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江夏豊

江夏 豊(えなつ ゆたか、1948年5月15日 - )
兵庫県尼崎市出身(奈良県生まれ)の元プロ野球選手(投手)、野球解説者。


経歴

阪神時代
生家は複雑な家庭で兄弟姉妹皆父親が違うという家庭に育った。大阪学院大学高等学校入学まで本格的な野球の経験はなく、中学時代は砲丸投の選手として活躍していた(県大会で2位をとったこともある)。1966年、全国高等学校野球選手権大阪大会でベスト4の成績を残す。(同校は彼が打ち、彼が投げて抑える弱小チームであった。この大会、江夏は予選7試合を1人で投げ、わずか3失点。準決勝は味方のエラーで失点、0-1で敗戦)。同年導入された第1次ドラフトで阪神タイガースから1位指名され、4球団からの競合の末、プロ野球選手となる。高校時代は変化球の投げ方を全く知らず、試合ではキャッチャーの変化球要求のサインに首を振る真似だけをし、いかにも直球以外の球を投げられるように見せかけて打者と駆け引きをしていた。これに試合観戦に来ていた阪神のスカウト陣が目を留め、「直球もよいが、なかなか頭の使える選手だ」として指名に踏み切った。入団後は、砲丸投げをしていた影響で持っていたいわゆる「担ぎ投げ」の癖を、林義一コーチが矯正させ、変化球も教え込んだ(江夏は温厚で真摯に教えてくれた林のことを「お師匠さん」と呼び慕っている)。1年目の1967年から豪速球を武器に225奪三振で最多奪三振を記録。

2年目の1968年、この年9月17日の甲子園球場における対巨人戦で王貞治の打席で稲尾和久の日本記録に並ぶ353奪三振を記録した後、後続の打者をすべて意図的に三振以外で打ち取り(投手の高橋一三も低めの球でセカンドゴロに打ち取っている。江夏曰く「森〔昌彦〕さんとピッチャーは三振を取らないようにするのがむしろ大変だった」)、再び王の打席が回ってきた時に、記録更新となる354個目の三振を奪う離れ業をやってのけた。しかもこの試合では、自らのバットでサヨナラヒットを放っている。王からの奪三振にこだわったのは、当時阪神のエースだった村山実が、節目の記録となる三振を常に長嶋茂雄から奪うようにしていたことを真似たものである(新人時代に村山がONを指さして「俺はこっち〔長嶋〕、お前はあっち〔王〕や」と、王をライバルとするよう命じられたともされる)。これ以降も江夏は王との勝負に固執し、通算で57の三振を奪ったが、直球で勝負を挑んでいたために20本の本塁打も打たれている。王から最も多く三振を奪った投手は江夏だが、江夏から最も多く本塁打を打った打者もまた王である。また、江夏は王に対し一度しか死球を与えていない。さらに10月8日の対中日戦で新宅洋志からサンディー・コーファックスの記録を抜く383個目の奪三振を達成、その記録を401個まで伸ばした。これは現在でも日本プロ野球はもちろんメジャーリーグの記録も上回る世界記録である。

頭角を現した以降の江夏は、血行障害に悩む村山に代わって阪神のエースの座に就き、最多勝利2度、最優秀防御率1回、沢村賞1回の他、20勝以上4回、6年連続リーグ最多奪三振などの記録を作りあげ、名実共にセ・リーグを代表するピッチャーとして活躍した。4年目の1970年には通算1000奪三振を記録するが、これは通算奪三振の日本プロ野球記録保持者、金田正一を上回る最短記録であった。

1971年7月17日、西宮球場で行われたオールスターゲーム第1戦で、速球と正確なコントロールで打者のバットにことごとく空に切らせ、初の9者連続奪三振を記録した。オールスターゲームは、投手は規定で3イニングまでしか登板できないため、これは振り逃げが起こらない限り可能な最高の成績である。この試合で、キャッチャーフライを追った田淵幸一に「捕るな!」と叫んだと言われているが、本人はこれを「(スタンドに入るだろうし、テンポ良く投げたかった為)追うな!」と叫んだものであると、著書の中で述べている。この9連続を挟む15者連続奪三振(前年5三振、翌日1三振)も、オールスター記録となっている。なお、この試合で江夏は自ら先制ホームランを放っているが、オールスターでの投手による本塁打は1960年の巽一に次ぐ2人目。これ以後、現在に至るまでオールスターでの投手による本塁打はない。

1973年8月30日の中日戦で、松本幸行投手と11回まで投げ合い、11回裏に同投手からの初球をライト側ラッキーゾーンに運び、「自らサヨナラホームランを放つ」という劇的な形で、日本プロ野球史上初の延長戦ノーヒットノーランを達成する。2008年の現在も、延長戦ノーヒットノーランを達成しているのは江夏だけである。その際に残したとされるコメントが「野球は一人でも出来る」と歪曲されて報道され物議を醸したが、自身はこれについて一切言い訳をせず、それが非難に拍車をかける形になった。また、この試合を実況した朝日放送のアナウンサーが興奮のあまり「バンザーイ!江夏大バンザイ!」と万歳を連呼、公平性を欠くと注意を受けるという後日談もあった。なお、「サンテレビボックス席」で放映されたこの試合の中継映像は、現在でもサンテレビに保管されている。

このように華々しい活躍を見せていた江夏だが、当時は巨人が前人未到の9連覇を成し遂げている真っ只中であり、優勝戦線に加わることはあったものの、ペナントをその手にすることは遂にできなかった。中でも9連覇を許した1973年は、あと1勝すれば優勝という129試合目の対中日ドラゴンズ最終戦に先発し打ち込まれて敗戦投手となったことから、優勝を逸した元凶であるとまで言われることとなった。1974年からは血行障害や心臓疾患が悪化し、肩痛・肘痛を抑えるために服用していた痛み止めなどの影響で体重も激増。同世代のライバルであった巨人・堀内恒夫に先んじて通算150勝を達成するも、成績は年々下降していた。同時期、金田正泰、吉田義男両監督との確執などから「一匹狼」「ロンリーウルフ」といった異名をつけられ、マスコミにフロントとの対立がクローズアップされる。1970年の黒い霧事件に続く騒動に不本意ながら巻き込まれたことも、江夏へのマイナスイメージをファンに植え付けることとなってしまった。そして1976年1月、江本孟紀・島野育夫らとの交換トレードで南海ホークスへ移籍。フロント主導で一方的に決められたトレードで、会見の場で江夏は涙ながらに無念を語っていた。

なおこのトレードの際、江夏は交換相手の江本に関し「なぜあんなレベルの選手と(俺が交換させられるのか)」とぼやき、それを聞いた江本が「言いたい放題言いやがって」と激怒、一触即発の状態に陥った。しかし彼とは後に和解して良い友人となり、後年江夏の刑事裁判において情状陳述をするまでの関係になっている。

南海時代
当初はホークスに移籍する気は全くなく、阪神在籍のまま現役を終えるつもりだったという。しかし、野村克也選手兼任監督と会った時に、その野球観に深い感銘を受け、南海での現役続行を決意する。1975年10月1日の対広島戦、走者満塁で衣笠祥雄という場面で、江夏はカウント2-3から意図的にボール球を投げ空振り三振を奪ったが、野村はこのボール球が意図的だったことを看破していたという。

移籍一年目は先発として登録されたが、血行障害や心臓疾患などで長いイニングを投げられず、思うような成績が残せなかった。しかし抜群の制球力は健在であったため、50球程度の短い投球回なら十分に戦力になると考えた野村監督から、リリーフへの転向を何度となく打診された。江夏は当初「トレードの上に今度はリリーフと、何で自分ばかりに恥をかかせるのか」と反発し続けていたが、「野球界に革命を起こそう」という説得の言葉が決め手となり、1977年6月にリリーフ投手へと転向を決意。この年19セーブで最優秀救援投手に輝き、日本野球界におけるリリーフ投手のパイオニアとなる。江夏は「ムース(野村のニックネーム)の『革命』という言葉が心に響いた。革命と言われなかったらリリーフ転向は受け入れなかったと思う」と語っている。

当時はリリーフ専門投手の調整法というものが日本には無く、ずっとベンチに座って待機していることが腰痛持ちの江夏には辛かったことから、知り合いの記者にメジャーリーグでのリリーフ投手の調整法などを聞き、自己流の調整を始めた。試合が始まっても5回までベンチに入らず、ロッカールームでマッサージを受けたり睡眠を取ったりする調整法は、当時チーム内や球界で非難を浴びたが、今日ではこれらは全試合待機を義務付けられるリリーフ投手のコンディション維持方法として定着している。

この南海時代以降、阪神時代の豪腕は鳴りを潜めたが、打者の心理を読み取って変化球を巧みに使い分ける技巧派投手として開眼。その投球術は、金田正一をして「現役時代の自分を上回る」と言わしめた。

広島時代
1977年オフ、野村監督の解任に際して「野村さんがやめる以上出してください」と発言し、金銭トレードで広島へ移籍。黄金期を迎えていた広島のリリーフエースとして活躍し、1979年、1980年の2年連続日本一に大きく貢献した。1979年には、自身初、そして日本のリリーフ投手でも初となるシーズンMVPに輝いている。近鉄バファローズとの対戦となった同年の日本シリーズでは、最終第7戦にて1点リードの9回裏に無死満塁のピンチを自ら招くも、一死からのスクイズを見抜くなどして反撃を断ち、広島を日本一に導いた。この時の様子は、後に作家の山際淳司が『江夏の21球』という短編ノンフィクションに記し、現在ではプロ野球史屈指の名場面として定着している。江夏本人も後年、「広島時代は楽しかった。特に1979年」と回想している。またこの時期、大野豊にフォーム改造などの熱心な個人指導も行い、後の大野の成長の礎を作り上げた。

1980年7月22日オールスター第3戦(後楽園球場)、2-0とリードしたセ・リーグが9回裏に1点差に詰め寄られ、なおも無死満塁の一打逆転サヨナラのピンチに野村収(大洋)をリリーフした江夏は、後続のレロン・リー、有藤通世(ともにロッテ)、山内新一(南海)[1]を3者連続三振に打ち取り、先制打を打った真弓明信、ホームランを打った掛布雅之を抑えMVPを獲得し、“9連続三振の再現”“前年の日本シリーズ(江夏の21球)の再現”と話題になった。

この時のチームメイトだった衣笠祥雄とは無二の親友であり、現在でも交流が深い。著書によると「広島時代は、嫁さんといる時間よりサチ(衣笠)といる時間の方が長かった」という。

日本ハム時代
1980年、日本ハムファイターズはパ・リーグ後期シーズンで優勝争いを演じた。自らのチーム強化に手応えを感じた大沢啓二監督は、リリーフエースを求めて広島へ江夏の獲得を自ら打診。同年オフ、先発エースだった高橋直樹とのトレードで、江夏のファイターズ移籍が決定した。

移籍1年目の1981年、リリーフエースとしてチームの19年ぶりの優勝に大きく貢献し、シーズンMVPに輝く。両リーグでのMVP受賞は、プロ野球史上初めてのことであった。広島時代の1979年から1983年まで5年連続で最多セーブ投手のタイトルを獲得し、同時期、12球団全てからセーブを挙げる史上初の記録も作り上げた。1982年、通算200勝を達成し、日本プロ野球名球会に入会。

西武時代
1983年オフ、日本ハムの大沢監督が勇退。「お前をとってきた俺がやめるんだから、お前も日ハムをやめろ!」という大沢の強引な説得により、移籍が決まる。背景には新監督となった植村義信の構想から外れていたことも有った。この時点ではまだ移籍先が決まっていなかったが、球団常務となる大沢に希望球団を聞かれたところ、「行きたくないのは巨人、阪神、広島、西武。強い巨人、西武と対戦できるならどこでもいい」であった。しかし、柴田保光・木村広とのトレードで西武ライオンズへの移籍が決定。これは、巨人が江夏獲得に乗り出してくると見た西武が、巨人に取られる前に自分の所に引き入れようという意図によるものであったと、後に坂井保之は語った[2]。

西武監督の広岡達朗は厳格な選手管理で有名であり、西武に移籍決定後は、一匹狼の性格の江夏は広岡と早かれ対立を起こすのではないかとの声が上がった。しかし、江夏は日本ハム在籍時に西武からバント攻めを受けた経験から広岡の野球に感服しており、そして広岡のほうも江夏の実績と野球術を高く評価していた。だが、1984年の開幕から江夏は調子が上がらず、シーズン途中で体調不良を訴えた。広岡は江夏の体調の報告が再三にわたって大きく食い違うことに不満を持ち、2軍落ちを宣告し入院を命じた。一方、江夏は広岡が選手とコミュニケーションをとらないことに不満を募らせた。江夏によればこの2軍落ちの決定は新聞報道で初めて知ったのだった。

その後、ベースボール・マガジン社「日本プロ野球トレード大鑑」でのインタビューの際、広岡については「野球という面では教えられることが多かったし、素晴しい指導者として認めますが、人間的に許せない所があったので」と、飽くまで人間面への批判であるという姿勢を取っていた。

チームは優勝争いから脱落したのを受けて、シーズン途中で早くも将来を見据えての若手中心の選手起用を行っており、ベテランの江夏に出番が与えられることはなかった。史上初の通算200セーブ、通算3000奪三振が目前だったが、1984年限りで西武を退団し、現役引退を表明。球団主催の引退試合は行われなかったが、多摩市一本杉公園野球場にてナンバー編集部主催で日本プロ野球名球会が協力し「たったひとりの引退式」を行った。

この引退式の引退挨拶で、メジャーリーグ挑戦する旨を述べる。この際江夏は「江夏豊36歳、本当にバカな男かも分かりません。ですが、日本に帰ってきたときには、たった一言、ご苦労、それだけ言ってやってください」と話している。

メジャー挑戦
翌1985年、公約通りミルウォーキー・ブルワーズの春季キャンプに参加。「アメリカでの野球生活を終えて日本に移るメジャーリーガーが多い中、日本での野球生活を終えてメジャーに挑戦する36歳のルーキー」として地元マスコミからも注目された。キャンプから順調に結果を出し、オープン戦でも好調をキープ。開幕ロースター入り最終選考まで残るものの、最後の最後で調子を落とし、開幕メジャーリーグとはならなかった。この時、球団からはマイナー契約を打診されていたが、実質的には戦力構想外であったようである。当時のブルワーズの発表によると、やはり36歳という高齢がチーム編成においてネックであったとされており、本人も「そこまでやる気は無い」として、現役を完全に退いた。

江夏と最後までメジャー枠を争ったテディ・ヒゲラは、この年に15勝、翌年は20勝をあげた。後にヒゲーラが日米野球で来日したとき、服はブランド物、腕には高級時計を身につけており、マイナー時代は普段着でもアンダーシャツを着ており、ビール1本を買う金すらロクになく江夏の部屋まで飲みに来ていた(江夏は日本球界の最高給投手だった)男の変わりぶりに、江夏は「これがアメリカンドリームか」と驚いたという。ちなみにヒゲーラ自身もマイナーで江夏と過ごしたことを忘れておらず、来日して、江夏の元に真っ先に駆けつけ握手を求めたという。

引退後
引退後は、日本テレビ及び朝日放送解説者、東京中日スポーツ評論家を務める傍ら、映画、TVドラマ、バラエティ番組に出演するなど、タレント・俳優としても活動していた。

しかし1993年3月3日、覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕されて懲役2年4ヶ月の実刑判決を受け、静岡刑務所に服役、名球会からも自主的に退会した(名球会退会については、金田会長が江夏逮捕を聞くやいなや、除名すると述べている事から、実際は除名ではないかとも言われている)。1995年4月27日、仮釈放。出所後は野球解説者・評論家に復帰し、判りやすく明晰な技術論で高い評判を得ている。

現在
現在はテレビ大阪解説者、デイリースポーツ評論家。選手を「君」付けで呼ぶ野球解説者の走りで、これは野球選手という職業へのリスペクトからであると本人は語っている。

週刊プレイボーイ(集英社)で『江夏豊のアウトロー野球論』を連載中。また、2007年まで週刊ベースボール(ベースボール・マガジン社)で『江夏豊の球界にんげん交遊伝「球人蔵」』を連載していた。

マスターズリーグ・東京ドリームスにも在籍し、モルツ球団にも所属している。

評価など
1960年代後半から1980年代前半にかけ、先発・リリーフとして最も高い評価を受けた左腕投手である。捕手として実際に投球を受けた伊東勤は高いコントロール能力を挙げている。しかもそれは、スクイズのウエストを投球動作がほぼ終わっている段階で、リリースポイントでの指先だけで瞬時にコースを変え、しかも捕手が捕りやすいところへ投球することまでやってのけた。この時を振り返り、伊東は自分がウエストのサインを出していないのに、しかも左投手だから三塁ランナーの動きが見えていないのに自分の判断だけでウエストしたことに驚きを隠さなかった。江夏自身も投球と打者のタイミングが合っていると気づくことがあり、そのような時にはやはりリリース時に指先だけのコントロールでタイミングを外していたと語っている[3]。

現在でも『20世紀最高の投手の一人』との呼び声が高く、広島・日ハム時代に大車輪の活躍を見せてチームを優勝に導いたことから『優勝請負人』の異名も取った。Yahoo! JAPANが企画した「20世紀日本プロ野球ベストナイン」の投手部門でも、沢村栄治、金田正一、稲尾和久ら往年の名投手を抑えて1位に選出されている。

一時の気の迷いで薬物に手を出し、自ら指導者の道を断ってしまったことを悔やむ声は多い。ただ、刑務所の規則に従っての生活で健康状態は劇的に改善し、本人も出所後、法廷での弁護に立った野村克也や江本孟紀、衣笠祥雄ら友人達への感謝の言葉と共に、「もし刑務所に行っていなかったら、僕はもう死んでいたかもしれない」と語っている。また作家の安部譲二は、「あの傲岸不遜だった男が、帰ってきたら物凄く気配りができるようになっていた」と語っている。出所して自宅に戻ってきて一からやり直す決意をするために現役時代の獲得した数々のトロフィーなどを全て捨ててしまったというエピソードを『いつみても波瀾万丈』にゲスト出演した際に話している。

現在の選定方式では、江夏がもう選ばれる事はないが、野球殿堂入りを熱望するプロ野球関係者は多い。

無類の阪神ファンである作家・小川洋子の『博士の愛した数式』(第1回本屋大賞受賞)では、その背番号(28、完全数)の持つ意味を題材に、著者から熱烈なオマージュを捧げられている。また江夏本人も、この作品が映画化された際にコメントを寄せている。

その他
司馬遼太郎作品を愛読し、中でも特に「燃えよ剣」をお気に入りに挙げている。その理由は、作品の主役土方歳三の最期の地である函館と、自身が現役最期にメジャーリーグに挑戦した地であるアリゾナが妙に重なって思えたことと、登場人物のある一人の女性が非常に魅力的に思えたから。これはその人物の名を自身の子女の名に用いる程にである。
酒は飲まない。体質的に受け付けないわけではないが、阪神時代に主治医から「今の無茶な生活を続けていれば、間違いなく数年以内に命を落とす。酒、タバコ、女、麻雀、どれかを止めろ」と言われて酒を断つことを選び、そのまま現在に至っている。ただし、どうしてもタバコだけはやめられないことを、ニュースステーションのコーナー「最後の晩餐」内で話している。
MLBで2度のノーヒッターをマークしている野茂英雄が師匠として慕っている。ただ、江夏は鈴木啓示とも親しく、野茂と鈴木との間に溝が出来た事について、「トレーニングに関しては野茂の主張も分かるが、自らの経験から考えると鈴木の言う事も全部間違っているわけではないと感じる。だからこの件だけは野茂と同調できないのだ」と自著の中で述べていた。ただし野茂の若手時代に「自分と野茂を本格派投手として比較する意見があるが自分は若手時代は直球一本で投げぬいたのに野茂はまだ若いのにフォークボールに頼っている。安易に比較しないでほしい。」とインタビュー等で述べた事がある。
プロ入り間もない頃、村山実が持つあまりにもストイックな野球観に感銘を受け「弟子入り」を決意、練習からロッカールームに至るまで側に付き村山の一挙手一投足を観察していた。しかし江夏が初年度から新人離れした成績をあげ、マスコミが「阪神のエース候補」と一斉に書き立てると村山は江夏を露骨に遠ざけるようになったという。この村山の態度に江夏は当初「何て器量の狭い人だ」と憤慨していたが、後に村山の真意を理解し「あれは村山さんが僕を一人前の投手として認めてくれたんだと思う。あれが本物のプロ、勝負師のあり方だと教えてもらった」と自著の中で語っている。
現役時代は日記をつけていたが、メジャー挑戦とともに日本での現役時代の日記を全て燃やしたという。
メジャー挑戦前後はビートたけしとの交流もあり、草野球のマウンドに立ったこともある。たけし軍団相手に、真剣に投球する姿にたけし軍団は感激し、感銘したビートたけしはラジオで江夏のことを絶賛・脱帽した。
1985年10月6日放送の『アップダウンクイズ』の最終回(18年間に出演したシルエットゲストによる大会。10問正解チームは無し)では、番組として最後のシルエットゲストを務めた。
左投げ左打ちだが、右利きである。これは、野球においてはサウスポーが有利とされているため、また川上哲治や大下弘の活躍もあり長兄の命令で強制的に矯正されたものである。これと同時に鉛筆・箸も左手に矯正させられた。
西武移籍当初は広岡達朗監督から抑えとして構想に入るも、調整方法などを巡って衝突し、二軍暮らしを余儀なくされた。衝突の決定的な要因の一つとされたのが、キャンプの朝食の席で、栄養摂取に重きを置く広岡から玄米食を強く勧められた際、周りにコーチや選手が多くいたにもかかわらず、「監督はそんなに食事に気をつけているのに、何で痛風(当時広岡はスパイクが履けずスリッパを履いていたほど痛風に悩まされていた)なの?」と語りかけたことだといわれる。
ねじめ正一の著書『落合博満 変人の研究』の対談の中で、「一番攻めにくい打者のタイプはある球種をひたすら待つ者」とコメントしている。その典型が落合博満で、ある時江夏は落合と麻雀を楽しみながら「オチ、何で俺から打てないかわかるか?」と問いかけ、答えに窮する落合に「ピッチャーは特定の球種を待たれるのが一番嫌なんだ。お前みたいにコロコロ狙い球を変えていたら一生俺からは打てない」と説いた。その後、1982年のロッテオリオンズとの試合で満塁の場面で江夏は落合と対戦。結果は江夏が三振に切って取ったものの、この打席で落合はカーブに狙いを絞り他の球種には見向きもしなかった。後年、このことを江夏は「落合の成長を見て、非常に感慨深いものがあった」と語っている。
1971年のオールスターゲームにおける9連続奪三振は江夏本人も誇らしげに語る記録だが、9個目の三振を奪った記念ボールは所有していない。これはこの時キャッチャーを務めていた田淵幸一が、三振のコールを聞くと同時に無意識にボールを放り投げてしまい行方が判らなくなったためである。当時の映像でも田淵がコールの確認直後に立ち上がり、ベンチ方向へと歩き出しながらボールを後方に放り投げる様子が確認できる。このことについて後年、江夏は田淵と共に出演したテレビ番組内で「探したが見つからず、どこにやったのかと田淵に尋ねた」と語り、それに田淵は「イニングが終わった時の癖で、つい思い切り放り投げてしまった。申し訳ない」と苦笑交じりに謝罪している。
現役時代晩年の風貌はサングラスにダブルのスーツとヤクザ顔負けであった。安部譲二は極道時代から江夏と親交があるが「江夏が本気で喧嘩してるのを見たことがあるが本職顔負けだった。」と述べている。

タイトル・表彰・記録
最多勝 2回(1968、1973)
最優秀防御率 1回(1969)
最多奪三振 6回(1967〜1972)※当時は連盟表彰の対象ではない。
最優秀救援投手 5回(1977、1979〜1982)※最多タイ。他には赤堀元之、佐々木主浩
最優秀投手 1回(1968年)
MVP 2回(1979、1981)※両リーグでの受賞は史上初
沢村賞 1回(1968)
ベストナイン 1回(1968)
ノーヒットノーラン(1973.8.30)※延長戦での達成は史上唯一
オールスターゲーム出場 16回(1967〜1976、1978〜1983)
オールスター最優秀選手 3回(1970第2戦、1971第1戦、1980第3戦)
1試合16奪三振(1968.8.8)
23イニング連続奪三振(1968.8.8〜8.21)
41イニング連続無失点(1969.4.12〜5.15)
1試合での34打者連続凡退(1970.9.26)
12球団全てからのセーブを記録

背番号
28(1967年〜1975年)
17(1976年〜1977年)
26(1978年〜1983年)
18(1984年)

著書
江夏豊自伝 流浪のサウスポー(1981/5 講談社)
これが、言いたい事のありったけ―さらばプロ野球、乱に生きた18年(1984/12 徳間書店)ISBN 4195030129
リリーフエースの危機脱出術―ピンチのときこそ相手の得意コースをつけ!(1985/01 ごま書房)ISBN 4341020641
ワイもいうでェ〜(1985/01 海越出版社)ISBN 490620323X
野球はアタマや(1985/03 徳間書店)ISBN 4195978181
男のチャンスはたった一度(1985/06 徳間書店)ISBN 419503101X
江夏豊のくたばれ管理野球―ここまで言うたら言いすぎやろか(1988/07 学習研究社) ISBN 4051029476
野茂英雄「大リーグ30試合」(1996/03 講談社)ISBN 4062080540
くたばれ!ジャイアンツ(1997/04 小学館) ISBN 4093872201
江夏の法則-草野球バイブル(1997/12 スキージャーナル) ISBN 4789920615
プロ野球観戦術(1998/05 スキージャーナル)ISBN 4789920674
松坂大輔へ―江夏豊からのメッセージ (2000/03 中央公論新社)ISBN 4120029816
左腕の誇り(2001/03 草思社)ISBN 479421040X
江夏豊の超野球学-エースになるための条件(2004/05 ベースボール・マガジン社)ISBN 4583037937
江夏豊の猛虎かく勝てり―'05年阪神タイガースV奪回観戦記(2005/10 洋泉社)ISBN 4896919645


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