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寺原隼人

寺原 隼人(てらはら はやと、1983年10月9日 - )
横浜ベイスターズに所属するプロ野球選手(投手)である。


プレースタイル
MAX157km/hのストレートと、シュート、カットボール、ツーシーム、フォークといった縦横の変化を加えた投球を主体とし、それにカーブ、スライダーを織り交ぜる。

来歴
野球を始めたのは小学3年。軟式の少年野球チームに入団し、小学5年の頃にはエースになっていた。赤江東中学に進学した時に、父親はリトルリーグへの入団も検討するも「硬式で無理をさせたくない」という判断をされ、同中学の軟式野球部への入部を決めた。赤江東所属時、2度の県大会優勝を経験している。赤江東中学時代の野球部仲間と文化祭でバンドを組みドラムを担当していた。

高校時代
日南学園高等学校でエースピッチャーとして活躍。宮崎県内では同学年の神内靖と並ぶ評判の投手で、ライバル関係を築いていた。また、井手正太郎は高校時代の同期生。

3年夏の2001年、第83回全国高等学校野球選手権大会宮崎県大会の3回戦(7月18日日南振徳商戦)で、ノーヒットノーランを記録。予選決勝(7月25日宮崎日大戦)では完投で勝利投手となり、日南学園を3年ぶり3度目の甲子園出場に導く。

本選2回戦(8月16日玉野光南高戦)で、154km/hの甲子園最速記録(当時)を達成。この時メジャー・リーグボストン・レッドソックスのスカウトの速度計は98マイル(=157.68km/h)を示した。この一球について本人は、外に大きく外れたこともあってか「あれはスピードガンの狂いでしょう。あの試合は体調も万全ではなかったし、あの球だけあんなに出たのはどう考えてもおかしい」と語っている。その後、準々決勝では横浜高校(神奈川)相手に好投するも9回に決勝点を奪われ敗れた(2-4)が、チームをベスト8に導き全国的な注目を浴びた。

その後、国際野球連盟主催の第34回IBAFワールドカップ(11月6日~18日開催)の日本代表に出場。予選リーグ第1戦(7日)のフィリピン戦、最終戦(14日)のオランダ戦で中継ぎで登板した。同大会には後にダイエー(現・ソフトバンク)でチームメートとなる、井口資仁、篠原貴行が出場していた。プロ・アマ合同の同大会で高校生が日本代表として選出されたのは史上初であった。

同年秋のドラフト会議では、4球団(ダイエー、中日、巨人、横浜)から1位指名を受ける。抽選の末、3番目にクジを引いたダイエーが交渉権を獲得した。

それまで意中の選手の交渉権を引き当てられずに抽選に嘆いていた王貞治監督は利き手の左手ではなく、IBAFワールドカップ開会式後に初対面した寺原と握手を交わした右手で初めてクジを引いた。王は引いたクジを握り締めたまま、左右の監督の様子を確認しながらゆっくりと手元にあるクジを確認すると、すぐさま満面の笑みと安堵の表情を見せながら右手を掲げた。これまで負け続けた抽選で初めて交渉権を獲得した喜びと同時に寺原獲得に力を入れていたことがうかがえる。一方、ドラフト会議の様子を見ていた寺原は「交渉権はダイエー」の一報に表情を強張らせ、ドラフト後の取材でも「ダイエーに行くかどうか分からない」と進学・社会人行きの含みを持たせた心情を洩らした。地元・九州出身であり甲子園で全国的に注目を浴びた寺原の獲得のため、高塚猛球団社長の要望で、指名の挨拶には王と中内正オーナーが訪れた。オーナーが自ら挨拶に赴くことは球団史上初で、寺原は「九州の星になりたいです」とダイエー入団を決めた。

ダイエー・ソフトバンク時代
新人時代の2002年、開幕は二軍で迎えるが、4月には早くも一軍に昇格。4月16日、対日本ハム戦で初登板初先発。ホークスで高卒ルーキーのプロ初登板初先発は南海時代の井上祐二以来21年ぶり2人目、高卒投手が1年目から登板するのは12人目。4月28日、対オリックス戦で2度目の先発、6回を3安打7奪三振に零封し、プロ初勝利。4月中の高卒ルーキーの勝利は史上5人目。10月2日のオリックス戦で6勝目を挙げ、ドラフト制導入後のホークスの高卒ルーキーの勝利数を更新した。

2003年4月18日、大阪近鉄バファローズ戦でプロ入り初の完投勝利。前試合までの杉内、新垣、和田に続き完投勝利を挙げ、球団初となる4試合連続完投勝利を記録した。前半戦に6連勝を記録するなど、チームの快進撃に貢献。斉藤和巳(S)、和田毅(W)、新垣渚(A)、寺原(T)の4投手のローマ字頭文字を取って「SWAT」というグループを結成していた。ネーミングは当時公開された映画S.W.A.T.に由来。球団が4人を若手先発投手陣を売り出そうとしただけで、4人が揃って何らかの活動を行っていたわけではないが、4投手に因んだメガホンやポスターなどがホークスグッズの新ブランド「SWAT」として、福岡ドームやホークスグッズ専門ショップハリーズで販売され、一定の期間のみ九州ローカルのメディアやホークスファンの間で根付いていた。しかしその後は故障に苦しみ、7勝5敗という結果に終わる。同年の日本シリーズ登板機会皆無。 12月8日に高校の1年後輩の女性と入籍した。

2004年、2005年も引き続き故障に苦しみ、勝利を挙げることができなかった。同年オフには過去に斉藤和巳や小久保裕紀らのトレーナー経験がある、山尾伸一氏と個人契約を結び、2006年4月13日には、シーズン初登板(初先発)で2003年8月22日以来、965日ぶりの勝利。7月16日のプロ初完封やプレーオフ第2ステージ進出に貢献する好投などの活躍を見せたが、12月5日、横浜ベイスターズの多村仁外野手との交換トレードが成立した。

横浜時代
2007年5月10日の東京ヤクルトスワローズ戦で、プロ初安打(同時にプロ打点)を放ち、移籍後初の完投勝利を記録。9月4日、初めて規定投球回に到達すると、9月15日には初の二桁勝利を記録。最終的にチーム最多の12勝を挙げる活躍を見せた。

2008年3月28日の阪神タイガース戦で、初の開幕投手を務める。その後、抑えに予定していた外国人投手が軒並み不調だったために抑えに抜擢され、4月27日の広島戦ではセ・リーグ初セーブ。以降も抑え役を務めたが、100敗の可能性すら囁かれる低迷状態に陥った横浜にあっては、そもそも抑え投手が登板するような展開に持ち込むことすら難しく、登板間隔が大きく空いた調整不足から打ち込まれる場面も見られ、9敗を喫し防御率も3.29と、抑えとしては平凡なものに終わった。しかしWHIPは0.97と一流投手並の数字を残し、また22セーブを挙げるなど低迷するチームの中で孤軍奮闘し、監督推薦でオールスターゲームに初出場した。

2009年からは再び先発に復帰したが、二度の怪我に泣いて13試合2勝7敗、防御率3.90と移籍後ワーストの成績に終わるなど悔しいシーズンとなった。

人物・エピソード
中学1年の春休みには学校の許可を得て「体を鍛えたいんです、新聞配達をさせてください。」と自宅近くの新聞販売店でアルバイトをした。約60段の階段を登る5階建ての市営住宅6棟など約90軒を担当し、2年生の2月までの約1年間朝刊を配った。
高校時代には「僕は9回でも150km/hの球を投げることができます」とテレビで発言したり、またプロ入り直後には「松坂投手との剛球対決が楽しみです」とやはりテレビで発言するなど、自らの実力を過信した発言が目立ったが、当時は独特の訛り等の垢抜けない雰囲気で喋っていたため、これといってほとんど叩かれなかった。横浜移籍後の第2インタビューの席上、自信を取り戻したこともあってか「普通に投げたら150km/h出ます」と公言し、集まったファンの度肝を抜いた。
幼少時は阪神の亀山努のファンであったと新聞紙面に記述あり。ドラフト時、巨人入団を希望していたと取れる言動があったが、実はヤクルトファン。理由はユニフォームがカッコいいからと言う単純な理由。
2002年の高知春季キャンプは、「寺原フィーバー」で連日堅調に集客数を伸ばし、終わってみれば集客数10万9850人と球団史上過去最高(当時)の集客数だった。また、このキャンプでファンに贈られたバレンタインチョコの数302個(球団1位の獲得数)にもフィーバーぶりが表われた。
2002年から2003年にかけて、日刊スポーツ九州のホームページに「寺原日記」というコンテンツが設けられ、ほぼ毎日更新されていた。内容はピッチングに関することから、プライベートに至るまで、率直な言葉で書き綴られており、好評を博していた。何らかの形で復活を望むファンも少なくない。
2002年宮崎市観光協会の依頼で観光PRのCMに出演(放送エリアは宮崎、福岡、鹿児島、熊本、大阪)。
好きな食べ物は地元・宮崎県名物のチキン南蛮。2002年から2004年まで福岡ドームなどでチキン南蛮をメインにしたノリ弁タイプの「寺原弁当」と丼タイプの「寺原どん」が販売されていた。寺原弁当には「ノリに乗って大活躍するように」、寺原どんには「ドンと160km/h投げられるように」という意が込められていた。2003年7月にはローソンの企画で九州出身の選手を県別に分けて、各県の名物を具にした「ホークス応援おにぎり」が発売された。宮崎県は「チキン南蛮おにぎり」で寺原を応援していた。横浜移籍前まではあまり知られていなかったが、パスタも好物の一つで、ローソンのホークス応援弁当で「寺原の好物はナポリタン」と紹介されていた。
プロレスファンでもあり、好きなプロレスラーは武藤敬司。第2インタビューの席上、面構えが似通っている小山田保裕にモノマネをおねだりしたことがある。
嫌いな動物はカエル。ホークス入団直後に出演した福岡のテレビ番組で「5勝できなかったらカエルを食べる」という罰ゲームを課せられた(結局5勝はクリアしたため事無きを得る)。なお、カエルはフランスなどでは食用にされている。
特技はデッサン。「野球より絵の才能のほうがあるじゃないか」とチームメイトから言われていた、と本人の弁。2003年オフに日本テレビの番組にて腕前を披露している。
横浜移籍後初の春季キャンプ(2007年)の初日、選手の乗ったバスを先回りして出迎え、全員に挨拶して回った場面がテレビで紹介されているなど、人柄については概ね好感を持たれている。その返礼は2007年4月3日、移籍後初勝利の際の横浜投手陣による出迎えの拍手だった。
漫画『ドカベン プロ野球編』では、実在選手としては唯一裏表紙に描かれた人物である(44巻)。
数度のフレッシュオールスター推薦を負傷で辞退するなど、オールスターゲームは縁遠いものであったが、2008年に監督推薦でのオールスター初出場を果たす。
横浜には2001年に寺原のハズレ1位で秦裕二が入団するが、2006年オフに寺原が、2008年途中に真田裕貴(巨人のハズレ1位)が入団し、2001年のドラフト1位指名選手が同チームに3人もいるという珍事が起きた。

家族・交友関係
家族は夫人と長男。愛妻家の子煩悩として知られている。夫人は高校時代の後輩にあたり、寺原が甲子園で注目を浴びる前より交際していた。プロ入り後は福岡-宮崎間で遠距離恋愛しており、電話は必要不可欠なものだった。月額5万円にも及ぶ電話代や福岡に訪れる際の交通費等は全額寺原が負担していたという。元々ファンには快く応対していたが、期待された結果が付いてこないことから、辛辣な言葉を浴びせるファンをいつしか敬遠するようになっていたが、当時交際中だった夫人に「ファンは大切にしてほしい」という言葉を受け、それ以降はファンから求められる写真や握手やサインには積極的且つ謙虚な態度で応じるようになっている。その後もプロで伸び悩み苦しんでいた寺原を励ましたり、叱咤するなど影ながら支えている。2006年オフの突然のトレード移籍では戸惑っていた寺原を勇気付ける言葉で後押しし、家族揃って横浜に転居している。
4人兄弟の二男で6歳上の兄と3歳上の姉、10歳下の弟がいる。弟も野球をしており、ポジションは寺原と同じ投手で現在は少年野球チームの左腕エース。二軍戦で始球式を行ったことがある。弟の野球用具は寺原が惜しみなく買い与えているとのこと。姉は宮崎県の空手道の名門高校(宮崎第一高校)に進学し1年生からレギュラーを勝ち取った腕前。まさにスポーツ一家である。
律儀で礼儀正しく、親しみやすい人柄と人懐っこい性格をしているため、同僚の先輩に可愛がられることが多い。
ソフトバンク時代、新垣渚や和田毅は寺原に先発の5番手の枠に居座る活躍を望んでいたようで常に気にかけていた。特に新垣とは公私にわたる付き合いで、積極的に練習に付き合ってもらったり、食事や買い物に誘うなど面倒を見てもらっていた。2006年オフ、横浜へのトレードが決まった日の会見で気丈に受け答えし、トレードを前向きに捉えていたが、兄貴分の新垣に対して複雑な胸の内を語り、落ち込んでいた様子を九州ローカルの番組で、明かされている。また新垣自身もこのトレードに関してショックであることを語っていた。なお新垣は現在も寺原に電話などで激励を続けており師弟関係は継続中である。
元チームメートで同級生の神内靖とは高校時代からのライバルでお互いに意識し競い合える間柄と認め合っていた。神内は寺原のトレード移籍に関して、「これからも一緒にやっていけると思っていただけに残念」というコメントした。
ソフトバンク時代にバッテリーを組んだシアトル・マリナーズの城島健司とは自主トレ仲間で釣りの師匠。毎年オフは釣りと城島の実家のある長崎県佐世保市で練習を行うのが恒例である。
横浜移籍後にプロ初安打を放った時の相手藤井秀悟とは2001年の野球W杯の遠征先台北でお揃いのTシャツを購入するほどの仲である。

背番号
20(2002年 - 2006年)
24(2007年 - )

個人記録
初登板:2002年4月16日(東京ドーム 日本ハムファイターズ戦)
初勝利:2002年4月28日(福岡ドーム オリックス・ブルーウェーブ戦)
初完投勝利:2003年4月18日(福岡ドーム 大阪近鉄バファローズ戦)
初完封勝利:2006年7月16日(福岡Yahoo!JAPANドーム 北海道日本ハムファイターズ戦)
初安打:2007年5月10日(神宮球場 東京ヤクルトスワローズ戦:藤井秀悟から)
プロ入り後の最高球速記録:157km/h(2008年8月6日、読売ジャイアンツ戦(石川県立野球場):アレックス・ラミレスに)
オールスターでの成績:2008年8月1日 打者4人 7球 被安打1 最高球速153km/h (横浜スタジアム)


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