SEO対策:プロ野球SEO対策:野球選手SEO対策:セリーグSEO対策:タイガースSEO対策:阪神
FC2ブログ
ブログ更新者⇒ドカント
-阪神タイガース最高 ただの野球好き[専ら観戦]です。
基本タイガースファンですが全体的に好きなんでどんな話&ネタでもドンドンコメントetcよろしくです。
mixitwitter

帆足和幸

帆足 和幸(ほあし かずゆき、1979年7月15日 - )
埼玉西武ライオンズ所属のプロ野球選手(投手)。


人物・プレイスタイル
スリークォーターの変則的なフォームからくりだされる最速146km/hのクセのある直球に、代名詞とも呼べるキレのあるパームボール、スライダー、カーブ、チェンジアップ、シュートなど多彩な変化球を使い、打者の低めに集める制球力や、思い切りのよいインコース攻め、ランナーを背負ってからの粘り強い投球などが持ち味である。パームボールは、ほとんど球威が無く、握りや腕の振りで判別をつけられる場合があることから、打者の低めに決まれば有効で、高めに浮くと長打につながる恐れがある変化球であるが、そのパームボールが最大の特徴であり、投球における生命線としている。 ピンチに強く、打者の内角を強気に攻めることから、渡辺監督からは“チーム1の強心臓”と言われている[要出典] 。 2007年度より選手会副会長を務めている。

性格はとても明るく、平尾博嗣からは「誰に対しても垣根が無くて人が好きで、だから僕に絡んでくる。本当に面白いヤツ。クールなイメージの他の投手陣とはちょっと違うタイプ」と評されている。その性格もあって現在のライオンズの若手投手陣を牽引している。

涌井秀章とはとても仲がよく、筋トレやキャッチボールなどをいつも共にし、シーズン中には「今何勝?」「最近勝ってないよね。」などジョークも言い合い、互いに勝ち星を競い合っている。インタビューにも、互いの名前をたびたび口にする。

プロ入り前からずっと憧れている選手は、同じ左投げであるニューヨーク・メッツの高橋建であり、投球フォームのビデオを取り寄せるなどして、自身の参考にもしている。


経歴
福岡県小郡市出身。少年野球・立石ファイターズ、立石中学校を経て、福岡県立三井高等学校へ入学。2年生の時に筑後地区大会で三井高校を初の優勝に導く。その後は九州三菱自動車に進み、左腕エースとして台頭した。2000年の都市対抗野球ではチームは九州予選で敗れたが、三菱重工長崎に補強され2回戦のホンダ鈴鹿戦に登板した(当時の背番号は47)。同年秋に3位でドラフト指名を受け西武ライオンズに入団。

プロ入り後
2001年3月27日のオリックス戦で初登板初勝利を挙げる。

2003年、先発とリリーフで起用され、4勝を挙げる。プロ初セーブを記録した。

2004年、前半戦は2軍と行ったり来たりしたが、後半戦は、アテネ五輪で松坂大輔が抜け、チームの柱とふんだ西口文也が故障で離脱したりした中、ローテーションの一角を担った。この年は10勝3敗と初の二桁勝利を挙げ、プレーオフと日本シリーズにも登板した。この年のシーズンの終わりごろから、ライオンズに先発をこなせる左投手がいないというチーム状況もあり、10勝を挙げた帆足は“チームの左腕エース”と呼ばれはじめた。

2005年は松坂、西口と共に先発3本柱の一角としてローテーションに定着し、規定投球回に到達。7月18日に初完封も記録し、2年連続となる2桁勝利、自己最高の13勝(8敗)を挙げた。松坂にも「帆足さんは左のエース」と言わしめるほどの活躍で、左腕エースの地位を不動のものとしたシーズンであった。オールスターゲームに初出場を果たしている。以前からチームの先輩左腕である工藤公康と同じ背番号47を希望しており、シーズン終了後、細川亨から47番を譲り受けることが決まった。

2006年、左肩痛の影響で5月に登録抹消。2週間後に一軍復帰するも7月26日に再び登録抹消され、この年は結局5勝で終わってしまい、3年やってナンボと言われ続けていた首脳陣の期待を大きく裏切ってしまう形となるシーズンであった。

2007年、西武ライオンズの選手会副会長に就任したが、前年の怪我の影響で開幕2軍でスタート。7月1日の楽天戦で7回途中1失点の好投でちょうど1年ぶりとなる勝利を挙げた。その後もローテーションを守り続けたが、味方の援護に恵まれない試合が多く、2勝7敗に終わり、5年連続で防御率4点台を記録した。帆足は比較的打線の援護にも恵まれ、常勝チームでもあるため勝ち運があるというイメージだったが、この年は全くその逆で、復活勝利後に勝つことのできた試合は散発2安打で完封した楽天戦の試合のみであった。

2008年、春季キャンプでチェンジアップを習得。開幕当初こそローテーション6番目という扱いであったが、試合を壊すことなく安定したピッチングを続け、5月4日のロッテ戦、5月11日のオリックス戦で西武左腕では1992年の工藤公康以来となる2試合連続完封勝利や、開幕6連勝を成し遂げるなど、目覚ましい活躍を見せた。FAで加入した石井一久に負けない活躍で、再び左腕エースの座をたぐり寄せ、渡辺久信監督や小野和義投手コーチから絶大なる信頼を勝ち取った。交流戦に入りチームは失速した中でも、交流戦ではチーム最多イニングを投げ、唯一の防御率2点台と、チームを引っ張った。

北京オリンピック野球日本代表の追加候補に、G.G.佐藤らと共に指名され、6月20日に発表された最終代表候補からは一度外れたものの、怪我で同じく漏れていた中日ドラゴンズ・森野将彦らと共に選ぶ可能性を示唆され、事実上最後まで代表候補であった。左投手の補強、帆足はリリーフ経験もある、ということなどが理由として挙げられる。

オールスターゲームに中島裕之と共に監督推薦で自身2度目の出場を果たした。8月10日の日本ハム戦で3年ぶり3度目となる二桁勝利をあげた。後半戦は不運な負けも多く勝ちあぐねた印象だが、先発登板数はチーム最多、最終的には11勝を挙げておりチーム随一の安定感を誇った。また、自己最多の174回2/3を投げ、同リーグ4位となる防御率2.63の好成績で、2年間の怪我や不振から復活した年となった。また、完封勝利数3は両リーグを通じて単独最多である。被安打も投球回数を下回り、174回2/3で四球も38個と少なかった。

2009年、千葉ロッテマリーンズとの開幕カードの2試合目に今季初登板。前年は同球団に対し3勝0敗、防御率2.05と好相性を誇ったが、5回途中6失点と打ち込まれた。その後も試合をつくりながらも打線の援護にめぐまれず、守備に足を引っ張られる試合もしばしばみられた。6試合目の登板となる対ソフトバンクホークスで、惜しくも完封を逃すも9回途中無四球1失点の好投でシーズン初勝利をあげ、地元福岡での初勝利、背番号と同じ通算47勝目を同時に達成した。なお、地元福岡での初勝利は実に13度目の登板での達成となり、渡辺監督からは、“親不孝者”と笑われた。9月25日には5試合連続完投を記録し、9月の月間成績は4試合4完投4勝0敗防御率0.50(無四球完封2回・1失点完投2回)で、自身初の月間MVPに選出された。10月3日、負ければチームのBクラス確定という試合の楽天戦で登板、過去9勝無敗と相性のいい楽天戦であり、さらにこの日まで規定投球回に達している投手の中で被本塁打が最小の7であったが、この試合だけで3被弾を記録し8失点の乱調で敗戦投手になり、自身の2ケタ勝利にもあと一歩届かず、9勝6敗、防御率3.59でシーズンを終えた。最終的に、被本塁打はダルビッシュの9に次ぐリーグ2位の少なさで、5完投はリーグ6位、無四球試合はリーグトップを記録するなど、随所に活躍の跡が見られた。
同年シーズンオフ、工藤公康の西武復帰が決まったのを機に、一時は自身が付けている背番号47を返上する意向を見せたが、工藤が背番号47を固辞し「55」を選択したため、2010年以降も引き続き背番号47を着用することになった。

タイトル・表彰
オールスターゲーム出場:2回(2005年、2008年)
月間MVP:1回(2009年9月)

個人記録
初登板・初勝利:2001年3月27日、対オリックス・ブルーウェーブ1回戦(グリーンスタジアム神戸)、1回裏に救援登板
初奪三振:同上、3回裏に塩崎真から
初セーブ:2003年9月1日、対大阪近鉄バファローズ24回戦(大阪ドーム)
初完投勝利:2004年7月25日、対大阪近鉄バファローズ19戦(西武ドーム)
初完封勝利:2005年7月18日、対オリックス・バファローズ12回戦(インボイスSEIBUドーム)
初ホールド:2006年7月16日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(千葉マリンスタジアム)
最多完封勝利(両リーグを通じて)(2008年)
最多無四球試合(2009年)

背番号
48(2001年 - 2002年)
34(2003年 - 2005年)
47(2006年 - )

>>もっと面白い球界裏情報や面白ブログはここでチェック



ランキング参加中ですクリックのご協力お願いします
にほんブログ村 野球ブログ 阪神タイガースへ野球愛ランキング

COMMENT

管理者にだけ表示を許可する

TRACKBACK

トラックバックURL:

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

« | HOME |  »

cork_board template Designed by ARCSIN WEB TEMPLATES
TMP Customized by I'm looking for.