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野村克也

野村 克也(のむら かつや、1935年6月29日 - )
京都府出身の元プロ野球選手(捕手)・監督・野球解説者。
現役時代は南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズでプレイした。
引退後はヤクルトスワローズ、阪神タイガース、社会人野球のシダックス野球部監督を務めた後、2006年から2009年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めた。



経歴
愛称は「ノムさん」。あるいは「ノムやん」「ノムはん」「ムース」「和製のベーブ」。ムースとはロッキー山脈に生息する、普段のっそりしているが非常に敏感で頭がよい「へら鹿」のことであり、日米野球で来日したウィリー・メイズが「のそっとしているがいろいろな動きによく反応している」野村をこう呼んだことから名づけられた。現妻はタレントの野村沙知代。息子は現・読売ジャイアンツ2軍バッテリーコーチの野村克則。前妻の間にも男子が1人いる。継子にはプロ野球エージェントの団野村、ケニー野村がいる。

通算試合出場数は歴代1位(実働年数は歴代2位)、通算の安打、本塁打、打点、塁打数は歴代2位で、いずれもパ・リーグ記録である。球史に名を残す選手であり、本人は「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」とぼやいている。選手・監督時代を通じて勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献している。

現役・解説者時代は巨人をけなす発言を繰り返しているが、実際は幼少のころからの巨人ファンである。著書「巨人軍論」によれば、幼少時代はラジオから聞こえてくるプロ野球中継は巨人の試合しかなく、そのため自然と巨人ファンになったという。例として息子の克則が2004年に巨人に入団する際、堀内恒夫が新監督に就任したことを絶賛していた。しかし、自身がプロ入りする際は捕手の層の厚い巨人に行くことは諦めたという。また、「サインプレーやデータ活用など、かつて球界の先駆者だった巨人が理想のチームである」という。

自著で幾度か「何よりも自分は働く人間」と述懐している通り、幼少の時から老年に差し掛かった現在まで、仕事に対する執着心は非常に強い。多くの野球人の中で、野村ほど第一線を退くことなく野球を続け、オフや休日にも講演やテレビ出演、自著本など数え切れないほどの仕事をこなす人物は類を見ない。現役時代は捕手という負担の大きいポジションで歴代選手一位の出場数を記録し、プレイングマネージャーまで兼ねており、監督としても試合記録を通算3000試合の大台に乗せている。

プロ入りまで
家業は食料品店であった。 父・要一は野村が3歳の時に満州にて戦死したというが、実際は道端の供え物の柿を食べて亡くなったらしく、幼少時代に情けない思いをしたと語っている。丹後ちりめんの産地で周囲は裕福な家庭が多い一方、野村の家は貧しく劣等感にさいなまれる。看護士だった母は病弱で癌も患うが、小学校1年から兄とともに毎日新聞配達をし父の戦友の助けと、母の糸繰りの仕事で何とか生活した。貧乏な生活から脱却したいとの思いから、将来は歌手になろうとコーラス部に所属したり、俳優になろうと映画館通いをしていた。 中学2年のときに野球部に入り、次第に周囲から注目される。 中学卒業後は働くように母から言われるが、兄が大学受験を断念する等の取り計らいにより京都府立峰山高等学校に進学する。母に内緒で野球部に入部するがばれて退部するよう言われるが、顧問の取り計らいにより続けさせてもらう。貧しくバットも買えないため、海水を一升瓶に入れて持ち帰り素振りをしていたという。野球部は大変弱く野村も全くの無名選手だった。

現役時代

プロ入り~レギュラー定着
1954年、南海に契約金0のテスト生として入団。同期入団には皆川睦雄や宅和本司がいる。大ファンだった巨人は藤尾茂捕手が活躍していたため断念。捕手層が薄く高齢化していた南海なら1軍のレギュラーになりやすいと考えた。なおテストには落ちていたがキャンプイン前に合格者の一人が入団を辞退したことと、高校の顧問が手紙を送った南海の鶴岡一人監督(当時は山本姓)の「カベ(ブルペンキャッチャー)用にでも入れておけや」の一言で入団が決まったという。

当時の南海は鶴岡監督のもと、毎年優勝争いを繰り広げていた。その年のシーズン当初は出場機会がなく代打での初打席は三振、結局1年目は9試合で11打数無安打だった。シーズンオフにマネージャーに呼び出され戦力外通告を受けるが秋季キャンプ中に正捕手が交通事故、2番手捕手がトレード、3番手捕手が怪我をしたことで捕手不足となり残留。「もしここでクビになるようなら生きていけません。南海電鉄に飛び込んで自殺します」と辛抱強く交渉し担当マネージャーに「お前のようなやつは初めてだ、でも若いうちなら人生はやり直せる。お前は活躍できないんだぞ。俺の目は確かだ」と苦言を言われつつも何とか残ったと語っている。

しかし肩が弱かったため秋季キャンプで一塁手へのコンバートを言い渡される。当時の一塁手は球界を代表する飯田徳治が務めていたため、このままではレギュラーになれないと考えた野村は砂を詰めた一升瓶やテニスボール、握力計、鉄アレイなどを使って筋力を鍛え、遠投で肩を強化した。このような努力が実り、2年目の秋季キャンプで捕手に再コンバートされる。

3年目の1956年、ハワイ春季キャンプで1軍に抜擢されたのをきっかけに正捕手に定着した。

大選手への道
打撃不振に陥った頃、テッド・ウィリアムズの著書「バッティングの科学」に出会い、その中で「投手には球種によりモーション時に癖を見せる」という一言があり、これをきっかけに投手の癖を研究するようになった。それ以来、打撃力が格段に向上したが、どうしても稲尾和久だけは攻略できず、野村は16ミリで稲尾を撮影し研究した。このことが後に、野村本人が確立したID野球の基礎を作り上げた。

1957年に山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)ら並み居るスラッガーを抑え本塁打王のタイトルを獲得。以降毎年のようにタイトルを獲得し、南海の黄金時代を支える。南海は1959年、1961年、1964年、1965年、1966年にリーグ優勝、そのうち1959年と1964年は日本一になっている。

1962年、別当薫(毎日)の持っていたパ・リーグ記録のシーズン43本塁打(1950年)を抜く44本を記録。1963年には小鶴誠(松竹)のプロ野球記録シーズン51本塁打(同上)を破る52本を記録。ともに最終戦、最終打席で近鉄の山本重政から打ったものだった。52本塁打は翌年王貞治に55本でプロ野球記録としては更新されたが、パ・リーグ記録としては2001年にタフィ・ローズが55本で更新するまで長く残っていた。

1965年には戦後初めての三冠王に輝く。

当時のパ・リーグにおいて西鉄の中西、豊田泰光、毎日(後に大毎)の山内、田宮謙次郎、榎本喜八、東映の張本勲、大杉勝男、阪急のダリル・スペンサー、長池徳士、近鉄の土井正博、永淵洋三といった強打者がひしめく中で三冠王や8年連続本塁打王などの実績を残した。

しかし、同時期にセ・リーグで活躍していた巨人の長嶋茂雄や王貞治に比べると世間から注目されることは少なく、今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たないものである。1975年5月13日、野村が史上初の通算2500本安打を達成したときの観客はわずか6000人ほどであり、また拍手をしたのは数十人だったといわれる。野村はこの試合後のインタビューで「王や長嶋がヒマワリなら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草」と答え、それ以後「月見草」が野村の代名詞となった。

多くの打撃に関する記録を残したが、年間最多本塁打の記録を更新した翌年の1964年に王に更新され(現日本記録の55本塁打)、1973年に通算最多本塁打の記録を(約2週間の攻防の末)王に、1978年には一晩のうちに通算最多打点を王に、通算最多安打を張本勲(当時巨人)に破られるという経験もしている。王は1973年以降のオールスター戦で、野村がマスクを被った試合では27打数1安打0本塁打と抑え込まれている。

また、足は遅い方だったが、通算117盗塁を記録。そのうちホームスチールが7回、トリプルスチールは2回ある。

データ野球・駆け引き

打者としての読み
活躍の要因として、試合展開や相手選手の心理を読む能力に長けていたことがあげられる。当時の鶴岡監督率いる南海は他球団に先駆けてデータを集め、活用する体制を取り入れており、データの収集に当たっていた尾張久次は日本プロ野球のスコアラー第1号とも言われている。野村は蔭山和夫コーチらとともに、こうしたデータを試合展開や相手選手の観察結果とあわせて分析し、打撃にも配球にも生かした。

投手の癖を盗み、球を投げた瞬間に球種・コースを見破る技術を身につけたことも活躍の要因となった。初期の頃はカーブが全く打てず、「カーブの打てないノ・ム・ラ!」「カーブのお化けが来るぞ!」などと野次を浴びるほどだったが、投手の癖を盗みカーブを事前に見破ることで克服した。こうした能力は、徹底的な観察と各投手との駆け引きの中で身に付けたものだった。中でも西鉄のエースとして活躍した稲尾和久投手とは、野村が苦心の末に癖を見破れば、稲尾はそれに気付いて対策を講じるという、ハイレベルの駆け引きを繰り広げた。

捕手としての駆け引き
オールスターゲームでもパ・リーグ捕手の地位を最大限に利用し同リーグ投手のデータ収集を行ったが、稲尾はこの意図を見抜いていたため野村のサイン通りに球を投げることはなかった。パ・リーグの投手にとってオールスターはセ・リーグの打者との戦いではなく「野村との騙し合い」だったと言われており、稲尾は「オールスターでは野村さんとの駆け引きに専念せざるを得ず、セ・リーグの打者の記憶はまったくない」と後年語っている。

捕手として守備に就いた時には、相手打者にささやくことで集中力を奪うこともあった。最初の頃は「次は頭にいくでぇ」「今度こそ頭だぞ」「当たったら痛いだろうナァ」などといった直接的な脅しだったため、当時ライバルだった阪急の西本幸雄監督も「先に野村にぶつけろ」と指令を出した。その後鶴岡と西本の会談が開かれて脅しは止んだ。

その後、私生活など集中力を乱す方向へ変更された。この策は「ささやき戦術」として知られる。野村がささやき戦術を使うようになったのは、1950年代当時、同リーグで活躍していた西鉄の日比野武を参考にしたためといわれる。ライバル選手の私生活に関する情報収集のため、東京であれば銀座、大阪であれば北新地といった繁華街の高級クラブに頻繁に出向き、その店のホステスから常連客として姿を見せる選手の情報を仕入れるのが常だったと、2003年9月に『NANDA!?』に出演した際に語っている。

ただし、この戦術が全く通じない選手も存在した。大杉勝男にささやきかけると「うるさい」と一喝され(大杉は10歳年下である)、張本勲には空振りと見せかけてバットで殴られ(詳しくは後述)、王貞治は集中のあまり話を全く聞かず、長嶋茂雄に至っては違う話を持ちかけられたり、指導と勘違いして本塁打を放たれたりした。そのほか、東映の白仁天が対策のため耳栓を用いたが、かえって意識しすぎて打てなかったというエピソードもある。

野村が今まで見た投手の中でもっとも球が速かったのは金田正一だと言っている(当時、MAX155km/hだと検証されている)。また、対戦した打者の中で一番恐ろしかったのは榎本喜八だと述べている。

後年、広島の達川光男もささやき戦術を用いている。

プレイング・マネージャー時代
1970年、最下位に終わって辞任した飯田徳治監督の後任として就任。監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして「4番打者」「捕手」「監督」の三重責を担うことになった。彼の著書によると、このときの年俸は選手、監督分を合わせて1億円を超えていたという。また後にテレビ番組内で日本プロ野球最高年俸(放送当時)の話がでると、プレーイングマネージャー時代の年俸は5億円だったことを明かし、35年ほど前には現在の最高年俸者と同額の年俸であったとした。

監督兼任となってからも打棒は健在で、1970年には大杉勝男に次ぐ42本塁打を放ち、1972年には打点王を獲得した。

1973年には弱体化していたチームを立て直し、リーグ優勝を果たした。当時パ・リーグで採用していたプレーオフ制度を最大限に利用し、実力ではかなわないと考えられていた阪急を退けての優勝だった。ただしこのシーズンの後期の阪急戦では1勝もできず、惨敗した試合ではベンチで笑みを浮かべるなど真剣勝負を疑われかねない行為もしたため一部では物議を醸し、「死んだふり」などと揶揄された。勝敗は二の次で相手方の作戦やサインプレーの研究に終始していたという。一方、選手としては監督兼任でありながら.309、28本塁打、96打点の成績を残し、MVPに選ばれた。しかし、日本シリーズでは巨人に敗れ、V9を許す結果となった。

阪急の1番打者として活躍していた福本豊の盗塁を阻止するため、投手に素早いモーションで投球させた。これが後のクイック投法の原型である。クイック投法は現在ではどの球団、更にはメジャーリーグでも採用しているが、最初に発明したのは野村だった。このころは野村の現役生活も晩年に差し掛かって肩が衰えており、それを補うために考え出した策である。

また、1976年に江本らとのトレードで阪神から江夏豊を獲得し、「プロ野球に革命を起こそう」という決め台詞で1977年6月にリリーフ専任の投手へ転向させた。江夏は「『革命』と言われなかったらリリーフ転向はOKしなかったと思う」と語っている。江夏はこの年最多セーブ投手のタイトルを獲得し、この活躍はリリーフの役割が重視されるきっかけになった。

1977年9月28日、シーズン終了まで残り2試合、2位の時点で解任される。解任理由は、当時はまだ愛人関係にあった現夫人・沙知代(当時は伊東芳枝)の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」である。沙知代は「ノムラ企画」を立ち上げホークス・グッズを制作・販売した他、「南海を優勝させる会」を結成し、選手の夫人らに参加を強く要請。更には、プロ入りを目標としていた前夫との間にもうけた息子のため、コーチ陣に技術指導までさせた。このことが野村を大事にしていた当時の川勝傳オーナーの耳にも入り解任に至る。川勝はこの件以後も野村を大事にし、個人的な付き合いはあった。一方、野村が「鶴岡元老らOBの政治的圧力があった」と述べているように、監督退任後も依然として支配力を発揮していた鶴岡との確執も原因の一つと考えられる。なお、広瀬新監督が決定するまでの残り2試合は穴吹2軍監督が代行した。

解任後、進退について大いに悩み多くの知人も終わりが大切と引退を勧めたが、以前より誘われていたロッテに移籍。野村一派と言われ解任に反対していた柏原純一は日本ハム、江夏は広島、コーチの高畠導宏は野村と共にロッテに移籍した。この年を最後に南海はAクラスに入ることなく1989年にダイエーに身売りされた。なおホークスの連続Bクラスは1997年まで20年続いた。

ロッテ・西武時代
1978年、金田正一監督のロッテに移籍。懇意にしていた草柳大蔵からの「生涯一書生」という禅の言葉を教わり、新たに標榜した「生涯一捕手」は流行語となり、今でも野村の代名詞の一つとなっている。しかし若手に対するアドバイスにコーチ陣から批判が出るなど確執が生じ、同年オフで自由契約。このときロッテフロントから監督就任を要請されるが、金田らに遠慮して辞退したという。

1979年、根本陸夫監督率いる西武へ移籍。このとき同僚になった松沼博久は野村の配球に強い印象を受けたと語っている。1980年は控えに回ることが多くほとんど目立った活躍はなかったが、オールスターゲームには全パ・西本幸雄監督の推薦により出場。1950年代、60年代、70年代、80年代の4つの年代での出場は史上唯一の記録である。また、選手として22回のオールスター選出は歴代最多。このうち1957年から1977年まで21年連続でファン投票選出されており、ファン投票選出回数、連続選出回数ともに王貞治と並ぶ歴代最多記録となっている。同年8月1日に前人未到の3000試合出場を達成。同年11月15日に引退を表明、実働26年、45歳だった。最後の本塁打は7月29日の対阪急戦で放ったもので、このとき45歳1ヶ月、岩本義行の持つ最年長本塁打記録(45歳5ヶ月)に4ヶ月及ばなかった。

引退の時
野村の著書によると、引退を決めたのは現役最後の年である1980年9月28日の阪急戦だという。この日、野村は捕手としてスタメン出場。4-3と西武が1点を追う展開の8回裏1アウト満塁で野村の打順だったが、実働26年の選手生活で唯一の代打(鈴木葉留彦)を送られる。犠牲フライくらいはいくらでも打てると思っていた野村は愕然とし、ベンチに下がった後、代打策の失敗を祈っていた。野村は犠飛数のプロ野球記録保持者であり、横変化の球種をやや遅れ気味に打つという犠飛を打つコツも体得していた。結局鈴木はショートゴロ併殺打に倒れ、その瞬間「ざまあみろ」と思ったという。この逸機が響いて西武は試合に敗れ、帰途の車中で自分の気持ちが勝利を目指すチームとは逆の方向に向いてしまったことを悔い、引退を決めたという。

引退セレモニーは西武全選手が一・三塁間に横一列で並び、一人ずつピッチャーマウンド上のマイクで言葉を贈った後キャッチャーズボックスで構える野村に投球し、それを野村が受けるというものだった。その後の記者会見終了後の野村の肩にはハローキティのカメラを持った当時小学生の息子・克則が乗っていた。

なお、引退時まで着用していたヘルメットはそのまま球団に保管されていたが、5年後に入団する清原和博に引き継がれる。清原は西武入団時、自分に合うサイズのヘルメットがなく、たまたま見つけたヘルメットがピッタリと合った。

解説者時代
1981年にTBS、1983年からはテレビ朝日の野球解説者、サンケイスポーツの野球評論家を務める。また1981年から6年余り、週刊朝日で「野村克也の目」を連載した。テレビ朝日解説者時代には、野球中継では初のストライクゾーンを9分割した「ノムラスコープ」による配球の読み、打者・投手心理の解説が評判になる(「次の球は、ここに投げておけば必ずファウルになる」と予想し、その通りの結果になったなど。現在も解説者として出演する際には登場することがある)。またこの時期、講演や沙知代がオーナーを務める少年野球チーム港東ムースの監督に就任するなど公私に渡って活動した。1989年に野球殿堂入りする。

専任監督時代

ヤクルト監督

就任時の状況
1989年の秋、野村の野球解説の鋭さを評価していたヤクルトの相馬和夫球団社長(当時)から監督就任の要請を受ける。南海時代に残っていた監督業への未練や、現場以外の多忙な生活から開放されたい一心でこれを承諾する。 監督に就任した頃のヤクルトは、松園尚巳オーナー(1994年死去)のもと投手の高野光、伊東昭光、荒木大輔、内藤尚行、加藤博人、川崎憲次郎、野手の広沢克己、池山隆寛、栗山英樹、笘篠賢治、橋上秀樹、長嶋一茂、秦真司、荒井幸雄など素質に恵まれた人気選手が多く、ファミリー主義と明るいチームカラーでファンからも親しまれていた。しかし勝負への甘さがあり、長年にわたる負け越し・Bクラスの状態が続いていた。

そうした中での就任は、野村の暗い性格がチームカラーにあわないと懸念する声も多く、世間からは「過去の人」「ヤクルトにとっては部外者」というイメージを受けた。また就任直後の12月に心疾患の疑いで一時入院すると早くも「野村の次の監督」を報道するマスコミも表れるなど、健康面での不安も囁かれていた。

ID野球
1990年、データを重視するという意味の「ID野球」(IDは、Import Dataを意味する造語)を掲げてチームの改革を図る。主砲の池山や広沢らに三振を減らすことや状況に応じたバッティングを指導。結果として、広沢は後に打点王のタイトルを獲得する(1993年)など成長を遂げたが、池山は本塁打数を野村就任前より減らすなど打者としては伸び悩んだ。また、ドラフト2位で入団した古田敦也らをレギュラーに抜擢、前年まで正捕手だった秦真司が外野手に、控え捕手だった飯田哲也を二塁手にコンバートした。しかし1年目は改革が勝利には結びつかず、開幕からの巨人戦は2試合連続のサヨナラ負け、3戦目に初勝利をあげるものの、その後も連敗を重ね結局5位に終わり、前年の4位を下回った。しかし心配されていた健康面の不安は出ず逆に太り、それまでのスーツを全部買い換えたという。

1991年はキャンプ時から若手の成長が注目され、巨人の極度の不振(1979年以来12年ぶりにBクラスに転落)などもあってAクラスの3位に躍進。野村が徹底的な英才教育を施した古田は、守備面で大きな進歩を遂げるとともに首位打者を獲得して一流打者への仲間入りも果たし、二塁手から今度は中堅手へコンバートされた飯田は強肩俊足を生かした華麗な守備と走塁で注目を浴びた。高津臣吾に「日本を代表する抑えになれ、西武の潮崎(哲也)のシンカーを参考にしてシンカーを投げろ」と助言し、その成長を促した。

セ・リーグ連覇と日本一
1992年に混戦を制してセ・リーグ優勝。9月には故障から4年越しで復帰した荒木の起用もあった。日本シリーズでは最終第7戦までもつれ込む激戦の結果、西武に敗れた。この年に活躍した選手には前述の選手のほか、投手の西村龍次、岡林洋一、高津臣吾、野手のジャック・ハウエルらがいる。また、ベテラン選手の渋い活躍もあった。他球団から移籍してきた新浦壽夫、角盈男、金沢次男らは中継ぎ投手として、ヤクルト一筋の杉浦享や八重樫幸雄は代打として働いた。

1993年は長嶋一茂を巨人に金銭トレードで放出し、前年のリーグ優勝で自信を深めた古田・広沢・ハドラー・ハウエル・池山・荒井・飯田・秦のレギュラー陣が安定した活躍を見せた。投手では、前半戦に新人の伊藤智仁が大活躍。伊藤は酷使が祟ったのか故障で後半戦を棒に振るが、先発の伊東・川崎・西村、中継ぎの内藤、8年目でブレイクした山田勉、リリーフエースとして定着した高津らの働きもあり、チームはそのままリーグ優勝。日本シリーズは、前年に続いて西武と戦い、再び最終第7戦までもつれ込む激戦の末、遂に日本一に輝いた。

1994年は投手陣や古田など怪我人が相次いだこともあり、低迷。ペナントレース最終戦に勝ってようやく最下位だけは免れた。

リーグ優勝・日本一
1995年は、前年オフの間に主砲の広沢(FA制度を利用)とハウエルが巨人に移籍した。しかし投手の石井一久、テリー・ブロス、山部太、高津、野手の古田、土橋勝征、池山、飯田らのほか、阪神を自由契約になっていたトーマス・オマリー一塁手、前ロッテのヘンスリー・ミューレン三塁手、近鉄との間で西村投手とのトレードで獲得した吉井理人投手など移籍してきた選手が活躍。安定した戦いぶりでセ・リーグを制した。また、オリックスと対戦した日本シリーズはイチローを内角高めの速球を意識させることで封じ込め、日本一になった。1996年は4位に終わる。

1997年の開幕(対巨人戦)、前年広島を自由契約になり獲得した小早川毅彦がエース斎藤雅樹から3本の本塁打を放ち快勝、ヤクルトはそのまま開幕ダッシュに成功する。8月には横浜との熾烈な首位争いを繰り広げ、最終的には1度も首位を明け渡すことなく、2位横浜に11ゲーム差をつけてリーグ優勝。日本シリーズでも西武を破り3回目の日本一となる。この年活躍した選手に投手の石井、吉井、田畑(ダイエーから獲得)、野手の古田、土橋、池山、宮本慎也、真中満、稲葉篤紀、シーズン前に酷評したドゥエイン・ホージー、1996年に田畑とともにダイエーから移籍した佐藤真一、青柳進、同じく1996年に西武から移籍した辻発彦、オリックスから移籍した馬場敏史、中日からテスト入団した野中徹博らがいる。1998年は4位に終わり、この年のオフで勇退。最初に2連覇した後、日本一→4位→日本一→4位→日本一→4位と日本一と4位を交互に繰り返したが、スワローズ歴代でも屈指の名将と評価されている。

独特のキャッチフレーズ、池山に本塁打を減らすバッティングを指導したというエピソード、脇役の個性的な面々などが特徴として挙げられたが、優勝する年は基本的に「助っ人外国人の当たり年」であり、高いチーム本塁打数・得点を記録。チーム防御率が下位に沈みながら日本一に輝いたケースすらある。前年の先発ローテ投手が2年連続で活躍することはほとんど無く、こうした「当たり年」に西村や伊藤智、岡林、川崎等、有望な投手を多く注ぎ込んだ結果、早期に投手生命の限界を見せる傾向も多かった。これについて野村は『エースの品格 一流と二流の違いとは』で、反省すべき点として挙げている。

渡辺久信は、現役晩年の野村指揮下で過ごしたヤクルト時代での体験を著書『寛容力 怒らないから選手は伸びる』で振り返り、カルチャーショックだったと語っている。曰く、野村ヤクルトは西武では考えられないほど、まず何よりミーティングに長い時間を費やした。そしてその形式も非常に独特のものであり、野村が延々と講義しながらホワイトボードに板書し、選手はそれを耳で聞いていては理解が追い付かないので、ノートをとって試合、オフ時間に見返す、というまるで学校の授業のようなことをしていたという。

その講義内容自体も渡辺にとっては大きな衝撃であり、それは当時「常勝軍団」として日本プロ野球界屈指のハイレベル野球を展開していた西武ですら実践していなかった深いものだったと語っている。特に打球カウント別の打者・投手・捕手心理がその講義の中心で、カウントパターンに合わせた野村の緻密な独自理論は、渡辺に指導者・戦略としての野球の面白さを感づかせてくれるような機知に富むものであったという。

阪神監督
1999年、三顧の礼をもって阪神の監督に迎えられる。ヤクルト監督退任直後であること、阪神は例年生え抜きの人材を中心に監督人事を進めていたことから、電撃的な就任だった。またヤクルト球団からも非難された。

1985年の日本一以降長く続く低迷状態を打破すべくチーム再建を高く期待され、就任時の会見ではフロントが「野村監督様」と紹介するなどVIP待遇を受ける。またファンの人気も絶大だった。「野村TOP野球」をチームのスローガンとして開幕を迎えると直後から快進撃を続け、6月9日には単独首位に立ち(この年優勝した中日以外唯一首位についたチームとなる)、野村の誕生日である6月29日に発売される予定だった時価100万円の純金製野村監督像(通称・純金ノムさん)が前倒しで発売された(この純金像を最初に購入したのは、落語家の月亭八方)。

また安芸キャンプにおける新庄剛志の投手兼任プランや、遠山奬志の松井秀喜キラーとしての再生、遠山と葛西稔のスイッチ(遠山 - 葛西 - 遠山 - 葛西、通称「遠山・葛西スペシャル」、この頃の阪神の選手層の薄さから抑えに指名できる投手がいなかったため。どちらかが一塁を守っていた)などで話題を呼んだ。

2000年オフに、同年4番として自己最高の成績を収めた新庄がFAでニューヨーク・メッツへ移籍するなど厳しい状況で迎えた3年目の2001年は若手選手育成を掲げた。ルーキーの赤星憲広、藤本敦士、沖原佳典、上坂太一郎ら7人の俊足選手を「F1セブン」(後述)と名付けて売り込んだのはこの年である。

しかし、この年も最下位。この年のオフ、一度は続投も報じられたものの、沙知代夫人が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕された当日に辞任を発表した。その件に対して、久能靖は、「監督不行届」と言った。結局、阪神監督としては3年連続最下位と順位の上では最低の成績で終わった。このことからヤクルト時代は戦力によって勝てただけと言われることもある。


F1セブン
F1セブン(エフワンセブン)は、2001年に本拠地である甲子園が広いということ、ホームランバッターが皆無というチーム状況の中で、機動力重視のチーム方針の象徴として名付けられた選手たちのことを言う。

メンバー
(1号車)赤星憲広
(2号車)藤本敦士(現・東京ヤクルトスワローズ)
(3号車)沖原佳典(2008年に現役引退)
(4号車)上坂太一郎(2007年に現役引退)
(5号車)平下晃司(関西独立リーグ・大阪ゴールドビリケーンズに所属)
(6号車)松田匡司(2004年に現役引退)
(7号車)高波文一(2009年にオリックス・バファローズから戦力外通告)
この当時から俊足選手として重宝されていた田中秀太がF1セブンの一員に入っていないのは、野村監督が加えるのを忘れたためで、翌日、野村監督は「秀太忘れとった、F1エイトや」と訂正したが、ほとんど話題になることはなかった。

F1セブンと平成の新少年隊
F1セブンは、かつての大洋のスーパーカートリオ(屋鋪要・高木豊・加藤博一)を意識したネーミングで、野村監督曰く「スーパーカーはもう古い、これからの時代はF1」とのことで「F1セブン」となった。
上坂、松田、高波以外の選手は新入団で、平下(近鉄からのトレード入団)を除く3人は野村監督が直々にスカウティングを行った選手だった。そのためキャンプでは新戦力に期待するファンが多かったが、オープン戦では全員が打率2割台以下に落ち込み、オープン戦で大爆発を見せた新外国人のイバン・クルーズに話題を奪われた。
シーズン序盤に空中分解したF1セブンの後釜をと、同年6月には上坂・赤星・濱中で『平成の新少年隊』を結成したが(当初は藤本の予定だったが、藤本が怪我で2軍落ちしたため、上坂と交代)、F1セブンと比べると話題性は小さかった。
F1セブンのメンバー及び平成の新少年隊では、赤星がルーキーながら盗塁王を獲得し、藤本・上坂も若手ながらレギュラーを奪取、濱中もこの年にブレイクするなど活躍。一定の成果が見られた。
後に赤星・藤本は2003年、2005年の阪神優勝の原動力となり、沖原も2003年の優勝にスーパーサブとして大きく貢献するなど、一部のメンバーは活躍を見せた。
翌年、星野仙一監督が高波・松田の代わりに坪井智哉・濱中を加えた「新F1セブン」を考案したが、これも話題にならなかった。
野村監督が楽天の監督に就任すると、元F1セブンの一員で西武を戦力外通告になった高波を楽天に入団させた。2008年オフには高波、沖原ともに自由契約。また2007年オフにはトライアウトで上坂を視察したものの獲得には至らず。

阪神監督としての評価
阪神監督時代は「何度駄目なところを指摘しても直さない。日本語が通じないのか」と酷評していた今岡誠や大豊泰昭(後に中日移籍)、ダレル・メイ(後に巨人移籍)、坪井(後に日本ハム移籍)ら主力選手、岡田彰布2軍監督との対立・確執が表面化。阪神はOB会が強い権力を持ち、ダッグアウトにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、彼らとの確執もあった。また、戦力的に使えないとされる選手をなぜか優遇する一面も見られ(2002年オフに、後任の星野はフロントを説得して大量の戦力外通告を敢行した)、結果的には3年連続最下位に終わった。

しかし、投手陣では福原忍に大きな期待をかけて重用し、若手で実績が無かった井川慶をエースとして育て、野手陣でも赤星、藤本、沖原、濱中、上坂などの若手を積極的に起用し(赤星、沖原らは野村本人がスカウトとして日本選手権等を視察してピックアップした選手)、矢野輝弘に捕手として大きな影響を与え、桧山をスランプから脱却させるなどの選手育成も見られた。

また、フロントへの積極的な戦力補強の進言も見られ、久万俊二郎オーナーは元々FAなどで日本人選手を多額の金銭で獲得することに渋っており、「巨人のようになれというのか」「4番バッターを育てるのが監督の役目」などと拒否していたが、野村は「ある意味では(巨人の補強方法は)正しい、時代に合ったものです」と進言し、「じゃあ今まで60年あった阪神の歴史の中で誰が4番バッターにまで生え抜きで成長しましたか? 掛布雅之ぐらいでしょう。あと60年待ちますか? 4番バッターだけは(才能ある選手との)巡り会いなんですよ」と説いた(著書『野村ノート』より) 後任として中日の監督だった星野を推薦したのも野村であるという。任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り「今の状態の阪神を再建できるとすれば西本(幸雄)さんか星野だ」と、既に熱血指導型の星野に後を託す考えもあったと言われる。その後阪神は、野村辞任の2年後にあたる2003年と岡田監督2年目の2005年にリーグ優勝を果たした。また4番バッターについても広島からFAで金本知憲を獲得している。後任の星野もオーナーに直談判をし、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ」と発言したが、阪神の監督が久万オーナーに自ら会談したのは野村が最初である。

また、星野は「教科書としてよく出来ている」ということで『野村の考え』をテキストとして使ったことがある。

1999年のオープン戦で、強肩の新庄剛志を「投手心理を理解させるため」ピッチャーとして起用したことは話題を呼んだが、野村が提言する「考える野球」と新庄の積極的な性格も相まって関係は良好だった。1999年6月12日の対巨人戦におけるサヨナラ劇では新庄が「敬遠されたらボール球を打ってもいいか」と奇襲策を提案し、野村は「勝手にしろ」と事実上のゴーサインを出している。結果は三遊間を抜けるヒットになりサヨナラ勝ちを収めた。

2006年5月30日、野村は楽天の監督として初めて甲子園球場における阪神戦(セ・パ交流戦)を迎えたが、選手交代を告げにグラウンドに姿を現す野村を、甲子園の阪神ファンは歓声と拍手で迎えた。

現在でも、野村監督時代に台頭した赤星、藤本、矢野、桧山らは楽天戦の試合前には必ず挨拶し、その様子は新聞などによって度々報じられている。

シダックス監督
2002年秋から社会人野球チームシダックス野球部監督兼ゼネラルマネージャーに就任した。 就任当時のシダックスは弱小チームであり、走者が送球に当たってアウトになるなど凡ミスの連続だったが、野村は持ち前の理論を元にチームを徹底的に改革。また、解説者時代に培った豊富な人脈でキューバ人選手を獲得するなど大型補強を敢行し、チームは野村就任後わずか数ヶ月で社会人野球ベーブルース大会で全国制覇を達成、野村は史上初のプロ・アマ両方での日本一監督となった。このときの選手に、野間口貴彦や武田勝、オレステス・キンデラン、アントニオ・パチェコなどがいる。

その後、都市対抗野球で準優勝するなど快進撃を続け、瞬く間に社会人を代表するチームとなった。2003年の都市対抗野球では野村采配見たさに社会人野球では異例の4万人のファンが押しかけ、東京ドームが満員札止めとなった。

2004年には日本が勝てなかったキューバの五輪金メダルチームに練習試合で完勝し、「シダックスこそが世界最強」とさえも言われた。 この試合では、野村は後にプロ入りする野間口貴彦や武田勝に比べて力が劣ったためにプロ入りできなかった杉本忠という無名のアンダースロー投手を先発させてキューバ打線を完封した。野村はキューバの打者がアンダースローが苦手だと見抜いていた。試合後、野村は「なぜ長嶋ジャパンはアンダースロー投手を代表に入れないのか」と選手選考を批判した。

その後も多くの社会人大会で優勝した野村シダックスだったが、野村は楽天監督就任要請を受けたために2005年10月3日、社会人野球日本選手権を最後にシダックス監督を退任することを発表。11月19日の対日本生命戦(1対2で敗退)が最後の指揮となった。なお、日本野球連盟は、社会人野球界に大きな貢献をしたとして、2005年社会人ベストナイン特別賞を野村に授与している。

現在キューバの監督をつとめるパチェコは「野村の野球を日本で吸収した」と語るなど、シダックスで得たものは大きいようである。

プロへ輩出した選手
庄田隆弘外野手(2003年ドラフト6巡目・阪神)
野間口貴彦投手(2004年ドラフト自由獲得枠・巨人)
武田勝投手(2005年ドラフト4巡目・日本ハム)
小山桂司捕手(2005年ドラフト5巡目・日本ハム)現・中日
森福允彦投手(2006年ドラフト4巡目・ソフトバンク)

楽天監督
2005年9月、楽天は「チームの再構築が必要」などという事情から初代監督の田尾安志を就任1年足らずで解任。この時、野村は楽天側から非公式の監督就任の打診を受けていたものの、契約条件や巨人を自由契約になった清原和博の獲得問題などで難航。だが、10月3日、社会人日本選手権を最後にシダックス監督を退任するとともに、楽天の監督就任要請を正式に承諾。5年ぶりにプロ野球界に復帰することとなった(3年契約)。日本のプロ野球において70歳代の監督となったのは仰木彬(2005年オリックス・バファローズの監督として1年間指揮をとったものの、同年12月15日に死去)に次いで史上2人目、監督契約としては元太平洋クラブ(現・西武)のレオ・ドローチャーを含め3人目であり、1年間監督を続け仰木の持つ最年長監督記録を更新した。

監督就任に対し野村は「このおじいちゃんに監督の要請が来ること自体プロ野球に後継者が育っていないことを意味している」とコメントしている。

2006年5月11日対横浜戦の8回裏に谷中が投じた肩付近への死球が危険球とみなされ退場処分になったことに木内球審を突こうとするなどして猛抗議。あわや退場処分になるところだった。5月16日に、フルスタ宮城で行われたセ・パ交流戦で、ヤクルトを率いる古田監督との師弟対決が実現した(結果は、10-9でヤクルトが勝利)。以後この師弟対決は5回戦まで全てヤクルトに凱歌が上がっていたが、雨天中止で予備日(6月19日)に回された6回戦に4-2で勝つと同時に、ヤクルトの交流戦単独優勝の可能性を消滅させた。

また、かつては自軍の選手が本塁打を打ってもベンチに座ったまま出てこようとはしなかったが、ベンチから出て選手をハイタッチで出迎えるようになった。相変わらずの毒舌も度々飛び出す一方で記者の質問にジョークを返したり、ユーモアを交えて回答するようになった。テレビのスポーツニュースでは毎回野村の試合後のコメントが伝えられている。特に田中将大が登板した日のコメントは「マー君、神の子、不思議な子」や「不思議の国のマー君」などと残しており、スポーツ紙などでは名物コーナーとして「野村語録」が次第に常設されるようになった。

育成方針も基本的には叩いて伸ばすタイプだが、最近では活躍した選手や、進歩が見られる選手に対しては素直に感謝や賞賛の言葉を贈ることが多くなっているなど、以前とは違った面を見せ始めた(これは年齢を重ねていくに伴って「性格的に丸くなってきた」とする意見が多い)。ただし息子のカツノリを低打率弱肩であるのにもかかわらず起用し続けたことに関してはファンから猛烈な反発を浴びた。カツノリは同年に戦力外通告されたのを機に現役を引退し、新設の2軍育成コーチに就任(その後、2008年に1軍バッテリーコーチに転身)。

2006年の公式シーズン後(11月)に行われた日米野球の監督を務めたが、選手の出場辞退が相次ぎ、史上初めてメジャーリーグ選抜チームに5戦全敗。72年ぶりの記録を作ってしまう。

2006年11月23日に開催された楽天のファン感謝祭において、「来年は私の野球人生のすべてを懸ける。Aクラスに入れないようなら辞めて次の人に譲ります。いくら東北のファンが粘り強いと言っても、(新規参入から)3年連続で裏切ったら許してくれないでしょう」と、来季の成績に自分の進退を賭ける旨の決意表明をした。これは球団側も聞かされていなかったという。米田純球団代表も突然の事態に困惑していた。野村監督は監督就任当初から「作る年、戦う年、勝つ年」と3年をかけてのチーム作りの方針を語ってきたが、2007年は3年契約の2年目であり「戦う年」にあたる。監督自らが提唱するチームの計画に反するため、本当に辞めるつもりだったのか、それとも辞めるくらいの決意で戦うということなのか、という点については定かではない。また、球団側は2007年シーズンが終了してもまだ契約が残っていることを強調しているため、来季の成績如何にかかわらず慰留する方針であると考えられていた。11月26日に行われた球団納会において島田亨球団社長から前述の発言の再考、撤回を求められたが拒否した。11月28日に行われた楽天の経営諮問委員会に出席し、その場で三木谷浩史オーナーや東北の財界者にAクラス入りを果たすまでは辞任しないで欲しいと長期政権を望まれた。しかし「成績が悪ければ進退伺を提出するのが通例。来季は自分の野球生命を賭ける」と今までと同じ姿勢を崩さなかった。

2007年シーズンでは、新人を含め若手選手を積極的に起用する場面が目立った。投手陣では一場靖弘、岩隈久志らのシーズン序盤の離脱の影響もあったが、永井怜、田中将大らを先発ローテーションに起用。捕手は育成を兼ねてルーキーの嶋基宏を多用。またシーズン中盤には渡辺直人、草野大輔らが台頭した。後半戦開始間もなく福盛和男が離脱するものの小山伸一郎をリリーフエースとして起用、一場靖弘、岩隈久志が一軍復帰したこともあり先発ローテーションを再編し、それまで主に先発だった山村宏樹、有銘兼久、永井怜らをリリーフ転向させた。結果は球団3年目で初の最下位脱出となる4位となる。2007年10月4日、3年契約最後の年である2008年も予定通り監督を続けることを表明。

2008年6月29日、対ソフトバンク戦では球団史上最多の20安打の猛攻で15点を奪い大勝。この日は73歳の誕生日で、7年ぶりの誕生日白星となり、選手達が用意した帽子型のケーキで祝福された。7月5日、対西武戦(西武ドーム)では「ライオンズ・クラシック」の企画の一環で、1963年に当時の日本記録である52本塁打を達成した西鉄ライオンズ対南海ホークス戦を再現する形でイベントが行われた。豊田泰光(元西鉄)が始球式を行い、野村が捕手を務めた。7月15日、対日本ハム(東京ドーム)戦で監督として通算3000試合出場を達成、選手としても通算3017試合に出場しており、日米ともに例のない、選手・監督両方での通算3000試合出場を達成した。この年は序盤に球団初の単独首位になるものの交流戦後半から失速、かろうじて最終戦で勝利して最下位脱出をしたものの5位に終わる。2007年とはうって変わり、得失点差はプラスとなり、エース岩隈久志が21勝を挙げて復活するなど戦力の整備は進んだものの、順位には反映されなかった。同年シーズンを以って3年契約が終了。去就が注目されたが、球団から戦力の整備を評価され、1年契約での続投要請を受ける。野村自身もそれを受諾し、2009年も引き続き楽天を指揮することになった。

2009年シーズンは開幕から投手陣を中心に怪我人が続出した。特にドラフトで獲得した新戦力投手全員が、オープン戦前に怪我してしまい、片山博視や青山浩二といった期待される若手もキャンプで出遅れたうえ、昨年活躍した新守護神川岸強も公式戦後すぐに体を痛めるなど、投手に関しては指揮を執って以来の災厄に見舞われた。さらに野手に関しても、高須洋介やリック・ショートなどが故障でシーズン中に長期間戦線離脱するなど怪我人の多い年となった。スポーツ紙での解説者の順位予想では楽天は軒並み下位予想され、野村はこれに対して「下馬評が低いからやりやすい」とコメント。

開幕当初はチーム初の開幕4連勝を果たす好スタートを見せ、4月を首位で終える。しかし、怪我人が続出した5月以降は調子を落とし、交流戦では最大6連敗を喫し7月には3年ぶりの8連敗を喫し、一時は5位にまで後退するが、8月に入り最大6連勝を含め通算17勝7敗。9月以降も好調を維持し、9月12日のソフトバンク戦(ヤフードーム)でチーム初のクライマックスシリーズ(以下「CS」)進出マジックナンバー「19」が点灯。2度消滅するが、10月3日の西武戦(Kスタ宮城)で勝利、チーム初のCS進出決定。同9日のオリックス戦で2位が確定し、CS第1ステージの地元開催権を獲得する。しかし、その翌々日・11日のレギュラーシーズン最終戦(対ソフトバンク=Kスタ宮城)終了後、球団から契約を更新しない旨を告げられ、同年シーズン限りでの退任が決定した。16日に開幕したCS第1ステージではソフトバンクに2連勝し第2ステージ進出を決めたが、10月21日開幕の第2ステージでは日本ハムに1勝4敗を喫し、日本シリーズ出場はならず。日本ハムのCS優勝セレモニー後、楽天・日本ハム両軍の選手・コーチに胴上げされた。11月2日、楽天の新監督に広島の前監督マーティ・ブラウンの就任が発表されるとともに、一度は拒否の姿勢を見せていた名誉監督就任要請を受諾することとなった。

タイトル・表彰・記録

タイトル
MVP:5回(1961年、1963年、1965年、1966年、1973年)
三冠王:1回(1965年)※戦後初。
首位打者:1回(1965年)
本塁打王:9回(1957年、1961年 - 1968年)※9回獲得、8年連続獲得はいずれもパ・リーグ記録。
打点王:7回(1962年 - 1967年、1972年)※7回獲得、6年連続獲得はいずれもパ・リーグ記録。
ベストナイン:19回(1956年 - 1968年、1970年 - 1973年、1975年、1976年)※通算19回受賞は、史上最多。
ゴールデングラブ賞:1回(1973年)

表彰
日本シリーズ敢闘賞:1回(1973年)
オールスターMVP:1回(1972年第1戦)
野球殿堂入り(1989年)
正力松太郎賞(1993年)
京丹後市名誉市民(2009年)

記録
実働26年(1954年、1956年 - 1980年)※パ・リーグ記録、歴代2位。
21年連続シーズン2桁本塁打(1957年 - 1977年)※歴代1位タイ。
4年連続シーズン40本塁打以上(1962年 - 1965年)※歴代3位タイ。
7年連続シーズン30本塁打以上(1962年 - 1968年)※歴代4位タイ。
17年連続シーズン20本塁打以上(1957年 - 1973年)※歴代2位。
4年連続シーズン100打点以上(1962年 - 1965年)※歴代4位タイ。
シーズン40本塁打以上:5回(1962年 - 1965年、1970年)※歴代3位タイ。
シーズン30本塁打以上:10回(1957年、1962年 - 1968年、1970年、1972年)※歴代2位。
シーズン20本塁打以上:18回(1957年 - 1973年、1975年)※歴代2位。
シーズン本塁打:52(1963年)※歴代5位タイ。
シーズン100打点以上:7回(1962年 - 1965年、1967年、1970年、1972年)※歴代2位。
シーズン100安打以上:18回(1957年 - 1968年、1970年 - 1973年、1975年、1976年)※歴代3位タイ。
5試合連続本塁打(1970年7月15日 - 7月26日)
1試合に満塁本塁打とサヨナラ本塁打(1968年10月3日)※史上2人目。
逆転満塁サヨナラ本塁打(1966年5月14日)※史上7人目。
通算猛打賞:180回 ※歴代4位。
通算満塁本塁打:12本 ※歴代6位タイ。
通算サヨナラ本塁打:11本 ※パ・リーグ記録。
通算サヨナラ安打:19本 ※パ・リーグ記録。
通算本塁打657本 ※パ・リーグ記録。捕手としての世界記録。
オールスター出場:21回(1957年 - 1968年、1970年 - 1977年、1980年)※通算21回出場は、史上最多。1969年にもファン投票で選出されているが、負傷により出場辞退。
オールスター通算安打:48本 ※歴代1位。
オールスター通算二塁打:15本 ※歴代1位。
通算1000試合出場 1963年7月31日(82人目)
2桁盗塁:3回
捕手として3017試合出場(日本プロ野球記録。捕手としては世界でも異例の大記録で、捕手の世界記録)

発言

代表的な発言
王や長嶋がヒマワリなら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草
1975年の日本ハム戦(後楽園球場)での600号達成時の談話で。同時期にセ・リーグで活躍していた大人気の巨人の長嶋茂雄や王貞治に比べると、パ・リーグ・南海・野村は世間から注目されることは少なった。600号自体は前年に王が達成しており、野村の600号の注目度が上がらないことは野村も自覚しており、なんとかマスコミに1面トップで扱ってもらうには、なにか良い談話を発表しなければ無理だと思い、1ヶ月前から談話を考えていた。また600号達成時には当時の野村としては珍しくベースランニング中にジャンプして喜びを表現していた。
この言葉は、野村現役時代の代表的発言となり、以後、「月見草」が野村の代名詞となった。しかし実際には何かと目立ちたがりな野村を月見草と呼ぶには疑問がある。
なお、野村と両人は親交があり、3人で旅行へ行ったこともあるという。
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし
この言葉は野村の創作ではなく、松浦静山の剣術書『剣談』からの流用である。「負けるときには、何の理由もなく負けるわけではなく、その試合中に何か負ける要素がある。勝ったときでも、何か負けに繋がる要素があった場合がある」という意味。試合に勝つためには、負ける要素が何だったか、どうしたらその要素を消せるかを考えて行く必要がある。また、もし勝ち試合であっても、その中には負けに繋がることを犯している可能性があり、その場合はたとえ試合に勝ったからと言って、その犯したことを看過してはならない。
先入観は罪、偏見は悪
初めの勝ちは、嘘の勝ち
1992年、森祇晶監督率いる西武との日本シリーズ第1戦勝利後のインタビューで。野村は短期決戦では初戦を重視しており、1973年の阪急とのプレーオフ、監督として出場した5回の日本シリーズはいずれも初戦に勝利している。一方の森は当時から第2戦に重きをおいた発言をしており(この年の日本シリーズでも、シーズンの成績が良かった郭泰源や石井丈裕ではなく、渡辺久信を第1戦の先発としている)、この発言は森の第2戦重視主義を意識した発言といえよう。
なお、野村は森と親交があり、監督としての立場を離れれば、野村が「一晩中、彼と野球の話をしてますよ」と言うぐらいの仲である。巨人V9時代には日本シリーズ対策として、森がパ・リーグ選手の情報を聞きに野村の家をよく訪問しており、その親密ぶりは「野村の家には、森の歯ブラシがある」と称されるほどだった。
戦いに勝つは易し、勝ちを守るは難し
1993年、セ・リーグ優勝を決めた直後、神宮球場での監督インタビュー締めの言葉。この年は名言格言・故事成句などを引用したコメントが多い。
人生の最大の敵、それは「鈍感」である
ヤクルト監督時代に時折発していた言葉。
これが楽天野球です。安打多くして得点少なし
2008年4月30日、オリックス戦終了後のコメント。

エピソード

人物・プライベート
幼少時代からの極貧生活の反動で、一流選手になってからは金遣いが非常に荒くなった。
超一流ブランドの衣服、時計、装飾品を毎週のように買い込み、スーツは250着、ネクタイはその倍をいっていたという。沙知代夫人と初めて出会ったときもジバンシーのシャツだった。
前妻のもとを離れ、沙知代夫人と同居する時も、トラックに衣服を詰め込んで、やってきたという。
車は決まって外国車(現役時代はリンカーンコンチネンタル)。「贅沢だと思われるけど、下取りを考えても国産と比べても、大差ない」というのが持論だった。
沙知代夫人と再婚してからは、夫人が一切現預金を管理しているため、現金を持たせてもらえず、クレジットカードだけ持たされている。

“野村克也-野球=ゼロ”
自分から野球をとってしまったら何も残らないという意味で、自らこう語っている。
自分にとって現金が「精神安定剤」であり、現金での買物しか出来ない。ある日、一流ブランド店に行った時、服や宝飾品、時計を眺めていると、店員に言葉巧みに買わされてしまう。そこで、『監督、(クレジットの明細書に)サインして』って言われ、且つクレジットカードの仕組みが分からず、『カードを見せてサインしただけで、なんで商品をくれるんだろう』と思っていたという。おまけに、クレジット明細が沙知代夫人の元に届くことを知らず、いつ、どこで、何を、いくら買ったかが全てバレてしまい、夫人から追及され、『オレの後をつけて来てるやろ、嫌らしい女やな』と言ったという。
キャッシュカードで現金を引き出すやり方も知らず、『選手がやるとお金がジャージャー出てくるのに、自分がやるとなぜ出来ないのが不思議だった』という。つまり、引き出すには暗証番号が必要であることを知らなかった。
現役時代から、付き合い程度でしかゴルフをやらず、ゴルフ場にもほとんど顔を出さない。1975年オフの球団納会ゴルフにいて「なぜ監督がいるのか?」と江本孟紀が驚いていたが、江本への阪神へのトレードを通告するためだけに来ていた。この時に発した言葉は「お前、旅に出てこいや」だった。
選手の身なりや礼儀に非常に厳しいことで有名で、挨拶をしにこない選手に対しては露骨に不機嫌になるという。アナウンサーや市井のファンにまで挨拶や言葉遣いを厳しく注意することがあり、かつては試合後に罵倒したファンを逆に罵ったこともある。
縁起を担ぐことで有名で、勝ち続けた日は下着を変えない、負けた日は行きと同じ道を通らない、など徹底している。遠征先でもバスやタクシーの運転士に命じてまで実行するという。
沙知代夫人の存在の影響もあるせいか、日本でも代表的な恐妻家と思われている(野村に限らずスポーツ選手は恐妻家が多い)。野村の語録に「オレも支配下選手だからな」という台詞がある。
血液型による性格付けを信じているとされる。なお、血液型と性格との間に特殊な関連を設定した統計的な検証も行われてはいるが、そのような関連を裏付けるような統計データは得られてはいない。
現役を引退してからは、金輪際体を酷使することはしないことを誓ったため、一切運動はしていない。カメやワニが長生きするのは動かないからということを真似たことだと語っている。故に70歳を過ぎても健康且つ長生きする秘訣と語っている。
若い頃は酒をどんなに飲んでも翌日に酒が残ることはなかったが、1973年の南海選手兼任監督時代、飲んだ翌日、二日酔いが抜けなかったことをきっかけに、以後たまにワインを口にする程度で、現在はビールかけ以外では一切酒を口にしなくなった。また、タバコは1日ケントを40~50本吸うほどのヘビースモーカーで、南海時代に一時期禁煙していたが、体重が90kgを超えたため、再び喫煙するようになった。しかし、1989年のヤクルト監督就任後の秋季キャンプ時に体調を崩し入院してからは一切吸わなくなった。

現役時代
27年に及ぶ現役生活だったが、一度もノーヒットノーラン捕手になったことがない。ヤクルトの監督時代に1995年にテリー・ブロス、1997年に石井一久が優勝の行方を左右する9月の試合で達成し、いずれもその年は優勝している。その年のテレビ番組等で、いずれも苦しい時期での達成だったため優勝を確信した試合としてコメントしている。
オールスター戦の際は試合後選手全員で入浴するのが常だったが、他の選手は皆堂々と前を出しているのに張本勲だけは常にタオルで股間を隠していた。これが気になってしょうがない野村が洗髪中にいきなりタオルを剥ぎ取ると、動揺した張本は逃げるように風呂場から立ち去った。後年張本にはささやき戦術が全く通用しなかったが、「おいハリ、お前は態度はでかいのに、ナニは小さいのう」と野村がこの時のことを揶揄すると、張本は赤面する程に狼狽し効果てきめんだった。ただし次の打席では張本の報復に遭い(前述の空振り殴打)、結局この戦術は1打席しかもたなかった。
西武時代に「ささやき戦術」を用いていたところ、同僚に田淵幸一がいたため、いしいひさいちの『がんばれ!!タブチくん!!』でネタにされた。基本的に人のいい田淵とは対照的なプレイを揶揄されていた。
南海在籍時代、球団オーナーに「南海を和歌山か四国に移転させませんか?」と提案したことがあった。理由は大阪府・兵庫県に南海を含めて4球団(大阪 - 南海・近鉄、兵庫 - 阪神・阪急)では観客とファンの奪い合いになることもあり、それであれば親会社である南海電気鉄道(南海電鉄)沿線の和歌山県かプロ野球のない四国地方への移転をすれば地域に密着した球団になるとの考えからだった。なお、厳密には南海電鉄は四国地方も自社の営業区域の1つとして捉えており、徳島バスなどの南海系列の会社も四国に所在している。
プレースタイルなどについて考えることの重要さを口を酸っぱくして解いている。これは育成選手時代、まっすぐ投げられないのを先輩に指摘され、その原因がろくな握り方も知らないことであったことを知ってから考えることの重要性を知ったという。また、先輩の「遠投は体全体で投げること」を「体全体を鍛えればいい」と解釈し、当時タブーであったウエイトトレーニングを始めた。
通算最多併殺打の記録は1位である。2位とは100本差近くを開けて独走している。

監督時代
母子家庭に育ったせいか、見た目とは逆に情が深く、南海兼任監督時代には選手や裏方のことを常に気にかけていた。(出典:朝日文庫・長沼石根:著『球界に咲いた月見草 野村克也物語』より)
猛打賞等でもらったアンダーシャツ、ソックスをダンボールに山ほど積んで選手や打撃投手・捕手によく配っていた。
スーツをよく裏方スタッフにあげていた。
トレードを積極的に行っていたが、選手によっては恨みをもたれていたこともあった。トレードを敢行した理由としては戦力としてだけではなく、実は選手を借金地獄から救う為や、チーム内での交友関係を思い、移籍先に頭を下げて引き取ってもらったこともあったという。
ある主力投手は投手コーチと衝突し、トレードに出して欲しいと直訴してきた。しかし、『自分が球を受けているから、主力でいられるんや』と慰留したが、本人の意思が強く情に流され容認する。その投手はわずか数年で2球団を渡り歩き、ユニフォームを脱いだ。
逆にトレードで迎えたある選手には、飲み屋のツケを全て調べ、『お前は南海に野球しにきたんやろ、これで全部(ツケを)払ってから、球場にこいや』と言ってポンと現金を渡した。以来その選手は「この人のためなら」という気持ちになったという。
母校である峰山高が1999年の春の甲子園に出場した際に500万円の寄付を行い、京都府より推薦され紺綬褒章を授与された。
阪神監督就任時から松村邦洋に物真似され、「掛布、川藤はもう古いから、これからは新庄やれ」と言っていた。阪神の選手の結婚式の時、松村も招待されており、ここでも物真似を披露し、「松村…うまくなったね…」と言われた。なおネタは「野村克也、逆から読むと、やつからむの」だった。また、「来年の楽天のキャッチャー決まってます。克則」と楽天監督時も物真似されていた。
ヤクルト監督時、マスコットの「つば九郎」の中に入ってテレビに登場したことがある。
1992年7月5日の巨人戦で荒井幸雄がサインを見落とした際、ベンチ前で頭をヘルメット越しに叩き、後に「冷静さを欠いていた」として選手の前で謝罪している。
その日は9回表1死まで4-2とヤクルトがリードしておきながら、原辰徳の本塁打により同点に追いつかれて延長の末、敗戦(これにより同一カード3連敗を喫した)。荒井の頭を叩いたのは同点に追いつかれた直後のことである。
楽天のスタッフ(選手・コーチを含む)で唯一、型が違う帽子をかぶっていた。
2007年の暮れ日本テレビ系『行列のできる法律相談所』に出演した時に司会の島田紳助に「どうせ、来年も楽天は優勝できないんですから」といじられた。その際、法律番組であるため出演している弁護士軍団に「今の名誉毀損で訴えられないか?」と紳助を斬り返した。また、シーズン中にも関わらず同番組にゲスト出演することがある。西武との試合直後に駆けつけた2008年8月3日放送の回では、解任事件(後述)の際、監督職よりも愛人の沙知代を選んだというエピソードを披露し、話題を呼んだ。
2008年の年明け早々、田中将大とともにSMAPの木村拓哉とCMで共演を果たした。
大阪球場跡地のなんばパークスにある「南海ホークスメモリアルギャラリー」には、多数の名選手が写真入りで紹介されているが、野村を紹介した部分は全くない。球団年表には各年の監督名が記載されているが、野村監督時代のみ監督名が書かれていない。これは、メモリアルギャラリーを建設するに当たり、南海電鉄から本人宅へ連絡があったが、沙知代夫人が、過去の復讐(1977年の解任劇)のために一切名前も写真も載せないでほしいと言ったためである。野村の名前、写真が掲載されていないことで、ファンから抗議の電話が殺到したという。
前述のように鶴岡監督との深い確執を長年いわれてきたが、近年は試合前の記者談話や自著・雑誌等のインタビューで、鶴岡に最も影響を受けた等、鶴岡の話をよくしている(確執がなかったということではない)。元々、南海監督時代の野村は鶴岡の野球を継承していた。南海監督4年目の1973年に出した著書『デッチ人生20年』の副題は、鶴岡語録として有名な"ゼニのとれる人間になれ"と付けているし、本文にも度々この言葉を使っている野球ビジネスの環境の変化や鶴岡との野球観の違いで、その後野村は脱・鶴岡路線に走ったのだが2009年11月号の『Sports Graphic Number 722』では、「誰しも監督になるまで、何人か仕えてきた監督がいるわけですが、意識しているかどうかは別として、誰か一人の監督の影響が強く出てくるものなんです。〈中略〉(私の場合は)やっぱり鶴岡さんでしょうね」と話している。関係がおかしくなったのは次期監督として、野村の名前が上がるようになってから。野村自身、「テスト生で入団し中心選手まで行ったわけだから、“野村を育てた”という意味では自慢の種のはずなんですが。鶴岡さんとしては先に杉浦忠、広瀬叔功に後任をやらせたかったんでしょう。私は嫌われていました」と話す。野村が選手を褒めないのも鶴岡の影響で、鶴岡は他チームの選手は褒めても、絶対に自軍の選手は褒めなかったという。野村自身、鶴岡に褒められたのは、3年目に「ハワイキャンプの収穫は、野村に使える目途が立ったこと」と書かれたのを新聞で読んだのと、本塁打王を獲得した4年目に大阪球場の通路ですれ違った時「お前、ようなったなあ」の2回だけ。しかしそれは大きな自信になったという。「でもそれでいいんです。こうやって覚えてるくらいですから。〈中略〉監督はやたら褒めまくってはいかん。言葉の値打ちが下がります」等と話している。2009年9月6日の日本ハム戦の試合前にも「言葉は力なんだよ。いま俺がこうしてあるのも、南海3年目の鶴岡監督の一言があったからなんや。鶴岡監督はとにかく人を褒めないことで有名な人なんだが、3年目のある日『お前、ようなったな』と言ってくれた。褒めない人のそういう一言は重みがある」とほぼ同じ話をしている。
2008年オフに、沙知代夫人が作詞した「女房よ…」をリリース。TBSの「うたばん」に夫婦で出演し、披露した。
昔気質な所から「○○の違和感」などと言って、試合を欠場することをひどく嫌っている。「それ位なら出ろ」と言うのが本音。
2009年10月に楽天球団から“解任”を通告され(楽天球団は契約満了で退団と話している)「人生に疲れた。クビと言われ、どっと疲れが出てきた」。さらに「ユニホーム姿もいよいよ秒読み。でもやっぱりオレは“元南海”がいい」とも口にした。

巨人叩き
野村が徹底的な巨人叩きを始めたのは1993年に長嶋茂雄が巨人監督に就任してからという。それから十数年後、長嶋一茂の番組による訪問を受けた野村は、『球界全体を活性化させるには球界の盟主たる巨人のライバルが必要と判断、ヤクルトのフロントと協議し、「営業」的な側面を持つ「巨人叩き」を始めた』と語った。
しかし、ヤクルト監督時代にそのことを公にしなかったために誤解を生じ、長嶋茂雄がそれを本気に取ってしまったために、図らずも確執となってしまった。同じセ・リーグ球団の監督であること、個人的感情ではなく、当時は企業方針としての巨人叩きだったため、本人に対して弁明するわけにもいかず、そのまま現在に至ってしまった。
しかし、お互いの野球観の違いがあるために対立しているが、名球会へなかなか顔を出さない野村を長嶋が喫茶店に呼び出し、名球会に出てくるように説教をするなど、はじめから険悪だったわけではないことも語っていた。

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