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田中賢介

田中 賢介(たなか けんすけ、1981年5月20日 - )
北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(内野手)。2009年から日本ハム選手会会長を務める。
日本ハムのレギュラー二塁手。
高校時代~入団時は遊撃手だった。二塁手としてレギュラー定着前は遊撃手・三塁手・左翼手もこなしていた。


プロ入り前
小学校2年で野球を始め、中学から硬式野球を始める。東福岡高校に進学、村田修一や大野隆治とチームメイトとなる。2年時の1998年に第70回選抜高等学校野球大会に出場し、3回戦・横浜高校戦で松坂大輔に2安打完封され敗退するが、田中は試合の先頭打者として1安打を放った。

翌1999年、プロ野球ドラフト会議で、2位指名で日本ハム・中日ドラゴンズ・西武ライオンズの3球団で競合の末、ドラフト直前に就任した大島康徳監督が引き当て日本ハムに入団。かつて白井一幸や落合博満や秦真司の付けていた背番号3を貰う。

プロ入り後
入団時から打撃センスは高く評価されていたものの、守備が課題で一軍に定着出来ずにいた。1年目(2000年)から二軍で打率.313を記録し、9月に一軍に昇格しプロ初安打を記録。2001年は開幕一軍に入り、開幕戦で9回に代打でプロ初本塁打を放つ。三塁手のレギュラー片岡篤史が故障したため、翌日の開幕2戦目にプロ初先発起用され、3月31日~4月6日は6試合連続で三番打者を任されたが、打率を残せず、一軍定着は出来なかった。2002年、2003年は一軍と二軍を行き来する状況が続く。

2004年に一軍で一時3割台の高打率をキープするも、6月に死球による右すね骨折でリタイア。21試合の出場に終わる。2005年は一軍で22試合出場に留まるが、二軍で.307、16本塁打の好成績を残し、9月28日の一軍最終戦(千葉ロッテマリーンズ戦)で延長11回に初のサヨナラ本塁打を放った。秋季キャンプ後にはトレイ・ヒルマン監督(当時)に「来季、最も飛躍を期待」として唯一名前を挙げられた。

2006年は開幕一軍に入り、課題だった守備が改善され、主に代走・守備固めで起用される。この年の日本ハムは当初、新外国人のホセ・マシーアスを二塁手として予定していたが結果を残せなかったため、マシーアスや木元邦之、川島慶三らとのポジション争いを演じたのち賢介が5月上旬から二塁手に、同月下旬から二番打者としてレギュラーに定着。自身初の規定打席到達を果たし、打率3割、リーグ最多犠打(34個)、21盗塁を達成、日本シリーズでも最多記録に並ぶ6犠打(5試合制では史上最多)を記録して日本一に貢献した。二塁手としてゴールデングラブ賞、ベストナインを受賞。またオフに2004年の骨折の際に右足に埋め込んだプレートの除去手術をした。

2007年は開幕から打撃不振に苦しみ、最終的に打率.255と前年から大きく率を落とすが、全144試合に出場、パ・リーグ最多記録となる58犠打、盗塁も自己最多の27個を記録し、2年連続でゴールデングラブ、ベストナインを受賞した。この年限りで田中幸雄が引退し、チーム内で田中姓は1人だけになったが、スコアボードには引き続き「田中賢」と表記されている。

2008年は飛躍の年となった。拳を肩より下でかまえる独自の打撃フォームを改造し、肩より少し上で構えるようにしたところ開幕4試合で前年に並ぶ3本塁打を打った。打率3割は逃したが、自身初の2ケタ本塁打を記録。さらにはパシフィック・リーグで唯一のフルイニング出場も果たした。88試合に三番打者として起用された。第2回WBC一次候補に選ばれたが、代表には選出されなかった。

2009年前任金子誠から選手会長を引き継ぐ。前年1・2・3番の3種類の打順を経験した上で「試合の流れを作れる」と1番を希望し、森本稀哲から1番のレギュラーを奪うことを宣言し、開幕から1番を任された。4月8日のロッテ戦では自身2度目の三重殺完成に参加した。前半戦は5月16日に2試合連続猛打賞で3割に乗せ、交流戦でも打率.317と好調だったが、7月には25打席安打なしとスランプに陥り前半戦を.286で折り返した。オールスター明けから11戦連続安打と復調し再び3割に戻したものの、終盤に再度不調に陥りチーム5人目の3割打者には届かなかった。79四球でリーグ最多四球、自己最多の31盗塁をマークした。8月20日に右足首痛で2年ぶりにスタメンを外れたが全試合出場は続け、3年連続で全144試合に出場した。パ・リーグ史上最多の680打席に立ち、広瀬叔功(南海)のパ・リーグ記録676打席を実に46年ぶりに更新した。セ・パ両リーグの規定打席到達者で唯一併殺打0のままシーズンを終え、清水崇行以来9年ぶり、歴代11人目、球団初の記録を達成した。

エピソード
背番号3は小柄な2番タイプの自分には似合わないと言われることもあったが、上記のように3番を打つ夢があったので3番をつけることにしたという。
二軍時代、同い年で中学時代からの仲である鶴岡慎也が骨折した際に、「どうやったら骨折できるんだよ」とメールでからかったところ、その1週間後に自らも骨折してしまい、鶴岡が退院した直後の同じ病院の全く同じベッドに入院した。
入団からしばらくはスローイング難でなかなか一軍に定着できなかった。その不安から必要以上にポケットの中のロージンを触っていたため、いつも手が荒れていた。
イースタン・リーグ時の記録を含め、通算4本のサヨナラ本塁打を記録している。一軍では2005年9月28日のシーズン最終戦(上記、投手:薮田安彦)と2006年6月30日(東北楽天ゴールデンイーグルス戦、投手:小倉恒)の2本。
2005年頃東福岡高校の先輩で親交のあるプロレスラーの佐々木健介のテーマ曲「Take the dream like a star」で打席に入っていた。(同じケンスケ繋がりでもある)
イメージカラーがピンクであることからピンクリボン活動に取り組んでおり、2008年オフにはチャリティーイベントも実施している。
表彰

大きい文字
ベストナイン:2回(二塁手部門・2006年~2007年)
ゴールデングラブ賞:3回(二塁手部門・2006年~2008年)
記録
個人記録
初出場:2000年9月12日、対西武ライオンズ22回戦(東京ドーム) - 遊撃手として途中出場
初安打:2000年9月20日、対大阪近鉄バファローズ26回戦(東京ドーム) - 投手:門倉健
初本塁打・初打点:2001年3月24日、対大阪近鉄バファローズ1回戦(東京ドーム) - 投手:大塚晶文
初先発出場:2001年3月25日、対大阪近鉄バファローズ2回戦(東京ドーム) - 二番・三塁手
初盗塁:2002年5月4日、対福岡ダイエーホークス7回戦(東京ドーム) - 投手:ブレイディー・ラジオ、捕手:城島健司
その他記録
最多犠打
2回(2006年、2007年)。2007年のシーズン58犠打はパシフィック・リーグ最多、プロ野球歴代では1990年の川相昌弘と並び3位。
日本シリーズ最多犠打(6犠打)
2006年。5試合制ではシリーズ最多。5試合制以外も含めると最多タイ(3人目)。
規定打席以上で併殺打0
2009年。2000年の清水隆行以来、史上11人目。パ・リーグでは5人目。日本ハムの選手としては初めて。
背番号
3(2000年 - )



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