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仁志敏久

仁志 敏久(にし としひさ、1971年10月4日 - )
横浜ベイスターズに所属するプロ野球選手(内野手)。


経歴

プロ入り前
常総学院高校では1年生からレギュラーを務め、エースの島田直也とともに活躍した。夏の甲子園に準優勝を1回含め3年連続で出場。高校通算28本塁打。

早稲田大学人間科学部に進学してからは主将としてチームを引っ張り、主に遊撃手として活躍。4年の春季リーグではシーズン6本塁打をマークするなど活躍。ベストナインを3回獲得し、早慶戦史上初のサヨナラ満塁本塁打を放つなどした。4年の秋季リーグでは石井連藏監督の起用方針に反発して選手たちでオーダーを作り、チームを優勝に導いた。自身は前年秋の早慶戦で優勝を逃すサヨナラエラーを犯している(併殺を焦ってゴロをファンブル)。当たり出すと猛打賞だがノーヒットも多かった。リーグ通算79試合出場、280打数91安打、打率.325、11本塁打、40打点。

その後、社会人野球の日本生命を経て、1995年のドラフトで2位指名(逆指名)を受けて巨人に入団し、前年長年主砲として活躍し引退した原辰徳の背番号8を与えられた。昔から原辰徳の大ファンで、入団時には、少年時代に懸賞で原辰徳のサイン入りバットが当選した、というエピソードが紹介された。仁志は当時評論家になったばかりの原との対談でそのバットを見せながら「プロ入り初打席はこのサイン入りバットで打ちたい」と発言していた(実際は使用しなかった)。 プロ入り後に「巨人に入団して変わったことは」と聞かれ、『これまで「原」「原」と呼び捨てにしていたのが「原さん」に変わった」と答えている。

巨人時代
ルーキーイヤーの1996年シーズンに三塁手として打率.270、7本塁打、24打点を挙げ、セ・リーグの新人王を受賞。翌年二塁手に転向(二塁手の元木大介は三塁手へ)。二塁手としての評価を伸ばす一方、小柄な体格だったが活躍する。2000年の日本シリーズにも出場して日本一に貢献し、シリーズ優秀選手賞も受賞。また2000年・2001年にはシーズン20本塁打を記録している。

2002年長嶋監督に代わり原辰徳ヘッドコーチが監督就任。投手の左右を問わず安定した働きの清水隆行を1番打者に任命。原監督は仁志を大型2番で起用する構想を打ち出す。1番打者が2人居るような打線を組もうとする構想だった。しかし仁志は2番に戸惑ったのか不振に陥った挙げ句に故障してしまい、2番打者は二岡智宏が担当する(なお、この構想自体は清水が最多安打、低迷していた二岡が40本の二塁打を記録し復活するなど大成功を収める)。故障から復帰後7・8番打者に定着。規定打席にはわずかに及ばなかったものの、得点圏打率は3割2分台と要所では活躍。22盗塁(リーグ2位)で盗塁死は0の盗塁成功率100%を記録(盗塁数20以上での成功率100%はセ・リーグ初)し、日本シリーズでは2000年同様日本一に貢献した。

翌2003年も一時は首位打者になるなど順調なスタートを切ったものの、東京ドームでジョージ・アリアス(阪神)のファールフライを捕った一塁手の元木に激突し、シーズン早々に故障した(ちなみにこの時ライトはペタジーニで2人とも無理をして打球を追ったと思われる)。この年の故障は打撃・守備・走塁に後を引いてしまい、欠場中や後半戦には俊足の鈴木尚広が起用されることも多かった。

原が辞任し監督が堀内恒夫に交代した2004年、仁志は再び巨人の1番打者を任され、28本塁打を記録(106得点はリーグ1位)。一方で盗塁3、盗塁死10と脚力は回復できず、オフにFA宣言を行いメジャーリーグ移籍を視野に入れていることを表明したが(同時にメジャー挑戦を表明した井口資仁に注目が集まったためか)、手を挙げる球団がなく結局残留。

翌2005年も1番打者としてスタートしたものの、4月の不振から交流戦直前に9番仁志、1番清水に配置転換を迫られる。その交流戦こそ12球団選手中打率4位の成績を残すものの、セ・リーグ投手陣相手には苦しみ、後半戦には若手の台頭で6・7番を担当。シーズンオフにはロッテから球界有数の守備で知られる小坂誠が加入し、さらに原が監督復帰、2006年シーズンも2002年の清水・仁志の「ダブル1番構想」にこだわりをみせる。しかし仁志は不調のため、小坂に開幕スタメンを奪われる。仁志と小坂は同様に1割台後半の不調に陥り、小坂が2番打者として優先的に使われ、仁志起用時は7番・8番打者として使われることが多くなる。さらに中盤に故障し離脱すると以降は1軍に上がることもなく、1軍ではルーキー脇谷亮太が台頭。さらにシーズン終盤には手首も骨折、64試合出場、打率.185、1本塁打、7打点、1盗塁と過去最低のシーズンとなった。監督構想から外れ、自らトレードを志願し球団も受け入れる。

横浜時代
2006年11月6日、小田嶋正邦(+金銭)とのトレードが成立し、横浜ベイスターズへの移籍が決まる。横浜での背番号は日本生命時代に着けていた「7」に決まった。横浜移籍1年目の2007年は、開幕から28試合連続出塁記録を樹立するなど、序盤は常に打率3割近くをマークし、序盤の横浜首位の原動力のひとつとなったものの、後半失速。シーズン後半まで1番に座っていたものの、本来1番打者に求められる盗塁、四死球が共に少なく、1番打者としての活躍には疑問が残った。

2008年はほとんどの試合で2番で出場。リーグ3位となる34犠打を記録した。2008年3月25日、祥伝社より「プロフェッショナル」というタイトルで自伝を出版した。原稿は仁志が原稿用紙に直筆で綴ったものである。

2009年は開幕2番・セカンドでスタートしたが、打率1割台と極度の不振に陥り、5月半ば以降は開幕当初ショートであった藤田一也にレギュラーの座を奪われる。以降も休養を入れながらスタメン出場するも調子は上がらず、終わってみれば51試合の出場で打率.159、0本塁打、3打点と自己ワーストの成績に終わり、盗塁も初めて企図数ゼロであった。極度の不振と若手育成の為、2009年度限りでの退団を要請し、他球団でのプレーを希望する形となった。

エピソード
緻密な野球理論を持つ一方で、新人時代から『ビッグマウス』と言われ、本人曰く「思ったことをそのまま言っているだけで、自分をそのまま出しているだけ」という奔放な発言を重ねている。不動の1番バッターだった長嶋巨人時代、入団直後の野球雑誌のインタビューで「毎日試合に出て3割打てないなら野球をやっている意味がない」「リッキー・ヘンダーソンが目標」など数々の大口を叩いている。その後も「プロ野球選手の年俸は親会社に合わせて下げたほうが良い」「消えた感覚は元に戻らない(メジャー挑戦を公言し、一時首位打者にランクされるなど打撃開眼しかかった時期に故障し、復帰後低迷)」など、問題となりかねない発言を重ねた。
こうした発言が自身と一致するもののなかには、仁志を「直言居士」などと評価する者もいるが、巨人時代はこの奔放な性格が仇となり、マスコミの格好の種となった。長嶋監督時代は清原とともに仁志自身がマスコミのバッシングの格好のネタとなり、監督がカリスマ長嶋から原に交代すると、清水と1番2番が入れ替わったことや、背番号が同じことなどを理由に夕刊フジなど諸タブロイド誌や週刊誌に毎日のように『確執?』などと煽られ、そうした『確執ネタ』をアンチ巨人にインターネットなどで噂を広められるという、より陰湿なやり方に苦しんだ(仁志自身は、出番減少によるトレード志願と原との関係は別と『確執騒ぎ』は否定し、原のホームページには、初期の文面に既に「仁志にはシーズン通し打率3割、または出塁率3割5分をマークすればいつでも1番に戻すと言ってあります。」という仁志ファンへ向けたと思われる文面がある)。
プロ入り前から大の巨人ファンで、社会人時代にもう1年待てば五輪に出られるチャンスがあったのに、プロ入りを決めたのは、今じゃないと巨人に入団できないかもしれないと思い、巨人以外ならプロになるつもりはなかったと言う。ちなみに2006年に巨人を退団するときは、「10年前と今とは全然違うでしょ、今は巨人=プロとかそういう時代じゃない」と語っている。
21世紀に入り、プロ野球界の人気衰退が徐々に噂されてきた頃から「ファン重視」の提言を続けている。ファンサービスやファン層拡大の構想を雑誌などに掲載するなど球界改革にも力を入れている一人である。週刊ベースボールでコラムを執筆していた2001年当時、一時の人気衰退から地域密着型の方針を打ち出したことで徐々に人気を回復していたJリーグとの共存を考え、サッカー選手との交流やファンからのアンケート葉書を募るアイデアを提唱するなど、「選手の立場から」具体的な提案を打ち出している。このように、良くも悪くも遠慮なく思ったことを言う性格故その発言が度々物議を醸している。しかし、同じように球団に遠慮をすることなく問題提起を心掛けていた川相昌弘が中日に移籍する際、「後は頼んだぞ」と言ったのは仁志であり、「球団合併騒動」の12球団共同署名活動では高橋由伸、上原浩治とともに多大な貢献をした一人である。
2006年レギュラー落ちを経験した時、同じように二軍降格中の桑田真澄と今後について相談し、励ましあっていた。
好きな曲はヒップホップ全般を好んでいて2005年はJay-Z、2006年にはSOUL'd OUTの曲を打席のBGMに選んでいる。この影響で、一時期チームメイトだった小久保裕紀もヒップホップを聞くようになったとたまたま共演したラジオ放送で語ったが、その際に本人の前で「なに言ってんだ、今はジャズに目覚めたんだよ!」と言った。
巨人時代から大変なプロレスファンとして知られる(巨人は元々、放映権を持つテレビ局が日本テレビだという縁で全日本プロレス、現在はプロレスリング・ノアと交流が深く、原辰徳らプロレスファンが多い球団として知られている)。週刊プロレスを毎週購入しているとノア所属の秋山準が明かしており、当時巨人に所属していた河原純一が試合で使うテーマ曲について悩んでいたところを、「俺が聴きたいから」という理由だけで小橋建太の入場曲「GRAND SWORD」にさせてしまう(打者はネクストバッターズサークルから打席に入るまでしか曲が流れないが、投手は入場・捕手との打ち合わせ・投球練習までずっと流されるため、投手の方が長く曲を聴けることから)など、ノアファンとして知られている。2006年12月10日ノアの日本武道館大会でサプライズゲストとして、第1試合からメインまでの殆どの試合を観戦。その解説ぶりは非常に好評を得た。この日の第4試合に秋山が入場の際に移籍が決まったばかりの横浜ベイスターズのTシャツを着て入場している。2007年12月2日、再び放送席に登場。小橋建太の復帰戦のゲスト解説を務めた。2008年、強引に内川聖一を誘い、会場ではしゃいでいる姿が写真に移りこんでいた。2009年には大学の後輩に当たる松本啓二朗に石森太二の入場曲を選択した。(2009年はKENTAの入場曲を使うため、タッグを組んでる石森太二の入場曲を選んだとのこと)
シーズンオフのテレビ番組出演依頼が来た時は積極的に参加する事もあり芸能界との交流も深く、2003年の1月21日の笑っていいとも!のテレフォンショッキングに、寺脇康文からの紹介で出演したこともある。現役アスリートが出演するのは異例である。
1988年の第70回全国高等学校野球選手権大会では開会式後の第一試合で、徳仁親王(現・皇太子)の始球式で常総学院の1番打者として打席に立った。
巨人時代の打席に登場時のテーマ曲は、前述の趣味であるプロレスリング・ノアの主力選手である丸藤正道の入場テーマ曲であるHYSTERICを使用。2008年からは交友関係のある小橋建太の入場曲を打席テーマ曲に使用した。2009年はKENTAの入場曲を使用する。
有名人にも仁志を愛する人間は多く、浜田雅功はジャンクスポーツ内で仁志好きを公言した。また、仁志を放出した巨人の姿勢に疑問を投げかけ『今まで、ここに仁志在りって言う試合がどれだけあった事か』『僕の持ってる野球ゲームで仁志を即刻巨人に戻した』と発言した。
ウェートトレーニングの成果もあるが、まるでボディービルダーのような全身筋肉質の体をしている。日本人には珍しい体質と評論家に褒められた事がある。
球団主催の少年野球教室や、プロ野球シンポジウムでの解りやすく奥の深い指導には他の現役選手OBからも高い定評があり、張本勲からは「選手やめてもコーチで飯食える」と評価されている。
プロ野球選手をデフォルメ化した漫画では、プロ野球選手としては小柄な体格と、童顔の為か、他の選手よりもとりわけ可愛らしく描かれてしまう傾向がある。特にマツイ日記は知っている!ではさらにピカチュウの耳と尾が加えられた「ぴかちるさん」として描かれ、この漫画を代表するキャラクターとなった。
ズームイン!!サタデーのスポーツコーナーではジャイアンツ時代から政治や他のスポーツでの深い話を語る「雑学キャラ」となっている。ベイスターズ移籍後もこの番組にはよく出演しており(この為、コーナー担当の宮本和知は仁志の移籍後はジャイアンツ対ベイスターズ戦が行われる日に取材を優先する傾向がある)、2007年11月10日放送分ではスポーツコーナーを完全に独占してしまった。
巨人時代は背番号は「8」を付けていたが、この背番号は高田繁→原辰徳と受け継がれてきた。前々任と前任の二人は新人王のタイトルを獲得しており、自身も獲得したことで「3代続いて新人王を獲得した」画期的な背番号となった。ちなみに、仁志のあとに8番をつけたのは、谷佳知である。
2009年6月18日から、交流のあった三沢光晴追悼の意を込め、テーマ曲を三沢の入場曲「スパルタンX」に変更。

背番号
8(1996年 - 2006年)
7(2007年 - 2009年)

タイトル・表彰
新人王(1996年)
ゴールデングラブ賞:4回(1999年 - 2002年)
日本シリーズ敢闘賞:1回(1996年)
日本シリーズ優秀選手賞:1回(2000年)
サイクルヒット:1回(1999年6月25日)
オールスター優秀選手賞:1回(1998年第2戦)

個人記録

初記録
初出場・初先発出場:1996年4月5日、対阪神タイガース1回戦(東京ドーム)
1番・二塁手として先発出場、5打数3安打
初打席・初安打:同上、1回裏に藪恵壹から中前安打
初盗塁:同上、2回裏に二盗
初打点:1996年5月25日、対広島東洋カープ8回戦(広島市民球場)
4回表に大野豊から中越適時二塁打
初本塁打:1996年6月19日、対中日ドラゴンズ10回戦(ナゴヤ球場)
6回表に今中慎二から

節目の記録
1000本安打:2004年5月2日、対広島東洋カープ6回戦(東京ドーム)
1回裏にジョン・ベイルから右中間へ二塁打
100本塁打:2004年5月2日、対広島東洋カープ9回戦(広島市民球場) ※史上216人目
1回裏にジョン・ベイルから左越先頭打者本塁打 ※史上231人目
1000試合:2004年6月4日、対ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場)
1番・二塁手として先発出場 ※史上393人目
1500本安打:2008年6月4日、対埼玉西武ライオンズ2回戦(西武ドーム)
8回表に岡本真也から中前安打 ※史上96人目
150本塁打:2008年7月17日、対広島東洋カープ14回戦(横浜スタジアム)
6回裏に梅津智弘から左越3ラン ※史上149人目
1500試合:2008年7月25日、対広島東洋カープ15回戦(広島市民球場)
2番・二塁手として先発出場 ※史上161人目

その他の記録
通算初回先頭打者本塁打:24本(表9本、裏15本)※歴代7位。
シーズン初回先頭打者本塁打:7本(2004年)※歴代7位タイ。
シーズン盗塁成功率100%(2002年)※20盗塁以上でのシーズン盗塁成功率100%は、セ・リーグでは史上初。
オールスターゲーム出場:5回(1998年、2000年、2001年、2004年、2007年)




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