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マーク・クルーン

マーク・ジェーソン・クルーン(Marc Jason Kroon, 1973年4月2日 - )
読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(投手)。



経歴
アメリカ時代
アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区出身。1991年にドラフト2巡目72位指名でニューヨーク・メッツに入団。
速球投手として知られ、プロ5年目のサンディエゴ・パドレス傘下2Aメンフィス所属時には101マイル/h(163km/h)を記録した。その後もしばしば160km/hを記録したものの、制球が悪く、また肘を壊しメスを入れたことで、メジャーから声がかからず、日本に働き場を求める。
横浜時代
2005年は牛島和彦監督の指導で投球フォームを変える。重心を軸足に残して投げるようにしたもので、この改造により長年の課題であったコントロールが改善される。当初はセットアッパーとして起用されたが、佐々木主浩が戦線を離脱したのをきっかけに抑えを務めるようになった。来日当初は佐々木からよく面倒を見てもらっていたそうで、自身がマイナーリーグに所属していた頃にメジャーの舞台で活躍していた佐々木を尊敬し、「ササキサン」と敬称付きで呼んでいる。「僕はササキサンが帰ってくるまでストッパーを頑張るだけさ!」と言うのがこのころの口癖であった。

2006年はクローザーに定着。しかし9月7日の下関球場で行われていた広島戦で左臀部を負傷、12日に登録抹消された。これは来日2年目で初めてのことである。その負傷明けの2006年9月20日にイースタン・リーグの対ロッテ戦で登板、岸本秀樹→クルーン→松家卓弘→岡本直也のリレーでノーヒットノーランを記録している。

2007年はチームの復調もあって開幕から好調をキープ。内転筋痛や股関節痛などを抱えてシーズン終盤は息切れしたものの3勝1敗31セーブの好成績を収めてチームに貢献。同年シーズン、横浜はクルーンが登板した試合で39勝3敗1分と好成績を挙げた。シーズン最終登板となった10月8日の対東京ヤクルトスワローズ23回戦(横浜スタジアム)では161kmをマークするなど圧巻の投球を見せ、試合後のヒーローインタビューでは「来年もベイスターズのユニフォームを着てプレーしたい」と涙ぐみながら語った。その後契約交渉において「2009年限りで引退」と宣言し、横浜の顔・クローザーとして年俸4億、2年契約などを要求。しかし、球団が対抗してクルーンの肘の故障(遊離軟骨)をスポーツニッポン紙にリークし低年俸を要求するなど小競り合いが泥沼化し、横浜退団が決定的となった。11月30日付で自由契約が公示されると、12月4日にはホームページに東京ドームの写真が掲載され、この時点で横浜退団・巨人入団が決定的となった。12月5日、読売ジャイアンツと契約したことを発表。契約期間は1年間で球団側が2年間の延長を選択できるオプションを持つ。契約金は5000万円で年俸は3億円(金額はすべて推定)。背番号は横浜時代と同じ42となった。

巨人時代
2008年は先発復帰する上原浩治に代わって、クローザーを務める。4月3日の対中日戦(東京ドーム)で巨人のクローザーとして初セーブを挙げる。この試合は、巨人の2008年公式戦初勝利の試合であった。4月27日の対阪神戦(甲子園球場)で9回裏に1点リードで登板。1点を失い、さらに満塁の場面で打者新井貴浩に対し押し出し四球を出し、サヨナラ負けを喫してしまう。この際四球の判定をめぐり審判の友寄正人に暴言を吐き、試合終了後に退場処分を受ける。9月13日の対ヤクルト戦では球団新記録となる33セーブ目を挙げた。優勝の決定した10月10日、対ヤクルト戦(神宮球場)では9回裏2アウトから登板し、青木宣親を2球でセカンドゴロにしとめ優勝決定戦を締めくくった。このシーズンは41セーブをあげ、来日4シーズン目にして初の最多セーブ投手のタイトルを獲得、移籍1年目で優勝に貢献した。巨人からの最多セーブ投手輩出は1993年の石毛博史以来15年ぶりである。

2009年はやや故障に苦しみ何度か登録抹消を経験するなどしたものの、46試合に登板し1勝3敗27セーブ防御率1.26とチームの優勝に貢献した。被本塁打は1本、自責点は7に抑えた。2009年9月23日東京ドームでの中日ドラゴンズ戦で9回裏2死、走者1塁の場面で代打立浪和義に鋭い打球を放たれたが三塁手古城茂幸が好捕しゲームセット、巨人の3年連続セリーグチャンピオン決定、自身は2年連続胴上げ投手となった。

プレースタイル
球速162km/hの日本プロ野球記録を持つ。平常時の球速も150km/h台中盤から後半を記録する速球投手である。また球威もあり、本拠地が狭い横浜スタジアム及び東京ドームにもかかわらず被本塁打が少ない。伊良部秀輝、山口和男、五十嵐亮太ら従来の最速記録保持者は、背筋力などの強靭な筋力を生かして速球を投げ込む特徴があったが、彼の場合は188cmの長身から長い手足を素早く振ることで速球を投げ込む、日本球界では珍しいタイプの投手である(踏み出す左足が突っ立ったままの状態で投げることから、投球フォームはかつて阪急の豪速球投手だった山口高志と似通った部分がある)。

最速151km/hに届く落差も大きく無回転で揺れるスプリッターは魔球とも言われ、通算奪三振率(05'~07’)は藤川球児をも超える。ストレートは球筋が素直な球のため、調子の良い日でもまれに打たれることがあることから、シュート、ツーシームやカットボールも試している。

救援の成功失敗が自らの調子に直結し、失敗時は制球の乱れから成す術無く崩れる投手である。2008年は常勝を課せられる巨人に移籍したこともあり、藤川球児や上原浩治らの終始安定した投球の内容と比較された評価も多くなっているが、1年を通した救援成功率・与四死球率などの数値は彼らに匹敵する高い数値を残している。また荒れ球投手である上落差の大きいフォークを決め球としているため暴投やワンバウンドも多い。

やや神経質な性格であり、得点圏までランナーを出したり、俊足の選手を出してしまったりするとランナーを気にしすぎてしまい結果救援に失敗するという場面も見受けられる。

人物
背番号42に関して本人は「日本では不吉で縁起の悪い番号とされていることは知っているが、自分は4月2日生まれであること、また黒人選手の元祖であるジャッキー・ロビンソンの背番号であることから、この番号を大変気に入っている。特にアメリカでは新たにもう42はつける事ができない(全球団共通の永久欠番に指定された)ため、日本でこの番号をつけさせてもらえるのは大変光栄だ」とコメントしている。

2009年9月1日、登板前にユニフォームを忘れ、香田勲男コーチの背番号72のユニフォームを付けて出場した。
横浜スタジアムでの試合時は徒歩でスタジアム入りするため、横浜・関内駅周辺に出没する事でも有名。
かなりの偏食で、マクドナルドのハンバーガーが好物。食事はステーキ、スパゲティ、ピザのローテーションだとインタビューで語っていた。また日本食はほとんど食べられないが、牛丼だけは例外である。巨人宮崎キャンプのテーブルにも、毎日延々とスパゲティミートソースとステーキが並べられていたという。また、横浜スタジアムの関係者食堂には「クルーン・ミートソース」という通常の半分量にした専用メニューのミートソーススパゲティがあり、巨人移籍後も試合で横浜スタジアムに来る度に食べているという。
サービス精神旺盛で、横浜スタジアムでの試合前には内野客席からファンが求めるサインに快く応じる姿がよく目撃される。クルーン本人の弁によれば、少年時代にヤンキースの選手にサインをねだったが断られた経験があり、その時「僕がプロ野球選手になったら子供たちにたくさんサインをしてあげよう」と誓ったためだという。余談だがアルファベットで書く通常のサインの他に、漢字で「狂雲(くるうん)」と書くサインもあり、本人も気に入っている様子である。
ジャパニーズネームは「タカユキ」。これは、元チームメイトで横浜ベイスターズの内川聖一がつけた。
2005年シーズンの登場テーマ曲にはダディー・ヤンキーのレゲトンミュージックの"Gasolina"を使用しており(選曲はスタジアムDJの栗原治久)、この曲が売れ始めた頃に日本最速タイ記録を更新して注目されるようになったことから、ある意味では日本のレゲトンブームのきっかけとなった人物でもある。実際ダディー・ヤンキーと面識がある。

日本語もある程度しゃべることができ、ダチョウ倶楽部・上島竜兵の持ちギャグで、帽子をとって回転させて「くるりんぱ」と言うギャグをすることがある。またプライベートでも日本人選手との親交も多いという。
北海道日本ハムファイターズのSHINJOが着ていた襟付きアンダーシャツの所持者である。珍しい野球グッズを集めるのが趣味。
自分のグローブを他人に触れられるのを極端に嫌う。
焼肉の際には代理人が「彼専用の網を用意した方がいい」と言うほどの「焼肉奉行」で、自分の段取り通りにならないと気が済まないらしい。
右肩には漢字の「心」を象ったタトゥーが彫られており、テレビ番組でも披露している。
虫が嫌い。おもちゃのセミを見ても嫌がるほど。
アメリカ時代から新世紀エヴァンゲリオンのファンであり、「これほど自己のあり方を考えさせるアニメはアメリカにも無い。」と発言している。

速球に関する記録
2005年
5月11日のvs楽天戦(フルキャストスタジアム宮城)で、9回2アウトから登板、高須洋介への1球目に日本最速タイ記録となる158km/hを記録。続く2球目に新記録となる159km/hを記録した。

7月19日のvs阪神戦(阪神甲子園球場)で、延長12回1アウトからの赤星への6球目に自身の記録を更新する161km/hをマーク(結果はファール)、続く鳥谷敬の初球に160km/hを記録し、日本球界で初めて160km/hの大台に乗った。赤星は「次に来た150キロのストレートがチェンジアップのように見えた」とコメントしている。
8月3日、横浜スタジアムにおける阪神戦でも9回2アウトから登板し、金本知憲に対し160km/hを2回連続で記録した。
8月11日のvs巨人戦(東京ドーム)、9回1死から堀田一郎への3球目に162km/hを計測したが、ピッチャーライナーの打球速度が誤って表示されたとして記録更新は認められなかった。この日の試合後にクルーンは「162km/hはあんなに遅いものなのか」と報道陣に言った(東京ドームではピッチャーライナーの打球速度が誤って表示されることが他の球場に比べて多い)。
2006年
7月21日、オールスター第1戦で史上最速となる159km/hを記録(ロッテの里崎智也に痛打される)。

7月23日、オールスター第2戦で9回裏の3人目の打者・川崎宗則に対する3球目に160km/hを記録し、オールスター記録を更新(結果は死球)。前々日の記録を塗り替える。そして4人目打者・中島裕之に対する3球目にも160km/hを記録し空振り三振を奪った。
2008年
4月8日のvs横浜戦(横浜スタジアム)で延長12回裏に登板。巨人入り後初めての横浜スタジアムで、内川聖一への5球目に160km/hを記録するなど3者凡退とした。
4月13日のvsヤクルト戦(東京ドーム)で9回表に登板。川端慎吾に対し、東京ドーム初の160km/hを記録した。
5月26日のvs日本ハム戦(東京ドーム)で来日通算100セーブを挙げる。この日は奇しくも、同僚であるバーンサイドの来日初登板初勝利の日でもあり、2つの祝事が起こった日となった。
6月1日のvsソフトバンク戦(ヤフードーム)で10回裏に登板。 松田宣浩に対し、現在最速となる162km/hを記録した。
8月1日のオールスターゲームで161km/hを記録、オールスターゲームでの最高記録になった。しかし日高剛によってホームランとなり、同時に被本塁打最高球速投手にもなった。
背番号
42 (2005年 - )
タイトル・表彰
セントラル・リーグ最多セーブ投手(2008年)
第1回「速玉賞」受賞(熊野速玉大社による)
JA全農Go・Go賞2007年6月救援賞
NPB記録
初登板:2005年4月2日、対中日ドラゴンズ2回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に救援登板、1回1失点
初奪三振:同上、8回裏にアレックス・オチョアから
初ホールド:2005年4月6日、対読売ジャイアンツ2回戦(横浜スタジアム)
初勝利:2005年4月19日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、10回裏から救援登板、2回無失点
初セーブ:2005年5月3日、対読売ジャイアンツ4回戦(東京ドーム)
100セーブ:2008年5月26日、対北海道日本ハムファイターズ2回戦(東京ドーム) ※史上18人目
全12球団からのセーブ:2008年4月9日、対横浜ベイスターズ2回戦で達成、江夏豊に次ぐプロ野球史上2人目。
150セーブ:2009年9月20日、対東京ヤクルトスワローズ21回戦(明治神宮球場) ※史上8人目、250試合の達成は史上最速
オールスターゲーム出場:4回(2005年-2008年)
2005年第2戦、2006年第1戦、2006年第2戦と3試合連続セーブを記録し、当時の横浜ベイスターズの監督であった牛島和彦が持つオールスター記録に並ぶ。



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