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山本昌

山本昌(やまもとまさ、本名:山本 昌広(やまもと まさひろ)、1965年8月11日 - )
中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(投手)。
1984年に中日に入団。入団後2シーズンは一軍登板がなかったが、1988年に頭角を現し、以降ローテーション投手として活躍。
40歳を過ぎた現在も円熟のピッチングで中日の先発投手陣の一角を任っており、数々の投手最年長記録ホルダーとなっている。
選手としての同一球団在籍記録は日本プロ野球記録を更新中。



経歴

入団当初
1984年
日大藤沢高からドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。山本本人は高校卒業後は日本大学に進学し社会科教諭を目指すつもりでいたが、スカウトの高木時夫の説得もあり入団を決意した。しかし入団当時、野球解説者だった星野仙一は「背番号が34で左投げというから『金田2世』と期待してブルペンを見に行ったが、ただの大柄な男で、あまりに不恰好なモーションでコントロールもない。球も130km/h前後しか出ないからがっかりした」と語っており、山本本人も「小松辰雄さんのピッチングを見て、とんでもない所に来てしまったと思った」と回顧している。
1986年
入団から3年間、山内一弘監督の下での一軍登板は、この年終盤の消化試合での2/3イニングのみ。
1987年
星野仙一監督が就任。しかしルーキー・近藤真一の存在で登板機会に恵まれなかった。
1988年
「とりあえず体は大きいから」という理由で退団は免れたものの、相変わらず球団からは整理対象にされたままだった。ドラゴンズは業務提携していたロサンゼルス・ドジャースと同じベロビーチでキャンプを行い、山本ら若手選手5人が野球交換留学としてそのままアメリカに残ることになる。しかし実情は中日がドジャーズとの交流関係を保つために選手を派遣する必要があり、その年の戦力にならない選手が選ばれ、山本については「手足は長いし、体も大きい。本場アメリカの指導者ならこういう選手の扱いに慣れている分、うまくいくかもしれない」という一抹の期待を掛けられてのものだった。
ドジャースの1Aマイナー、ベロビーチ・ドジャースには山本と西村英嗣投手が所属することになり、そしてそこで前年に山本を指導していたドジャースの世話役・アイク生原との再会が人生の転機となる。生原からは投手の基本である低目へのコントロール、スローカーブの精度の向上、その他生活習慣を厳しく指導されたが、特に大きかったことは消えかけていた野球への熱意や楽しさを再び思い出させてくれたことであったという。この時生原を仲介に、当時のドジャースの大エース、フェルナンド・バレンズエラ(背番号は山本と同じ34番)からスクリューボールを教わったという伝説があるが、その後本人の話で違うことが発覚。参考:山本昌本人にインタビューをしたタレント・伊集院光の回想。以下はこの音声の要約。
それによると、実際バレンズエラから教わりはしたが、あまりに高度な話で全く理解できなかったため、結局習得出来ず、1Aで不貞腐れていたという。しかし当時、たまたま居たメキシコ人の三塁手スパグニョーロ(控えの控えレベル、現在はピザ屋だと言われている)が、“遊び”で仲間とピッチングをしており、その選手がシンカーを投げていたのを見て、その選手から投げ方を教えてもらった後に自分も遊びで投げてみたところ、驚くほど球が曲がったそうである。
よく曲がるので、その日の試合でも使ってみたところ、決め球として通用。それ以後登板毎に使っていると、1Aのオールスターまで呼ばれるようになり、それを見た対戦相手の数球団のスカウトが評価、メジャーリーグのロースター入りを正式に打診された(ドジャースからは打診がなかった)。
しかし、山本昌のビデオを見た星野監督が山本昌の成長ぶりに慌てて、リーグ優勝を実現するためのチームの戦力とするべく、当初1年間のはずであった留学予定を打ち切り日本に呼び戻すことを決定した(星野自身は、「そのままメジャーでやらせてあげてもよかったが、球団社長の意向で」と発言している)。このため、ロースター入り・メジャーリーグデビューはならなかった。当時投手が足りない状況だったこともあり先発の一角に加わると、直後に一軍で5連勝(なおかついずれも自責点0)し、リーグ優勝に貢献した。その1988年の日本シリーズでは秘密兵器として第3戦の先発に抜擢され、工藤公康と投げ合い負け投手となるも、その後の活躍を予感させるものがあった。
生原の妻、由美子夫人の回想録『ドジャースと結婚した男 夫・アイク生原の生涯』によると、生原がドジャースの往年の名投手サンディー・コーファックスに山本のピッチングを見てもらったところ
「アイク、あのピッチャーはだめだよ。彼はサイドスローにするか、トラックの運転手になるか、どっちかにしたほうがいいんじゃないの」
という評価だったという。スクリューボールも投げ方はキャンプに来ていたバレンズエラを見て、握り方はチームメイトに教えてもらったと、ニュアンスは多少違うものの伊集院の回想を裏付けるエピソードが書かれている。また、当時、エクスポズの巡回コーチをしていたレオン・リーがマイナーの試合に登板した山本のピッチングを見て、球団に獲得を打診したそうだ。

留学後の活躍
1989年
前年の活躍から期待されるものの、2桁の壁に苦しむ。勝ちきれないことにいらだった星野監督からはオフシーズン中に再びアメリカへの教育リーグ留学を言い渡され、名誉挽回の10勝目と日本残留の最後のチャンスとして登板した9月23日の対阪神戦に登板するも、味方の失策などが重なり終盤逆転負けを喫しシーズン9勝に終わり、やむなく留学する。ただ既に2桁勝利するしないに関係なく、球団側は留学させることを決定済で航空機のチケット(エコノミークラス)は用意されていたといい、山本は渡航の際に差額を払ってビジネスクラスに変更した、と語っている。
1990年
シーズン10勝を挙げ2桁の壁を突破し、汚名を返上する。
1992年
恩師アイク生原が永眠。精神的ショックは大きく葬儀の場では棺の前で泣き崩れて立ち上がれず、同じく生原に世話になり同席していた長嶋一茂らに抱き起こされなければ立ち上がれなかったほどであった。棺には前年までのシーズン自己最多勝利数を更新した、11勝目のウイニングボールを納めたという。その年は最終的にシーズン13勝を記録するが、チームは最下位に沈んだ。

沢村賞獲得
1993年・1994年
生原を弔うかのように2年連続最多勝投手となる。以降1990年代は今中慎二と共に左の二枚看板として中日投手陣を支えた。1994年にはシーズン19勝(8敗)で沢村賞を受賞している。

登録名の事情
1990年、中日に山本保司という選手が入団して山本姓が2人になったため、山本(昌)・山本(保)と書いて区別した。1995年オフに山本保司はロッテに移籍し、山本姓は1人だけになって区別する必要はなくなったが、「山本(昌)」になってから最多勝利などを獲得したことから本人は「昌」を取られることを拒否し、げんを担いで1996年より登録名を山本昌(姓と名の区別はないため、昌は小文字にならない)としている。

なお、後述のラジコンレースに出場する際の選手登録名は、本名の山本昌広名義で行っている。

1997年
初の開幕投手を任され、横浜相手に8回2/3を投げ自責点2で勝利(ナゴヤドーム初の公式戦で、同球場で初めて勝利を記録した投手となる)。その年18勝で3年ぶり3度目の最多勝と初の最多奪三振。しかし中日は最下位と低迷した(ちなみに山本昌は2001年札幌ドーム初の公式戦でも巨人相手に先発している)。2000年代に入ってもローテーションの一角を守り続ける息の長い活躍を続けており、2008年現在での通算勝利数は中日歴代2位となっている。
2006年
9月9日の広島戦で、新井貴浩(現阪神)から通算2,000奪三振を達成。9月16日の対阪神戦(ナゴヤドーム)でプロ野球史上73人目(84回目)となるノーヒットノーランを達成。許したランナーは4回の三塁手森野の失策による1人のみの準完全試合(無四死球は史上2人目)。41歳1か月での達成はプロ野球最年長記録。中日では2002年の川上憲伸以来の10人目。ナゴヤドームでは初。9月30日の阪神戦で40歳代としては若林忠志、村田兆治、工藤公康に次いで4人目となる2桁勝利を挙げた。10月15日の横浜戦ではリリーフで登板し、自身1997年以来9年ぶりでセ・リーグ最年長記録となるセーブを記録(41歳2か月)するなど、11勝7敗1Sの成績を残した。

通算200勝・その後
2007年
4月17日の阪神戦で完封勝利を挙げ、200勝へ残り8勝と迫る。41歳8ヶ月での完封勝利はセ・リーグ最年長記録。両リーグ通算でも若林忠志に次ぐ2位であった。しかし、5月27日の日本ハム戦で史上80人目の500試合登板を達成。以後、1軍で結果を残せず、1軍登録と抹消を繰り返す。9月25日の巨人戦で5失点で降板。結局この試合後に2軍落ちしてシーズンを終え、成績は2勝10敗・防御率5.07。同年の日本シリーズではチームが53年ぶりの日本一となったものの、自身の登板機会はなかった。
2008年
4月2日の巨人戦での登板で投手としては大野豊の22年を抜き、野手を含めても衣笠祥雄の23年と並ぶセ・リーグ最長の実働年数(プロ野球最長はこの試合の前日に登板して達成された工藤公康の27年)となった。5月7日の広島戦で6回を2安打無失点5三振に抑えシーズン初勝利。5月14日の対ヤクルト戦で史上26人目となる通算3,000投球回を達成。8月4日、ナゴヤドームでの巨人戦で完投勝利。プロ野球史上24人目となる通算200勝を達成した。中日球団投手の200勝達成は杉下茂以来51年ぶり、42歳11ヶ月での200勝と完投勝利は共に史上最年長記録。200勝達成投手の中でも5年目に初勝利を挙げたのは最も遅い記録。中日ドラゴンズの投手として初の名球会入り(杉下は昭和生まれでないため名球会入会資格は無い)となった。8月24日の対巨人戦にて史上最年長完投記録を更新、史上最年長2桁勝利を記録。8月は4勝1敗の好成績を挙げ、史上最年長で月間MVPにも選出。
2009年
先発投手陣が概ね好調だったことから二軍での調整が続き、ウエスタン・リーグ公式戦では投球回数が合計で100イニングを超えている。6月に一軍に上がるが、先発した試合で打たれ再び二軍へ。9月11日にようやく一軍再登録を果たし、同日のヤクルト戦でシーズン初勝利。大野豊が持つセ・リーグ記録を更新する「22年連続勝利」となった。

プレイスタイル

ピッチング
持ち球はストレート、落差の大きいカーブ、スライダー、スクリュー、シンカー。 グラブを突き上げ、背を一杯に伸ばしてから投げる投球フォームが特徴。ストレートの最速は138-139km/h前後(30歳代前半までは132-133km/h前後)で、同い年の星野伸之・小宮山悟と共に「球の遅い一流投手」という稀有な存在である。40歳を越えてなお、年齢を重ねるにつれて球速が上がってきており、2006年には140km/h、43歳になった直後の2008年8月12日の対広島戦では143km/hという球速も記録しており、こんな所でも稀有なピッチャーと言える。また、歯を食いしばって投げるピッチャーが多い中、舌を出しながら投げるのも独特である。

しかし、ストレートはそれほど球速が出ないからといって単純に技巧派・軟投派と位置づけられる訳ではない。コントロールと球速・キレのあるスクリューボール、スライダー、球速が遅いスローカーブのコンビネーションでカウントを整えた後、ここぞという時にストレートで三振を狙いにいく場面も多い。

このように、制球力のよさやスクリューとシンカーを投げ分ける器用さも持っている。

それを裏付けるようにテレビ番組『超・人』(BS-i)にて山本昌は「自分は速球派だと思っている」と語っている。同番組内で調べたデータによると2006年度の全投球のうちストレートが45%を占めており、速球派のイメージが強い松坂大輔の46%と比べても速球中心で組み立てていることがわかる(同番組で技巧派の代表として比較されていた下柳剛はストレートが8%)。このことが長く現役を続ける一つの要因にもなっている。

同番組で山本のストレートの回転数を計測した結果、1秒間に52回転していることがわかった。通常の投手の1秒間の平均回転数が37回転、松坂大輔が41回転、驚異的な伸びのストレートを武器にする藤川球児が45回転であることから山本昌のそれは驚異的な数字であることがわかる。実際に2004年の日本シリーズで対戦した西武の選手が「山本昌のストレートはもっと速く見えた」と言うように、いわゆる「伸びのあるストレート」であると言えるが、回転軸が藤川に比べ大分垂直から傾いている為藤川のような驚異的な伸びは見せないものの、前述の通り年齢を重ねるごとに球威が衰えるどころか、トレーニングの成果により更に増す傾向と合わせて、ストレートを多用できる理由となっている。これにはリリースポイントを打者寄りにすることにより実際の球速よりも速く感じさせ、リリース直前までボールの出所がわからないような投球フォームも功を奏している。また、2008年はそれが54回転している事も判明している。

また一説には「球が速いときの山本昌は調子が悪い」とも言われることがあるが、前述の通り直球の切れで勝負するタイプであり、一概にはそういうことは言えない。

よく、ピッチング中に親指の辺りをかむ癖を見せていることがあるが、これはカーブの曲がりが悪い時、その辺りにできた堅くなったマメを立てて、曲がりを調整するためだという

バッティング
かつてのチームメイトの川上憲伸同様バッティングも好きで、チャンスでは積極的に打って出る。投球予備動作に似た、やや前かがみの体勢からライナー性の打球を内野と外野の間に落とすシーンがよく見られる。ただ川上が2008年現在、現役投手最多となる8本の本塁打を放っていることに比べ、スタンドまで放り込むような打ち方ではなく、力もそこまで無いためか、200勝達成投手で20年を超える現役生活中1本も本塁打を記録していないのは山本昌だけである。ちなみに通算安打数は100本を超え、犠打は2009年シーズン終了時点で日本プロ野球の投手史上最多となる147を数えている。また、2008年シーズン終了時点で二塁打、打点、得点というセントラル・リーグの打者の最年長記録も更新・保持している。

趣味
無類のラジコン好きで、その操縦技術やチューンアップの知識は趣味の域を超えて全国レベルのセミプロクラスであり、山崎武司とともに山山杯という冠イベントを開催していたほど。これには山崎のほか愛弟子の野口茂樹などプロ野球選手も多数参加している。また2009年1月には200勝記念として「山本昌投手200勝おめでとう達成記念レース」が開催され(主催はラジコン天国名古屋店)、自らもホストとして参加した。
2006年のオフシーズンは「いや、申し訳ないんだけど、もう10年も続けたでしょう。だから今年はひと区切りということでね」と山山杯を中止にした(このため山山杯は、今のところ2005年が最後の開催となっている)。ただしこの理由は嘘であり、オフの調整をするためだった模様(『Sports Graphic Number』内での発言)。
山山杯は末期には、開催4日前から主に日本の参加メーカーと専属レーサーのセッティング等準備が入る、世界チャンピオンがタイから参戦する等、最早ラジコン界におけるトッププロによる世界大会に近い大会になっていた。2009年の「200勝記念レース」にもラジコン世界チャンピオン経験者の広坂正美らが参加している。
ラジコンを始めたきっかけは1995年に膝を痛めてリハビリを行っていた際、昼前にリハビリが終わり、ヒマつぶしに街に出た時、ラジコンショップでラジコンを見つけて「面白そうだ」と思い、始めたことによる。2002年には全日本選手権のEPツーリングカースポーツクラスで4位に入賞した。
ラジコンショップにはシーズン中でも1週間に1度はかならず顔を出し、地元名古屋で開催されるレースにはシーズン中(ただし、リーグ優勝が確定し、クライマックスシリーズ開催を待つ期間)でも積極的に参加を重ね、これまでに数々の優勝を経験している。なお、ラジコンを操作する時の構えは投球前の構えとほとんど同じである。その「本気」ぶりに、ファンの間では「ラジコンレーサー(および後述のカブトムシ・クワガタブリーダー)が本業で野球は副業であり、ラジコン(本業)の資金調達の為に野球(副業)をしているに過ぎない」と冗談めかして語られる事もしばしばである。
ラジコン好きが高じて、親交のあるラジコンメーカー「ミワホビー」と共同で開発に携わったシャーシモデル「YM34」を商品化し、これは一般向けにも販売している。
模型だけでなく、国内外問わず多数の高級車を所有している。これは「車に見合う、恥ずかしくない選手になれるように」との本人の思いもある。
一部ではラジコンのプロポを持つ姿、ピッチングフォーム、バッティングフォームは全て同じとも言われている。
フジテレビ系の『とんねるずのみなさんのおかげでした』のコーナー「ムダ・ベストテン」ではC・W・ニコルやムツゴロウらと共に登場しない有名人の1人として長らくランクインされていたが、2009年1月22日放送分で遂に登場し、その腕前を披露した。
甲虫集めも彼の趣味で、世界の甲虫を集めて息子と一緒に飼育している。近所の山へ早朝に出かけ、秘密のスポットでカブトムシやクワガタを獲ったりしているらしい。武田一浩曰く「こんなにデカイ体してカブトムシの話したら止まらないんだから」とのこと。また飼育する甲虫類が増えすぎた為にその一部を知人・友人に無償でプレゼントしたことも。しかし2007年シーズンが不本意な成績に終わったことなどから、飼っていた甲虫類を全て友人等に譲り、飼育をきっぱりやめたという(2008年5月9日付東京スポーツ記事による)。
漫画にも詳しく、ブックオフなどで絶版の漫画を探している。またゲームも相当好きであり、新作で面白いものがでれば、それをクリアする予定を基に、シーズンオフのスケジュールを組むほどの熱の入れっぷり。
日本史・中国史(三国志が結構詳しいらしい)にも詳しく、秋田遠征時には記者と久保田城についての話で盛り上がったという。また、高校時代は、社会科の先生を目指していたこともあった。
他に、競馬好きでもある。上記より、とても多趣味なことが窺い知れる。
小田和正の大ファンであり、彼の名古屋公演ではシーズン中でもコンサート会場に姿を見せることは他のファンにも有名。

エピソード
1984年に入団時より背番号34である。同一背番号を着用した選手としては、プロ野球史上最長である。同年20番に変更した小松辰雄がつけていた背番号を与えられたが、単に空番号をドラフト指名順に当てはめただけである。(1位藤王康晴:背番号1、2位仁村徹:背番号24、3位三浦将明:背番号26)。その後活躍が認められ、球団からかつて松本幸行が付けていた中日左のエースナンバーとされている21への変更を打診されるが、「この番号が自分のプロ生活のすべてを知っているから変えたくない」と拒否した。今でもユニフォームに袖を通すときは、必ずユニフォームの背面に感謝しながら着る。
対巨人戦では現役投手中最多、歴代でも3位の勝ち星を挙げており、新聞等では「巨人キラー」と呼ばれている。また阪神戦にも強く「虎キラー」とも称される。メディアからは巨人戦や阪神戦での強さばかりが取り上げられているが、実際は巨人・阪神戦以上にヤクルト戦や広島戦に強く、この2チームに対しては通算防御率、通算勝利数ともに巨人・阪神戦より良い数字を残している(実際広島キラーやヤクルトキラーと呼ばれたこともある)。しかし、本人は長年の結果だとして気にしていない様子。対して一番相性の悪いのは残る横浜であり、このカードは通算防御率、通算勝利数(こちらに関して言えば勝ち越してはいる)のいずれも対セ・リーグ5球団の中ではワースト。原因としては歴代打者に左投手を得意とする右打者が多かったことが挙げられる(波留敏夫やロバート・ローズ、進藤達哉、中根仁などおもに98年の優勝した時のメンバー)。
1998年4月までは満塁被弾、サヨナラ被弾ゼロを誇っていたが、横浜戦で満塁男駒田徳広に満塁被弾を浴び、その試合も12-1と大敗した。また、2008年にも満塁被弾を浴びた。
日本シリーズでは、過去に4度(1988年、1999年、2004年、2006年)出場しているが勝ち星はなしで、通算成績も0勝4敗と苦手にしている。しかも山本の敗戦後チームが全敗して日本シリーズを敗退している。自身の最盛期にチームが低迷していて日本シリーズに登板できなかったこともあるが、そのため一部のファンからは「逆シリーズ男」と呼ばれている。彼がプロ入りした1984年から2006年までにセ・リーグ6球団で一度も日本一になっていないのは中日だけだったため、日本一への執着は同僚の立浪和義以上に強いらしく、「もし、日本一と(達成間近の)200勝のどちらか一つを選びなさいと神様に言われたら間違いなく日本一を選ぶ。日本一になれるのなら200勝達成の夢は捨ててもいい」と公言していた。その念願が叶ってか2007年チームは日本一に輝いたが、自身は不調で日本シリーズには登板することが出来ず、汚名返上とはならなかった。ちなみに200勝達成後、次の目標として挙げたものの一つは日本シリーズでの勝ち星であった。
息の長い投手というだけでなく、1993年(17勝5敗)、1994年(19勝8敗)、1997年(18勝7敗)と3度の最多勝投手に輝き、また1994年には沢村賞受賞、2006年にはノーヒットノーランを達成するなど、名実ともに平成を代表する大投手である。特に1993年の最多勝は、チームメイトの今中慎二、横浜ベイスターズの野村弘樹と分け合っての受賞であったが、山本昌は8月31日に首位ヤクルトに1ゲーム差に迫る15勝目を挙げた直後、鎖骨骨折で1か月間チームを離脱している。この離脱がなかったら、山本昌自身の20勝、更にはドラゴンズは優勝していたのではないかといわれる。実際、この年ヤクルトとのマッチレースを展開したドラゴンズは、山本離脱後は今中が獅子奮迅の活躍を見せるも(その結果、今中が沢村賞を受賞)、最後はヤクルトに振り切られた。
40歳になってからは家族と共に東京に引っ越ししている。現在名古屋には単身赴任という形で暮らしている。これを引退後の準備と見る者も少なくない。また、テレビでも「僕はもうそんなに先が長くない」など引退を匂わせるような発言や先発ローテーションに入らなければ辞めるという発言などを多くしている。また、全力で投げて133km/hが出なくなった時も引退すると既に決めている。しかし近年は「工藤さんがまだやっているんだから僕もまだまだやらないと」「球団から『もうお前は投げなくてもいい』と言われるまではやりたい」「50歳までは頑張りたい」という現役続行に前向きな発言もしている。
1965年度生まれのプロ野球選手たちと「昭和40年会」を組織している。また西本聖を師として仰いでおり、若手時代に西本が中日に移籍してきた当時、行動を共にしていた。
経験の長さを活かし、後輩の投手にはよく失敗談を語っているらしい。「救われた気分になるし参考になる」と絶賛する久本祐一など信奉者も数多い。
2006年9月16日の対阪神戦(ナゴヤドーム)でノーヒットノーランを達成。許したランナーは4回の森野将彦の失策(サードゴロ)による1人のみだった。結果としてこの失策で完全試合の夢は潰えたことになったため、森野はひどく落胆していた。しかし、試合後のインタビューで山本は「あのプレーがあったからこそノーヒットノーランが達成できた」と発言し、後輩を気遣う山本昌の優しさを見せている。これは、打者が俊足の赤星憲広であり、失策が記録されなければ内野安打になっていた可能性もあったためこの発言をしたともされる。
5歳下の実弟は日大藤沢高校野球部監督の山本秀明で2007年春のセンバツ甲子園大会に導いている。秀明は日本大学ではプロ入りした真中満・渡邉博幸と同期。渡邉とは日大藤沢高でも同級生。
古田敦也は、テレビ番組でコントロールの良い投手として、山本昌の名を上原浩治とともに挙げている。また大柄な体格であることから、ディズニーランドでジャンボ鶴田と間違えられサインを求められたエピソードを、テレビ番組で古田から暴露されている。
食事の量がかなり多いという話がよく出る。2004年に優勝した際、優勝を記念してインタビューを受けた際、オールスターゲームが開催された日に、出場していない選手で焼肉を食べに行った際に、前の席が落合監督で肉を焼いてもらい、監督の分の肉まで食べてしまったというエピソードを本人が話した。インタビュアーのアナウンサーからは「三冠王3回取った監督の肉全部食べたんですか!?」と言われた。しかし、この食事量こそが長く現役を続ける秘訣のひとつであるとかつてコーチを勤めた宮田征典が言った。
2008年の春季キャンプでは前年が不調だったこともあって二軍スタートとなったが、ベテランでも特別待遇を認めない落合監督の方針により、福田永将と宿舎のホテルで相部屋となった。山本昌は、「オレは相部屋でも子どもと一緒にいるようなもので気にならないけど、福田はかなり気を使っていたみたいだぞ」と言い、福田のことを気に掛けていた。
2008年時点で、工藤公康(横浜ベイスターズ)と共に、旧後楽園球場でプレイ経験のある現役プロ野球選手である。
2008年10月2日、故郷の神奈川県茅ヶ崎市から茅ヶ崎市民栄誉賞が贈られることが決まり、その授賞式が12月27日に茅ヶ崎市総合体育館にて執り行われた。
2009年1月24日に行われたトークショーの席で、入団時に身長・体重をサバ読みしていたことを明かした。入団当時は身長185cm・体重78kgだったのを「細く見られるのも何なので」(本人談)186cm・86kgにしたとのこと。その後なぜか体重が1kg増え現在の公称は186cm・87kgとなったが、験担ぎとして登録名同様に今後も変更しないことも語った。
実父・山本巧は1966年度NHKのど自慢全国チャンピオンという経歴の持ち主で、若い頃は歌手を目指し作曲家の船村徹に弟子入りしていた時期もあったという。実際に歌手としてデビュー寸前であったが、その時期は息子・昌広が誕生した直後とあって家庭を優先した結果、これを断念した。2009年10月にインターナショナルミュージックからシングルCDを発売した他、自費出版にて数枚のシングル曲を発表している。

タイトル・表彰・記録
沢村賞:1回 - 1994年
最多勝利:3回 - 1993年、1994年、1997年
最優秀防御率:1回 - 1993年
最多奪三振:1回 - 1997年
最優秀投手:2回 - 1994年、1997年
月間MVP:8回(1993年4月・7月・8月、1994年4月・9月、1997年7月、1999年4月、2008年8月、2008年8月度は史上最年長記録)※2008年シーズン終了時セ・リーグ史上最多タイ
ベストナイン:2回 - 1994年、1997年
最優秀バッテリー賞:1回 - 1993年(中村武志捕手と)
最高勝率:1回 - 1993年
オールスター出場:6回(1989年、1992年、1993年、1994年、1997年、2004年)
開幕投手:4回(1997年、1998年、2001年、2002年)
ノーヒットノーラン(日本最年長記録):1回(2006年9月16日、阪神タイガース戦、ナゴヤドーム)
セ・リーグ最年長セーブ - 41歳2ヶ月(2006年10月15日、対横浜ベイスターズ戦)※2007年シーズン終了時
セ・リーグ最年長完封勝利 - 41歳8ヶ月(2007年4月17日、対阪神タイガース戦)※2007年シーズン終了時
史上最年長完投勝利 - 43歳0ヶ月(2008年8月24日、対巨人戦)※2008年シーズン終了時
初登板 1986年10月16日ヤクルト戦(神宮)3-8 6回1死より登板、2/3回2失点
初勝利 1988年8月30日広島戦(ナゴヤ)8-5 5回より登板、2回1失点
初完投・初完封 1988年9月16日ヤクルト戦(神宮)3-0
初セーブ 1989年4月16日阪神戦(甲子園)8-6 9回より登板



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