受け取られてしまった。また怪我のせいで出場試合も少なく成績も低迷し、メジャー3年目にして故障明け調整出場以外では初めてマイナー落ちした。
AAA ノーフォーク・タイズ(背番号23)では打率は3割を保つ。マイナー生活では長距離バス移動をはじめ様々なメジャーとの条件格差を実際に体験する事となったが、メジャーを夢見て頑張る若い選手との交流など「今までの野球人生で一番楽しかった時代」であったと後に語っている。
ノーフォーク所属のまま、メジャーに呼び戻されることはなくシーズンを終えた。翌年の契約は結ばれなくなったので、メジャー他球団から契約オファーはあったが日本球界に戻る事を決意した。なお、この年に抱えていた怪我は最後まで治癒しなかったらしく、最終的な引退の理由ともなった。
新庄は英語が苦手な様で、日本に早く帰ってきたのも(成績低迷のせいでなく)メジャーリーガー達と意思疎通がしにくかったためではないか、という解釈もある。なお、本人はもともと3年で戻ってくるつもりだったと語っており、2001年発行の自著エッセイでも同様の記述をしている。なお専属通訳は「ヒアリングはバッチリだったが、絶対に英語を喋ろうとはしなかった」と語っている。
メジャーリーグ在籍中、父親に「チームメイトと会話ぐらいはできるようになれ」と言われた際に「自分はアホだから、チームメイトに日本語を教える」と答え、変な用法の日本語をチーム内に流行させていた。
メッツ在籍中、ロッカールームでコーヒーを飲んでいて思わず「にがっ!」と言ったところ、隣にいた黒人選手に「ニガー」と聞き間違えられ殴られたことがある。後に弁明して誤解は解けた。
テレビ番組でメジャー時代に人種または国籍の壁を感じていたことを告白しており、結果を出しても正当に評価されないことに悔しさを覚えていたようである。。
タレント的に見えたことや派手すぎた事が影響しアメリカでの評価は芳しくなく、MLB公式HPでも悪い部類の人物として言及されている。。
『開運!なんでも鑑定団』にゲスト出演し、親が1000万単位の借金の担保として知人から譲り受けた掛け軸を披露したが、鑑定結果は5000円。一瞬しょげるが、突然ADからマジックペンを借りると掛け軸の真ん中に自分のサインを入れ、「これで僕が来シーズン活躍したら価値が上がるかも知れないでしょ!」と視聴者プレゼントにしてしまった。
2002年11月30日、めちゃイケの数取団に出演。目ヤニ→〜ヤニ、ホームベース→〜点というブッコミを発案。一敗し、新庄が関取団と相撲しようとした途端、中嶋優一AP(当時)が出て来て「新庄さんが万が一負傷すると試合ができなくなります」と止め、相撲を代行する。また、2006年12月9日放映のフジTV警察24時にゲスト出演した際、もう一度数取団に出てリベンジしたいと懇願し周囲を困らせたが、諸般の事情で終了した事をようやく察すると、すまなそうな顔で出演者の顔をじっと見つめた後トイレに行くといって一旦立ち去り、馬の被り物をかぶって戻ってきた。
メジャー挑戦初年度、「意味なしオちゃん、無理オちゃん」で流行語大賞を狙ったが失敗に終わった。このとき「意味なし男」と「意味なし夫」のどちらがいいか本気で悩んだらしい。
2001年度・第30回ベストドレッサー賞スポーツ・芸能部門を受賞。2002年度・第13回日本ジュエリーベストドレッサー賞男性部門を受賞。
2003年11月に阪神タイガースの寮虎風荘の梅本正之寮長が甲子園警察署の一日署長を務めた際、突然花束を持って現れた。同年12月末で梅本寮長が退任する予定であったためである。
北海道日本ハム時代
2004年シーズンからは、最初に声をかけてもらった球団に行くと決めており、最初に声をかけた新移転球団・北海道日本ハムファイターズに移籍。前所属球団の阪神は金本知憲、赤星憲広ら外野手が充実していたため新庄に声を掛けなかった。阪神の岡田彰布監督は「来ても守るとこがないわ。」と語った。
北海道日本ハムに移籍した2004年より、背番号を自身が一番好きな数字であり、以前も着用を希望したこともある「1」に変更し、登録名は日本プロ野球界初の苗字の英語表記である「SHINJO」とした。スコアボードの選手名表記が縦書きの球場では、アルファベットがそのまま縦に綴られて表記された。新聞の成績欄などでは、従来の漢字表記が多かった。すでに漢字表記での知名度が高かったため、「SHINJO効果(新庄効果)」や「新庄劇場(SHINJO劇場)」などでは英語、漢字両方の表記が混在する。また新庄が引退した翌2007年に、名前の読みが同じ「ツヨシ」であり親交も深い千葉ロッテ・西岡剛が登録名を「TSUYOSHI」に変更した際には事前に相談を受けている。
入団時に背番号1を譲ってもらった阿久根鋼吉に即座に電話を入れ、了承を得た(阿久根は背番号を9に変更)。特に日本ハム移籍後は他人を立てるように配慮していた。その範囲は選手やコーチは勿論、日頃ファンが目にすることの少ないスタッフ(裏方)にまで目が届いていたという。また、自分以外の選手にも目立ってもらいたいという想いも持っており、パフォーマンスの演出プランを提供することも多かった。
仮契約発表の会見の際、会場に北海道のファンが新庄のファイターズ入団を求めて集めた署名を持ち込み紹介した。
入団会見の際には「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」ことを目標に掲げた。会見時はどちらも絵空事のように思われたがどちらも達成し、「そんな事できる訳が無い」と一蹴していた評論家たち[要出典]に目にモノ見せ付ける格好となった。なお、開幕前にファイターズをBクラスと予想していた評論家たちに「これ以降は予想できないね」と皮肉を交えてインタビュアーに応えた。
北海道日本ハムの在籍時の初年度年俸は8000万円であり、その集客力や、その後のチームステータスを考えると破格の大安値であった。
2004年1月2日放送のフジテレビ『クイズ$ミリオネア』で、15問全問正解、賞金1000万円を獲得。迷った際には鉛筆を転がして答えを選んでいた。この賞金で札幌ドーム外野右中間後方に個人広告看板を掲示した。
2004年から北海道日本ハム主催試合の外野席に自腹で「SHINJOシート」を毎試合100席ずつ用意。野球少年達を無料で招待している。
北海道日本ハム移籍後、試合前のパフォーマンスとして、カエル(サントリーの『健康系カテキン式』のCMで長谷川初範が被っていたものと同じカエル)やスパイダーマン、秘密戦隊ゴレンジャーの覆面をつけ話題になる。かぶり物を被ってパフォーマンスを行った試合は4勝1敗1分と高勝率であった。
また話題作りとしてとしてか、ホームランを放つたびに独特な打法名を命名する事も始めた。2005年4月15日の東北楽天戦ではネクストバッターズサークル内でファウルボールが局部に直撃したにもかかわらず、苦痛に顔を歪めたままホームランを打ち、「右キンタマ打法」命名したため、ニュースでは「放送禁止用語打法」と紹介された。
始球式のボールを打ちにいくことでも知られた。2004年には、男子ソフトボール日本代表投手と始球式では異例の三球勝負を行い三振。同年のオールスターゲームでは小学生の投げたボールを打ってファウルフライ。ほかにも女子小学生の投げた球をレフト前ヒットなど枚挙に暇が無い。また、2005年のシーズン開幕戦の始球式ではバットを持たずに打席に入った(後述)。
2004年7月11日、長野オリンピックスタジアムでのオールスターゲーム第2戦にて、オールスター史上初となる単独ホームスチールを決める。 3回裏、自身の二塁打と内野ゴロなどで二死三塁の場面(バッテリー:元同僚の福原忍・矢野輝弘、打者:同僚の小笠原道大)で、三塁走者の新庄は、捕手が投手に返球した瞬間にスタートを切りホームにヘッドスライディング。投手からすぐさま送球されたがセーフが宣告された。捕手の矢野はすぐさま球審に抗議したが判定は覆らなかった。ヘルメットが脱げていた新庄は腹ばいのまま、両手両足で地面を叩き続けて喜んだ。過去のオールスターで本盗を成功した例は、複数走者で行う重盗(ダブルスチール)では1回(1978年・簑田浩二)あるが、単独スチールとしては初めての例となった。 このプレーに関しては敢行に先立ち、予め三塁塁上でベースコーチの松中信彦と相手セ・リーグベンチの古田敦也、山本昌に、敢行についての相談、許可願いをしていたことを本人と古田は明かしている(実際、新庄にゴーサインを出す古田と山本昌の映像が残っている)。自身としては異例のヘッドスライディングをしてまで決行した動機は、たとえアウトになったとしてもオールスターが盛り上がると考えたからとのことである。 決勝点となった本盗を含む2得点などの活躍により、MVPを受賞する(前半戦最後の試合のヒーローインタビューでは「MVPは僕のものです!」と宣言していた)。なお、お立ち台では「これからは、パ・リーグです!」と声高らかに宣言し、当時プロ野球再編問題で合併の危機にあったオリックス・ブルーウェーブ、大阪近鉄バファローズ、そして、1リーグ制移行論議の渦中で消滅の可能性にあったパ・リーグのファンを喜ばせた。そのお立ち台の最後を締める言葉は、自身が出演していたオロナミンCのCMの決めゼリフ「元気ハツラツぅ?」であった。
母校・西日本短大付属高校の野球部のマイクロバスが老朽化していることを同級生である同校の野球部監督から聞いていた新庄は、2004年、同校が夏の甲子園に出場した際「お祝いに新しいバスを贈る」と約束。翌年8月に26人乗りのトヨタ・コースター(700万円相当)を納車した。前方、左右両側面には「Nishitan」の文字と、バットを高々と掲げる真っ赤な新庄のシルエットが、後部には"Presented by Tsuyoshi Shinjo"の文字が塗装されている。同校のリクエストで後部座席4席を無くし、道具入れを設けるなど改良も施された。「甲子園史上最大の差入れ」と話題になった。
2004年9月20日の福岡ダイエー戦(札幌ドーム)は、前日、前々日のストライキのお詫びとして「おととい、昨日と試合できなくてゴメンJoy」と試合前のシートノックで森本稀哲、坪井智哉、石本努、島田一輝と5人で秘密戦隊ゴレンジャーのかぶり物を被りパフォーマンスを実施してファンの喝采を浴びた。(アカレンジャー=森本、アオレンジャー=島田、キレンジャー=新庄、モモレンジャー=石本、ミドレンジャー=坪井)。試合では4-8で迎えた4回裏に新垣渚からソロホームラン、さらに9-12から3連打で12-12と追いつきなおも二死満塁とした9回裏、三瀬幸司の投球をファイターズファンでぎっしり埋まった左翼席に叩き込んだ。しかし一塁を回ったところで喜びのあまり抱きついてきた一塁走者の田中幸雄と2人揃って一回転、これがランナー追い越しと判定され新庄はアウトに。しかし、新庄は一塁に到達していたので記録上は安打となり、既に生還していた三塁走者・奈良原浩の得点のみ認められ、13-12とチームは劇的なサヨナラ勝利を収めた。新庄はアウトとなったにもかかわらず、サヨナラホームランの時と同じようにダイヤモンドを一周し、ホームベースでチームメイトから手荒い祝福を受けた。このあと、田中幸はホームランをシングルヒットにしてしまったことを新庄に謝罪したが、自分の記録よりチームの勝利を尊重する新庄は「いいんです、何言ってんですか。勝ったんだから」と笑顔で返した。なお、もしこれがホームランであれば、通算サヨナラ満塁本塁打のプロ野球記録(2本)に並ぶところであった。この試合のヒーローインタビューで、「今日のヒーローは僕じゃありません、みんなです!」と発言、さらに「明日も勝つ!」と宣言し、阪神時代からのジンクスをものともせずに翌日もホームランを放ち、チームの勝利に貢献した。
2005年3月26日、福岡Yahoo!JAPANドームでのパ・リーグ開幕戦、福岡ソフトバンク戦で、上戸彩が始球式を務めた際、打席に立った新庄は、バットを持たずに打席に入ったと思われたが、ユニフォームのズボンの尻ポケットからオロナミンCを取り出し、上戸とCMで共演した時と同じ決めポーズを披露。結果は空振りだったが、ドーム内は大いに盛り上がった。(なお、この時の上戸はオロナミンCの宣伝で始球式をしたのではなく、対戦相手の親会社ソフトバンクが行っているYahoo!BBのキャンペーンのためであった。そのため新庄の持っていたオロナミンCには商品名を隠すシールが貼られていたが、誰が見てもそれが『オロナミンC』であることは明白であった)。
2005年5月6日、セ・パ交流戦開幕戦の古巣・阪神戦(札幌ドーム)の始球式で『スターウォーズ』のダース・ベイダーに扮して登場した。この試合ではスタメンから外れ途中出場した。この企画はジョージ・ルーカス公認であった。メジャー時代の新庄を知っており、指名したらしい。
交流戦の甲子園での阪神戦ではホームランを放った際に阪神ファンからも拍手が起きた。また新庄自身も甲子園を世界一の球場と評し、未だ愛着があるらしい(ホームランの打法名は「オレを育ててくれたこの球場に感謝打法」)。
2005年9月19日の対西武戦(札幌ドーム)では試合前のシートノックで森本稀哲、稲葉篤紀、小谷野栄一、石本努と5人で同じ自分の顔をかたどったかぶり物のパフォーマンス「5人のSHINJO」を披露。しかし、松坂大輔に完封負けを喫してしまいかぶり物の不敗神話は崩壊(かぶり物でパフォーマンスを行った試合では6試合目にして初の敗戦だった)。「パフォーマンスは結果を出して何ぼ」の信条を持つ新庄はこれを機にかぶり物パフォーマンスを封印した。
2006年の春季キャンプには、ルイ・ヴィトン社から提供された58万8000円の野球バッグを持って登場した。。
現役最終年となった2006年は、オリックスに中村勝広監督、東北楽天に野村克也監督と、阪神時代の指揮官がライバルチーム指揮官として就任し、2004年から就任している千葉ロッテのボビー・バレンタイン監督(2001年メッツ時代)と合わせ、3人の元指揮官と対戦することとなった。
2006年3月25日、札幌ドームでのパ・リーグ開幕戦においては「(パフォーマンスを)何かやります」と予告の通り試合前にハーレー・ダビッドソンベースのトライク(三輪バイク)を運転してのド派手な入場ショーを敢行し、満員の観客から大歓声を受けた。その光景を見た対戦相手、東北楽天の野村監督は「あの人は芸能人ですから」と発言した。なお、この試合は北海道日本ハムが勝利した。阪神時代から時折新庄の行動に文句を言っていた野村監督だが、新庄を嫌いではなくむしろ彼が気になって仕方なかったからであろう。このシーズンは開幕前から「監督のことをボロクソに言いますから監督も僕のことをボロクソに言ってください」と野村に持ちかけていたという話もあり、北海道日本ハム対東北楽天を注目カードに仕立て上げるための作戦であったとも言える。入場ショーでは新庄に続いて他のスターティングメンバーもサイドカーの助手席に乗り入場した。この年から外野の個人広告看板を、自身のイラストが喋るふきだしにメッセージを書き込める仕様のもの(普段ふきだし部分は余白)に新調し、観客満員達成時には何かメッセージを入れると公約していた新庄は、翌3月26日に「札幌ドーム43,000ファン ヤバい 感動だぜっ!!」と入れてファンへ感謝の意を表した。
同僚の森本稀哲は新庄のことを師匠と慕い、新庄もまた森本のことを弟子のように思っている。新庄のファイターズ移籍が決まった時、森本はコーチ等の教えにもあまり耳を傾けておらず、伸び悩んでいた。同ポジションのスター選手入団に際し「なんで新庄来るんだよ」と思ったが、新庄に打撃や守備を毎日、根気強く教わり「初めて、自分のためを思って言ってくれている」と感じたと、新庄現役引退後に新庄と共演したテレビ番組でも感謝の意を表している。また同番組で新庄は引退を自身の胸のうちで決意していたある試合の前に監督室へ出向き、自身の代わりに森本を先発で使ってほしいと進言したというエピソードを紹介した。それによると新庄は、トレイ・ヒルマン監督の「森本が打てる気がするのか?」との問いにも、絶対に打つからと森本先発の確約を得て、森本には「今日の試合はお前の人生でムチャクチャ大事だから、死ぬ気で打席に立て!このチャンスを逃したら二軍に落ちてクビ」と発破をかけたという。森本は「ここしかない」と覚悟を決めたその試合で3安打を放つ活躍を見せ、やがてレフトのレギュラーの座を掴んだ。新庄はこの時の森本を「そういった状況で打てることが凄い」と賞賛した。後述の当シーズン限りでの引退を発表後には「背番号1を森本に受け継いでもらいたい」と発言。その後、翌2007年より背番号1は森本へと引き継がれた。 また、2004年のプレーオフで先発を外れたことに荒れていた木元邦之を励ましたこともある(木元の項目を参照)。
2006年4月18日、開幕から一月も経たない東京ドームでのオリックス戦において、2回裏の第1打席の初球を左翼に本塁打(2号ソロ、投手:ダン・セラフィニ)。ホームインすると普段とは違ってベンチを素通りし、ライトスタンドのファイターズファンの方へ向かっていって立ち止まってヘルメットをとり深々と一礼した。攻撃が終わり守備位置に就くと再びファンに一礼した(阪神時代途中からファンの新庄コールに対しては、一礼からガッツポーズに変えていた)。恒例の本塁打時の打法名は「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニホームを脱ぎます打法」と引退を示唆するものであった。7回裏に今度は金子千尋投手から満塁本塁打を放つと三度ファンに一礼し、今度は打法命名がなされなかった。試合は10-4で北海道日本ハムが勝利し、ヒーローインタビューを受けた新庄は、しばし沈黙の後、自らマイクを握ると「ええ。今日、ヒーローインタビューという最高の舞台で報告したいことがあります。タイガースで11年、アメリカで3年、日本ハムで3年・・・。今シーズン限りでユニホームを脱ぐことを決めました」と開幕間もない時期の異例の引退宣言を行った。1本目の打法名で覚悟していたファンもいたが、その瞬間球場全体から驚きの悲鳴が沸き起こった。新庄は引退の理由として、兼ねてから感じていた体力の限界と、3月25日の本拠地・札幌ドームで行われた開幕戦に43000人の満員の観客が集まってくれて夢が叶い、自分の仕事は終わったと感じたことを挙げた。第1打席の引退を宣言する打法名は兼ねてから準備していて、早ければ開幕戦翌日にでも決意を明かすつもりだったという(新庄専属である荒井修光広報など一部の球団関係者には明かしていた)。翌19日の試合前には、この早い時期に引退発表を行い驚かせてしまった事、引退の決意を一部にしか伝えていなかった事をチームメイトに詫びた。チームメイトも理解を示し、稲葉篤紀は「心の中で打ってくれ、打ってくれと祈っていた」と語った。また、ヒルマン監督へは「1人でも多くのファンに球場へ足を運んでもらいたいから」と説明した。引退宣言を最後に打法命名は封印されたが、19日にも本塁打を放った。そして『新庄劇場』と呼ばれる大フィーバーが沸き起こっていった。
2006年6月、甲子園での対阪神交流戦では、試合前に阪神球団関係者から阪神時代のユニフォームを記念に贈られ、試合前のノックではそのユニフォームを着用して守備位置に就いた。この行為はスタンドの阪神ファンからは拍手喝采が送られたが、北海道日本ハム球団及び連盟から厳重注意を受けた。日本ハム球団が注意したのは形式的なもので、実際にはそれほど問題視していなかったが、指揮官のヒルマン監督は後にスポーツ紙のインタビューの中で「唯一許せなかった行為」と指摘した。
2006年9月10日、プレーオフ進出を決めたオリックス戦(京セラドーム大阪)自身大阪での最後の公式戦で野球人生最後のホームランを放った。(16号逆転2ラン、投手:川越英隆)。 新庄はこの時、この日相手チーム清原和博からプレゼントされた「己を信じ リラックスして (似顔絵の新庄)らしいプレーを楽しみにしています 清原和博」という直筆メッセージ入りの打撃用手袋を着用していた。3塁ベースを回ったところでこの手袋をつけた左手に軽くキスをし、そして恩師である中村勝広監督、清原のいる1塁側のオリックスベンチに向け一礼した。 新庄はこのお返しに、2008年10月1日オリックス対福岡ソフトバンク戦(京セラドーム大阪)にて引退試合を迎える清原に、自身が2006年最後のオールスターで着用した金色の打撃用手袋を「ホームランを打ってほしい」という思いを込め贈った。なお清原はサイズの問題もあってかこの手袋を試合では着用していないが、タイムリー二塁打を放っている
引退試合・セレモニー
2006年9月27日の札幌ドームでのホーム最終戦(対福岡ソフトバンク)でレギュラーシーズン1位通過を決め、試合終了後は引退セレモニーを行った。これまでの野球人生を振り返るVTRをセンターの守備位置から見守った後、ユニフォーム・グラブ・リストバンド・タオルをそこに置き、涙を浮かべながらグラウンドを後にした。ユニフォームの下のアンダーシャツには「今日、この日、この瞬間を心のアルバムに刻んで、これからも俺らしくいくばいっ!」とのメッセージが書かれていた。新庄自ら引退挨拶をすることはなかったが、去り際にはスコアボードに「残りわずかな野球人生 明るく楽しく 白球を追い掛ける事を 今日この日 みんなに約束します」とファンに向けた署名つきの直筆メッセージが表示された。このセレモニーに先立ち、この日一日限り、背番号を1から阪神時代最初につけた背番号である63に変更した。これに伴い、元々63だった渡部龍一も、一日限り68に変更した。。引退宣言が東京ドームでなされたこともあり、このセレモニーには、地元札幌のファンへのけじめの意味合いも込められていた。なお予定通り、翌9月28日に再度手続きが取られ、背番号を1に戻し、渡部も背番号を63に戻した。
2006年プレーオフ・日本シリーズ
同じ野球人だが、小笠原道大とはその正反対とまで言える性格から「ウマが合わない」「仲が悪い」と誤解されがちであった。しかし、インタビューで新庄が小笠原について聞かれた際に「彼が日本ハムの主将です」と発言。また、プレーオフを制しパ・リーグ優勝決定後の合同記者会見にて小笠原が「日本シリーズを制覇して監督(ヒルマン)はもちろん、ツーさんを胴上げしたい」と親愛の情あふれる発言をするなど、2人は良きチームメイトで、互いに足りない所を尊敬しあっている仲である。ベンチでも仲良さそうに会話している姿が多く見られた。「ツーさんを胴上げしたい」を聞いた新庄は「感無量」と語った。
2006年の日本シリーズで対戦した中日ドラゴンズの選手として出場したアレックス・オチョアは、新庄がサンフランシスコ・ジャイアンツ時代2002年のワールドシリーズで対戦したアナハイム・エンゼルスの選手としても出場しており、ワールドシリーズと日本シリーズ両方で選手として対戦した初めての例となった。
2006年10月26日 、中日との日本シリーズ最終戦となった第5戦(札幌ドーム)の野球人生最後の打席は、溢れ出る涙でまともにボールが見えず3球三振であった(見送り、空振り、空振り。投手:中里篤史)。自身は後の会見にて、(涙を流しながら打席に立っている自身に対して、阪神時代から長年に渡り対戦してきた)中日・谷繁元信捕手が一球目の見逃し後に「お前泣くな、真っすぐ投げるから」と言ってくれたように思ったと語っている。 北海道日本ハム4-1リードの9回表二死からのレフトフライで日本一が決まると、捕球した森本稀哲はそのまま新庄の方に向かって走っていき、二人は左中間のファイターズファンの目の前で抱き合った。しばらくの間抱き合った後、マウンドの歓喜の輪に向かって歩き出した新庄、森本だったが、感動の溢れ出る涙、精も根も使い果たしまともに歩くことも出来ない様子の新庄に、選手・首脳陣・スタッフ達の方が外野に向かって歩いていき、ファイターズファンの目の前で新庄、小笠原道大、田中幸雄、大社義規前オーナーの遺影を掲げた現オーナー…と胴上げされた。監督より先に選手が胴上げされることは異例である。
2006年度ゴールデングラブ賞を受賞し、節目の10度目、規定打席到達年の全てでの受賞となった。また、同僚の森本稀哲、稲葉篤紀とでパ・リーグ外野手部門を独占し、森本:134得票、新庄:130得票と、新庄が日本ハム入団から2年間続けたパ・リーグ外野手部門最多得票を弟分が引き継いだ形で引退することとなった。また、この3人が主となる日本ハム外野陣は、2006年シーズンの6月10日時点の調べながら「相手走者一塁時に二塁打、二塁時にシングルヒットが出た場合に、当該走者が三塁を回る確率」が、37.4%とセ・パ12球団一低い確率で、相手チームの警戒度の高さが伺えた。
現役引退後
引退後はプロ野球界から距離を置きタレントに転向した。引退後の初仕事は「SMAP×SMAP」のゲスト出演であった。同番組にはMLB時代の2001年12月24日以来、これまで3回ゲスト出演。これがきっかけとなりSMAPとも懇意にして、木村拓哉ともプライベートで食事をする仲になっている。
2007年3月1日には第44回ゴールデン・アロー賞「スポーツ賞」を受賞。選考ではトリノオリンピック女子フィギュアスケートで金メダルを獲得した荒川静香との争いになったが、話題となった時期の差や、荒川が五輪出場当時アマチュアであったためか(「受賞対象者はプロ選手に限る」との明文化はされていないが、スポーツ賞およびその前身の賞でアマチュア選手が受賞した例は、シドニー五輪女子柔道での金メダル獲得が評価された第38回=2000年度「特別賞」受賞の田村亮子のみ)、新庄が受賞。
2007年5月、映画パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンドのアジアプレミアIN日本武道館にてデイヴィ・ジョーンズに扮する。顔のほとんどが覆われる特殊メークのため誰にも気づかれなかった。
2007年8月18日、19日放送の「24時間テレビ 「愛は地球を救う」」(日本テレビ)のチャリティーパーソナリティを、黒木瞳と共に担当した(#人物参照)。
2007年10月13日の北海道日本ハムのクライマックスシリーズ第1戦を観戦するために札幌ドームに姿を見せた。このときは球場内で偶然出会った元チームメートで友人でもある野球解説者の岩本勉に解説してもらいながらの観戦で、森本稀哲が逆転適時打を放ったときは親指を立てて喜ぶ姿が見られた。
2008年1月2日の日本テレビ特番「THE M」という歌番組で上戸彩とメイン司会者をつとめる。なかなかの評判を得て、翌月に、4月からレギュラー化決定で司会者として抜擢という報道が各社よりなされる。しかし、結局当テレビ局の都合で石井竜也、酒井法子、劇団ひとりが司会者となり、この話は白紙化されてしまった。
2008年5月18日、福岡ドームでの福岡ソフトバンク対北海道日本ハム戦の始球式にソフトバンクのユニフォームと2006年ゴールデングラブ賞の金色のグラブを着用して登場。始球式ながら森本稀哲と1打席の真剣勝負を行い、140km超の速球で森本を内野ゴロに打ち取った。その後森本を打ち取ったボールをマウンド付近からライトスタンドへ投げ入れて相変わらずの肩の強さを見せつけた。更にはゴールデングラブも一塁側スタンドに投げ入れた。これについて張本勲は『サンデーモーニング』内で「(引退してから始球式に)出てくるのが早過ぎる」「日本ハムのユニフォームを着るべきだった」と苦言を呈した。
2008年10月20日放送分からプライムタイム枠に移行された「しゃべくり007初回拡大SP」にて、黒木瞳と共にスペシャルゲスト出演。「現役で今、一番上手いと思うプロ野球選手は?」との質問に「バッターでは松中君」と答えた。付け足して、「松中は打球方向がよめないどこにでも打てる打者。センターで守っていて、左打者の松中の外角に投球がいった瞬間にレフト方向に2歩ぐらいスタートを切るのだが、そこへ逆方向の右中間に打たれて抜かれた(ヒットにされた)」と発言。「いつも松中君と僕との戦いだった」と振り返った。
2008年11月8日「いい歯の日」(1993年日本歯科医師会制定)にちなんでオリコンがアンケート調査する第3回『歯がキレイだと思う有名人』男性部門で初回から3年連続となる第1位に選ばれる。
2008年11月23日、札幌ドームで行われた北海道日本ハムのファンフェスティバルで左翼席後方のコンコースに「SHINJOコーナー with ひちょ」というスペースが設置された。新庄経営のレハサフ社から11月21日に発売された自身プロデュースのアロマパフューム「レハサフ」や森本稀哲プロデュースの商品などが販売され入場者の長蛇の列ができた。
引退後、自宅にアトリエを造るほど絵画に没頭している。2007年の「24時間テレビ」ではカンボジアへ行き、現地の人達の厳しい生活状況を目の当たりにしていた新庄は、2008年11月23日放送『行列のできる法律相談所#有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクト』の主旨に賛同。「カンボジアの人たちの為に心の底から何かしてあげたい」と、エアブラシを使用し 青空 夕空 夜空 を描いた作品をチャリティーオークションに出品した。タイトルは「Shinjo is Shinjo」と名付けられ、北海道のファイターズファンの人物に300万円で落札された。
2008年11月28日、ホテルオークラ東京にて「2009年 新庄剛志 全計画」と題し、翌2009年の活動予定の記者発表を行った。内容は自社商品の開発、俳優、歌手、地方競馬の馬主、画家など。馬主に関しては、絵画のモデルとして購入した馬が競走馬である事から馬主申請中との事。6ヶ月後には出走の見通しとの報道もあった。競走馬名は「楽しい」「新庄」「エンジョイ」の組み合わせから「タノシンジョイ」と命名。また、「『(野球の)監督やらないんですか?』と言われるけど、監督にする根性のあるオーナーはいない。そういうオーナーが出てきたら考えます」と語ったと報道された。
2008年12月24日、テレビ朝日にて放送された「ナニコレ珍百景SP」において、北九州市の三荻野バッティングセンターの、世界最速230Km/hバッティングマシンに挑戦。それまで同マシンの速球を打ち返せたのは、幾度も来店を重ねてきた常連客しかいない中、初来店で打ち返すことに成功。その後のインタビューでは「今度、僕を呼ぶときには、300Km/hを用意してください」と発言。
新庄語録
阪神時代語録
「阪神の新庄剛志です。この(レコード大賞の)ステージに上がるのが僕の夢でした」
1992年12月、TBSの人気番組第34回日本レコード大賞に川中美幸のエスコート役として出演した際に第一声として。広報を通さずに出演したため、阪神球団を大いに慌てさせた。TBSによると、「本人から出演承諾をいただいており、てっきり球団も承認して下さったものと思っていた」とのこと。
「野球に対するセンスがないって見切った」
1995年、引退宣言の記者会見の場で(#エピソード参照)。どうやらJリーグに転職したかったらしいが、翌日に撤回し、ファンや記者を唖然とさせた。実は確執の相手であった藤田監督を悪者にしたくなかったための苦肉の策の一言であったらしい。どんなに嫌いでも「藤田監督が大嫌いだから」とは言えなかったという。
「父の命には代えられませんから」
引退撤回時の一言、かねてから体調が思わしくなかった父の病状が悪化したと母から電話で聞かされたのだが、実はこれは新庄に引退を思いとどまらせるために母が打った策であり、その時当の父親は近所の行きつけの飲み屋で引退撤回の祝杯をあげていた。
「僕は外人になりたいです」
1997年シーズン開幕前、阪神ファン激励の集いでファンに「今年は何をがんばりたいですか」と聞かれ。
「ジーンズが似合わなくなるのが嫌だから、下半身は鍛えたくない」
「ウエイトトレーニングをしないのか」の質問を受けて。その後は考えを改め下半身トレーニングも行っている。
「僕は盗塁に興味がないんです」
阪神時代、就任したばかりの野村監督に「なぜ盗塁しないのか」と尋ねられて。
「明日も勝つ!」
1999年9月10日の試合後のヒーローインタビューにて。しかし翌日からチームは12連敗。阪神時代、同じ台詞を以後2回言っているがどちらも完敗している。このジンクスは北海道日本ハム時代に発言翌日に勝利して消えた。
「守備で打点1」
打てなかった時は守備で1点を防ぎ、チームに1点分をもたらすという意気込みから。
「やっと自分にあった球団が見つかりました。その球団は、ニューヨーク・メッツです!」
2000年、FA宣言して翌年の契約球団を発表した際の記者会見の場で。
MLB時代語録
「両方カンタン!」
野球に出るのとCMに出るのどっちが難しい?という問いに答えて。
「あれってミアミ?」
メジャー在籍時のバス(?)遠征中、道路標識に「MIAMI」(マイアミ)と書かれていたのを見て。通訳は「あれはマイアミ」と答えたが新庄は「でも普通に考えたらミアミか、マイアマイじゃん」と譲らなかった。
「バント? ムリオだね。右打ち? 意味ナシオ」
新庄はこの「ムリオ」「意味ナシオ」で流行語大賞を狙った。
メジャーリーグ時代、テレビ番組のインタビューで「もう俺、エーペだから」と答えた。「エーペって何ですか?」と問われ、「知らないの? 英語ペラペラのことだよ。三重じゃ有名!」と言って笑っていた。キャスターが「新庄さん、出身、大阪ですよね?」と質問すると、すかさず「あっ、俺、福岡!」と答えた。
「俺もアメリカ人だから戦わないと」
ニューヨークでアメリカ同時多発テロが発生したあとのインタビューで。
「ベストドレッサー賞はメジャーでもらった野球の賞より嬉しい」
ベストドレッサー賞受賞会見で。
「う、うれしいっ…!!!」
2002年5月にフロリダ・マーリンズ戦でMLB日本人選手初の満塁ホームランを打ち、試合後に記者から「イチロー選手よりも先に達成されましたね!」と水を向けられて。
「チームが最後まで(ワイルドカード枠を)争っていたから、個人的なことでチームに迷惑を掛けたくなかったんです」
チームがプレーオフ進出を決めた直後の2002年の最終戦、400打席のインセンティブ契約を結んでいたが、あと6打席足りない状態で6番で先発した新庄に「何で今まで黙っていたんだ!あと6打席だろ!そしたら今日だって1番に入れたのに!」と言ったダスティ・ベイカー監督に対して。最終的に400打席には2打席足りなかったが、この試合で新庄は2度、ランナーとして一塁から本塁を奪い、チームメートの若手2人、メジャー初スタメンのコーディ・ランサムと同じくメジャー1年目のランス・フォードに1打点ずつをプレゼントしており、2人から「ありがとう、君は僕らのヒーローだ!」とお礼を言われている。
「Movie Star」
アメリカ最後の2003年、新庄が一塁に出塁すると、一塁手から「来季はどうするんだ?」と声をかけられ、本人も「まだ分からない」と喋ったあとに「ムービースター」と言い出した。全て英語での会話である。一塁付近にマイクが仕掛けられているのを知った上でのネタ発言だという。当然の如く、日本でニュースのネタになる。
北海道日本ハム時代語録
「なまら北海道だべさ!」
入団会見の挨拶。後にこの「なまら」は方言ブームの中心として一般的に知れ渡ることに。
「メジャーリーグでは英語ばかりで、これでやっと日本語で話ができると思ったら監督が外国人だった」
北海道日本ハムへ入団の気持ちを聞かれて。
「8番以外ならなんでもいいよ」
北海道日本ハムへの移籍が決まり、インタビューで希望打順を聞かれたときに発言。新庄は「投手の前ってのは嫌なんですよ」と語ったが、同席した坪井が「(パリーグは)DH」と突っ込みを入れ、「なら、どこでもいいわ」と笑って答えた。
「その事には触れないで。思い出したくもない」
帰国後、メジャーでの生活を聞かれて。
「知ってる? オレ、背番号23だったんだよ。一番、楽しかったころ。マイナーね」
マイナーリーグ時代のユニフォームを着たファンに出会って。
「プロ野球の存在意義は、その街の人々の暮らしが少し彩られたり、単調な生活がちょっとだけ豊かになることに他ならない。ある球団が中心で物事を進ませるセ・リーグにはない、野球くささをパ・リーグは持っている」
球界の趨勢が1リーグ制に傾きかけている時、日刊スポーツ誌上で。
「現役選手には、居所はあるが1番辛いのは、裏方さん。(ブルペン捕手、バッテイングピッチャー等のチームスタッフ)チームあっての裏方さんだから。」
同じく球界の趨勢が1リーグ制に傾きかけている時、チームの廃止について、コメントを求められて
「MVPはボクのものです!!」
2004年のオールスター直前の本拠地最終戦でお立ち台に立った時にオールスターのことを振られて。
「本当に獲れるとは・・・思ってました!」
2004年7月11日のオールスターゲームにてMVPを獲得した際のインタビューで。
「これからは、パ・リーグです!!」
同じく、2004年7月11日のオールスターゲームにてMVPを獲得した際のインタビューで。
「今日のヒーローは僕じゃありません。みんなです!!」
2004年9月20日の対福岡ダイエー戦(札幌ドーム)でサヨナラホームラン(だが前の走者を追い越して、サヨナラヒットになった)を打ち、お立ち台で。
「夢のメジャーリーガーになるために楽しんでプレーしたかばい!」
2004年9月に日米野球の全日本チームのメンバーが決まり、彼が選ばれた時のコメント。
「2位でいいよ、2位で」
2004年シーズンオフ、自主トレの際のインタビューにて、記者に来シーズンへの意気込みを問われた時。
「札幌ドームのロッカールームは携帯電話の電波が悪いから悩んでいたが、今度アンテナを付けてくれることになったので残留した」
2005年11月に北海道日本ハム残留を発表した記者会見の場で。もちろんこれは冗談で、少し前に道新スポーツで現役続行が伝えられたときには「(体力的に)あと1年は現役を続けられそうだったから」と言うようなことを語っていた。
「今年の俺のゴールデングラブ賞はおかしい。1年間この賞を心の中で目指して取り組んでいた選手に申し訳ない。来年からは、印象ではなく数字で選んでほしい。そうでないとこの素晴らしい賞の価値がなくなってしまう」
2005年にゴールデングラブ賞を受賞した際の発言。このシーズンはケガでシーズンを通して働けず、守備も納得のいくものではなかった。守備に対して大きな誇りを持つ新庄らしい一言である。
「MVPですか?今年はもう無理ですね。MBPぐらいかな、Most Bakushou(爆笑) Player。爆笑取ってきます」
2006年オールスター前最後の試合のヒーローインタビューで、オールスターへの意気込みを聞かれて。
「NEVER MIND WHATEVER I DO!FAN IS MY TREASURE.」
2006年のオールスターで新庄のベルトに流れたファンへのメッセージ。「ほっとけ、俺の人生だ。ファンは俺の宝物。」という意味(本来のパフォーマンスは神宮球場の上からヘリコプターで降りてくる予定だったが国の許可が降りず断念)。
「今日、この日、この瞬間を心のアルバムに刻んで、これからも俺らしくいくばいっ!」
引退セレモニーでユニフォームの下に着ていたシャツの背中に書かれていたファンへのメッセージ。
「残りわずかな野球人生 明るく楽しく 白球を追い掛ける事を 今日この日 みんなに約束します」
引退セレモニーでオーロラビジョンに映し出されたファンへのメッセージ。ポストシーズンへの意気込みも兼ねている。
「名古屋の方には申し訳ないけれど、日本シリーズは甲子園でやりたい」
古巣である阪神に対する強い思い入れから、2006年のレギュラーシーズン1位通過会見で。この発言に対しては「ちゃんとした成績(リーグ優勝)を残してから言え」「まだ日本ハムの優勝が決まったわけでもないのに失礼だ」との批判も起きた。これについてはかつて阪神時代に名古屋の街は好きではないという発言も深く関係していたと思われる。結局、北海道日本ハムはプレーオフを全勝で勝ち抜いたが、阪神がセ・リーグを制覇することはかなわなかった。
「北海道に来て良かった。メジャーとか、いろんなとこまわったけど一番北海道が自分に合っていた」
北海道日本ハムリーグ優勝時の祝勝会での発言。
「俺、毎日が日本シリーズなら4割打てるわ〜」
2006年の日本シリーズ中に飛び出した発言。レギュラーシーズンでは、新庄は不思議なことに観客の数が多くなればなるほど打率がアップしていた。週刊ベースボールの記事によると、札幌ドームで観客が4万人を超えた日の新庄は打率が4割に達していたとのことである。
「この(優勝)記者会見カタい。もっと明るくいきましょうよ、ね? 淡口さん」
感動の涙で終わった試合のあと、しんみりした会見場の雰囲気を自ら和ませるために言い放った一言、全く関係ない場所にいた淡口憲治に突然話が振られて場内が笑いに包まれた。
「引退後に行ってみたい所は網走刑務所。理由は有名だから」
「北海道で、今後行ってみたい場所は?」に対し、日本シリーズ制覇翌日に札幌ドームで行われた引退記者会見にて。
「北海道で種を蒔き、フロント、監督、コーチ、選手で毎日、一生懸命水を与え…やっと3年目にして花が咲かせることができれたんじゃないかな、と。その花の色はとても美しくて、逞しい金の…金色の花が咲けたことに、凄く…嬉しく思ってます」
引退会見でのコメント。ファイターズに来てからの3年間のことを自らの登場曲である福山雅治の「美しき花」に引っかけて言い表した。
「いやあ、(強運を)持ってるわ、俺。このマンガみたいなストーリー。出来すぎって思いません? 今後、体に気をつけたいと思います」
日本シリーズ制覇後の会見での発言。引退を宣言した年にリーグ優勝、さらには本拠地札幌ドームでの日本シリーズ制覇という展開を自ら比喩した。さらに、この日本シリーズ前の会見では「引退の年に日本一になったら死んじゃいます、僕」と発言していた。
「俺の華麗な守備を魅せられなくなるのは残念だけど、引退の年にゴールデングラブに選ばれるなんて(強運を)持ってるわ。日本ハムがこれからも最強の外野陣をつくっていってくれる事を信じて外から応援しとくばい!!」
2006年、10度目のゴールデングラブ賞の受賞が決まった時のコメント。
「よかったじゃん」
弟分の森本稀哲に背番号1が受け継がれることが決まり、森本から報告のメールが来たときの返信。この一言をもって正式に背番号1が森本に継承された。
現役引退後語録
「新庄えらい男」
インテリジェンス社「DODA」のCM出演契約を結んだ時の会見でのコメント。新庄の現役引退後最初のテレビCMで、自らの名刺には「インテリジェンス営業本部・スーパーエグゼクティブオフィサー」(SEO)という肩書きが「用意」されたが、新庄は「まぁ、判りやすくいえば新庄(S)えらい(E)男(O)ですか」とコメントをしていた。
「『新庄剛志』はもうあの瞬間(日本シリーズ第5戦)に終わったんだ。だからもうサインは打ち止めなんだよね」
元チームメイトの岩本勉との電話で。実際、北海道日本ハム時代に書いていた筆記体でのサインを現在は書かず、平仮名で「しんじょう」と小さく書く位である。これは、ダイドードリンコD-1コーヒーのCMでも確認できる。
タイトル・表彰
NPB

ベストナイン : 3回 (外野手部門:1993年、2000年、2004年)
ゴールデングラブ賞 : 10回 (外野手部門:1993年、1994年、1996年 - 2000年、2004年 - 2006年) ※2000年、2004年、2005年は外野手部門最多得票。両リーグで連続受賞は平野謙に次いで史上2人目
月間MVP : 2回 (野手部門:1999年5月、2004年9月)
JA全農Go・Go賞 : 6回 (好捕賞:1992年6月、1995年6月、2004年6月 強肩賞:1997年9月、2004年9月 最多二・三塁打賞:2004年8月)
優秀JCB・MEP賞 : 3回 (1993年:11、1994年:9、2000年:9)
札幌ドームMVP (野球部門:2004年)
オールスターゲームMVP : 2回 (1999年第3戦、2004年第2戦) ※両リーグ所属選手として受賞は落合博満、清原和博に次いで史上3人目
オールスターゲーム優秀選手賞 : 3回 (1999年第2戦、2000年第3戦、2006年第1戦)
MLB

ルーキーオールスター (外野手部門:2001年) ※通称「新人ベストナイン」
通算記録
NPB通算達成記録

1000試合出場 (2000年7月20日巨人戦) ※史上362人目
1000安打 (2004年5月30日西武戦) ※史上219人目
200本塁打 (2006年6月16日広島戦) ※史上87人目
日米通算達成記録

外野手100補殺 (2003年)
1500試合出場 (2005年4月23日オリックス戦)
200本塁打 (2005年6月5日中日戦)
250二塁打 (2005年)
1000三振 (2005年)
1500安打 (2006年8月22日楽天戦)
その他記録
NPB

先発4番打者球団最年少出場 (1993年10月1日中日戦:21歳8ヶ月3日) ※2008年終了時点継続中
外野手リーグ最多補殺 : 3回 (1993年:13、1997年:13、1998年:12) ※1993年、1998年は両リーグ最多
外野手リーグ最多刺殺 : 2回 (1994年:289、2004年:272) ※2004年は両リーグ最多
リーグ最多三塁打 : 2回 (1994年:7、1999年:7) ※1994年は両リーグ最多
リーグ最多死球 : 2回 (1993年:8、1999年:10) ※1993年は両リーグ最多
両リーグ最多併殺打 (1999年:21)
16試合連続安打 (2000年9月7日ヤクルト戦 - 9月30日広島戦)
4試合連続本塁打 : 2回 (1996年4月13日広島戦 - 4月17日ヤクルト戦、2000年6月8日巨人戦 - 6月13日中日戦)
一試合5安打 (2004年8月20日近鉄戦)
※複数打者一イニング2満塁本塁打 (1996年10月9日中日戦1回 1本目:新庄剛志、2本目:塩谷和彦) ※史上初
オールスターゲーム出場 : 7回 (1994年、1997年、1999年、2000年、2004年 - 2006年) ※全てファン投票選出
オールスターゲーム・ファン投票リーグ最多得票 : 2回 (1994年:434,906、1999年:915,773)
オールスターゲーム・単独ホームスチール成功 (2004年第2戦) ※史上初(2008年終了時点唯一)[65]
MLB

日本人選手MLB初記録 (先発4番打者出場:2001年8月3日ダイヤモンドバックス戦、満塁本塁打:2002年5月17日マーリンズ戦、ワールドシリーズ出場及び安打:2002年10月19日エンゼルス戦)
新人外野手両リーグ最多補殺 (2001年:12) ※新人外野手球団過去最多
一試合5安打 (2002年7月2日ロッキーズ戦)

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