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ダルビッシュ有

ダルビッシュ 有(だるびっしゅ ゆう)、1986年8月16日 -
北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(投手)。血液型はA型。
妻は元女優のサエコ。

人物
正式氏名はダルビッシュセファット・ファリード・有。

母親は日本人、父親はイラン人で元サッカー選手。現在は日本国籍である。「有」は第4代正統カリフであり、シーア派初代イマームのアリー・イブン・アビー=ターリブに因む。ペルシャ語の名前としては「アリー・ファリード」の二語で「比類なきアリー」という先述のアリー・イブン・アビー=ターリブを賛美する意味の一つの名前になる(なお姓のダルヴィシュセファードは「ダルヴィーシュのような(人)(英語意訳:"Darvish-like")」という意味である)。弟が2人いる。エイベックスとマネジメント契約をしている。

MAX160km/h(WBC計測)のストレートと鋭いスライダー(スラーブ気味、または三段ドロップと言われる)を中心に、ツーシーム(解説者などからはシュートと言われることもある)、カーブ、フォーク、カットボール、チェンジアップなどの多彩な変化球を織り交ぜピッチングを組み立てる。ナックルボールも投げられるようだが、公式戦で投げることは滅多にない。

もともとシンカーを決め球とする変化球主体のピッチングだったが、2006年2月24日に先発登板したWBC日本代表壮行試合で肩を痛めたのをきっかけに、試行錯誤を繰り返しながら新しいピッチングスタイルを模索。肩に負担のかかるシンカーを封印し、その代わりにカットボールを増やしたのが効果的に作用した。肩のケアにも気を使うようになり、肩のトレーニングを増やしたのも投球に良い影響を与えた。同年8月あたりからストレートの球速が大きく伸び、ストレートで押すピッチングが出来るようになった。成績も上昇し、日本球界を代表する投手に成長した。

後述するように、新人時代には未成年喫煙で謹慎処分を受けるなど、素行の悪さ・プロ意識の低さも目立ったが、監督やコーチの指導などによりこれを改善。現在は煙草も吸わず、食事からトレーニング内容まで徹底した自己管理を行っており、後輩選手がそのストイックな姿勢に驚くほどのプロ意識の高さを見せる。不祥事を起こしながらも見捨てず真摯に指導してくれた、トレイ・ヒルマンを初めとする当時の指導者たちには、今でもインタビューなどでしばしば感謝の念を語っている。

野村克也をはじめ、数多くの球界関係者が実力的に最高の投手と認めている。立浪和義は、フジテレビ系列のニュース番組「すぽると」にて、「今まで色々な投手と対戦したが、総合力でナンバーワンの投手」と評している。

弱点として、野外の球場にはめっぽう弱い。武器である多彩な変化球が、風に影響されて定まらないからだと言われている。特に、千葉マリンスタジアムでは、球場特有の海風の影響で変化球が定まらず「鬼門」とされていた。しかし、2008年4月30日には4年目で初勝利をあげた。また、殆どが野外の球場で行われる国際大会でも満足に力を発揮できない場合が多い。

同僚で後輩の木下達生、吉川光夫と同期入団の西武・涌井秀章とは「ダルビッシュ軍団」を結成している。北京五輪出場をかけたアジア予選決勝リーグでは、親友の涌井と練習の時やプライベートの時もいつも一緒に行動していた。

幼少の頃、ハーフで生まれてきた事を理由に周囲の人間から「お前は日本人じゃない」と差別されてきた事がきっかけで、「自分が日本人である事」と「日本球界に留まる事」に強いこだわりを持つようになり、「もしメジャーリーグに行くってなるくらいやったら僕は野球を辞めます。日本の子供たちだって、おもしろくないじゃないですか。子供達を楽しませるためには、そういう(日本に残る)人も必要やと思うし」とジャンクSPORTS ファンタスティックストーリーのインタビューにて語っている。

2009年7月15日、ソフトバンク戦の(福岡)完投勝利後ヒーローインタビューで第二子を授かった事を公表した。
経歴
プロ入り前
歳の頃、父が枕元に野球とバスケットとサッカーのボールを並べると、最初に手に取ったのが野球のボールだった。父はサッカー選手であったため、サッカーのボールも蹴って渡したがそれも投げた。

小学校2年生から本格的に野球を始め、羽曳野ボーイズで全国大会ベスト8、世界大会3位という成績を収め、50以上の高校からスカウトがあったが、環境面等を理由に東北高等学校に入学する。強気な発言とクールな顔立ちから、甲子園では既に女性ファンの注目を集めていた。

1年生秋からエースに就き、195cmの長身から繰り出す直球は当時から150km/h近くを計測。2年春夏、3年春夏と4度甲子園に出場。2年夏は決勝で坂克彦を擁する常総学院に敗れて準優勝、3年春の熊本工戦では史上12度目・10年ぶりとなるノーヒットノーランを達成する。最後の夏の甲子園では真壁賢守とともに活躍し、3回戦で千葉経大附に敗れたものの、高校生No.1ピッチャーとの呼び声もあった。

2004年ドラフト高校生では、涌井秀章(西武)・佐藤剛士(広島)と並ぶ目玉投手として注目され、メジャーリーグの球団も獲得の意思を示す(父親の意向が強かった)が、本人は日本球界を希望していた。

2004年11月17日、プロ野球ドラフト会議において日本ハムがダルビッシュを単独1位指名。12月17日、父親同席のもと、契約金1億、年俸1500万、出来高5千万の高卒新人としては松坂大輔、寺原隼人以来の最高条件で、2004年ドラフト指名選手の中で最後に仮契約を結んだ。

高校通算成績:登板67、投球回332 1/3、奪三振375、防御率1.10
甲子園通算成績:登板12、完投7、完封4、投球回92、奪三振87、四死球27、自責点15、7勝3敗、防御率1.47
センバツ:登板4、完投2、完封1、投球回30、奪三振29、四死球 7、自責点9、2勝1敗、防御率2.70
選手権:登板8、完投5、完封3、投球回62、奪三振58、四死球20、自責点6、5勝2敗、防御率0.87
プロ入り後
2005年、前年12月の自主トレ中に痛めた右ひざの関節炎の影響で、1月の新人合同自主トレでドクターストップがかかり、春季キャンプは二軍スタートとなったが、キャンプ会場の東風平町(現・八重瀬町)には多くのファンが集まった。

しかし、写真週刊誌で未成年者にもかかわらず喫煙していたことが報道された。それに対し球団は、2月21日に鎌ケ谷市の球団寮へ送還・無期限謹慎と謹慎中の社会貢献活動を命じる処分を言い渡した(2月28日の12チーム合同新人研修会は出席)。また、これを受けて東北高校は2月22日に本人を停学処分とした(3月1日の卒業式は停学処分期間中でまだ十分でないとして参加させず。3月8日、停学解除を以って他の生徒より1週間遅れで卒業)。ダルビッシュはそれ以前(2004年9月)にも喫煙している写真が週刊誌に掲載され、高野連より厳重注意処分を受けたことがあった。

その後二軍でリハビリを続け、5月5日にイースタンで初登板しその後完封勝利も記録。6月に一軍昇格し一軍初登板初先発の広島戦で8回2失点で勝利を挙げると、それ以降先発ローテーションに定着。14試合に登板し完封勝利を含む5勝(5敗)を挙げた。

2006年2月に右肩を痛めた出遅れもあり開幕当初は不振も、5月30日以降は自身公式戦10連勝を記録。そのままシーズン終了まで1度も敗戦投手になることは無く、最終的に規定投球回に到達し防御率2.89、12勝5敗の成績を記録。プレーオフ、日本シリーズ、アジアシリーズでは初戦の先発を任され、日本シリーズでは優秀選手賞、アジアシリーズではシリーズMVP投手を獲得。44年ぶりの日本一に貢献し、チームの新エースへと成長した。

2006年終盤あたりから、相性の良さから鶴岡慎也とバッテリーを組む事が多くなり、2007年も中盤以降からはダルビッシュ登板時の捕手はほぼ鶴岡で固定されていた。

2007年、初の開幕投手を務め、エースとしてシーズンを通して活躍。15勝5敗・防御率1.82・被打率.174など優秀な成績を記録した。シーズン終盤には成瀬善久(ロッテ)と防御率争いを繰り広げ、0.003点差で惜しくも最優秀防御率は逃したが、今中慎二以来14年振りに全7項目の選考基準を満たして沢村賞に選出されたほか、最多奪三振、ゴールデングラブ賞・ベストナインのタイトルを獲得。チームのリーグ連覇に大きく貢献し、パ・リーグシーズンMVPに選出。星野仙一監督からは、北京オリンピック代表のエースにも指名された。

クライマックスシリーズでは第2ステージで2勝をあげ、チームの日本シリーズ進出の原動力となった。2年連続で中日ドラゴンズと対決した日本シリーズでは、第1戦で先発し1失点13奪三振で完投、川上憲伸との投げ合いを制し勝利投手となった。1勝3敗で迎えた第5戦で再び先発し7回を1失点11奪三振で抑えるものの、味方打線が山井大介、岩瀬仁紀のリレーの前に1人の走者も出すことができず(完全試合=継投による達成のため参考記録)敗戦投手となり、ドラゴンズのシリーズ優勝を許したが、この好投が評価されシリーズ敢闘選手賞を受賞した。

2008年、2年連続2度目の開幕投手を務め、1-0での完封勝利を挙げる。以降もチームの調子がなかなか上がらない中、前年以上のペースで白星を積み重ね、シーズン前半から勝利数、防御率で東北楽天ゴールデンイーグルスの岩隈久志とタイトル争いを繰り広げた。シーズン唯一の直接投げ合いとなった4月10日には、両者ともに5回までノーヒットピッチングで、岩隈が100球で被安打3の1失点完投、ダルビッシュが95球で被安打3の完封という、壮絶な投手戦の末に勝利を収めている。

この活躍により北京五輪の代表にも選出され、エースとして予選リーグ初戦キューバ戦のマウンドを託されたが、4回0/3を投げて4失点と打ち込まれ、敗戦投手になる。この一戦で星野監督の信頼を失い、予定されていたメダルのかかる決勝トーナメント準決勝の先発も剥奪される。結局その後の登板は消化試合だった予選リーグ最終戦のアメリカ戦の先発や、3位決定戦のアメリカ戦での大差がついた後の敗戦処理という、半ばどうでもいい場面のみに限られ、不完全燃焼の国際舞台となった。

五輪では満足な成績を残せなかったが、チームに復帰後は5試合に先発して5勝2完投、防御率1.29というピッチングを見せ、千葉ロッテとの激しい3位争いを制する原動力になった。クライマックスシリーズでは2試合に登板し、1失点完投と完封で2勝、防御率0.50を記録。チームは日本シリーズ進出を逃したが、圧倒的な投球を見せた。この年は岩隈が21勝を挙げるなどパ・リーグの投手レベルが非常に高く、主要タイトルこそ獲得できなかったものの、防御率・勝利数・奪三振の全てでリーグ2位、五輪での離脱期間があったにもかかわらず投球回と奪三振は2年連続で200を超え、防御率も2年連続の1点台を記録した。沢村賞の選考基準も2年連続で全項目達成したが、21勝という数字が重視されて岩隈の単独選出となり、2年連続での選出はならなかった。基準を全項目達成して沢村賞を獲得できなかったのは基準ができた1982年の江川卓以来2人目である。

ペナントレースではツーシームを全く封印したが、クライマックスシリーズ2ndステージ(VS埼玉西武ライオンズ戦)第2戦の先発ではツーシームを多用し、この年打撃が強力だったライオンズ打線を完封した。これはこの試合の勝利だけでなく、「次以降の相手打線にダメージを与える効果を与える」と後で語っている。実際に第3戦(先発は武田勝)もこの効果があったからか、チームは勝利した。

2009年、第2回WBCの日本代表として出場し、松坂大輔、岩隈久志とともに先発3本柱として原監督から指名される。3月5日、日本代表の初戦である中国戦に先発投手として出場し、4回を無失点の好投で勝利投手となる。また、[1]3月18日の韓国戦でも先発投手として出場するも、この試合では初回に3失点を喫し、敗戦投手となる。[1]3月23日の準決勝、[1]3月24日の決勝では先発を松坂、岩隈に譲りいずれの試合も抑え投手として出場する。決勝の韓国戦では3対2と1点リードの9回裏に、2死1,2塁からタイムリーヒットを打たれ同点とされるが、後続を抑えて延長に持ち込む。この回高めに1球160キロを投げている。その次の10回表にイチローが2点タイムリーヒットを放った事で5対3と再びリードの場面で登板し、10回裏を無失点で切り抜け、勝利投手および日本の胴上げ投手となった。

シーズンでは3年連続開幕投手となる。その開幕試合は、上記のWBCで共に戦った岩隈との投げあいでもあり注目されたが、初回にいきなり3点を献上するなど力を発揮できず、自身初の開幕敗戦投手となるとともに、岩隈との戦いにも初めて敗れてしまった。しかしその後の試合ではほぼ安定したピッチングを続け、5月度のパリーグ投手部門月間MVPを獲得。

その後も最多勝、防御率、奪三振ともにトップを狙える位置を持続し、この年のオールスターでもファン投票・選手間投票ともに断トツの1位選出となる。しかしそのオールスターでラミレスの打球が右肩を直撃してしまって以降、これが影響したのか本来の結果が出せず、首脳陣の進言を受け入れ8月22日に自身3年ぶりの故障による登録抹消にもなってしまった。9月13日に一時復帰しその試合で勝利するも、その次の9月20日の試合では7四球の乱調で5回降板となり、その後右肩と腰の違和感により再び登録を抹消され、その後は登板機会もなくシーズンを終えた。チームはリーグ優勝し、CS第2ステージに進出して勝利を収めるが、腰痛の状態は回復せず自身の登板はなかった。

タイトル
シーズンMVP:1回(2007年)
沢村賞:1回(2007年) 
最優秀防御率:1回(2009年)
最多奪三振:1回(2007年)
最優秀投手:1回(2009年) 
ゴールデングラブ賞:2回(2007年・2008年)
ベストナイン:1回(2007年)
表彰
月間MVP:4回(2007年8月、2008年3・4月、2008年9月、2009年5月)
アジアシリーズMVP:1回(2006年)
クライマックスシリーズMVP:1回(2007年)
日本シリーズ優秀選手賞:1回(2006年)
日本シリーズ敢闘選手賞:1回(2007年)
オールスター出場:1回(2007年)
オールスター優秀選手賞:1回(2007年)
フレッシュオールスター優秀選手賞:1回(2005年)
記録
公式戦12連勝:史上5人目(2006年5月30日 - 2007年4月14日)
高卒新人の初登板初勝利:史上12人目(2005年6月15日)
高卒新人の完封勝利:史上14人目(2005年9月18日)
20歳以下の日本シリーズ勝利:史上5人目(2006年、第5戦)
2試合連続14奪三振以上(9回まで):史上2人目(2007年3月30日 - 4月7日)
日本シリーズ1試合13奪三振:史上3人目(2007年10月27日)
同一日本シリーズ24奪三振:歴代2位(2007年 なお、5試合での奪三振数では歴代1位である)
初記録(投手記録)
初登板・初先発:2005年6月15日、対広島東洋カープ5回戦(札幌ドーム) ※
初奪三振:同上 - 4回表無死、打者:グレッグ・ラロッカ
初勝利:同上
初完投:2005年8月6日、対西武ライオンズ13回戦(札幌ドーム)
初完封:2005年9月18日、対東北楽天20回戦(札幌ドーム)
初記録(打撃記録)
初安打:2006年5月18日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場) - 5回表無死、投手:下柳剛 ※
初打点:2008年6月17日、対広島東洋カープ3回戦(広島市民球場) - 2回表二死、投手:大竹寛 ※
背番号
11(2005年 - )



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