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城島健司

城島 健司(じょうじま けんじ、1976年6月8日 - )
長崎県佐世保市出身のプロ野球選手(捕手)。

日本人捕手には珍しい、闘争心をむき出しにしたプレーをする「攻撃型」捕手。
プレッシャーに強く、向こうっ気も非常に強い。長打力と、座ったまま投げて盗塁を刺す強肩が武器。

経歴


別府大学付属高等学校時代は1年の時から4番を打ち、高校通算70本塁打を記録。
3年次の1994年秋、ドラフト会議前に最初に城島をリストアップしたのは広島東洋カープだったが、本人はドラフト前からプロ入り拒否を表明し駒澤大学への推薦入学が決定しており、スカウト陣が二度目に会いに行ったときにはもう会えなくなっていた。
しかしドラフトでは、福岡ダイエーホークスが1位で強行指名。
これには駒澤大学の当時の太田監督も怒りを隠せず、「今後、ダイエーには選手を入団させない」という問題にまで発展した(後に和解)。
その後ダイエー監督の王貞治の説得で入団を承諾し、「ダイエー最初の根本マジック発動」とも言われた。

ダイエー・ソフトバンク時代
入団当初は辛口のバッテリーコーチ・達川光男から「こんな下手なキャッチャー見たことない」と言われながら打撃には非凡なところを見せ、19歳直前の1995年5月31日の対オリックス・ブルーウェーブ9回戦(福岡ドーム)で代打としてプロ初出場。7月9日の対千葉ロッテマリーンズ15回戦(千葉マリン)ではエリック・ヒルマンからプロ初安打(同時にプロ初打点)。7月14日のオリックス17回戦(福岡ドーム)ではプロ初スタメン(8番捕手)を果たした。

2年目の1996年は開幕から二軍で英才教育を受け、8月24日にウエスタン・リーグ新記録となる25本塁打を放ち、9月3日に一軍昇格。翌年以降をにらみ、残り試合をほぼ全試合先発起用された。9月10日の対近鉄バファローズ21回戦(福岡ドーム)では久保康生からプロ初本塁打を記録。オフには同僚の吉武真太郎らとともにハワイ・ウインターリーグに派遣された。

1997年開幕より一軍のレギュラー捕手に定着。同年オールスターファン投票では、戦後生まれでは最年少となる21歳45日で捕手部門1位選出。この年打率.308(プロ野球歴代捕手史上最年少3割)、15本塁打、68打点。工藤公康・武田一浩らベテラン投手、バッテリーコーチ・若菜嘉晴の公私共の支え、ロッテから移籍してきた先輩捕手・田村藤夫の教えもあり以後不動の正捕手となる。

1999年には初の全試合出場を果たし、チーム唯一の打率3割をマークするなど、球団初のリーグ優勝・日本一に大きく貢献。

2000年は右手の骨折により84試合の出場にとどまったが、チームはリーグ2連覇し日本シリーズに出場。シリーズタイ記録となる4本塁打を放つなど活躍した。同シリーズ敢闘賞を受賞。

2001年は打率は低かったが、長打力に磨きがかかり31本塁打を記録。この年、小久保裕紀が44本塁打、松中信彦が36本塁打、井口資仁が30本塁打し、パ・リーグ初の30本カルテットを形成。また、日本人のみの30本カルテットはプロ野球史上初であった。同年、城島健司ベースボール記念館が故郷の長崎県佐世保市にオープンした。

2002年には守備についている際に打球を鎖骨に受け骨折。ベストナインを逃すが、ゴールデングラブ賞は受賞した。このとき城島の故障の穴埋めのため、日本ハムファイターズから田口昌徳が入団した。また、福岡ローカルのホークス応援番組では、城島がゴルフ好きであることから、骨折した鎖骨を固定していたチタンボルトをパターの一部にして城島にプレゼントした。

2003年には自ら「スーパーキャッチャー」のキャッチフレーズを掲げ、野村克也以来史上2人目となる捕手としての全140試合フルイニング出場を宣言、見事に達成した。7月27日のオリックス・ブルーウェーブ戦では1試合6安打を放ち、仰木彬(西鉄ライオンズ)と並ぶリーグタイ記録をマークするなど、打っては打率.330、34本塁打、119打点と打撃3部門全てで自己最高の数字を記録。松中、井口、ペドロ・バルデスとともにプロ野球史上初の100打点カルテットを形成したダイハード打線の5番打者としてチームの3年ぶりのリーグ優勝に貢献した。また捕手としても斉藤和巳ら若手投手陣を引っ張り、MVPに選出された。日本シリーズでは2000年の日本シリーズに続き、長嶋茂雄以来史上2人目となるシリーズ2度目の4本塁打を放つなど大舞台での強さを見せ、チームの日本一に大きく貢献した。

2004年はアテネオリンピック野球日本代表に選ばれ、4番打者、正捕手として活躍。チームは銅メダルを獲得した。ペナントレースではチームがリーグ1位であったにもかかわらず、プレーオフで敗れリーグ連覇を逃した。個人としては、捕手シーズン打率パ・リーグ新記録となる.338をマーク。また6月1日に通算1000本安打を達成しており、出場939試合目での達成は、捕手では1952年の土井垣武(毎日)に並ぶ最速記録となった。

2005年6月4日、通算200本塁打達成。7月中旬に右肩痛を訴え離脱。その後8月28日にスタメン復帰するも、9月22日の千葉ロッテマリーンズ戦で自打球を左スネに当て全治2か月の骨折を負い、残りの試合には出場できなかった。城島に代わり捕手を務めた的場直樹がプレーオフ敗退にベンチで泣き崩れたが、松葉杖の城島は的場の活躍を称え懸命に慰めていた。この年、怪我に苦しみながらも通算4,000打数をクリア。通算打率.299は捕手としてプロ野球歴代1位。

2005年オフ、FA宣言しメジャーリーグ・シアトル・マリナーズと3年契約。捕手としては日本人選手史上初のメジャーリーガーとなった。

マリナーズ時代
2006年4月3日の開幕戦対ロサンゼルス・エンゼルス戦(セーフコ・フィールド)に7番捕手として初出場。バートロ・コロンから第2打席にメジャー移籍後初安打を初本塁打で記録(同時に初打点)。デビュー戦本塁打は日本人史上2人目となった。続く4月4日の対エンゼルス戦では、日本人史上初となる開幕から2試合連続本塁打を記録した。

2006年9月19日の対レンジャーズ戦(アメリクエスト・フィールド・イン・アーリントン)では、日本人メジャーリーガーの1年目としては松井秀喜を上回り最多となる17号本塁打。9月25日の対ホワイトソックス戦(USセルラー・フィールド)では、マリナーズの捕手としては最多記録と並ぶ18号本塁打。10月1日のシーズン最終戦となるレンジャーズ戦(セーフコ・フィールド)では最終打席でバック・ロジャース(エンゼルス)の持っていたア・リーグ新人捕手シーズン最多安打記録146(1962年)を44年ぶりに更新する安打を放った。最終的に打率.291、18本塁打、76打点を残したが、18本塁打は日本人メジャーリーガー1年目の最多、打率.291は日本人メジャーリーガーの1年目としてはイチローに次いで2位だった。

言葉の壁や戦略の違いなどで最も難しいといわれていた捕手というポジションで、見事にレギュラーの座を獲得。さらには、ルーキーで捕手という激務をこなしながらの打撃成績を評価され、シーズン終盤は3番を務めることもあった。新人野手としてはア・リーグ3部門でトップの成績だったが、新人王争いの投票では投手3人に続く4位に終わった。

2007年は135試合に出場し、打率.287、14本塁打、61打点。守備率(863守備機会で.998)と盗塁阻止率 (.465) ではメジャー全体トップを記録。 2007 This Year in Baseball Award のDefensive Player部門に捕手で唯一ノミネートされた。7月3日の対カンザスシティ・ロイヤルズ戦で、右手甲に打球を受け負傷したが、この時は幸運にも、2000年に骨折した際埋め込まれていた金属プレートのおかげで、再度の骨折を回避できた。


2008年4月25日、マリナーズと3年2,400万ドルで契約を延長。しかし城島の打撃は不振を極め、首脳陣や投手陣が成長株の捕手ジェフ・クレメントに信頼を置きはじめたこともあり、ファーストへのコンバートさえ囁かれるシーズンとなった。そして同8月10日、正式にスタメン捕手の座を剥奪された事が報道された。ただし9月はクレメントが膝の手術でシーズンを終えたため、再びレギュラーとして起用されている。最終的に112試合に出場し、自己ワーストとなる打率.227、7本塁打、39打点。翌年から3年総額26億円の高額な契約を結んでいたこともあり、ESPNの選ぶア・リーグの"Least Valuable Player"(MVPの逆。「最も高くついた選手」)に選出されてしまった。

2009年、第2回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出。巧みなリードで投手陣を引っ張るなど侍ジャパンの攻守の要として活躍。決勝では4番を打つなど全試合にスタメン出場し、9試合で30打数10安打(打率.333)1本塁打4打点1盗塁4得点で日本のWBC2連覇に貢献した。

2009年のシーズンは正捕手としてスタートしたが、4月16日に右太股裏の肉離れで15日間の故障者リスト入り、5月26日に左足親指骨折で2度目の故障者リスト入りするなど序盤は怪我に見舞われる。また城島不在の間に新人のロブ・ジョンソンが投手陣の信頼を集め、城島の復帰後もフェリックス・ヘルナンデス、ジャロッド・ウォッシュバーン、エリック・ベダードの先発三本柱は城島とのバッテリーを拒否してジョンソンとコンビを組んだため、出場機会が激減した。後にウォッシュバーンは移籍、ベダードは怪我で離脱したが、三本柱の先発した65試合のうち城島がマスクを被ったのは序盤の10試合に終わった。

打撃はどん底だった2008年よりやや持ち直し、71試合の出場ながら打率.247、9本塁打、22打点。本塁打率ではメジャーに来てから自己最高の数字を残したが、RC27は4.03という低調な数字に終わった。無走者時の打率.290に対し、走者を置いた状況下では打率.188(得点圏打率.184)と大きく数字を落としている。夏場には、ESPNが発表した「獲得希望のなさそうな選手」ランキングで14位に入り、「2011年までの年俸総額1,864万ドルが残り、低い出塁率と非力な33歳の捕手をどこが欲しがるか」と指摘された。

守備面ではCERA(捕手別防御率)が4.86となり、ロブ・ジョンソンの3.23を大きく上回ってしまった。エースのヘルナンデスは城島とバッテリーを組んだ試合では1勝3敗、防御率7.22, QS率20%(1/5)だったが、城島以外の捕手と組んだ試合では18勝2敗、防御率1.81, QS率96.6% (28/29) という好成績を残した。 ただ強肩は相変わらずであり、規定試合数に届かなかったものの盗塁阻止率は.537で自己最高を記録。メジャー通算の盗塁阻止率も.400と高率を誇る。

日本復帰
2009年10月19日、マリナーズとの残り2年間の契約を破棄し、日本球界に復帰する意向であることが発表された。これに即座に反応した阪神タイガースが獲得に動き、やや遅れて古巣のソフトバンクも獲得の意向を示したが、同27日、阪神との2度目の交渉で入団の意思を表明した。

この時阪神が城島の獲得に至った経緯として、前年までの正捕手矢野輝弘がこの年故障で長く欠場し、代わって正捕手格となった狩野恵輔も送球面などの不安を抱えていたこと、また右打ちの強打者がチームに少なかったことがあり、城島はいずれの補強ポイントにも合致していた。

城島自身はこれ以前にFBSの『夢空間スポーツ』のコーナー内のインタビューにて「(選手として)バリバリの状態で福岡に戻りたい」、「今の自分があるのはホークスのおかげであり、ユニフォームを脱ぐ時は福岡でホークスのユニフォームを脱ぎたい」と語っており、ソフトバンク球団側も背番号「2」を欠番にしていたが、城島のマリナーズ退団情報を9月中旬に掴んでいた[9]ものの、一度は獲得を見送っている。これは前年度26本塁打を放ち飛躍した田上秀則の存在や城島自身の年俸の高騰などが背後にあった[10]。結果的に初動の遅れが、阪神入団の決め手となった。

タイトル・表彰
パシフィック・リーグMVP:1回(2003年)
ベストナイン:6回(1999年 - 2001年、2003年 - 2005年)
ゴールデングラブ賞:7回(1999年 - 2005年)
最優秀バッテリー賞:5回(1999年 - 2001年、2003年、2004年)
月間MVP:3回(1999年6月、2003年4月、2004年6月)
日本シリーズ優秀選手賞:2回(1999年、2003年)
日本シリーズ敢闘賞:1回(2000年)
オールスター出場:8回(1997年 - 2001年、2003年 - 2005年)
※2002年もファン投票で選出されているが、故障により出場を辞退。
初記録
初出場:1995年5月31日、対オリックスブルーウェーブ9回戦(福岡ドーム)、7回裏に代打として出場
初安打・初打点:1995年7月9日、対千葉ロッテマリーンズ15回戦(千葉マリンスタジアム)、7回表にエリック・ヒルマンから
初本塁打:1996年9月10日、対近鉄バファローズ21回戦(福岡ドーム))、5回裏に久保康生から
節目の記録
100本塁打:2002年5月6日、対大阪近鉄バファローズ7回戦(福岡ドーム)、6回裏に前川勝彦から左越2ラン ※史上221人目
150本塁打:2003年10月3日、対オリックスブルーウェーブ28回戦(Yahoo!BBスタジアム)、2回表に加藤大輔からソロ ※史上131人目
1000本安打:2004年6月1日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(福岡ドーム)、3回裏に小林宏之から中前安打 ※史上220人目
1000試合:2004年9月21日、対北海道日本ハムファイターズ26回戦(札幌ドーム)、5番・捕手として先発出場
200本塁打:2005年6月2日、対阪神タイガース6回戦(阪神甲子園球場)、8回表に藤川球児から左越2ラン ※史上83人目
その他の記録
日本シリーズ4本塁打(2000年、2003年)※シリーズタイ記録。
1イニング2本塁打(2001年4月13日)
1試合6安打(2003年7月27日)※パ・リーグタイ記録。
プロ野球歴代捕手シーズン最多安打:182(2003年)
パシフィック・リーグ歴代捕手シーズン最多刺殺:1175(2003年、1272守備機会) 
パシフィック・リーグ歴代捕手シーズン最高打率:.338(2004年)


プレースタイル
若手時代から打撃には非凡なものがあったが、ワンバウンドの投球を捕球することができず、身体が投球から逃げほとんどが暴投もしくは捕逸になる状態であるなど捕手としては酷評され、達川光男コーチ(当時)や野村克也、森祇晶らOBからは「キャッチャーに向いてない」という声が聞こえた。周囲の人々も捕手に拘る必要性を感じておらず、一時は監督の王もファーストにコンバートする意向を示していた。実際に一軍の公式戦でファースト、セカンドを守ったこともある。しかしこれらの意見にとらわれず、城島の捕手としての才能を見出し、守ったのが達川の後任である若菜嘉晴コーチ(当時)であり、本人も「もっと上手くなりたい」と持ち前の精神力と向上心で努力を重ねた。

当時ダイエーには、工藤公康と武田一浩の左右エースがいた。城島は来る日も来る日も工藤や武田に教えを乞い、深夜の宿泊ホテルで就寝している2人の部屋にも押しかけたことがあった。「お前、もう帰れ」と怒鳴られても、それでも城島は教えをあおいだ。城島自身、工藤や武田が登板する日は「負けたらボクのせいだ」と決め込み、負けた日には涙を流していた。その姿勢を工藤と武田は評価し、城島の才能を育てた。1999年に正捕手となった城島に対し、工藤が「今年一年間お前が出すサインには一切首を(横に)振らないから自信を持ってサインをだせ」と言った。2人の体当たりによる指導で、城島のリード面は磨かれていった。

城島のレギュラー定着直後に移籍してきた田村藤夫には既に全盛の力はなかったが、若菜が現役時代、日米両方のキャッチャーを見てきた中で、当時一番キャッチングが上手だった選手が田村であり、城島の手本になればと若菜が懇願して来てもらった選手である。若菜は田村のインサイドワークや無駄のないスローイングなどをビデオに撮り、また田村の練習風景を観察するなどして城島は捕手として成長した。田村は1998年限りで現役を引退するが、翌年はコーチとして城島の成長に一役買った。

リーグを代表するキャッチャーとして名を刻み、本人もチームの代表選手としての意識が芽生え、ベストナイン・ゴールデングラブの常連になるまで成長。ダイエー生え抜き初の1億円プレーヤーとなり、小久保裕紀・松中信彦・柴原洋と「ホークス四天王」を形成した。その後もしばらくは守備で身体が逃げる、捕逸が目立つ状況が続いたが、2003年にアテネ五輪予選に出場する頃にはワンバウンドも止められる、キャッチング部分でも一流の選手として認められるほどになった。

現在では、捕手と打撃を両立しながらも、打率、本塁打数、打点、実績ともに日本人屈指の捕手と認められ、若手時代には酷評した達川も現在では「本当に頑張ったんですね。もう、素晴らしいキャッチャーですよ」と放送の解説で発言するほどに成長している。

メジャーリーグに移籍して1年目は、打者としては堂々たる成績を残した。しかし、「リード」の日米の違いや捕手のあり方で苦悩した。リードの考え方は、日本は「打者が打てない確率の高いボールを投手に投げさせるリード」に対して、メジャーは「投手に一番投げたいボールを投げさせるリード」である。捕手のあり方は、日本はリードやキャッチングが優先される捕手の条件だが、メジャーの捕手は強打・強肩であることが求められており、リードやキャッチングは二の次、三の次である。捕手のサインも、日本では投手が捕手のサインに従う傾向だが、メジャーでは捕手が投手に従う傾向が多い。このような異文化ともいえる考え方の違いもあり、城島がメジャーでの経験がほとんどないこともあり、マリナーズ投手陣が城島のサインにうなずかないことが多々あった。大ベテランのジェイミー・モイヤーとバッテリーを組んだレッドソックス戦では、あるバッターが、モイヤーの内角低めの直球を大ファウルした。城島は次に「外角のカーブ」を要求したが、モイヤーは城島のサインに首を振り「内角低めの直球」を要求した。モイヤーの考えとしては「どんなに上手く打っても、100%フェアゾーンに打たれないコース、ボール」と内角低めの直球を投げていた。結局、2球続けて「内角低め」を投げて三振させた。こうした城島の苦悩を描いたエピソードは、2006年のオフシーズンにテレビ放送や新聞の連載で紹介された。しかし、マリナーズ投手陣も少しずつ城島のリードに理解を示して、フェリックス・ヘルナンデスは「投球の幅が広がった」と話している。しかし2009年にはヘルナンデスをはじめとする先発投手陣3人にバッテリーを拒否され、出場機会が激減した。
打撃
積極的に打ちにいく典型的な「フリースインガー」であり、三振・四球とも少ない傾向にある。メジャー入団後は三振・四球の少なさがさらに顕著になっており、2006年の三振/打席数のパーセンテージの低さは、ア・リーグで堂々のトップである(ちなみにイチローが8位)。四球もメジャー1年目は20しかなく(1位はニューヨーク・ヤンキースのボビー・アブレイユで、124)、2年目の15個は規定打席到達者の中でメジャー3位タイという少なさである。そのあまりの積極性ゆえに一時期は「悪球打ち」とも言われるほどで、2000年の日本シリーズ第1戦の第1打席では、工藤公康の投じた4球目のワンバウンドしそうなボール球を打ってホームランにした。

捕手でありながら出場した日本シリーズでは全て本塁打(通算9本)を放っている。また9本のうちチームの失点直後の本塁打が4本と日本シリーズでも勝負強さが有った。

捕手でありながらオールプロのアテネオリンピック野球日本代表(長嶋ジャパン)で4番打者に指名される程の球界屈指の打撃センスを持っている選手だが、打撃3部門のタイトル獲得経験はない。2003年は打点王獲得の最大のチャンスだったが、最終試合でチームメイトの松中信彦に逆転され、松中にタイトルを奪われた形となった。2004年もオリンピック期間前までは打撃3部門すべてにおいて松中信彦とし烈なタイトル争いをしていたが、オリンピックによる離脱もあり、結局打撃部門は松中が三冠王となり、大リーグ移籍前には打撃部門のタイトルを取ることができなかった。

2003年は左投手を特に苦手にしていた。この年放った34本のホームランは全て右投手から打ったもので、シーズン中は左投手から1本も打てなかった。ところが4本塁打放った日本シリーズでは第1戦に井川慶、第7戦にトレイ・ムーアからホームランを打った。これについては、当時のパ・リーグには一流の左投手と呼べる存在がおらず、レギュラーシーズン中は対右投手用の打撃練習を徹底しておいて、セ・リーグを代表する左投手である井川、ムーア、下柳剛、ジェフ・ウィリアムス、吉野誠との対戦をにらんでシリーズ前に対左投手用の打撃に集中していたことを『GET SPORTS』などの取材で明らかにしている。

人物
2000年11月27日にCMタレントの大藤真紀(当時23歳)と結婚。出会いは1997年TVQ九州放送の「タカハチ組」というスポーツ情報番組で、3年間のオープンな交際を経ての結婚だった。結婚発表時の記者会見は福岡ドーム横のシーホークホテル&リゾート(現在はJALリゾートシーホークホテル福岡)にて行われ、この模様が福岡放送「めんたいワイド」の中でも生中継された。2001年には長男が、2003年には長女が、2006年には次男が生まれた。
現在、3児の父。ヘルメットに貼られた息子の写真を見、首に吊るした結婚指輪にキスをして、さらにはネクストバッターズサークルにて、バットで家族のイニシャルを描くしぐさをしてから打席に立つ。
監督として仕えた王貞治のことを、「一番ユニフォーム姿が似合って、かっこいい人。野球をしている時の目の輝きが違うし、あの歳になってもあれだけ野球を好きでいられることは凄い。敬遠の時、ボールの動きと一緒に監督も飛び上がっていたくらいですから」と語っている。
城島と王は、1990年、城島が中学2年生の時に王が少年野球教室で佐世保市を訪れた際に初めて会っており、その際王からバッティングを褒められている。その当時から王を目標としていたからか、高校3年在学時に、書道で好きな言葉を書く事になった際に、迷わず「王」の一文字を書いたという。なお城島は書道3段の腕前である[11]。
例年春季キャンプでは、ブルペン捕手(2005年は森浩之と内之倉隆志)に公式戦で使用するキャッチャーミットの型を作ってもらっている。
城島はプロ野球捕手にしては珍しい闘志剥き出し型タイプである。そのためプロ野球OBの評論家に一目置かれる存在でもある。また当時近鉄に所属していた高村祐から死球を受け、猛ダッシュで7歳年上の相手に暴行したことがある。ちなみにその前年は死球の数が両リーグで一番多く、(本人曰く)「死球が多いのは自分が生意気だからかもしれないけど、このままでは自分の身が持たないから、次(死球が)来たら(殴りに)行こうと決めていた」と言っている。また有名なものとしては、普通の現役選手なら顔を見ただけでそそくさと逃げ出すほど口の悪いことで知られる豊田泰光が、スポーツ紙で城島を酷評。それを読んだ城島は、その記事を寮の天井に貼り付けて「いつかきっと、これを書いた奴を見返してやる」と発奮した。後に豊田泰光は自らの著書に「城島を今の一流スターにしたのは自分だ」と誇示していたが、城島は1999年の福岡ダイエーホークスの春季キャンプを取材していた豊田に「俺のことをボロクソに書くなこのヤロー!!」と怒鳴っている。
前述にある人間観察の他にも、コーチである若菜とは麻雀を打っていたらしい。若菜曰く「最初は話にならないくらい弱かったが、今ではこっちがおちょくられるぐらい強い」とのこと。
尊敬する選手はかつては野村克也であった。しかし攻守ともに一流と認められるようになった後も野村は城島に対しては厳しい評価をすることが多い。2003年野村が「すぽると」のゲストで日本シリーズ直前の解説をした際、矢野輝弘と比べ「確かに打者としては素晴らしいが、捕手としてなら矢野のほうが格段に上」と発言した(その後ダイエーが日本一になった際、城島が「すぽると」にゲスト出演し、野村に対して苦言を呈した)。2009年の第二回WBCにて、野村が「城島はリードが単調で彼が捕手なら日本の躍進は難しい」と再三城島を批判し、これを受け城島は3月16日(日付は日本時間)のキューバ戦で、6-0で勝利した際、「0点で抑えなきゃ野村さんに文句を言われますからね。今日の勝利は『野村ノート』(野村の著書)のおかげですよ。僕は買ってませんけどね」とやり返した。
同期入団し、2000年に現役選手のまま急逝した藤井将雄投手を兄のように慕っていた。城島は「寮の電化製品、テレビ買いに行ったりするにも、銀行の口座を作りに行くにも、全部藤井さんの後についていった」と語っている。
野球界有数の海釣り(特に磯釣り)好きとして知られ、腕前はプロ級である。シーズンオフはおろかシーズン中でも暇を見つけては釣りに出かけるほどで、某釣舟屋のサイトに、釣果の大きなチヌを手に写った写真が掲載されたこともあるほど。地元の新聞の釣りコーナーや釣り雑誌にも「ホークスの城島選手」ではなく「佐世保市の城島さん」として掲載されたことがある。
さらに、自身もマリンレジャーに関心が高い縁から日本水難救済会による『青い羽根募金』のアドバイザーに2009年度から就任した[12]。
大沢啓二がテレビで「城島の座った状態での送球は真似しないほうがいい」と発言したことがある。肩を痛めるからというのがその理由で、実際に城島の強肩があるからこその送球であり、城島自身も2005年にそれが原因で肩を痛めたことがあるため、現在は座ったままの送球はしなくなっている。
1997年オフにローソンのCMに出演。中山エミリと、当時人気だった、つぶやきシローと共演している。
2005年サントリーのDAKARAのCMに出演。体全体をブラブラさせる健康法をやって「立ちくらみがしますね」と言ったり、バッティングセンターでゲラゲラ笑いながら打ったり、城島のコミカルなキャラクターを強調した内容となった。
その他、アクエリアス、スカイパーフェクTV!(福岡版)、福岡銀行、親和銀行(福岡銀行と同一のCM)、ベスト電器、九十九島せんぺい、九州セルラーなどのCMにも出演している。
シアトルマリナーズの本拠地セーフコフィールドで打席に入る際に流れる曲は、ジミ・ヘンドリックスの「Hey joe」。なおマリナーズ入団の際、城島はTV番組『笑点』のテーマを登場曲の候補の1つに上げていたことがある。


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