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大道典嘉

大道 典嘉(おおみち のりよし、本名:大道 典良(読み同じ)、1969年10月28日 - )
読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(内野手)。
大柄な身体を丸め、バットを極端に短く持って右への流し打ちを狙う、特徴的な打法で知られる。
プロ入り以来、規定打席に達したことは一度しかないが、左投手専門の先発や代打要員として20年以上実績を積み重ねており、そのプレースタイルは多くのメディアやファンから「代打職人」「左投手キラー」と形容される。
2009年現在、南海ホークスに在籍したことのある、最後の現役選手でもある。



来歴

アマチュア時代
明野高校2年生の夏に甲子園出場。優勝候補の池田高校に打ち勝つなど話題を集めた。ただし、そのときは控え投手(4番手)で試合には出場していない。センターのレギュラーになったのは2年の秋からである。当時、四番の奥野、エースの近藤と共に三羽烏と呼ばれていた。

南海・ダイエー・ソフトバンク時代
1987年、南海ホークス最後のドラフト(1987年)で4位指名を受け、翌1988年シーズンより入団。大柄な体を生かした右の長距離砲として期待されたが、打撃の確実性に欠けること、守備に難があることからレギュラー定着には至らなかった。

1994年、ドラフトで主砲候補の小久保裕紀が入団し、練習風景を見てその図抜けたパワーに驚愕。以後「これでは飯を食えない」と流し打ちの練習に取り組む。藤本博史の右打ちを参考に「大柄な体を小さく曲げ、バットを極端に短く持つ」という独自の打法を作り上げた。ただし、1995年から就任した王貞治監督が大道と吉永幸一郎の打撃練習を見て、「おいおい、どうなっているんだ、この二人は。巨人でこんなに飛ばす奴はいなかったぞ」と語るほど、長打力は非凡なものだった。

1996年、当初、外野の一角だったスコット・ライディが故障がちでスタメンを外れてからチャンスを得ると、新打法の効力を遺憾なく発揮する。以前では考えられないほどの確実性を見せ付けたことから後半はレギュラーに定着し、規定打席に到達しなかったものの打率.325・10本塁打・51打点の成績を残した。1997年は前年より数字は落ちたものの3番にほぼ定着し、規定打席にも到達。しかし、1998年シーズン後に地元西日本新聞によりダイエーのスパイ疑惑が報道され、スパイを行った主犯メンバーの1人として吉永幸一郎・柳田聖人とともに名前が挙げられたが、証拠不十分として処分には至らなかった。

1998年以降は左打ちの柴原洋・村松有人との併用になって打席数は減少したが、安定した数字を残し続けて「左キラーのスペシャリスト」「右打ちの大道」の称号を確立する[要出典]。しかし、課題の守備は残ったままで、2000年、のちに在籍する巨人との日本シリーズ第6戦では敗戦につながる失策を犯している。

2001年、登録名を本名から「大道典嘉」に改める。この年以降、スタメン出場する際は指名打者か一塁手が中心となった。この時期の大道は「シーズン当初は代打要員として迎える」→「指名打者の外国人が不振」→「大道が代役になる」→「打撃は相変わらず安定しておりそのまま指名打者に定着」というのがパターン。この年は、新加入のトニー・ミッチェルの不振でレギュラーを奪取。夏場以降絶好調で規定打席に到達し、右投手・左投手それぞれの対戦打率はどちらも3割を超えるという大道の持ち味を存分に発揮した一年となった。

2002年、若干数字は落ちたものの、モーガン・バークハートの不振と自身の5、6月の好調が重なり再びレギュラーに。特にこの年に行われた、プロ野球史上初の台湾遠征2連戦(相手はオリックス)では1戦目、2戦目でどちらも追撃の本塁打を放っている。この遠征で本塁打を2本以上放ったのは大道だけで、台湾のファンに大きく「大道」の存在感をアピールした機会となった。

2003年、開幕から指名打者としてスタメン出場を果たしていたが、当初外野で起用するはずだったフリオ・ズレータが大道の存在もかすむようなお粗末な守備を連発し、指名打者で大道との併用になる(大道・ズレータとも正一塁手の松中信彦が指名打者に入った時は一塁を守った)。この年、オールスターゲームにもファン投票で選出。

2004年、ズレータが指名打者に定着したこともあって出番が激減したものの、シーズン終盤には1軍に昇格して存在感は示していた。なお、2004年をもってダイエーは「福岡ソフトバンクホークス」に球団名を改めたが、大道はただ1人ダイエー時代の16年間を通して在籍し続けた。

2005年、前年と同じような起用法であったが、この年の出場は全て代打もしくは一塁手としてのものであった。この頃から1軍と2軍の往復を繰り返すようになる。

2006年、開幕を2軍で迎えたが、チーム全体が打撃不振に陥ったことから5月下旬に1軍昇格。6月まではさすがのバッティングを見せていたが(32打数10安打、打率.313)、7月に入ると突然ヒットが出なくなる。このため、後半戦は代打での出番も少なくなっていた。そして、シーズン終了直後の10月15日に戦力外通告を受ける。ファンはもちろん本人にとっても予想外だったようで「あまりに急な出来事だった」と述べている。だが、現役続行を決断し、3日後には深刻な右打者不足に悩む巨人への無償トレードが決定。大道はプロ20年目を新天地で迎えることとなった。

巨人時代
2007年、2軍スタートとなったが、6月9日に1軍昇格を果たすと、この日の楽天戦で代打として巨人初出場。奇しくも、相手投手は同じ元南海戦士で同期入団の吉田豊彦だった。結果はライト前ヒットで、その後も代打の切り札と活躍を見せた。代打本塁打もマークし、ホークス時代の2005年以来2年ぶりとなる通算11本目の代打本塁打となった。巨人で代打として見事に復活したが、仕事はこれまでの「ポイントゲッター」としてというよりは、「チャンスメーカー」としての仕事が主であったため、打点は本塁打の際の1打点どまりであった。しかし出塁率は.405、長打率.472と見事な活躍をし、陰ながらも巨人の優勝に貢献したといえる。

2008年、右の代打の切り札的存在の他、膝に不安を抱える小笠原道大に代わって一塁手でスタメン出場することもあった。6月21日の古巣であるvsソフトバンク戦では、1点ビハインドの9回2死に代打で登場。カウント2-3から完封目前の杉内俊哉の直球をとらえて起死回生の同点本塁打を放る。その後は木村拓也がサヨナラ打を放ち、木村と共に移籍後初のお立ち台に上がった。また、8月27日のvs横浜戦では決勝点となるシーズン2本目、通算15本目の代打本塁打を放ち、現役選手では阪神・桧山進次郎の通算14本を抜いて単独トップとなった。

2009年、開幕1軍を逃し、5月に初昇格。しかし調子は上がらず、シーズンのほとんどは2軍で過ごすことになる。特に得点圏では13打数1安打と結果を残せず、出場試合数は移籍後最少の37試合にとどまった。しかし、シーズン終盤に入って徐々に調子を上げ1軍に復帰すると、クライマックスシリーズ第2戦・対中日戦でこの年セ・リーグ防御率1位のチェン・ウェインから決勝の代打2点適時打、更に日本シリーズ第5戦・対北海道日本ハム戦の8回に林昌範から起死回生の代打同点適時打を放つなど、ポストシーズンで「左キラー」の名に恥じない大暴れ。シーズンの最後に健在ぶりを見せた。

人物
吉田豊彦が2007年限りで引退したため、2009年現在の現役選手で大道は最後の現役南海ホークス戦士となっている。なお、大道と同期入団の5選手も全てプロとしてのキャリアは10年以上経験しており、総じて長期に渡って活躍している。

愛称はコンバット満が名づけた福岡の宅麻伸、友人からの愛称としてのりちゃんがある。また南海時代から生き残るホークスの名物男として「あぶさん」と並び称される存在でもある。 ひょうきんな性格で知られており、オフには博多華丸やコンバット満らと漫才をすることも。巨人移籍後はズームイン!!サタデーの「プロ野球熱ケツ情報」コーナーにたびたび登場(2008年は同コーナーの総出演時間が選手の中で最も長かった。)し、絶妙なトークで人気を博している。また、試合中も「親友」と公言する木村拓也と共に「声出し」を積極的に行うなど、ベンチのムードメーカーとなっており、若手からの信望も厚い。

2006年6月17日のvs中日戦では柴原洋の代打で出場し、そのままこの年初めて外野の守備についた(右翼手)。この事について大道は「ヒットよりも、外野を守ったのがちびりそうだった。外野はもう5、6年守ってないんじゃないかな」と述べている。2006年に大道が外野を守ったのは、この1試合のみである。

数多くのタイトルを獲得している松中信彦が代打での難しさを「大道さんの凄さが改めてわかりました。1打席で試合に入り込むのは難しい。それでも大道さんはしっかり成績も残してるんですからね」と語っている。

代打や左キラーの印象が強い選手だが、バントの巧さにも定評がある。[要出典]ホークス時代、「バントは大道が一番巧い」といわれた時期(2000年~2006年)があり、事実、意表を突くセーフティーバントやスクイズなどが決まった場面があった。全ての年で盗塁は0~3と、走力はお世辞にも高いといえないが、それを補う右打ちやバントの巧さがあるためつなぎの役割も十分果たせることから、2000年・2001年にはそれぞれ10試合程度2番で起用されたことがある(この時期の大道は主に3番や6番を打っていた)。

エピソード
長年、ヘルメットに113の数字のシールを貼っていた。これは、大道と同じ三重県出身で、勝負強い中距離ヒッターになるきっかけを与えてくれた球団スタッフ・山本穰(2000年急病で逝去)の背番号である。

シーズンが終わった2006年10月のある日、大道が妻と買い物に行く途中に携帯電話が鳴った。運転する車を停車させて電話に出たところ、球団幹部からの戦力外通告だった。この事に関し、大道は「南海時代からホークスの選手として頑張った自負があったし、引退試合ぐらいはさせてもらえると思っていた。それだけに、携帯電話での戦力外通告というのはショックだった」と語っている。同時に、現役続行を希望した際に巨人に入団できたのは、巨人OBである王貞治監督の口添えと紹介があったからだとも語っている。

2007年、キャンプ中の負傷で出遅れた大道が初めて一軍に上げられた際、原辰徳の待つ監督室に呼ばれ、原に「大道、分かってるな?」と昇格の意味を問われ「分かってます。左投手打ちは任せ…」と答えようとしたところ、原が「ムードメーカーな」と言い出した。大道は2度・3度と聞き直したが、やはり原は「ムードメーカーだ」とキッパリ断言するというやりとりがあったと『ズームイン!!サタデー』で明かしている。

2007年はほとんどが代打でシーズン打率3割をマークしたが、代打打率は30打数8安打の.267である。残りの6打数3安打は守備固めとしての出場や代打の後にもう一打席回ってきた後に打ったものであり、実は代打打率はそこまで高くはなかった(同じく主に代打での出場だった矢野謙次も代打打率はシーズン打率を大きく下回り.256だった)。しかし、大道は「スタメンは3割打てれば一流、代打は2割5分打てれば一流」とも語っている。

投手の球種を判別するのが得意であり、元同僚のソフトバンク・和田毅は「4球ですべて見破られた」と語っている(また、同発言の後に大道は「(ホークス投手の)まだ教えていない癖もありますよ」と述べている)。

腹が出ていることを巨人に移籍してから自虐的に語ることがあり、「スポーツ選手で相撲以外で腹が出ている選手で現役なのは僕ぐらいじゃないですか?」「こういう体型や年齢になっても契約してもらえることを誇りに思っている」と語っているが、開き直っているわけではなく、プロ選手としてのパフォーマンスを維持するために毎日1000回の腹筋トレーニングもしている。

長く代打職人として生活している選手らしく、非常にプロ意識が高い。出番がなさそうな試合でも「いきなりグラウンドに出るとまぶしくてボールが見辛いから」と第3イニングあたりから、攻守や選手交代の合間にベンチから出てウォーミングアップを兼ねて照明の明かりに目を慣らす事を欠かさない。[

背番号
55 (1988年 - 2006年)
44 (2007年 - )

記録
初出場・初安打:1989年10月14日、vs近鉄26回戦(藤井寺球場)、8回表に若井基安の代打として出場、阿波野秀幸から単打
初本塁打・初打点:1990年8月15日、vs近鉄19回戦(平和台野球場)、4回表に佐々木修から
1000試合出場:2003年4月1日、対大阪近鉄バファローズ2回戦(大阪ドーム)(383人目)、7番・指名打者として先発出場
オールスターゲーム出場(2001年、2003年)



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