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原辰徳

原 辰徳(はら たつのり、1958年7月22日 - )は、福岡県大牟田市生まれ、神奈川県相模原市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・監督。現在は読売ジャイアンツ監督、同球団名誉顧問。2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の監督を務めた。

愛称は若大将、タツ、平成の若大将、ヤング・ミスター、永遠の若大将。

目次 [非表示]
1 来歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
1.3 評論家・コーチ・監督時代
2 年度別打撃成績
3 タイトル・表彰
4 監督としてのチーム成績
4.1 リーグ公式戦
4.2 ポストシーズン
4.3 WBC 国・地域別対抗野球大会
5 監督通算成績
6 背番号
7 エピソード
7.1 学生時代
7.2 現役時代
7.3 監督時代
7.3.1 第一次政権
7.3.2 第二次政権
8 人物
9 指導者として
9.1 選手の育成
9.2 投手の起用
10 CD
11 出演
11.1 TV
11.2 CM
12 著書
13 脚注
14 関連項目
15 外部リンク


来歴 [編集]
プロ入り前 [編集]
福岡県大牟田市生まれ。父は福岡県立三池工業高等学校、東海大学付属相模高等学校および東海大学硬式野球部の監督であった原貢。

私立平原幼稚園、大牟田市立平原小学校、大牟田市立三池小学校、大牟田市立白川小学校と転校し、父の東海大学付属相模高等学校監督就任に伴い、神奈川県へ転居。厚木市立緑ヶ丘小学校、厚木市立南毛利中学校、相模原市立上鶴間中学校[1]を経て、1974年東海大相模高校に入学。

東海大相模高時代には1年生から三塁手のレギュラーとして活躍。夏の甲子園に3年連続で出場し、1975年の春の甲子園にも出場している。この大会では決勝戦まで勝ち進み、延長の末高知高校に敗れたものの、準優勝という成績をおさめている。甲子園の各大会では、後にプロ野球でも活躍する定岡正二、宇野勝、土屋正勝、杉村繁らと名勝負を繰り広げている。地区大会の神奈川県大会では、川崎球場を満員にするほどの「原フィーバー」を巻き起こした。当時のチームは、原のほかにも、津末、綱島、佐藤、村中らの好選手を擁し、高校野球ファンに鮮烈な印象を残している。高校通算本塁打は43本。

1976年のプロ野球ドラフト会議の目玉だったが、原はドラフト直前にプロ入りを拒否し、東海大学への進学を表明。全球団から指名無しという事態が起き、ドラフト直後に巨人のオーナー正力亨と監督長嶋茂雄が「原の獲得に乗り出す」と言明、特に正力が「すでに手は打ってある」と発言したことから東海大学総長が激怒。記者会見を開き「私の目の黒いうちは原はプロには行かせない、もしプロに行くようなことがあれば彼も死ぬことになる」などと発言し、ちょっとした騒動になった。

その後無事に東海大学に進学。遠藤一彦は先輩、市川和正は同級生、高野光は後輩に当たる。東海大学は発足したばかりの首都大学野球連盟に加盟していたが、原目当てのファンが殺到する事態に備えて、加盟校のグラウンドで行われていた試合に加え、川崎球場や横浜スタジアムなどを利用した。首都大学リーグでは3度の最高殊勲選手、1年生秋のリーグを除く7度のベストナインを獲得。2年生秋と4年生春の2度の打撃三冠王になる。リーグ通算93試合出場、362打数144安打、打率.398、21本塁打、105打点。大学1年時の秋に行われた明治神宮野球大会では、東京六大学リーグのエースとして君臨していた法政大学の江川卓と対戦。4打数2安打1本塁打とファンの期待に応えたものの同年の全日本大学野球選手権大会、明治神宮野球大会では共に決勝で敗れ日本一は果たせなかった。

3年時に日本で開催された日米野球では、早稲田大学4年の岡田彰布と3番、4番を組み、ハワイ大のエース、デレク・タツノらと対戦した。この大会でも逆転満塁本塁打を放つなど活躍を見せる。大学4年時には、秋の明治神宮野球大会で1試合3本塁打を放つなどの活躍を見せ、「長嶋茂雄の再来」の期待をさらに大きなものとした。1980年、日本で開催されたアマチュア野球世界選手権に、大学生としてただひとり日本代表選手に選出され出場した(3位入賞)。

1980年のプロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツの藤田元司新監督が4球団競合の末に1位クジを引き当て、巨人に入団。入団決定直後に日本テレビで特集番組が放映された。背番号については前年限りで監督を退任した長嶋茂雄が「できることなら(永久欠番になっている)僕の3を譲りたい」と言うほどの惚れこみようだったが、高田繁の引退に伴い空いた「8」となった。

プロ入り後 [編集]
1981年開幕からスタメン出場、デビュー戦で中日ドラゴンズの牛島和彦から初安打、翌日には小松辰雄から初ホームランを放つ。シーズン当初はチームのポジションの事情により二塁手として出場していたが、当時三塁手のレギュラーであった中畑清の故障によりアマチュア時代からのポジションである三塁手となり、レギュラーに定着。22本塁打を放ち新人王を獲得。以後12年連続20本塁打以上を記録。

1982年には本塁打数を33に伸ばし、最多勝利打点を獲得。本塁打は2本差、打点は3打点差で、共に掛布雅之に次いで2位。

1983年は初めて打率3割を記録、打点王、最多勝利打点を獲得して巨人の優勝に貢献、MVPに選ばれた。巨人での3割30本塁打100打点は青田昇、長嶋茂雄、王貞治に次ぐ球団史上4人目の快挙だった。

1986年9月24日、対広島25回戦で津田恒実の直球をファールした際に左手首の有鉤骨を骨折、残り試合の欠場を余儀なくされた。この骨折は「事実上、バッター原辰徳は、この骨折の時に終わりました」と後に自らが発言するほどの影響があった。バットとボールが触れるインパクトの瞬間、左手を使って押し込む動作を行う際、絶頂時と骨折後との違和感が、ずっと消えなかったとの事である。これ以降、負傷した左手首に加えてアキレス腱痛などにも悩まされる。しかし原は後年「あの時の津田との勝負に悔いはない」と、当時から現在に至るまで繰り返し語っている。

1987年、1988年は連続で3割30本塁打を記録。

1989年藤田監督が復帰、外野手(左翼手)へ転向。同年、デビューから9年連続20本塁打の新記録を達成した。同年日本シリーズの近鉄バファローズ戦(第5戦)において、近鉄の吉井理人は原の前の4番打者ウォーレン・クロマティを敬遠し、敢えて満塁策をとり、第4戦まで無安打の原と勝負する作戦を試みるが、原はこのシリーズ初安打となる満塁本塁打を打った。なお、原はこのシリーズわずか2安打だったが、その2安打が第5戦の満塁、第7戦の2ランといずれも本塁打で、シリーズMVPに選ばれた駒田徳広と同じ6打点を記録している。

1992年、一塁手へ転向。当初、三塁への復帰も検討されていた。不安定な左翼守備、その影響で成績が下降したこと、既に若いファンの間では「原=三塁」が定着しており、コンバートによってそのイメージが損なわれてしまったこと等が理由だった。結局、アキレス腱痛の悪化などを考慮して、一塁へのコンバートが決まった。

1993年、長嶋茂雄監督が就任。三塁手に再コンバート。複数個所の故障に悩まされ、プロ入り以来12年続けていた規定打席到達も途切れ、引退した年を除いてプロ入り以来最低の成績に終わった。

1995年現役引退。現役引退試合は、ホームゲームの日程がセ・リーグ他球団より早く消化してしまうこととシーズン終盤まで優勝争いをしていたことから当初予定されていなかったが、8月に開催された広島戦の延長15回引き分け再試合が10月8日に組み込まれたことにより実現した。セレモニーを含めた引退試合は東京ドームのスケジュールの都合上、当時としては珍しくデーゲームでの開催となった。現役最後の試合では、紀藤真琴から左中間スタンドへの本塁打を放つ。最終打席では、広島側の粋な計らいにより大野豊がワンポイントで登板しライバル対決が行われた(結果はレフトフライ)。同年、巨人一筋15年、ON後の巨人を牽引した四番打者に対し、背番号8を“永久欠番”にとの署名が多く集まり、巨人は“準永久欠番”に制定。

長打率の高さに反して、三振が少ない(通算894三振)ことで知られている。右打者の割に併殺打も少なく(通算122併殺)、犠飛が多い(通算70犠飛)事から、極端なフライボールヒッターだった事がわかる。2007年シーズン終了時点で、各スタッツは歴代で三振57位、併殺打122位、犠飛13位である。また余談だが、現役の晩年には、自身の代打に長嶋の息子・一茂を出されたこともあった[2]。

評論家・コーチ・監督時代 [編集]
1996年にNHKの野球解説者に就任。プロ野球中継の解説の他、NHK総合テレビの『サンデースポーツ』でメインキャスターを1999年3月まで務める。TBSラジオでパーソナリティー番組「原辰徳のいきいきトーク」(土曜17時から17時15分 東京地区のみ)担当。

1999年、長嶋監督のもと、巨人の野手総合コーチに就任し球界復帰。2000年には、ヘッドコーチに昇格。

2001年9月29日 勇退した長嶋茂雄の後任として巨人監督に就任(長嶋は10月1日の最終戦まで指揮)。9月27日広島戦、乱打戦の末に10-11で惜敗した後、長嶋監督に監督室に来るよう命じられ「来年からは原(監督)だ。」と言われる。原はこの年ヘッドコーチだったが実は1998年のシーズン終了後、長嶋は次期監督を原にすることをオーナーと水面下で話を進めていた。背番号は83。自分の現役時代の「8」と長嶋の「3」を足した数字であるので選んだと言っている。一年目のキャッチフレーズは「ジャイアンツ愛」。2002年、引退も考えていた桑田真澄の先発復帰、故障で一軍から離脱していた河原純一のストッパー転向、長嶋政権下ではスタメンを外れることの多かった清水隆行の1番起用など大胆な選手起用を行い、就任1年目にしてリーグ優勝に導いた。2002年の日本シリーズでは西武ライオンズ相手に球団史上初の無傷の4連勝で、長嶋や王貞治が成し得なかった「監督初年度での日本一」を達成した。このシリーズでは、当時無名の斉藤宜之、山田真介・福井敬治・鈴木尚広などを一軍に昇格させスタメンで起用、実力以上の活躍を引き出した。当時巨人で唯一走れる選手といえた鈴木尚広は原のヘッドコーチ就任時に走塁センスを絶賛された選手である。彼ら無名の選手をファームで育て上げた高田繁前二軍監督や淡口憲治二軍監督、高橋一三二軍投手コーチなどが隠れた功労者となる。この年、松井秀喜と清水以外の選手は故障、翌年も怪我人の多い2年間だったものの、日本一となった02年などは、当時の支配下選手70名中66名を一軍で適材適所で使い分け、二軍で好調だった選手を昇格後即スタメンで起用したり、積極的にエンドランや盗塁を用いる用兵で結果を残した。

しかし次の2003年は、前年まで不動の4番だった松井秀喜のメジャーリーグベースボール行きや、相次ぐ主力選手の怪我による離脱、さらには阪神の快進撃の前に破れ、3位に終わる。当初は次シーズンも指揮を執ることが内定していたが、終盤で中日に抜かれ3位に転落したことに加え三山秀昭球団代表との確執も発覚し“人事異動”の名目で監督を辞任。巨人軍特別顧問に転任した。このことがきっかけで、このシーズンで現役引退しコーチに就任内定していた川相昌弘は引退を撤回、中日に移籍した。

2004年から2シーズンは巨人軍特別顧問(兼日本テレビ解説者、報知新聞客員評論家)としてグラウンド外からチームを見守った。

2005年、堀内恒夫監督がチームの成績不振により引責辞任。後任として監督に再任される。背番号は88。「8は原点。最高のチームを作るという気持ちで88を選んだ」と説明している。2006年シーズンは開幕ダッシュには成功したが、交流戦中盤から8連敗、10連敗、9連敗などの大型連敗(他に敵地18連敗、保護地域外26連敗等)により、4位に終わる。開幕直後から高橋由伸など怪我人が続出、6月7日までは首位に留まったものの5月末に小久保裕紀も戦線離脱、優勝争いから脱落していった。李承と二岡智宏が奮闘するが、31年ぶりの2ケタ連敗(10連敗)を含め、前年まで球団史上で2回しかなかった9連敗を1か月足らずで2回も記録した。8月4日には最下位に転落。シーズン終盤では李や二岡も膝の故障をおして出場するような事態となる。10月8日の甲子園での阪神戦では優勝に望みを残していた阪神に勝利、対阪神戦の負け越しも3年で止め意地を見せ、最終的に4位で終わる。オフには、黄金期西武ライオンズの頭脳であった伊原春樹が切り札として招聘された。さらに、FAで加入した小笠原道大やトレードで谷佳知、ソフトバンクを自由契約となった大道典嘉が加入し、小久保、仁志、桑田、工藤がチームを去った。また、2006年の選手の相次ぐ離脱を踏まえ「もういい選手はいらない、強い選手が欲しい」と発言。若手脇谷亮太(秋季キャンプでキャプテンを務めた)の頑健さを絶賛する一方、生え抜きレギュラー陣の短期離脱を厳しく叱責した。

2007年チームは先発ローテーションに不安があり、前年12勝した内海哲也以外当確候補がいなかった。しかし原監督は前年2勝の高橋尚成と0勝の木佐貫洋や新人の金刃憲人を開幕ローテーションにいれるなどした。結果内海は14勝、木佐貫は12勝、高橋尚は14勝で最優秀防御率と最優秀バッテリー賞などを受賞した。

また故障で出遅れた上原浩治を今季のみ限定としながらも抑えに転向させ、それまではクリーンナップを務めていた高橋由伸の1番固定させるなど、型破りな選手起用によってチームを同年のセ・リーグ優勝へと導いた。

野手陣も小笠原や谷など新戦力や、高橋由らの活躍により得点力が向上。5月2日のナゴヤドームの中日ドラゴンズ戦で球団創設後通算5,000勝を達成。終盤の中日、阪神との三つ巴の争いを抜け出し、大接戦の末にペナントレースを制した。しかし、この年から導入されたセ・リーグのクライマックスシリーズセカンドステージで、ペナントレース2位の中日に初戦から3連敗を喫し、日本シリーズ出場を逃してしまう。そのためリーグ優勝をしたにも拘らず記念パレードや、優勝旅行は一切行われなかった。同年オフにはセス・グライシンガー、マーク・クルーン、アレックス・ラミレスを補強。原は「心苦しいが、やるしかない」ともらした。[要出典]

2008年のペナントレースではいきなり開幕5連敗を喫するなど序盤から不調で一時は阪神タイガースに最大13ゲーム差をつけられた。しかし、北京オリンピックの前後から勝ち進み、9月の12連勝で首位に迫り、10月8日に阪神を逆転して首位に立つと、10月10日に2年連続リーグ優勝を達成した。そしてクライマックスシリーズセカンドステージでは、中日を相手に、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分で2002年以来の日本シリーズ進出を決めた。予定外の胴上げ(8回)があり、インタビューでは目を潤ませていた。しかし、直後の日本シリーズではパ・リーグの覇者埼玉西武ライオンズ相手に3勝4敗で敗退した(詳細はメークレジェンドを参照)。

この年、神宮での雨中の開幕戦で、遊撃スタメンだった二岡智宏が足を負傷、二塁スタメンだった当時2年目・19歳の坂本勇人を本来のポジションである遊撃に回し、坂本はこれ以降08年の全試合・全イニングにフル出場しレギュラーに定着、急成長を遂げた。また、投手陣でも前年に育成枠から昇格した山口鉄也や、若い越智大祐、東野峻、野手でも亀井義行や、育成枠から隠善智也らを積極起用するなど、若手・中堅・ベテランを使い分けて、96年長嶋茂雄監督時代の11.5ゲーム差からの逆転優勝「メークドラマ」を上回る13ゲーム差を逆転してのセ・リーグ制覇となる「メークレジェンド」を達成した。

同年10月28日、日本プロ野球機構より2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督への就任を要請され受諾。アマ時代以来の日本代表ユニホームを着ることが決定した。愛称は「侍JAPAN」背番号は83に決定。日本中が盛り上がっていたにもかかわらず楽天の野村克也監督(当時)や大の原嫌いで知られる[要出典]渡邉球団会長などは予選敗退を予想していたが、本戦ではほぼ危なげなく順当に勝ち進んで2009年3月24日の決勝戦で韓国を5-3で破り、日本を大会2連覇に導いた。

また、同年国際武道大学 の客員教授に着任した。

2009年のシーズンが開幕すると、育成枠出身の松本哲也や坂本・亀井、原自ら「風神・雷神」と名づけた左右の中継ぎコンビ・山口と越智などの若手が次々に台頭した。また、上原浩治のMLB移籍によって先発投手の戦力低下が危惧されたが、ヤクルトから獲得したディッキー・ゴンザレスやテスト生出身のウィルフィン・オビスポがその穴を埋めたため前年とは対照的に春先から首位を快走した。リードした試合の終盤には主力選手をベンチに下げたり、谷佳知を、相手先発投手に応じて、スタメン・代打と使い分けたり、捕手の阿部慎之助や外野手の亀井を一塁手としても起用するなど選手層の厚さを活かした柔軟な用兵を見せ好成績を維持した。9月23日にV9(1965年~1973年)以来のリーグ3連覇を果たした。第2次監督時代の長嶋らと対照的にベテランやホームランバッターに依存せず、若手を積極的に起用する原の手腕は多くの解説者に高く評価された[3]。クライマックスシリーズ第2ステージでは3年連続となった中日相手に4勝1敗(レギュラーシーズン1位のアドバンテージ1勝を含む)で勝利。2年連続日本シリーズ出場となった。日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズに4勝2敗で勝利。監督として2度目の日本一を達成する。11月12日にはWBC及び日本シリーズの優勝が評価され、2度目の正力松太郎賞を受賞。11月14日にはアジアシリーズの代替大会として行われた日韓クラブチャンピオンシップにも勝利。監督としてWBC、セ・リーグ、日本シリーズ、日韓統一王者の4冠を成し遂げた。

2009年12月6日 スイス・ローザンヌで開かれた国際野球連盟の総会において2009 ワールド・ベースボール・クラシック優勝などの実績が評価され、世界最優秀監督に選出された[4]。

年度別打撃成績 [編集]

度 球
団 背

号 試
合 打
席 打
数 得
点 安
打 二

打 三

打 本

打 塁
打 打
点 勝


点 盗
塁 盗

死 犠
打 犠
飛 四
球 敬
遠 死
球 三
振 併

打 残
塁 打
率 順
位 長

率 出


1981年 巨人 8 125 507 470 64 126 23 6 22 227 67 8 6 6 0 7 27 0 3 78 9 80 .268 25 .483 .321
1982年 130 542 494 81 136 19 1 33 256 92 14 11 6 0 4 42 4 2 82 6 90 .275 19 .518 .335
1983年 130 571 500 94 151 32 4 32 287 103 20 9 4 0 8 60 1 3 56 11 117 .302 12 .574 .380
1984年 130 543 468 72 130 19 1 27 232 81 7 7 3 1 4 67 3 3 58 8 117 .278 27 .496 .372
1985年 124 521 441 79 125 23 2 34 254 94 11 7 3 2 8 60 2 10 42 6 96 .283 25 .576 .376
1986年 113 467 406 70 115 21 3 36 250 80 7 7 2 1 6 52 4 2 57 8 92 .283 13 .616 .363
1987年 123 489 433 80 133 17 3 34 258 95 14 7 2 0 7 44 6 5 61 11 79 .307 8 .596 .372
1988年 126 529 467 79 140 24 1 31 259 81 10 5 6 0 0 61 6 1 63 14 92 .300 6 .555 .382
1989年 114 459 395 60 103 22 0 25 200 74 14 3 3 0 2 60 4 2 68 6 88 .261 27 .506 .359
1990年 103 425 366 58 111 17 1 20 190 68 10 6 4 0 4 52 3 3 64 4 93 .303 7 .519 .391
1991年 127 524 455 66 122 13 1 29 224 86 12 5 3 0 12 55 1 2 82 7 85 .268 22 .492 .342
1992年 117 493 437 61 119 17 1 28 222 77 12 4 3 0 3 46 1 7 71 13 94 .272 20 .508 .349
1993年 98 387 336 28 77 14 0 11 124 44 8 3 2 0 3 44 1 4 62 9 77 .229 .369 .323
1994年 67 227 200 26 58 4 1 14 106 36 3 0 2 2 1 22 1 2 21 5 47 .290 .530 .364
1995年 70 160 144 13 29 8 0 6 55 15 2 2 1 1 1 13 1 1 29 5 22 .201 .382 .270
通算:15年 1697 6844 6012 931 1675 273 25 382 3144 1093 152 82 50 7 70 705 38 50 894 122 1269 .279 .523 .357

各年度の太字はリーグ最高
出典:オフィシャルベースボールガイド、日本プロ野球記録大百科、セントラルリーグ クリーンブック
タイトル・表彰 [編集]
新人王(1981年)
MVP:1回(1983年)
打点王:1回(1983年)
最多勝利打点:2回(1982年、1983年)
ベストナイン:5回(1983年、1987年、1988年、1990年、1991年)
ゴールデングラブ賞:2回(1987年、1988年)
月間MVP:3回(1983年5月、1985年7月、1989年4月)
セ・リーグ最優秀監督賞:4回(2002年、2007年、2008年、2009年)
正力松太郎賞:2回(2002年、2009年)
オールスター出場:11回(1981年 - 1988年、1990年 - 1992年)
通算1000試合出場 1988年10月2日(280人目)
世界最優秀監督:1回(2009年)
監督としてのチーム成績 [編集]
リーグ公式戦 [編集]
年度 チーム 背番号 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打 チーム
打率 チーム
防御率 年齢
2002年 平成14年 巨人 83 1位 140 86 52 2 .623 - 186 .272 3.04 44歳
2003年 平成15年 3位 140 71 66 3 .518 15.5 205 .262 4.43 45歳
2006年 平成18年 88 4位 146 65 79 2 .451 23.5 134 .251 3.65 48歳
2007年 平成19年 1位 144 80 63 1 .559 - 191 .276 3.58 49歳
2008年 平成20年 1位 144 84 57 3 .596 - 177 .266 3.37 50歳
2009年 平成21年 1位 144 89 46 9 .659 - 182 .275 2.94 51歳

※1 太字は日本一
※2 2002年から2004年までは140試合制
※3 2005年から146試合制
※4 2007年から144試合制
ポストシーズン [編集]
年度 チーム 大会名 対戦相手 勝敗
2002年 巨人 日本シリーズ 西武ライオンズ(パ・リーグ1位) 4勝0敗=日本一
2007年 セ・リーグ
クライマックスシリーズ
2ndステージ(※5) 中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) 0勝3敗=敗退
2008年 セ・リーグ
クライマックスシリーズ
2ndステージ(※6) 中日ドラゴンズ(セ・リーグ3位) 3勝1敗1引分=日本シリーズ進出
(※7)
日本シリーズ 埼玉西武ライオンズ(パ・リーグ1位) 3勝4敗=敗退
2009年 セ・リーグ
クライマックスシリーズ
2ndステージ(※6) 中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) 4勝1敗=日本シリーズ進出
(※8)
日本シリーズ 北海道日本ハムファイターズ(パ・リーグ1位) 4勝2敗=日本一

※ 勝敗の太字は勝利
※5 2007年のクライマックスシリーズ2ndステージは5試合制で先に3勝したチームの優勝、リーグ優勝チームにアドバンテージなし
※6 2008年以降のクライマックスシリーズ2ndステージは6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ
※7 アドバンテージの1勝を含む。3勝で優勝となったのは、引き分け試合で勝利数が同数になる場合は上位チームの優勝となる規定による
※8 アドバンテージの1勝を含む
WBC 国・地域別対抗野球大会 [編集]
2009年に行われたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)第2回大会では、監督として日本チームを大会2連覇に導く。

年度 大会名 チーム名 勝敗
2009年 第2回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック) 日本代表 優勝

監督通算成績 [編集]
858試合 475勝363敗20分 勝率.567
Aクラス5回、Bクラス1回
リーグ優勝4回、日本一2回
背番号 [編集]
8 (1981年 - 1995年)
80 (1999年 - 2001年)
83 (2002年 - 2003年)
88 (2006年 - )
エピソード [編集]
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。(2008年1月貼付)

学生時代 [編集]
2009年より阪神タイガースの監督を務める真弓明信とは同郷であり、幼少時代、福岡県大牟田市にある東洋高圧の同じ社宅に住んでいた。[5]
中学校時代、神奈川県厚木市の公営団地に住んでいたが、その団地の同じ棟には推理小説家の森村誠一一家も住んでいた。当時の原は練習帰りに団地の公園で森村の長男の遊び相手をしていた。森村は当時の2人の姿を覚えており、「面倒見のいい辰徳君に感謝しています」と語っている[6]。
1974年の夏の全国高等学校野球選手権大会の準々決勝で原辰徳の東海大学付属相模高等学校と定岡正二の鹿児島実業高等学校が対戦し、延長15回の熱闘となって日本放送協会が試合中継を途中で打ち切った為に、視聴者から苦情が殺到する一幕があった(全国高等学校野球選手権大会#テレビ・ラジオ中継#NHKでの中継の項参照)。この一戦が原辰徳の名が全国に知られるきっかけとなった。また原が巨人に入団した際、『月刊ジャイアンツ』誌上にて既にチームの先輩であった定岡との対談がセットされている。
大学時代は政経学部で同級生に米津等史がいた。
現役時代 [編集]
監督時代の応援歌は現役時代と同じ。1985年までの初代応援歌は背番号にちなんで『エイトマン』の主題歌だった。第一次政権として最後の試合となった2003年10月7日の阪神戦(甲子園)では、巨人の応援団は誰が打席に立っていても原の応援歌を流し続けた。
1982年のファン感謝デーでは当時大人気のタケちゃんマンに扮した。ブラックデビルは江川卓で「タッちゃんマンとブラックスグル」と称した。
契約更改後の記者会見で、シーズンの貢献度から初の1億円の大台突破かという期待を持って臨んだが、9900万の提示を保留。「(漢字の)百の字の棒(一)がとれて白になっちゃったよ」と説明した。
監督時代 [編集]
この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。(2009年7月貼付)

第一次政権 [編集]
2002年6月19日の横浜戦の11回表無死一塁で、打者が投手で左打者の岡島秀樹、相手投手が左投げの河原隆一の場面、ベンチに控え野手清原和博・村田善則・鈴木尚広が残っている状況で、投手である桑田真澄を代打に指名した。横浜は投手を右投げの東和政にスイッチし、守備陣はバントシフトを敷くが、桑田は初球をバスターエンドランし、試合に勝利した[7]。
第一次政権の日本一に大きく貢献したのが、鹿取義隆ヘッドコーチの中6日を崩さないローテーションであった。工藤公康や桑田真澄などのベテランを有効に使い、選手の能力を十二分に発揮させた。翌年は一転、深刻な投壊状態に陥った。
阪神の星野仙一SDと交流があり、第一次では喜怒哀楽を表に出さないためのスタイルなどを参考にした。また、中日を戦力外となった選手(武田一浩)がテストを受けた際、星野に助言を求めている。
第二次政権 [編集]
電話好きで、2005年のオフには、入団交渉をしている選手によく電話をかけることで有名になった。FA宣言した野口茂樹には「同じ目標に向かって戦おう」と話し、豊田清には1日3度の電話をかけ、両者とも入団にこぎつけた。ドラフト指名選手にも辻内崇伸などに電話をかけており、「ジャイアンツ愛」にちなんで「愛のテレフォン」と呼ばれている。2006年のオフは高橋尚成に「お前は左のエースだから、来年からの背番号は21番だ」と話した。2007年オフ、当時の阪神の監督であった岡田彰布が「トライアウトの選手はとらない」と公言した後、藤田宗一が防御率10を超える成績不振を出したことによりロッテから戦力外通告をだされ、解雇された。藤田に解雇が通知された翌日、藤田の家に原からの電話がかかってきて、藤田は巨人と契約。岡田はこのことに大きく後悔したという。
2007年秋季キャンプは対象選手を伸び盛りの若手に特化。また高橋由伸と上原のポジションに関しては、上原が先発復帰(「選手が積み重ねてきたものがあるので強制はできない」としている)。かつての平成3本柱のひとりでリリーフエース経験もある槙原寛己を臨時コーチに招き、守護神候補として野間口や西村の指導を依頼。新聞で2007年を「“ホップ、ステップ、ジャンプ”のホップの年くらいにはなった」と語っている。
2009年3月7日に行われたWBC東京ラウンド日本対韓国戦での勝利監督インタビューの際、マイクの音声が球場に流れないというアクシデントが発生。場内の観客からは「聞こえない」などの苦情の声が相次ぐもインタビューは進行。途中、音声が球場に流れるようになった時、原は「最初のが聞こえてなかったんじゃないですか?」と発言し、同じインタビューを頭からやり直し、観客からの苦情を一変させ歓声を浴びた。
現在、東海大相模高校のある相模原市に本社を置く住宅販売業「丸正産業」のイメージキャラクター[8]を解説者時代から務めているが、その会社の看板では巨人によく似たユニフォームを着ている(背番号「8」のバージョンと「88」のバージョンがある)。
人物 [編集]
嗜好
冗談で「野球より好きだ」と公言するほどのゴルフ好き。50歳の誕生日を迎えた際、「49歳でアメリカへ渡り、50歳のときにゴルフのシニアツアーに参戦。全米シニアで同世代のグレグ・ノーマンやニック・プライスと戦う。37歳で現役引退したとき、そう思ったんだ」と発言したほど[9]。

プロレスも日本テレビで中継をしている全日本プロレス→プロレスリング・ノアの系列に造詣が深く、ゲスト解説などもしている。これら団体の試合を会場で観戦することもしばしばある。全日本プロレスでは永源遙の唾攻撃が原、岡崎郁と一緒に観戦していた廣田浩章のジーンズの膝あたりにかかってしまった事もあった。その試合後に永源の唾攻撃を原らに目掛けてやった張本人であるラッシャー木村の十八番であるマイクパフォーマンスで「今日おいで下さった巨人軍の選手の方々。特に原選手。燃えろ!原、燃えろ!辰徳」というエールが飛び、観客は大歓声であった。ノアの三沢光晴社長や、現役引退試合の翌日に同じく東京ドームで行われた「新日本プロレスVSUWFインターナショナル全面戦争」の興行を観戦し、当時メインイベントで高田延彦に勝利した、全日本プロレスの武藤敬司社長とはプライベートでも親交を深めている。ジャイアント馬場の訃報をキャンプ地の宮崎で聞き、マスコミに対し「僕にとってのヒーローが…これ以上は勘弁してください」と言って人目をはばからずに号泣した。馬場はジャイアンツの大先輩でもある。最近はノア以外の選手にも注目しており、特に新日本プロレスの真壁刀義は同じ相模原市出身ということもあって、巨人の選手との会話において真壁を引き合いに出し若手に奮起を促しているという[10]。

また、球界屈指の愛犬家で、ボクサー犬をルーキー時代から現在に至るまで飼育している。1982年に出した歌『サム』は当時一緒に暮していた犬の名前。藤田元司が監督を退任した後に子犬をプレゼントしたという。

ちなみに、愛車はレクサス・LS600h。

なお、ヘビースモーカーとして知られていたが、第一次監督辞任後に禁煙しており、チームの喫煙者に禁煙を勧めている[11]。

ジェスチャー
少年時代から長嶋の大ファンであり、長嶋の下でコーチに就任して以降、時代から長嶋の「ビュッと振ってバーンと当てる」といった擬態音で説明したり、派手なジェスチャーを交えるスタイルを継承している。長嶋監督のコーチ時代には本塁打を打った選手への出迎えが長嶋監督とそっくりであった。一部マスコミからは「チョーさん(長嶋)が2人いる」と揶揄され、久米宏は「マイナス掛けるマイナスはプラスだからなぁ」と評した。監督時代の長嶋は、試合展開や個々の特性などを一切考慮されず「教則本的な基本から1ミリでも外れた面がある采配」をするたびに「カンピューター」などとスポーツマスコミに目の仇にされていたが、原も表面的なイメージをひきずり桑田のバスター策などを「思いつき」などと形容されていることが多い。

ジェスチャーの一つ一つに特徴がある。特に味方選手がホームランを打った後の出迎えの際には、目を見開き両拳を突き出し選手と合わせるしぐさは定番となっている。ファンの間では「グータッチ」として親しまれ、ものまね芸人の神奈月や巨人ファンであるSMAPの中居正広は、バラエティ番組でこのものまねをよく披露している。

体育会系
爽やかな印象があるが、基本的に「体育会系」の人物である。2003年に木佐貫洋が四球で自滅した際には「死ぬなら前のめりで死ね」と喝を入れ、2006年3月12日に行われた阪神とのオープン戦では東海大学の後輩でもある久保裕也が打ち込まれた際には、異例の鉄拳を交えた説教をした。その後記者団に「(鉄拳制裁について)ちょっとなでなでしただけ。彼はジャイアンツの期待の星なんだ」とコメントした。けっして体育会系一辺倒ではなく、プロになれなかった場合は学校の先生を目指していたとのこと。

叩かれ役
zakzakや日刊ゲンダイなど、いわゆる団塊世代向けのタブロイド誌では叩かれ役となることが多く、毎日のように落語の三題噺やプロレスの台本のような展開の話が掲載されている。主に「何かの問題を全て原の責任に仕立て上げる」「原が誰々を嫌っている(またはその逆)といったような話を好んで掲載しており、一例をあげると、2009年極度の打撃不振から李承を二軍落ちさせたが、清武球団代表が「原監督が李の扱いのためにかなりストレスを受けていた」と明かした話が今年の夕刊フジに掲載されているが、夕刊フジ誌は『韓国内からは「原監督は李が嫌いなのか」などの問い合わせが相次いだという』と併記している。[12]。

指導者として [編集]
この節には『独自研究』に基づいた記述が含まれているおそれがあります。信頼可能な解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。

選手の育成 [編集]
長嶋への憧憬、彼のもとでの指導者経験に隠れているが、監督再任後は原貢氏や王貞治の下で能力以上のハードルを乗り越えた経験が反映されている[要出典]。自分の目のかけた選手には厳しすぎるハードルを課し、結果を残さなかった時点で短期的に見切りを付け、その中で無理難題をクリアしていったものが生き残る、といった育成方法をとっており、こうした原の厳しすぎるハードルを連続して乗り越えたことで、坂本や亀井などが成長しているが、こうした手法は王に近い[要出典]。我慢強いタイプではなく、当然成長した選手は短期的な対応が得意な天才型の選手であり[要出典]、「期待値や立場のみで継続して機会を与える必要のある選手」数試合で見切りを付けられてしまっている。一例をあげると本来なら6人の先発枠に入る高い能力をもっている久保は2007年以降は殆ど2軍に在籍しており、また「典型的な1軍半の殻を破れない大砲候補」だった三浦貴(自ら打者転向させた)をスタメン起用し初ホームランを打つものの、次の打席で凡退すると1軍半の大砲の小田嶋正邦に切り替え、同様に数試合で2軍に落としている。我慢強いイメージがあるが、こうした選手に関しては12球団でも非常に見切りが早いほうである。[要出典]

だが、総合コーチ時代から鈴木など走力の高い選手に目を付け、前回の監督在任時には主力の故障・休養を利用し、レギュラー候補や若手を巧みにステップアップさせており、2009年シーズン前には「今年は1年優勝できなくても再来年から5連覇するつもりでやりたい」と現実的な主張をしている。指名打者制度も無く、戦力も均衡化されたリーグで『V9』越えと若手育成を両立させるという、滝鼻オーナーなどフロントサイドの「皮算用」に原因があるとの説もある。

投手の起用 [編集]
最近リリーフ投手が毎年故障しており、投手の登板過多や、執拗に投手の左右に拘りイニングをまたぐ疲労を蓄積させる継投などが批判されている。

2008年の西村健太朗などが、原の酷使に耐えきれず故障しており、その他にも2009年には越智大祐や山口鉄也を故障こそしてはいないが、60試合以上投げさせ、左右に執拗に拘りイニングをまたいだ個々の投手の疲労を考慮しない登板が多い[13]。

一方で、前回の監督就任時は2003年のリリーフ投手の崩壊時に真田裕貴を酷使して潰しかけてしまったこともあるが、基本的に登板したリリーフ投手は試合数が50試合前後、登板イニングも同じ程度(岡島秀樹・前田幸長など)と非常に少なく、本人も「基本的に左のワンポイント投手は使いたくない」といった効率を重視した発言が多い。最近も読売新聞のロングインタビューなどで、WBCをきっかけとして連投制限や中継ぎローテーションの導入などを提案したが、実現には至らないままである。

CD [編集]
どこまでも愛(1982年発売)オリコン最高85位、売り上げ1万1000枚[14]。B面のタイトル「サム」は愛犬の名。
ビクトリー(1984年4月1日発売、メインボーカルは細川たかし)
岡田彰布、高橋慶彦、宇野勝、遠藤一彦、荒木大輔と共にコーラス参加。
サムシング(アルバム、1995年にCDで再発)
出演 [編集]
TV [編集]
笑っていいとも! テレフォンショッキング※・ゲスト(1983年、フジテレビ系)
第46回NHK紅白歌合戦(1995年12月31日、NHK)
古田敦也選手(ヤクルトスワローズ)や、俳優の竹中直人と共に審査員として出演。
ふたりっ子(1996年、NHK)
読売ジャイアンツ監督・原辰徳として出演。
ドリーム☆アゲイン(2007年、日本テレビ系)読売ジャイアンツ監督役
他に出演したエキストラとは違い、台詞があった。
CM [編集]
明治製菓
「ハイレモン」「ヨーグレット」
明治乳業
ルーキー時代の1981年、プリンのCMに出演。
富士重工業
スバル・レオーネのCMに岩崎宏美と共にイメージキャラクターとして起用された(両者はスバル360と同じ1958年生まれ)。
読売新聞社
試合の映像を使用。ナレーションは徳光和夫(当時日本テレビアナウンサー)が務めた(1982年)。
大正製薬
目薬「アイリス」のCM。
オンワード樫山
メンズブランド「スコール」のCM。
ミズノ
日産自動車
1996年秋より、当時オリックスのイチローと共に、「イチロ・ニッサン」「変わらなきゃも変わらなきゃ」キャンペーンのCMに出演。
サントリー
モルツのCMに登場し、山本浩二や達川光男らとコミカルな演技を披露していた。
ファンケル
ツクダオリジナル
著書 [編集]
一流になる人はここが違う―私の出会ったヒーローたち (1998/01・日新報道) ISBN 4817404086
選手たちを動かした勇気の手紙 (2003/03・幻冬舎) ISBN 4344003128
ジャイアンツ愛 (2003/11・幻冬舎) ISBN 4344004213
脚注 [編集]
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^ 中学卒業間近に、原は体育の授業(サッカー?)で左足首を複雑骨折した。診察した医師からも「このままでは、君は野球はできないかも知れないね」と告げられたことがある。怪我の状態は深刻で、最悪の場合歩行困難あるいは重い後遺症が残ると思われ、通常なら野球生命を絶たれる状態だった。しかし、原自身が野球を続けたい熱意が強かったため、根気よく粘ってリハビリ回復に成功し、幸いにも野球は続けられたが、後年のアキレス腱の悪化に間接的に繋がった。
^ 今井美紀編 『原辰徳その素顔』 三修社、2009年。ISBN 4384088884。P.251
^ (株)ベースボールマガジン社刊『週刊ベースボール』2009年10月26日号「特集 原巨人、3連覇!」では岡田彰布(90 - 91ページ)、豊田泰光(52 - 53ページ)、水野雄仁(28 - 29ページ)が賛辞のコメントを寄せている。
^ Italy's Fraccari elected IBAF president
^ 炭鉱町に咲いた原貢野球―三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡(澤宮優著、現代書館2004年)
^ 原巨人、伝説を作った サンケイスポーツ 2008年10月11日閲覧
^ 代打桑田の理由に関しては公式HPの2002年6月22日の日記に論理的な判断(左打者の岡島に左対左でバントさせるよりも右打者の代打を起用したかったため、清原は送りバントを想定している打者ではないことと足が遅いことで併殺の恐れがあるため、村田は捕手・阿部慎之助が負傷した際の守備要員にする必要があったため、鈴木は代走要員であることと代打清原が出塁した後の代走を想定していたため)を掲載しているが、「野手を信頼していないから投手の桑田を代打起用した訳ではなく、残っている野手の分野を考えた」「奇策に奇策を重ねるような戦い、森祇晶監督に対して礼を逸した戦いぶりだった」と本人はあまり評価をしていない。
^ 同社広告では「アドバイザー」と表記。
^ 「夢は米ゴルフツアー参加だった」 50歳を迎えた巨人・原監督
^ 東京スポーツ・2009年12月2日付 2面
^ 【インサイド・レポート】原巨人に何があったのか。 - goo スポーツ:NumberWeb -
^ G李2軍調整の波紋…韓国で原やり玉「嫌われた」『zakzak』2009年7月17日更新、18日閲覧
^ ただし「今いるリリーフ投手を使う、リリーフ崩壊時時には1人のリリーフをつぎ込み酷使する」といった選択は、2008年であれば岡田・落合、野村などの日本の監督は勿論、投手の酷使に極端に過敏だったボビー・バレンタインすら行っている判断である。単に鹿取・尾花両投手コーチの起用法の違いに過ぎないともいわれており、斎藤雅樹に投手コーチが交替した今季の投手起用が注目されている
^ 原どこまでも巨人愛…82年発表のレコード大注目(インターネット・アーカイブのミラー)

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