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内藤大助

内藤 大助(ないとう だいすけ、男性、1974年8月30日 - )
日本のプロボクサー。
元第35代WBC世界フライ級王者・元日本フライ級王者・元OPBF東洋太平洋フライ級王者。
宮田ジム所属。北海道虻田郡豊浦町出身。
北海道豊浦高等学校卒。血液型O型。既婚。

愛称は「北の剛拳」、世界フライ級タイトルマッチ史上最短KO負け、ならびに日本タイトルマッチ史上最短KO勝ちの記録を持つことから「最短男」、2007年10月、当時パフォーマンスなどによる批判が強かった亀田三兄弟の二男・大毅に初黒星をつけたことで名付けられた「国民の期待」。特に「最短男」に関しては、試合時のボクサートランクスに刺繍されている。
身長164cm、リーチ174cm。現在のトレーナーは白井・具志堅スポーツジムの野木丈司。世界王座の日本選手最年長防衛記録保持している(2009年5月26日現在で34歳8か月)。



経歴
幼少期に両親が離婚。実母は民宿を営み、1977年の有珠山噴火による営業困難の中、貧しい母子家庭に育った。中学校時代はいじめが原因で胃潰瘍になるほどであったという。時期及び段級は不明だが、剣道経験あり。高校生の時はハンドボール部に所属。地元での就職に失敗し、高校卒業後に実兄を頼り就職のために上京。書店で目にしたボクシング雑誌を読み、アパート近くのボクシングジムに入門した。

来歴
1996年10月11日、プロデビュー戦を1RKO。1998年12月19日、全日本フライ級新人王決定戦で福山登に1RKO勝ちし、9勝1引分で新人王を獲得。2001年7月16日、坂田健史の持つ日本フライ級王座に挑戦し、引き分けで王座獲得ならず(大串事件を参照)。

2002年4月19日、タイでポンサックレック・シンワンチャー(タイ)のWBC世界フライ級王座に挑戦し、世界フライ級タイトルマッチ史上最短の1R34秒KO負け。しかし、復帰戦でKO勝ちすると、その後も菊井徹平を下すなど順調に勝ち進みランキングを上昇させる(第1戦参照)。

日本王座獲得
2004年6月6日、中野博の日本フライ級王座に挑戦。内藤は中野から2度のダウンを奪うなど一方的に攻め続け、6Rに偶然のバッティングによる負傷判定勝ちを収め、日本王座を獲得。2004年10月、小嶋武幸を相手に日本王座の初防衛戦を行い、日本タイトルマッチ史上最短となる1R24秒KO勝ちを収めた。

2005年10月、WBC世界フライ級王者ポンサクレック・ウォンジョンカムに再挑戦するも、7R負傷判定で敗れる(第2戦参照)。

2006年6月、東洋太平洋フライ級王者小松則幸と、史上初の日本・東洋太平洋統一タイトルマッチを行い、小松を6RTKOで破り、日本・東洋太平洋王座の2冠を達成する。同年12月には東洋太平洋王座単独の防衛戦を行い、判定で初防衛。

2007年2月、自身の負傷および、日本・東洋王座の防衛戦の兼用の厳しさを理由に東洋王座を返上。以降は日本王座を防衛しながら3度目の世界挑戦を表明。ポンサクレックに3度目の挑戦を表明するも、地上波放映を決定していたテレビ局が放送を取りやめ、スポンサーが集まらず開催が危ぶまれる。その後ドンキホーテなどが名乗りを上げるも[1]、必要な金額まで至らなかった。その後7月6日になって東京ローカル局のTOKYO MXが生放送で地上波での中継放送を行うことを発表。必要な金額も目途が立ち開催する[2]。


世界王座獲得
2007年7月18日、WBC世界フライ級王座3度目の挑戦で、王者ポンサクレック・ウォンジョンカムに12R判定勝ちし、チャンピオンとなる[3](第3戦参照)。

2007年10月11日、初防衛戦を行い、WBC世界フライ級14位の亀田大毅に3-0の判定で勝利した。12Rで亀田に投げ飛ばされる。

2008年3月8日に両国国技館で、2度目の防衛戦で前王者ポンサクレック・ウォンジョンカムの挑戦を受けた。試合は12R判定でジャッジは内藤勝利1、ポンサクレック勝利1、ドロー1で引き分けとなったため、規定により2度目のタイトル防衛。前王者とはこれで4度目の対決となった(第4戦参照)。

2008年7月30日に国立代々木競技場第一体育館で、日本王者の清水智信と3度目の防衛戦。9Rまでポイントリードを許す苦戦を強いられたが、10Rに2度のダウンを奪い、逆転KO勝ちで世界王座3度目の防衛を果たした。なお、この日はダブルタイトルマッチとしてWBA同級王者の坂田健史(協栄)の防衛戦も行われ、対立する同階級日本人世界王者の競演となった。

2008年12月23日に両国国技館で、元東洋太平洋ライトフライ級王者山口真吾と対戦。初回から激しい打撃戦となるがパンチの的確性で勝る王者が序盤から主導権を握る。回を重ねる毎に挑戦者が疲弊し、王者有利の展開で向かえた第11R、ついに挑戦者からダウンを奪うと、立ち上がってきたところを一気に連打し、レフェリーストップを呼び込んで1分11秒でTKO勝ち。世界王座4度目の防衛を果たした。

2008年11月に開催されたWBC総会では、1位ポノムランクレック・クラティンデーンジムの他、同年5月に行われた挑戦者決定戦に勝利した2位フリオ・セサール・ミランダにも指名挑戦権を認めるとされていたが、ミランダの指名挑戦権は2009年4月に前王者ポンサクレックと暫定王座決定戦で対戦することが決まった時点で失効。この決定戦ではポンサクレックが暫定王座を獲得した。

2009年5月26日、14位・熊朝忠(中国)を相手に5度目の防衛戦。試合前には左足首と右の腸脛靭帯を傷めて走り込み練習が行なえないトラブルがあった[4]。当初は中国の上海で対戦予定であったが、現地のイベント代行業者に委託していた開催手続きが行われていなかったのを理由に、直前になり開催を断念。東京のディファ有明に於いて、前座試合なしのワンマッチ興行、試合チケットは全て当日会場で発売という異例の形で開催された。試合は熊の強力なフックに苦しみ、戦前の予想とは異なり苦戦を強いられた。内藤は第5ラウンドに偶然のバッティングで右瞼をカットし、第6ラウンドでダウンを喫している(ダウンを喫したのは対ポンサクレック戦の初戦KO負け以来)。さらに第8ラウンドにはロープを背にして相手のパンチを一方的に受ける場面、第11ラウンドには口内をカットして出血し、同ラウンド終盤には相手の猛攻に防戦一方となった場面もあった。試合終了後には左右両瞼及び口内を深くカットした状態で、顔面から多量の出血がみられた。しかし内藤は多彩なパンチを的確に当ててポイントを稼ぎ、全体的には優位に試合を進め、結果、3-0の判定勝ちで5度目の王座防衛に辛うじて成功した。

世界王座陥落
WBCよりポンサクレックとの王座統一戦を行うことが義務付けられていたが、前述の熊戦の負傷の影響で延期が認められた。それを受け、ポンサクレックは8月28日に母国で升田貴久を相手に初防衛戦を行い、6回TKO勝ちで防衛成功。一方の内藤も統一戦の前に防衛戦を1試合はさむことを認められ、11月29日に元WBA世界ライトフライ級王者亀田興毅(初防衛戦で対戦した亀田大毅の兄)と対戦。試合は試合中の鼻骨折と思われる負傷の影響や、事前の予想と違って亀田興のカウンターを上手く合わせる戦法に対応出来ずに序盤でリードを許し、亀田を最後まで捉えきれず、0-3の判定で敗れて王座から陥落した。この敗戦により、ポンサクレックとの5度目の対戦は事実上消滅した。

ポンサクレック・ウォンジョンカムとの対戦

第1戦
2002年4月19日、無敗で世界初挑戦。敵地タイに渡り、WBC世界フライ級王者ポンサックレック・シンワンチャー挑んだ(ポンサクレックにとっては、これが5度目の防衛戦)。この当時にポンサクレックに挑戦した背景として前年7月16日、坂田健史の持つ日本フライ級王座に挑戦し引き分けたことが大きいと考えられる。宮田会長によると「お前は事実上日本タイトルを獲ったようなものだから世界へ」との主旨の発言があった。初回、内藤は序盤から積極的に仕掛ける。開始20秒付近で内藤が右アッパーを出した矢先、ポンサクレックが左フックを被せた。結果、強烈なカウンターとなり内藤はリング上で大の字になりながら失神。そのままKO負けとなった。KOタイムは34秒。世界フライ級タイトルマッチ史上最短のKO劇となってしまった。この敗戦で内藤は周囲からの厳しい批判と中傷にさらされることになる(「日本の恥」とまで言われた)。

第2戦
世界初挑戦失敗から3年半後の2005年10月10日、後楽園ホールでポンサクレックに再挑戦(ポンサクレックはリングネームを「ポンサクレック・ウォンジョンカム」に改名)。初対戦時以降、ポンサクレックはさらに防衛を重ね、この試合が12度目の防衛戦。一方の内藤は前年6月6日に日本フライ級王座を獲得。初防衛戦では日本同級タイトル戦史上最短となる24秒でのKO勝ちを収め、4月には2度目の防衛にも成功。日本王座在位のまま世界再挑戦を迎えた。前戦の影響により、ファンの注目は初回に集まった。その初回は内藤が前戦と同様にポンサクレックに対して積極的に攻撃を仕掛けた。右ストレートを好打し、上々の滑り出しを見せ、ジャッジ三者とも内藤を支持(10-9)。しかし、続く2回、偶然のバッティングで内藤が大量の出血。この出血を境に内藤はみるみる動きが落ちていった。結果、ポンサクレックの攻勢が目立ち、7回に試合がストップ。負傷判定で内藤の世界再挑戦は失敗に終わる。

第3戦
2007年7月18日、三たびポンサクレックに挑戦。ポンサクレックの王座防衛回数はミゲル・カントの「14」を上回るフライ級史上最多の「17」にまで伸びていた。一方の内藤は、前年6月27日に小松則幸との日本・東洋太平洋フライ級ダブルタイトル戦を勝利。日本王座4度目の防衛を果たすと同時に東洋太平洋王座獲得を果たし、12月には東洋太平洋王座初防衛に成功したが、戦前の予想は2度の敗北そして難攻不落の王者ということもあり圧倒的不利。内藤にとっては引退をかけての世界挑戦となった。第1戦・第2戦と違い、内藤は序盤から距離をとり、長いリーチと変則的なアウトボクシングで右ストレートと左フックで有効打を重ねていった。しかし、長期政権を築いていたポンサクレックも要所でコンビネーションブローを決め内藤を追いつめた。内藤は9回に疲労とダメージによりストップ寸前(防戦一方)に陥ったが、そのラウンド内に逆襲に転じポンサクレックを劣勢に立たせる底力も見せている。ボクシング史上に残る激戦は判定にもつれこみ、結果、3-0で小差の判定で内藤の勝利。内藤は32歳にして悲願の世界チャンピオンとなった。また、この試合に向けて野木丈司を師事し、綿密な作戦とスタミナ強化に努めてきたことが勝利の鍵だったと言える。この試合を境に内藤はスターダムにのし上がっていく。

第4戦
2008年3月8日に両国国技館で、2度目の防衛戦で前王者ポンサクレック・ウォンジョンカムの挑戦を受けた。宮田ジムは当時、ポンサクレック側にオプション(興行権)を握られており、日本開催も危ぶまれる状態であった。また前王者のポンサクレックは前回の対戦で調整ミスを告白しており、当時のWBCランカーの中でもポンサクレックが最強挑戦者である可能性が非常に高かった。そのようなことも踏まえると、内藤の防衛戦で重要な試合であるのは明白であった。いざ試合が始まると、前回とは体の切れが違うポンサクレック、そして、さらに進化を遂げた内藤の技術戦となった。序盤から中盤にかけお互い手の内を知り尽くしているため、中々とパンチが当たらない展開だったが中盤以降にお互いのパンチが当たりだしヒートアップ。そして一進一退のまま判定となり、結果1-1の三者三様で引き分け[5]。内藤が2度目の防衛に成功した。これにより、宮田ジムは興行権を手に入れた。

ポンサクレックとの関係
内藤はポンサクレックを「礼儀正しく偉大な王者」、一方のポンサクレックも内藤を「兄のような存在」と慕っており、リング外ではお互いを尊敬し合う間柄と言える。

ボクシングスタイル
174cmとフライ級ではかなり長いリーチを誇るためそれを活かした戦いをすると思われがちだが、ショートレンジでのフック・アッパーおよび打ち下ろし等も得意とし、そのファイトスタイルは分類不能。合理的に対戦相手を打倒することを身上とする。また肩まで入れた長い射程のジャブ・大きな踏み込みと上体の倒しからよく伸びる右ストレート、視界の外から飛んでくる両フックは、頻繁に見られるブローである。キャリアの中では、右アッパーやクロスレンジでの左右のショートフック・上下の打ち分け等も要所で見せる。また日本フライ級の中では屈指の強打者でもある。

内藤のスタイルは巷ではよく変則的と称されるが、基本的な思想は「攻防一体」である。常に上体を大きく動かしながらパンチを繰り出すためカウンターをもらいにくく、パンチ力を増し、反動を活かして追撃や回避あるいはその両方を素早く行うこともできる。ちなみに元世界王者の鬼塚勝也は、「内藤は体全体を使ってボクシングをする」と評している。また、コンビネーションのリズムの変化や豊富なフェイントなども、対戦相手を困惑させる要因となっている。内藤自身が過去に1R34秒KO負けしていることからもわかるように、これらは高度なディフェンス技術があって初めて実践しうるスタイルである。王座奪取後の内藤は基本的なディフェンス技術に対する深い理解に加えて、スリッピング・アウェーや額などの頭蓋骨の中でも硬くダメージを受けにくい場所でパンチを受けるといった緊急回避的なテクニックも備えている。

パーリングやウィービング、あるいはスリッピングなどのパンチから逃げずにかわし即反撃に繋げる技術に秀でている。試合では相手のパンチに即座に反応してパーリングしつつ、ほぼ同時に反撃のパンチを入れるシーンを頻繁に見ることができる。 ただし、ガードが甘い点があり、相手へフェイントをかける際や、自らのパンチの打ち終わりにガードが下がっている事が多く、そこへ相手選手からのパンチを食らう事も多い。

亀田家との因縁
以前は元WBA世界ライトフライ級王者亀田興毅との対決を熱望していたが、亀田陣営は「内藤は6回戦レベル」「ゴキブリのようなボクサー」などと挑発しながらも、対戦に対しては全く乗ってこなかった。

内藤はポンサクレックへの3度目の挑戦の直前に「世界王者になれたら亀田を挑戦者に指名する」と宣言をして実際に王座に就いたのだが、亀田側は「(内藤が世界王者になったことで)ボクシングのレベルが下がった」とコメント。興毅ではなくその弟である亀田大毅(WBCフライ級14位)との対戦が初防衛戦(2007年10月11日)となった。結果は大毅の反則行為もあり、ジャッジの判定は3者とも7点から10点差以上の大差で内藤優勢とし、3-0で判定勝ちして初防衛した。このときTBSが用意したトロフィーは、対戦者の大毅が着用していた金色のグローブを模したものであった。

また従前の亀田陣営の粗暴な言動などが要因で、この試合の観客の応援は内藤が圧倒的に多かった。この試合で大毅が様々な反則行為を行い、興毅が大毅に内藤へのサミングを指示した(大毅に反則行為を指示する興毅の声をマイクが拾い、全国放送でリアルタイムに流されてしまった)ことから、内藤は「亀田が反省しないのなら、もう亀田家とはやらない」と発言している。また、亀田側の謝罪会見で、大毅が丸刈り姿になったことについては、「大毅が相当のショックを受けている」、「気持ちが伝わった」とコメントしている。会見の翌日には大毅から謝罪訪問を受け、「誠意が伝わりました。お父さんからも電話で連絡をいただき、謝罪を受けました。大毅君は素質のある選手なので、これからも頑張ってほしいと思います」とコメントした。

さらに10月26日に亀田が所属する協栄ボクシングジムの金平桂一郎会長と亀田興毅が謝罪に訪れたが、これに対しても、「興毅君は立派でした」と開口一番に讃えた上で、「自分の中では大毅君とお父さんの謝罪を受けてすでに終わっている件だが、公の場で公式に謝罪したので、みなさんにも誠意は伝わったんじゃないでしょうか」と語っていた。

このように色々と物議を醸した亀田との一戦だが、皮肉なことにそれまで知る人ぞ知る存在だった知名度が一躍全国区になるなど内藤にとっては転機となった一戦だった。

翌年7月30日の防衛戦終了直後、突如リング上に亀田興毅が現れ、内藤に「次に試合をしようや」などと持ちかけるパフォーマンスを行った[6]。観客席からは歓声とともに「帰れ!」などの野次も飛んだ。試合を中継したTBSには視聴者からの抗議が寄せられ、TBS側は「ハプニングで、最初から設定したわけではない」と説明した[7]。

2009年11月29日、興毅とさいたまスーパーアリーナでWBCフライ級タイトル防衛戦で初対戦、12Rを戦い0-3の判定で敗れ王座防衛に失敗。

逸話
入場曲は、C-C-Bの「Romanticが止まらない」。これは、内藤がいじめにあっていた時、C-C-Bのラジオ番組にいじめのことを相談するはがきを出し、それが採用されたことによる。
上京直後は実父の経営する会社に就職。そのころにボクシングと出会う。当初はプロデビューを目的にしていたわけではなかった。ボクシングが軌道に乗ってからも2007年6月まではレンタカー店で働き、収入は喫茶店勤めの妻と合わせて月12万円ほどであった。
亀田戦後は知名度が大きく高まり、バラエティなどのテレビ番組出演も頻繁に行うようになった。一方で亀田戦以降は頻繁にテレビ出演するようになったため、これについていくつかのインタビューで、「『練習してるのか』と言われるが、元々午前中に練習をして午後以降はアルバイトをする生活で、バイトがテレビ出演に変わっただけ。体力的にはバイトより楽」と語っている。テレビには試合予定がないときだけ集中的に出演し、試合に向けた調整に入ると一切出演しない。
全日本新人王を獲得した際、試合後のインタビューでインタビューアに「今後の目標は?」と聞かれ、照れ笑いする内藤の横で「世界!世界!」と連呼する宮田会長に対して自信無さそうに「いやまだ(世界は)早い」と発言した。内藤の謙虚さが見える一面であった。
ニックネームの最短男は小嶋武幸を日本タイトルマッチ史上最短記録1R24秒でのKO勝ち(全階級を通じての最短レコード)。ポンサクレック・ウォンジョンカムに世界フライ級タイトルマッチ史上最短記録での1R34秒でのKO負け。いずれも現時点での最短レコードであり、この両方を指してのことである。
元いじめられっ子がボクシングを始め、全日本新人王を経て日本王者になる。という経歴が、森川ジョージ作の漫画『はじめの一歩』の主人公、幕之内一歩の設定と似ているため、リアルはじめの一歩と形容されることがある(階級は違うが、身長はほぼ同じ)。内藤自身は『はじめの一歩』の大ファンであるため、連載されている週刊少年マガジン誌上の取材や作者との対談を好意的に何度か応じ、『はじめの一歩』への熱い思いを語った[8]。また、その中で「一歩の方が自分より練習してる。」、「戦歴が似ているが、真似しているわけじゃない。」と冗談交じりにコメントしている。ちなみに現在の内藤のサインは森川ジョージが考案したもの。当時の対談でその様子を見ることができる。ただし、インタビューの中で、自分が受けていたイジメは、劇中での一歩の比ではない酷さであったと語っている(集団リンチや、水たまりに顔を押しつけられたり踏みつけられたりされたという)。このような壮絶ないじめのせいで、内藤は中学生にして胃潰瘍を患ってしまった。
2008年6月2日放送分の「東京フレンドパークII」に友人の白鵬と共に出演。グランドスラムを達成し、しかもビッグチャレンジで三菱・パジェロを獲得した。
内藤がWBC世界チャンピオンになる以前に日本・東洋を制した当時は、一部ボクシングファンからは「ポンサクレックが世界チャンピオンじゃなければ世界を獲れるのに」と惜しまれる風潮があった。ワールドボクシングなどでは「フライ級の国内No.1(第一人者)は内藤である」と記事を載せたことがある。それだけポンサクレックは日本フライ級戦線にとって大きな壁だったということが覗える。
3度目の防衛戦にて劇的な逆転KOで勝利を得た功績を評してWBCの月間最優秀選手 (Boxer of the month) に選出された。これは日本人ボクサーとしては辰吉丈一郎以来の快挙である。
2008年、内藤の世界タイトルマッチ3試合の中継は、TBSの年間視聴率のトップ3を独占した。
減量中は大食い番組やグルメ雑誌を積極的に見ている(2009年2月1日放送のおしゃれイズムより)。
かなりの天然キャラで撮影中にズボンを脱ぎだす等のエピソードに事欠かない。テレビ等では「内藤ワールド」と紹介される。
結婚してしばらくの間は妻の実家の惣菜屋から余った惣菜をもらって生活をしていた。チャンピオンになった後は妻の実家に冷蔵庫をプレゼントをしたり、2009年10月11日放送の「大改造!!劇的ビフォーアフター」では改装を依頼した。改装については以前に「ビフォーアフター」にゲスト出演した際に依頼し、それが実現したものである。

獲得タイトル
東日本フライ級新人王
全日本フライ級新人王
日本フライ級王座(防衛4=返上)
OPBF東洋太平洋フライ級王座(防衛1=返上、日本・東洋の現役2冠を達成)
WBC世界フライ級王座(防衛5)

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