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李承ヨプ

李 承(イ・スンヨプ、1976年8月18日 - )
大韓民国出身の読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(内野手)。
愛称は韓国では「アジアの大砲」「国民的打者」「球帝」「ライオン・キング」「56発男」、
日本プロ野球移籍以降は「スンちゃん」「スン様(ヨン様ことペ・ヨンジュンになぞらえて)」。

経歴
韓国プロ野球時代
三星ライオンズ
韓国・大邱広域市出身、1995年慶北高等学校卒業後、三星ライオンズに投手として入団したが、高校時代に傷めた左肘が完治せず、当時の白仁天監督の勧めで打者に転向した。王貞治を真似た一本足打法に改造してからは、韓国プロ野球を代表するホームラン打者に成長。1997年に初の本塁打王、1999年にシーズン54本塁打の韓国記録をマーク、「ライオンキング」「国民的打者」の愛称が定着し始めたのもこの頃である。

2003年のシーズンでは、26歳10か月で通算300本塁打に到達(これは世界最年少の記録である)するなど序盤から本塁打を量産し、56本塁打を打った。アジアのプロ野球において最多記録となる56本目の本塁打は「2億ウォンの価値がある」ともされ、ファンが55号を虫取り網で取ったことからフランチャイズのテグ市民球場では虫取り網が飛ぶように売れる、李が敬遠されるとグランドにゴミが投げ入れられるなど熱狂が拡がった。しかし、55号を放ってから最終戦になるまで本塁打が出ず、李本人も「56本は難しいかもしれない」と弱音を吐いていた。だが、シーズン最終戦に劇的な56号を放った。このホームランボールは期待で満員になっていたスタンドには入らず、当時設置されていたラッキーゾーンに落ち、そこで56号記念イベントの準備をしていた関係者に拾われ、球団に寄贈された。
韓国プロ野球において在籍9年間で通算324本塁打(韓国プロ野球で通算300本塁打以上は梁赫、張鍾薫、沈正洙と李の4人しかいない)を記録し、MVP5回、本塁打王5回、打点王4回を獲得。背番号36は三星ライオンズの永久欠番。
まさに韓国球界を代表する「国民的打者」であり、韓国メディアからは「野球に関しては神の域に到達した」などとすら言われることがある。
日本時代
メジャー移籍断念と来日
2003年のシーズン中にFA権を取得し、メジャーリーグ志向を明らかにしていた。韓国マスコミではメジャーに移籍すること自体はもはや前提となっており、どこに入団するかが語られていたほどで、本人も「希望はDHのあるア・リーグ」「ニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜を2年以内にあらゆる面で越えてみせる」とインタビューで語り、さらにシーズン後の松井稼頭央とのテレビ対談などでも「わたしはすでにメジャー級」と自信のほどを語っていた。しかし、40人ロースターを確約することとなるメジャー契約を希望する球団は現れず、わずかにロサンゼルス・ドジャースがマイナー契約を提示したに過ぎなかった。これは韓国球界そのものへの評価の低さや、韓国の球場の狭さ(特に李の所属していた三星のフランチャイズであるテグ市民球場は韓国でも指折りの狭さの上に、2006年シーズンまでラッキーゾーンが存在していた)からの個人記録に対する認識、メジャーリーグが外部に求める人材(一塁しか守れないため起用法が限定されてしまう選手をわざわざリスクを犯してまで獲得することはしない)も影響していると見られている。李は「最悪の場合は日本で1年間プレーすることを考えている」とメジャー球団から好条件のオファーがない場合でもメジャーを目指すため、韓国を離れて日本移籍も示唆。結局、アメリカへの移籍を断念し、その後日本の千葉ロッテマリーンズと契約した。背番号は36。李は千葉ロッテの入団会見で日本球界を選んだことについて「2年間在籍すれば無条件でメジャーリーグ行きをバックアップするという条件に心がひかれた」と語った。韓国では活躍への期待が大きかったものの、日本の評論家は多くが「パワーはあるものの、それ以上でもそれ以下でもない打者」と評するなど冷ややかな見方が多かった。
ロッテ時代
2004年
復帰間もないボビー・バレンタイン監督の下、開幕を4番で迎える。西武ドームでの開幕戦で開幕投手であり日本球界のエース松坂大輔から初打席初安打初打点を放つなど開幕時こそは好調だったものの、間もなく縦の変化球に対応できない弱点が露呈。インコース高めで身体を起こされ、外への変化球で空振りするというパターンが確立され、日本野球への適応に苦戦。開幕からわずか1か月で韓国では経験したことのない2軍落ちとなり、2軍の浦和で調整を余儀なくされた。結局、このシーズンは来日前に目標としていた「打率.290、30本塁打、100打点」には遠く届かず、規定打席をも満たせずに打率.240・本塁打14・打点50という期待外れの成績に終わった。
2005年
オープン戦において打率.050という不振で開幕2軍スタート。しかし、昇格と同時にロッテの下位打線に定着し、このシーズンは打率.260・本塁打30・打点82と、プレーオフ進出に貢献。ホームランを放った試合は26勝4敗であった。プレーオフは7試合で16打数3安打と鳴りを潜めたが、続く日本シリーズでは、第1戦で対戦相手阪神の左腕エース井川慶から本塁打を打ち、第2戦でも本塁打を放った。第3戦ではスタメンを外れたものの、第4戦は先制本塁打を放つなどシリーズ計3本塁打を打ってロッテ31年ぶりの日本一に貢献し、優秀選手賞を受賞した(最高殊勲選手賞は今江敏晃)。続くアジアシリーズでは古巣サムスンとの対決が話題になり、第1戦では5番、決勝戦では3番と主軸を任されたものの、2戦ノーヒットに終わった。このようにシーズンを通じて調子の波が大きい、左投手に弱いとの理由で相手の先発が左投手のときはスタメンを外されるなど、ロッテ時代は最後まで固定レギュラーを任せられるには至らなかった。守備位置も李は本来一塁手だが、ロッテの一塁手には不動のレギュラー福浦和也がおり、DHや左翼手でも出場するなど守備機会は安定しなかった。2005年度をもって千葉ロッテとの2年契約は満了した。
巨人時代
2006年
ロッテに残留との合意報道も出ていたが、ロッテでの起用法に不満があり自由契約となる。1月19日に読売ジャイアンツへの入団が発表。単年契約を結び、背番号は33。下記のWBCでの活躍や、高橋由伸・小久保裕紀などの主軸が毎年のように故障に苦しんでいたということもあり、原辰徳監督は李を開幕から4番打者として起用。8月1日には日韓通算400本塁打を達成、故障者続出の中でフル出場を続け、打率.323・本塁打41・打点108と来日以降最高の成績をマークした。前年まで苦しんでいた左投手に対してもこの年は打率.338をマークするなど完全克服を印象付ける。シーズン終了後に再びメジャー移籍を目指すと思われたが、シーズン終盤に膝を痛めてしまい、オフシーズンに内視鏡手術を受け、オフをリハビリに費やすことになる。巨人の熱心な説得もあり2007年から4年総額30億円(推定年俸6億5千万円)と朝鮮日報が報じたが、ロイターは年俸2億2千万円と報じている。
2007年
背番号を25に変えてプレー。前年に手術した左膝の他に、左肩や左手親指にも炎症を起こすなど故障が多く、2軍降格や7番打者での出場も経験するなど苦しいシーズンとなった。終盤に4番に復帰したものの成績は打率.274・本塁打30・打点74に終わる。巨人は5年ぶりにリーグ優勝し、迎えたクライマックスシリーズ第2ステージでは、3試合で3安打を放つも打点は0。巨人は敗れ日本シリーズ進出はならず、同じ3安打でありながら2本が本塁打で打点5を記録した対戦相手中日の4番タイロン・ウッズとの差が際立った。シーズン中の成績不振及び左手親指付け根の手術を理由に翌年のメジャー挑戦を諦めることを決意したとされている。またこの手術(10月に実施)のために北京オリンピック野球アジア地区予選韓国代表入りを辞退した。
2008年
手術明けであったが、宮崎春季キャンプを2月半ばで早々に切り上げ、3月からの北京オリンピック野球世界最終予選に韓国代表として出場。しかし、その余波でオープン戦には2試合しか出場できず、調整の遅れが生じて開幕から14試合で打率.135・本塁打0・打点2と低迷し、4月14日には早々に登録抹消、2軍落ちとなった。北京オリンピック派遣直前の7月25日に1軍登録されたものの成績は振るわず打率.141という成績のまま、8月3日にオリンピック派遣のためにチームから離脱した。オリンピック終了後、8月28日に1軍登録されたがバーンサイドの登板予定があるため4人の1軍外国人枠(他3人はラミレス、クルーン、グライシンガー)の関係で9月4日に再び2軍落ち。9月14日に1軍登録されてからは復調して最終戦まで5番で起用され、3番小笠原、4番ラミレスとクリーンナップを組んだ。結局このシーズンは、1軍出場は45試合にとどまり、打率.248・本塁打8・打点27。巨人は阪神との最大13ゲーム差を終盤に逆転してリーグ連覇(メークレジェンド)し、迎えた中日とのクライマックスシリーズでは16打数4安打2本塁打4打点。第3戦では逆転本塁打を放つなど活躍した。しかし続く西武との日本シリーズでは一転、18打数2安打の大ブレーキで敗北の一因となってしまった。シリーズでの12三振はジャック・ハウエルが1992年に記録した16三振に次ぐ単独2位の記録で、巨人の選手としてはチーム新記録であった。その後、来日以来最低の成績に終わった今季を「野球人生で最悪の1年だった」と振り返り、翌シーズンに集中するとして2009年に開催されるWBCの韓国代表を辞退することを表明した。
2009年
前年の不振を反省してWBC出場を辞退。体調を整え、オープン戦では打率.302・本塁打8本・17打点と好調を維持した。しかし、レギュラーシーズン突入と同時に絶不調となり、アルフォンゾとの併用で右投手登板時を中心に出場となった。16本塁打を記録するもチャンスに結果が残せず、一塁の守備でもミスが目立ち登録と抹消を繰り返し、腰痛も発症して8月頭に登録抹消され、そのまま二軍に定着してシーズンを終えた。二軍において一定以上の出場試合数が必要とされるファーム日本選手権に中日の李炳圭とともに5番で先発出場したりもした。一軍成績は出場77試合、打率.229・本塁打16本・打点36点。前年と大差のない成績となった。
国際大会出場歴
約10年間に渡り、韓国代表の主軸打者として活躍している。韓国野球を世界屈指の強豪に押し上げた立役者とされ、その土壇場での一振りで試合を決める威力と勝負強さから、韓国マスコミからは「解決者」と表現されている。

1999年
日韓プロ野球スーパーゲームに韓国オールスターとして出場。また、シドニーオリンピック予選を兼ねたアジア野球選手権に出場し、日本戦で本塁打を放っている。

2000年
シドニーオリンピックに韓国代表として出場。3位決定戦の日本戦で松坂大輔から決勝タイムリーを放ち、五輪韓国代表初のメダルに貢献した。予選リーグの日本戦では松坂から本塁打を記録している。

2003年
アテネオリンピック野球予選を兼ねたアジア選手権大会でも来日し、日本戦で4打数1安打を記録している。なお、このとき韓国代表は台湾に敗れて予選敗退に終わっている。

2006年
WBC第1回大会では、一次リーグの日本戦で石井弘寿投手から逆転2ラン、二次リーグのメキシコ戦、米国戦でも先制本塁打を放つなど、4試合連発を含む5本塁打・10打点で大会最多を記録(二冠王)する大活躍で韓国代表を4強に導き、記者投票による優秀選手(ベストナイン)に一塁手として選出された。

2008年
前年末のアジア予選には出場しなかったが、北京オリンピックの世界最終予選には出場し、打率.478・本塁打2・打点12という成績で韓国代表を2大会ぶりのオリンピック出場に導いた。オリンピック本戦にも韓国代表として出場したが、シーズンの不調を引きずった形で打率1割台となり、予選最終戦ではスタメンを外されるほどの不振に陥った。しかし、準決勝の日本戦では勝ち越し本塁打、決勝のキューバ戦でも先制本塁打を放ち、韓国野球初の金メダル獲得に貢献した。

プレースタイル
一本足のフォームから強い打球を放つパワーヒッター。長打力に優れ、飛距離はしばしば150m、時に160mにも達し、ライト方向、レフト方向へと広角に打てる。そのパワーはアジア人選手では群を抜いており、松井秀喜すらもしのぐと評される。

韓国時代には目立たなかったが、来日以降は選球眼の悪さが指摘される。中軸にいるわりには四球が少なく三振がかなり多い。加えて、チャンス時に犠牲フライや内野ゴロで打点を稼ぐ器用さに欠ける(得点圏打率自体はそのシーズンの打率とさほど変わらない)。結果として日本においては打点が少なく、出塁率が低い。出塁率に関しては日本に来てからリーグ平均(規定打席を満たした選手だけではなく、すべての選手を含めた平均)を超えたことが1度しかない。中軸打者としては心許ない印象を与えている。

内角、特に高めのコースに弱く、不調の時にはストライク判定される球すら腰を引いて逃げてしまうことも多い。左投手の投げるクロスファイアも弱点。

クリーンナップの一翼を担うことが多いが、敬遠は少ない。むしろ、前打者を敬遠され勝負されることもままある。日本では1シーズンの敬遠数が0の年も少なくない。

走塁能力は高くはないが常に全力疾走をするために、併殺打は少ない。不振時にはセーフティバントを試みるような精神も持ち合わせている。また、そのバントが上手く、バントを企図した際に失敗してファウルになった事はほとんどない(そもそもの企図数も少ないが、前方に転がす事が上手い)。

ファーストの守備は悪送球を止めようとしないという悪癖や、ボールに触れない後逸(そのためエラーは記録されない)などの不満もあるものの、反面、守備範囲内に飛ぶ速いライナー性の当たりへの反応はよく、たまに巨体を飛ばしてのダイビングキャッチもする。ショートバウンドの捕球も上手い。李の守備に終始足を引っ張られるというような難点はなく、一塁守備の連続無失策でセ・リーグ記録の1225を保持している。

ロッテ在籍時には前述したチーム事情により、レフトを守ることが多かった。しかし、韓国では外野守備の経験はなかった(学生時代は投手、プロ入り後はファースト)ために守備範囲が狭く、なおかつ肩が弱いなど、外野守備への適性は見られなかった。

エピソード
慶北高校時代、韓国の4大高校野球全国大会の一つである「青龍旗大会」で優勝投手になっている。投打両方で才能を見せたため、その後プロ入りして投手として育てようとする投手コーチと打者として育てようとする打撃コーチの間で口論を呼んだ。しかし、当時監督だった白仁天は彼の打者としての才能が投手としての才能を上回ると見込んで、打者の道を進むことを勧告。その後、打者に専念させられ、ホームラン打者としての才能を開花させた過程は、奇しくも憧れだった王貞治と同じである。国際試合の際に王貞治と撮ってもらったツーショットの写真を自宅に飾っている。

韓国プロ野球在籍時代のニックネームは当時の所属チームが三星ライオンズのため、映画『ライオン・キング』にちなんで「ライオンキング」。韓国のスポーツ紙の一つである「スポーツソウル」は、勝手に「スナイパー」という別名をつけて、それを推そうと事あるたびに「スナイパー」を強調したが、他紙や一般のファンにはあまり受け入れられなかった。

1999年に行われた日韓プロ野球スーパーゲームで後に巨人でチームメイトになる上原浩治に対し三振に切って取られたものの「噂ほどの投手ではない。直球も変化球も鄭ミン台先輩の方が遥かに上!」と酷評を加えている。

来日第1号本塁打は新垣渚(ダイエー)から打った千葉マリンスタジアムでの場外弾で、駐車場に停まっていた車の窓ガラスを割ってしまった。ボビー・バレンタイン監督曰く「こんな大きなホームランは今まで見たことがない。これからはライト側に車は停めない方がいい」。千葉マリンスタジアムでライト方向の場外ホームランはこれが史上唯一である。なお、弁償代はロッテが支払っている。[要出典]

カツ丼が好物で、来日当初は毎日のように食べていた。その他、肉類が好きで韓国では「肉王」という渾名で呼ばれたこともあった。

NHKが日本での成功からメジャー入りまでを描いたドキュメントを製作する予定があったというが、現在のところ放映はされていない。

非常に日本語が堪能で、流暢に話す事ができ、リスニングもほぼ完璧である。試合中はベンチで他の選手と談笑している事も多く、ズムサタやビールかけでのインタビューの際にも披露しているが、メディアやヒーローインタビュー等の正式な場を設けたインタビューの際は韓国語のみを使う為、李が日本語に堪能な事を知るファンは少ない。公の場で韓国語のみを使用する理由は「外国人選手は通訳を介してコメントする事」という球団の方針も関わっていると思われる。ヒーローインタビューでは、李よりも日本語の発音が上手くない韓国人通訳の発音もひとつの楽しみになっている。

2004年9月21日、西武ドームでの西武ライオンズ戦で、ベニー、フランコ、李の3人が、史上初となる外国人3者連続本塁打を放った。ちなみに相手は張誌家投手で、こちらも外国人である。

2006年、阿部慎之助が不振に苦しむ李を韓国語のメッセージで励まし、それから李が不振を脱出したというエピソードがある。同年6月11日の交流戦(対ロッテ、千葉マリン)では、渡辺俊介から勝ち越し2ランを放ったが、ランナーの小関が三塁を空過したため幻となった(最終的に、この打席の記録は単打として扱われた)。

「ヨプ」の文字が表記出来ない環境があるため、ネット上の記事などでは「李承〓(〓は火へんに華)」などと記載されることが多い。また、NHKでの中継では漢字表記でなく「イ・スンヨプ」とカタカナで表記されている。

リュ・シウォンと交流があり、これが縁で2007年の東京ドーム開幕戦でリュ・シウォンは始球式を務めた。

2007年から代表チームでの25に背番号を変更した。三星時代の親しい後輩である英洙の背番号で、WBCで25番を付けたのも彼と背番号を交換したためである。ちなみに英洙は、この大会で、それまで李承の背番号だった36をつけていた。また、25番は選手として目標としている選手の1人であるバリー・ボンズの番号でもある。韓国時代に36番をつけたのは、打者に定着する時、それまで韓国プロ野球で個人通算および年間最多本塁打を記録していたハンファ・イーグルスの張鍾薫(チャン・ジョンフン)を超えろという意味で彼の背番号である35より一つ大きい36を与えられたからである。高校時代の背番号は27であった。

巨人に移籍後、打席に入る際のBGMはジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツの『I Love Rock n'Roll』を使用している。

2007年7月に、来日4シーズン目で通算100号本塁打を達成したことを記念して、韓国起亜自動車から高級車「ニューオピラス」が贈呈された。

背番号
36 (2004年 - 2005年)
33 (2006年)
25 (2007年 - )
タイトル・表彰
韓国
MVP:5回(1997年、1999年、2001-2003年)
本塁打王:5回(1997年、1999年、2001-2003年)
打点王:4回(1997年、1999年、2002-2003年)
最多安打:1回(1997年)
日本
日本シリーズ優秀選手賞:1回(2005年)
月間MVP:1回(2006年6月)
オールスターゲーム出場(2005年、2006年。いずれも監督推薦)
WBC
第1回ワールド・ベースボール・クラシックベストナイン 一塁手部門(2006年)
NPB個人記録
初出場:2004年3月27日、対西武ライオンズ1回戦(西武ドーム)、4番・指名打者として先発出場
初打席・初安打・初打点:同上、1回表に松坂大輔から適時二塁打
初本塁打:2004年4月4日、対福岡ダイエーホークス3回戦(千葉マリンスタジアム)、4回裏に新垣渚から右越2ラン
初盗塁:2004年5月5日、対オリックスブルーウェーブ8回戦(Yahoo!BBスタジアム)、2回表に二盗
100本塁打:2007年7月1日、対広島東洋カープ9回戦(広島市民球場)、2回表に青木高広から右越2ラン



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