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清水崇行

清水 崇行(しみず たかゆき、1973年10月23日 - )
元プロ野球選手(外野手)。
2008年までの登録名及び本名は「清水 隆行」(読み同じ)。


経歴
1995年のドラフト3位で東洋大学から読売ジャイアンツ入団。ルーキーイヤーから安定した打率をたたき出し、外野手のレギュラーに定着。当初のポジションは左翼、中堅を兼任。松井秀喜のコンバートに従い左翼に定着。不動の2番だった川相昌弘の出場機会の減少に準じ長嶋茂雄監督に「バントと併殺が少ない2番打者」として起用されることになる。

同期入団の仁志敏久と不動の1番・2番コンビ、中堅の松井、右翼高橋由伸と不動の外野陣を形成することになる。「左打ちのため左投手が苦手」とされ、左投手が先発する日やワンポイント投手に交替すると「2番・左翼」は右打者が出場していた(実際は通算で.270以上打っており、元木大介などとの兼ね合いと思われる)。そのため2001年まで高打率を残し1年間1軍ベンチにレギュラーとして留まりながら規定打席に到達しない年を複数回経験している。

2002年、背番号を9に変更。就任した原辰徳新監督の構想で1番打者に抜擢され、最多安打のタイトルを獲得する。

2003年はメジャーリーグ移籍した松井の穴を埋める中堅手の守備練習や故障などが重なり.240、14本塁打の成績に終わった。

2004年に就任した堀内恒夫監督は中堅手に当時成長著しかった斉藤宜之の起用を明言、元々外野手としての守備力に難があった清水に一塁手の練習を提案された。斉藤の故障などもありスタメン復帰したものの、2005年にはセンターラインの強化にゲーブ・キャプラー外野手を獲得、清水は一塁手の練習に本格的に取り組むことになるが、選手層の厚さから代打に回される。キャプラーは打撃はもとより守備にも精彩を欠き、4月後半にはキャプラーと左翼を併用され5月には定位置に復帰している。

2006年、原辰徳が監督に復帰。前年のシーズン途中より台頭した矢野謙次・鈴木尚広、シーズン途中に移籍してきた木村拓也・小関竜也などとの外野のポジション争いが熾烈を極めていたが、監督は「清水・由伸(高橋由伸)は格が違う」と発言、左翼のスタメンを確約される。秋季キャンプで広岡達朗の指導で課題のスローイングの修正に取り組み、万全の体制でシーズンを開幕したかに思われたが、持ち味である打撃が低迷し続け、打率2割近辺を上下するほどの打撃不振から抜け出せなくなってしまう。

7月26日にはプロ入り11年目にして初めての2軍での調整試合を経験、再昇格後はセンターやライトでの出場も多くなる。 .216、6本塁打という過去最低の打撃成績となり、大幅減俸を受け入れる。生え抜き野手最年長であった仁志の移籍により、当時の生え抜き野手最年長となった。

2006年に規定打席に到達した外野手はゼロとなり、高橋由と清水は出場機会を確保したものの、矢野や鈴木の台頭、谷佳知の移籍もあり、この年後半以降は不動のレギュラーを剥奪される。

2007年は豊田清と一足早く自主トレに入り、鈴木や移籍した谷とともに「1番候補の一人」として春季キャンプを迎えた。だが怪我により開幕1軍からは外れ、前半戦は不調に苦しみ、1軍と2軍を往復。後半戦に入り徐々に調子を上げていき、スタメンでの出場機会も増えていった。特に9月以降は目覚しい活躍をみせ、少ない打席数ながらシーズン打率.339を挙げた。また、低めだった出塁率もこの年は4割を超えた。

10月2日のヤクルト戦ではチームを5年ぶりのリーグ優勝を導く内野安打を放ち、中日とのクライマックスシリーズでも7番センターでスタメン出場、左腕小笠原孝からヒットを放ちチャンスメイク。第2戦・第3戦は高橋由伸の腰痛による離脱で1番に入り、全3戦にスタメン出場した。

2008年のオープン戦は再び感覚の狂いに苦しみ、また隠善智也の台頭などもあり開幕2軍スタートとなった。ファームで結果を出したことや、1軍での故障者が続出したこともあり5月1日に1軍登録され、その日のカープ戦(東京)の6回裏に代打で登場。08年シーズン初打席でレフト前ヒットを放った。その後も主に代打要員として起用されるが、打率は1割台に低迷するなど不振から抜け出せず、後半戦は一軍出場が無かった。本塁打が0に終わったシーズンは入団後初めてであった。

11月15日、金銭トレードで埼玉西武ライオンズに移籍。清水自ら志願してのトレードだった。移籍後の翌年1月8日、登録名を清水崇行に変更することを発表した。

2009年10月4日に現役を引退することが明らかになり、10月13日付で任意引退選手公示された。

プレースタイル
プロ入り11年で2割9分以上を8回記録し、安定した打率を残していた(2006年以降、打撃不振から抜け出せていないため、過去形、現在形で語られるプレースタイルがある)。

独特の足を高く上げた構えからのダウンスイングは、日本球界トップレベルのスイングスピードで外野席の観客が逃げてしまうほどのライナー性のホームランを放つほどだった。甘い球を逃さず早打ちするスタイルだったため四球は少なく出塁率も特筆するほど高くはなかったが、近年はバッティングスタイルや起用法の変化に伴いボールを長く見極めている。俊足で二塁打が多く、三振・併殺打も少ないため、プロ入り4年目以降は一貫して2番打者か1番打者を打っていた。
一方、打撃とは対照的に守備力の評価は低く、弱肩を拡大解釈され守備力を酷評されることもあった。ポジショニングやクッションボールの処理なども良いほうではないが、脚力が高いため単純な守備範囲は広く、刺殺数の実績も残している。大学時代は右翼手で、何度か一塁も守っており、プロ入り直後や2005年など何度か一塁手の守備も本格的に練習しているが、鈴木尚典などと同様スローイングに問題があり、チームにもスラッガーが多いためスタメン起用は実現していない。

2006年、スローイングの矯正に取り組んで以降、チーム事情もあり中堅手や右翼手も守っているが、この年以降極度の打撃不振を経験。2007年前半は故障や不振などによるファームでの再調整が長く続いたが後半戦には中堅手として復活し打率.339をマーク。2008年オープン戦は不調で開幕を2軍で迎え、故障者続出により打撃不振のまま緊急1軍昇格したものの7月末に再び2軍落ちし、その後はファームで左翼手・右翼手として出場した。

2007年の優勝を決定付ける1打などフォアザチームのバッティングを知る選手でもあり、代打の切り札としての復活が期待され、試行錯誤が続いていた。

上半身が主導する精緻なミート力と、下半身の粘り強さが一体となり、鋭いスイングで打球に回転を与える打撃フォームは、しばし野球少年や高校球児の手本のひとつともされていた。(オリックス岡田貴弘は、高校時代に清水の打撃フォームを参考にしていた)。
かってライト前に抜けていた痛烈な当たりがセカンドゴロ止まりになるなどの打撃不振の原因は、一般には加齢による下半身の衰えや、スイングや右腕の「絞め」のブレなどを指摘するものが多い[要出典] 。東京ドームの人工芝が足の長いものに変えられ、打球が死に易くなっている点も関係している。
また、2006年に行ったスローイング矯正により前年まで打撃に特化していた身体のバランス(骨盤・体幹などの微妙なバランス感覚)が変化し、打撃メカニズムそのものが変わってしまったという説もある[要出典] 。2007年後半は野手と野手の隙間に小フライを落とす打撃もしていた。
2009年のシーズンからは新天地埼玉西武ライオンズにて、指名打者を含め外野手並びに一塁手のポジションで、これまで培ってきた経験を生かした活躍が期待されていた。

エピソード
子供の頃から「エースで4番」で、中学時代にはリトルリーグ選抜チームでハワイに遠征したような野球エリートだった(そのとき清水が3番、石井一久(西武)が4番を打っていたという)。浦和学院高時代は「不文律」で3年まで代打だった。
高い打撃センスから、入団1年目から多くのOBから「いずれ首位打者をとる」と言われ続けていた。通算打率が3割に近く、首位打者を獲ったことは無いが、代わりに最多安打のタイトルを獲得している。
一時「親父ギャグ」に凝っていた。今も「コンドル打法(コンコルド打法)」などの名言が残っている。
2005年ロッテ戦でホームランを打ち、雄たけびを上げ、ガッツポーズをすることがあったが、これが投手を侮辱していると誤解され、マット・フランコ選手から突き飛ばされることがあった。清水はその時なぜフランコが怒っているのかわからず、呆然としていた。
ちなみに清水は、この時の打席で相手投手の藤田宗一からブラッシュボールのような危険な球を立て続けに投げられていた。
安打一本につき、1万円を盲導犬育成のために募金している。2006年は「キリが良いから」と、100万円を寄付した。
因果関係は不明だが、過去外野守備に真剣に取り組んだ年(松井秀喜流出で中堅手コンバートが検討された2003年、スローイング矯正に取り組み外野3ポジションを守った2006年)は極端な打撃不振に陥っている。
巨人在籍当時は知名度と起用法ゆえか、毎年のように「清水トレード説」が新聞を賑わせていた。2008年5月1日、昇格した清水を見た山本浩二(日本テレビ野球中継解説者)は、「(左の代打の層の薄さを考えれば)出るのが遅すぎる。」とコメントしているが、このように解説者ですら清水が起用されなかった理由(前述のように打撃不振に陥っていた)を把握せずにその起用法を批判することが度々見られた。
自分を差し置いて成績が低迷する選手が使われ続けることや、実績の劣る若手が優先起用されることなどに対して、一貫して「いつか自分が必要な時がくるので、それまでは我慢です」とコメントし続けていた。しかし、2007年シーズンオフにビビる大木のラジオ番組に出演した際には、「プロ野球選手として必要とされて、望まれてプレーしたいと考える時期もあった」「自分の力を証明する場が無いことで選手としての寿命が短くなる」など自らの出場機会の少なさを嘆く場面も見られた。そのような思いが積もり積もった結果、2008年シーズンオフのトレード志願及び移籍に繋がった一つの要因となっている。
西武に移ったものの、本人の強い希望で、登場曲は変わらず、ペット・ショップ・ボーイズの「Go West」を演奏している。
西城秀樹が清水の熱烈なファンであると2009年に突然公表した。

背番号
35(1996年 - 2001年)
9(2002年 - 2008年)
4(2009年)

タイトル・表彰
最多安打:1回(2002年)
ベストナイン:1回(2002年)

個人記録

初記録
初出場:1996年4月6日、対阪神タイガース2回戦(東京ドーム)
8回裏に代打で出場、川尻哲郎から左飛
初先発出場:1996年4月14日、対横浜ベイスターズ3回戦(横浜スタジアム)
6番・左翼手として先発出場
初安打:同上、7回表に島田直也から中前安打
初本塁打・初打点:1996年4月23日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)
7回表に 加藤伸一から代打本塁打
初盗塁:1996年5月16日、対横浜ベイスターズ8回戦(横浜スタジアム)

節目の記録
1000本安打:2004年5月5日、対横浜ベイスターズ6回戦(横浜スタジアム)
4回表に三浦大輔から左前安打 ※史上218人目
100本塁打:2004年5月29日、対横浜ベイスターズ9回戦(東京ドーム)
5回裏に門倉健からソロ本塁打 ※史上232人目
1000試合:2004年6月5日、対ヤクルトスワローズ10回戦(明治神宮野球場)
2番・左翼手として先発出場 ※史上394人目

その他の記録
オールスターゲーム選出:2回(1998年、2002年)
シーズン安打:191本(読売ジャイアンツ球団記録、歴代10位) 
ナゴヤ球場最後の本塁打
1996年10月6日、対中日ドラゴンズ26回戦、8回表に遠藤政隆から
セ・リーグ通算40,000号本塁打
2005年6月2日、対北海道日本ハムファイターズ6回戦(札幌ドーム)、6回表に金村曉から
規定打席到達で併殺打0
2000年に達成。史上10人目。

登場曲
ペット・ショップ・ボーイズ「Go West」

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