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落合博満

落合 博満(おちあい ひろみつ、1953年12月9日 - )は、秋田県南秋田郡若美町(現・男鹿市)出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球監督。

2004年から中日ドラゴンズ監督。

目次 [非表示]
1 来歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
1.2.1 ロッテ時代
1.2.2 中日時代
1.2.3 巨人時代
1.2.4 日本ハム時代
1.3 引退後
1.3.1 中日監督時代
2 エピソード
2.1 現役時代
2.2 発言等
2.3 引退後
3 監督としての落合
4 年度別打撃成績
5 タイトル・表彰・記録
5.1 タイトル
5.2 表彰
5.3 記録
6 監督としてのチーム成績
6.1 リーグ公式戦
6.2 ポストシーズン
7 背番号
8 著書
9 CM
10 ディスコグラフィー
11 落合博満役を演じた俳優
11.1 ドラマ
12 脚注
13 関連項目
14 関連人物
15 外部リンク


来歴
プロ入り前
中学・高校時代は、年間100本もの映画を観賞するほどの映画少年だった。特に『マイ・フェア・レディ』は7回見に行き、劇中歌の歌詞(英語)を覚えたほどだった。

秋田県立秋田工業高等学校では野球部に在籍していたが、野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かった。「練習が嫌い」という理由で野球部を退部したが、投打共に落合ほどの実力を持った選手がいなかったため、試合が近づくと部員たちに説得され、復帰した[1]。 落合はほとんど練習をせずに、4番打者として試合に出場した。

高校卒業後、東洋大学に進学するが、先輩がタバコを手にしたら素早く火をつける、等といった体育会系の慣習に納得できず、わずか半年で野球部を退部し大学も中退。秋田に帰ってしまった。

その後、ボウリングのプロを志すがプロテスト受験の際にスピード違反で捕まって罰金を支払ったことで受験料が払えなくなり受験できず、これも挫折してしまう。しかし、才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって東京芝浦電気の府中工場所属の季節工として入社。同工場の社会人野球チーム「東芝府中」に加わった。ここで頭角を現して1978年アマチュア野球全日本代表に選出(森繁和も選ばれている)、同年のドラフト会議でロッテオリオンズに3位指名されて入団。落合をスカウトした城之内邦雄によると、指名理由は「変化球に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった(城之内は投手としての視点から、落合の資質を見抜いていた[2])。なお、巨人は落合をドラフト2位で指名する予定であったが、江川事件によりドラフト会議自体をボイコットしたため、指名は実現しなかった。

プロ入り後
ロッテ時代
プロ入り当時のロッテの監督、山内一弘はレベルスイングの本尊といえる人物でもあり、アッパースイングだった落合のバッテイング・フォームの矯正に取り掛かった。「ホースで水を撒く感じで打て」などのアドバイスを貰ったものの、落合自身は後年「当時の自分には山内さんの高度な打撃理論が理解できなかった」と述べている通り、山内から教わった打法ではボールが前に飛ばない状況であったと言う。その為、ベテラン捕手・土肥健二の非常に柔らかいリスト(手首)を使って、ボールをはじき返すフォームに注目しそれを真似し、我流のフォーム改造を狙った(このことが落合がオレ流と呼ばれる所以である)。また打撃コーチの高畠康真は落合のこのリストワークが気に入り、1980年ロッテに移籍して来た張本勲のもとへ落合を連れていった。張本はレベル&アッパーの打撃理論を主張する打者だが、意外なことに「素晴らしい。このままのスイングで打てる」と言った。この高畠から落合は球種を読むテクニックを教わった。しかし決して落合と山内の関係が悪かったわけではなく、落合は山内から伝授された打撃練習法(カーブマシンを自分の真正面に置き、自分に向かって飛んでくる球を左に打ち返すというもので、左脇を締めて壁を作る練習など)を現役晩年まで実践していた[3]。 また、その後、出来上がった神主打法を改めて見てみたところ、山内監督から教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かり[4]、また山内も落合の三冠王祝賀パーティで祝辞を述べ「落合は入団したときからいい打者になれそうな雰囲気を持っていたから付きっきりで指導した」と話すなど、山内・落合双方は決して互いに悪い印象を持っていない。

入団当初、その凝り固まったフォームをキャンプに来ていた評論家も皆酷評し、特に前監督・金田正一は面と向かって落合の打撃を酷評した。この時の思いを、後年落合は「オレは社会人もやってプロ入りしたから何とも無かったが、もし高校出の若い選手が、あんな偉い人からプロに入っていきなり言われたら潰れるだろ」など、度々口に出した。落合の名球会加入拒否は金田が名球会の中心人物だからであると言われている。読売ジャイアンツに入団した際も、ジャイアンツのかつての名選手を訊かれ、「王さん、長嶋さん、金田」と金田のみを呼び捨てにしたため物議を醸した。また、落合はロッテ時代「オレは1999本ヒットを打てばいつでも引退する」(名球会入会資格である2000本安打の1本手前)と発言した事もあった。[要出典]

1980年、二軍調整中の江川卓のボールを、センターバックスクリーンに打ち込んだ。このシーンは現在も放送されるが、打たれた江川はセンターフライと思いマウンドを降りかけていたところ、打球は、途中から伸びスタンドに突き刺さる。柔らかく、そして強いリストを効かせ、鞭で叩くような落合の打法の特徴がよく現れている。5試合連続本塁打のイースタン・リーグ記録を作り、後期に一軍へ戻ると57試合だけで15本塁打を放ち、レギュラーを掴み、翌年1981年には早くも首位打者のタイトルを獲得した。

1982年には史上最年少で三冠王に輝く。しかし、数字的には突出したものではなく(打率:.325、本塁打:32本、打点:99)、野球評論家の豊田泰光が落合に対して苦言を放つなど、三冠王のレベルではないと批判された。これに反発した落合は1985年に圧倒的な成績で2度目の三冠を獲得した(打率:.367、本塁打:52本、打点:146)。

1986年も2年連続で3度目の三冠王を獲得(打率:.360、本塁打:50本、打点:116)。2年連続の三冠王は日本プロ野球界において王貞治(1973年 - 1974年)、ランディ・バース(1985年 - 1986年)、落合の3名のみで、通算3度獲得は落合のみ。この年はブーマー・ウェルズや秋山幸二らとシーズン中盤まで熾烈なタイトルを争い繰り広げたが、狭い川崎球場やシーズン終盤早々に消化試合になってしまう当時のロッテのチーム状況もプラスになりタイトルを獲得。落合の理解者であった稲尾和久が成績不振で監督を解任されると、「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言。牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手との1対4のトレードで中日ドラゴンズに移籍。日本人初の年俸1億円プレーヤーとなる。

中日時代
1987年、2年連続三冠王としてセ・リーグでデビューしたが、本塁打・打点とも過去2年と比べて激減し、獲得タイトルなしに終わった。同年8月20日に妻信子との間に長男の福嗣が誕生。 1988年、32本塁打95打点(共にリーグ2位)勝利打点19でチームの優勝に貢献するも、規定打席到達以来初めて打率3割を割ってしまう。1989年、シーズン終盤に破竹の勢いで打点を稼ぎ、セ移籍後初のタイトルとなる打点王(116打点で)を獲得。1990年、34本塁打102打点で二冠を獲得。1991年2月、年俸を不服として日本人選手として初めて調停を申請。シーズンは終盤まで三冠を狙える位置にいたが、三冠を獲得するため本塁打狙いにいった結果、古田敦也との首位打者争いに敗れ、本塁打王のみに終わる。1992年、選手会を脱退。1993年、両リーグでの200本塁打を達成。同年オフ、導入されたばかりのフリーエージェント (FA)制度を利用してFAを宣言。

巨人時代
1994年、FA宣言により読売ジャイアンツに移籍。長嶋茂雄監督率いるチームの2度(1994年、1996年)のリーグ優勝に4番打者として貢献。1995年、2000本安打を達成するが名球会入りを拒否[5]。1996年、史上7人目の通算500号本塁打、史上7人目の通算1500打点を達成。同年8月31日中日戦で野口茂樹から死球受け左手首を骨折し戦線離脱。同年の日本シリーズ第1戦から復帰した。オフに清原和博が巨人へ入団したため、出場機会を求めて球団に自由契約を申し出る。

日本ハム時代
1997年、ヤクルトスワローズの誘いを断り、2年契約を提示した上田利治監督率いる日本ハムファイターズに移籍。年齢から来る衰えを隠せず大不振。1998年、チームの「ビッグバン打線」が爆発し、9月まで優勝争いする中、出場機会も減少。シーズン終了後、現役を引退。(任意引退ではなく自由契約での引退)

引退後
引退後は解説者として活動。2001年までテレビ朝日で解説者を務める(キャッチコピーはオレ流解説)。その後はフリーとなっていたが、テレビ朝日時代から通っていた九州朝日放送には度々登場していた。2001年2月、森祇晶監督時代の横浜ベイスターズのキャンプで臨時打撃コーチを務めた。

中日監督時代
2003年オフ、中日の監督に就任(3年契約)。就任早々、16人の選手の背番号とユニフォームのデザインを変更した。トレードの凍結を宣言し、主な補強は川相昌弘とドミンゴ・グスマンのみにとどめた。キャンプ初日に紅白戦を実施。3年間一軍登板のなかった川崎憲次郎を開幕投手に起用。就任1年目にしてリーグ優勝を達成。日本シリーズでは、先に3勝しながらも3勝4敗で日本一ならず。

2005年、主砲タイロン・ウッズの殴打事件による出場停止と交流戦における負け越しにより失速。2位に終わる。

2006年、監督として2度目のリーグ優勝を達成。しかし日本シリーズでは1勝4敗で敗れまたも日本一ならず。オフに、球団と新たに2年契約を結んだ。

2007年、ペナントレースでは連覇を逃し2位。同年から導入されたクライマックスシリーズで阪神に2連勝、巨人に3連勝と勝ち進み、日本シリーズに出場。4勝1敗で北海道日本ハムファイターズを破り、本人指すところの所謂プレーオフチャンピオン(価値のあるリーグ制覇を経ない日本シリーズ優勝)に輝いた。無論、公式記録上は53年ぶり2度目の日本一であり、前年の雪辱を十分に果たしていると言えるだろう。また、その後行われたアジアシリーズでもチームをアジアチャンピオンに導いた。これらの功績が認められ、自身にとって、また中日の監督・選手として初となる正力松太郎賞を受賞。


アジアチャンピオンに輝き、選手達に胴上げされる落合博満(2007年11月11日・東京ドーム)2008年、監督就任5年目で順位・勝利数・勝率のいずれもワーストとなり、成績上では監督として最悪のシーズンとなった。北京五輪で多くの選手が抜けたのも響き、3位に終わる。クライマックスシリーズ2ndステージでは巨人に1勝したのみに終わり敗退。オフに、球団と新たに3年契約を結んだ。

2009年、川上憲伸・タイロン・ウッズ・中村紀洋がチームを去り、谷繁元信がケガで離脱したこともあり、4月は負け越して開幕ダッシュに失敗。しかし、その後は巻き返し、7月には首位巨人に1.5ゲーム差まで迫ったが失速。12ゲーム差の2位に終わる。クライマックスシリーズ2ndステージでも巨人に1勝したのみに終わり敗退。

エピソード
現役時代
現役時代は生活の全てを野球に捧げていた。お腹を壊すと試合に出られないからと好物だった刺身をプロ入り後は一切食べなくなった、息子の福嗣が深夜に庭で父が素振りをする音で目が覚めた、遠征先のホテルでチームメイトが部屋を訪ねると裸でバットを持ったまま出てきたなど、その練習に関するエピソードには事欠かない。
ただし努力している姿をファンに見せないことを信条としており、猛練習する姿はほとんど映像に残っていない。ロッテ時代に受けたインタビューでも「努力は才能のない奴がすること」などと発言し、王貞治にたしなめられたことがある。
2000本安打を達成しているが、それぞれ節目となる500本目、1000本目、1500本目、2000本目はすべて本塁打である。さらに、1000試合出場、2000試合出場の時にも本塁打を打っている。
その優れたバットコントロールのエピソードとして、このようなものがある。
ロッテ時代、東尾修との対戦で落合は頭部付近に死球を受けた(厳しい内角攻めは東尾の持ち味でもあった)。次の打席、落合は東尾の足元を抜くセンター前ヒットを放つ、しかしどことなく不満げ。その次の打席で、落合は東尾を直撃する強烈なピッチャー返しを放つ(内野安打)。一塁ベース上の落合は少し満足げな表情を浮かべていた。[1]
通算で510本の本塁打を放っているが、そのうちの176本は右翼への本塁打である。アウトコースの球を払うように流し打ちをし、本塁打にしてしまう技術に感嘆したスポーツライターの山際淳司は、スポーツ選手に関するエピソードを集めた『ナックルボールを風に』(1983年)という著書の中の「アウトコース」で、落合を取り上げている。しかし当の本人は『別冊宝島 プロ野球・記録と記憶』(2000年)において、「俺の弱点はアウトローだった。俺ほど外の球を打つのが下手なのはいない」と語っている。実際に落合が得意としていたのはインコースをセンターから右に打つことだった。
入団当初は三塁手だったが、一軍に定着するため、2年目からは当時手薄だった二塁手に転向、有藤道世の外野手転向により三塁手に戻り、その後、打撃に専念するために一塁手に転向した。一時二塁手だったため2000年、日本野球機構などが行った「センチュリーベストナイン(20世紀ベストナイン)」投票で落合が二塁手として選ばれた(落合の通算成績は20世紀ベストナインとするに十分であったが、一塁に王貞治、三塁に長嶋茂雄が選ばれるのは確実なので、なんとか落合を選出しようと多くのファンが知恵を絞った結果である)。
ロッテ時代、打撃練習でバットの芯を外れた内野ゴロばかり打つ姿を見た村田兆治が声をかけると、ヒットでなくても三塁走者を帰せるよう芯を外す練習をしていると答え、村田は呆れつつも感心したという。
打撃の感触を重視するため、 グラブを使わずに素手でバットを握った。なお、デッドボール時の保護のため、緩衝材を入れた特注のリストバンドを使用していた。
現役時代は「金の為に野球をやっている」「多く給料を出してもらえるところへ行く」「金にならない試合には出ない」などの、これまでの日本人選手に多く見られた「浪花節」的考えと一線を引いた発言は賛否両論を巻き起こした。実際、チャリティー試合の出場を拒否したこともあった。FA宣言後も、巨人入団前から「一番お金を出してくれたチームに行く」と公言。「プロとして最も(金銭面で)評価してくれるところへ行くのは当然」と強調している。
愛甲猛、矢野輝弘、清原和博、小笠原道大など信奉者は数多い。星野仙一も「大変優しい選手だ」とコメントしている。マスコミなどがいないところでは進んでコーチ役も買って出ていたという。また、評論家時代にも、スランプに陥っていた中村紀洋や松中信彦らが落合にアドバイスを求めるなど、選手からの信頼は高いと言える。
口では「記録を出せば給料が上がる」と個人プレーに徹するような発言をしているが、宇野勝は「落合さんが中日に来て初めてチームバッティングとはどういうものかを教わった」と発言しているように、彼の打撃は状況に応じて安打、本塁打を狙い分けるものでチームの勝利第一であり、記録はその結果付いてきたものであった。実際、試合に勝つためにノーサインで突如送りバントを成功させ、周囲を驚かせた事もあった(シーズン終了後に「あれは勝つための判断」と説明)。
ロッテ時代の1984年から1986年に監督を務めていた稲尾和久を師と仰いでおり、唯一彼が無条件で従う人物といわれる。
現役時代、室内練習場で長時間にわたるバッティング練習を終えたところ、落合の指が感覚を失い、バットから離れなくなってしまう事態になった。その時、物陰から姿を現し、指をゆっくりとバットから離してあげた人物が稲尾だった。稲尾は落合の練習をずっと見守っていたのである。落合の稲尾への私淑はこのときがきっかけだという。
稲尾もまた、1986年の序盤に極度の不振に陥った落合を4番で起用し続けるなど絶大な信頼を寄せ、落合もそれに応えて不振から立ち直り、三度目の三冠王に輝いた。この年のオフの世紀のトレードは稲尾の監督解任によるロッテへの不信感が一因とされている。落合が正力松太郎賞を受賞した2007年11月13日は奇しくも稲尾の命日でもあり、受賞後の会見で稲尾について「監督と選手の立場を超えて野球を語り合った。(稲尾が教えてくれた)打者には分からない投手心理は私の財産」との旨のコメントを残している。
プロ入り前から長嶋茂雄の熱心なファンで、後楽園球場での引退試合をスタンドで観戦している。ロッテ時代には取材を受けた際に「長嶋さんがもう一度巨人の監督になったら、世間からバカにされますよ。笑われますよ。だって、自分をクビにしたチームにのこのこ帰っていくヤツがどこにおるんよ」と発言し、取り沙汰されていた巨人復帰に釘を刺したことがある[6]。にもかかわらず、1992年、長嶋が巨人の監督に復帰すると落合はFAで巨人に移籍。会見で「胴上げするために来ました」と述べ、実現させている。
落合は20代で結婚もスピード破局し、その後、ホステスをしていた9歳年上の信子夫人と再婚。愛妻家(恐妻家?)として知られる。FA権の行使や監督就任などを決定させた事でも知られる(詳細は落合信子の項目を参照)。2人の間には長男・福嗣がいる。
パシフィック・リーグで採用している指名打者制度には批判的であり、ロッテ時代は指名打者での出場があるが、現役最晩年の日本ハムでは指名打者での出場を頑なに拒否し、一度も指名打者では出場しなかった。
高校時代野球部を退部した後放課後は毎日のように映画館に入り浸る日々が継続した。自著では高校時代を通じて100本以上の映画を見たと記している。野球馬鹿にならずに済んだとも回想している[7]。
日本球界での「真」のホームランバッターとして、田淵幸一と秋山幸二の2人だけを挙げ、自分も王さんも違うと語っている。
広島東洋カープの前田智徳の打撃センスを非常に高く評価しており、「天才」と呼んでいる。実際、打撃指導の時は「広島の前田を参考にしろ」と言う事が多い。また、リトルリーグの指導をする時も「プロの真似をするなら広島の前田の真似をしなさい」と言う。ちなみに自身の現役時代のフォームの真似については「(非常に高い打撃技術がない限り)真似るとスランプに陥る可能性があるので絶対にやめなさい」と言っている。
落合自身の打撃法について「俺と同じ打撃が出来るのは石嶺和彦だけ」と言っている。
発言等
「ボディービルダーになるんじゃないんだから」とウェイトトレーニングをする選手を批判している。「広島カープの選手の様にバットを振って鍛えなさい」と言っている。(広島カープの素振りは有名だが実際はウェイトトレーニングも盛んである)
私が来たから日本ハムは優勝します。(日本ハム移籍時)
巨人対広島戦を落合が解説していた試合で西山秀二に対するデットボールに対して「はっきり言っていいですか(このデットボールは)わざとです」と言い物議を醸した。
現役時代タイトル争いがかかる終盤で打ちまくったため“帳尻合わせ”と揶揄される事もあったが解説者転向後に一転して「盛り上がらない消化試合はいらない。中止になればその試合を移動日に前倒しして開催すればいい、ペナント優勝決定の時点でシーズンを終わらすのがいい。」と発言し話題になった。
引退後
2000年時点で、自らの現役時の記録において誇れるのは「3度の三冠王と2年連続50本塁打だけだ」と言っていた(どちらも当時、日本プロ野球界唯一の記録。2年連続50本塁打以上は2002・2003年にアレックス・カブレラも達成した)。
中日ドラゴンズ監督になってからは「(プロ野球球団は)勝つことが最大のファンサービスである」と口にしている。



監督としての落合
2003年10月に中日ドラゴンズの監督に就任し、「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」という公約を掲げたことから「オレ流采配」として注目を集めた。その後、例年好成績をあげ、かつ選手育成に手腕を発揮したことから、「川上哲治、野村克也と並ぶ超一流選手と一流監督を両立させた名将に近づいたといえる」と二宮清純が評する[8]ように監督としての評価は高い。反面、個性的な言動、記者に無愛想なことから批判も多い。

監督就任時は前述の公約通り、補強は控えていたが、2005年シーズンに向けては凍結を解除し、阪神タイガースなどと競合して横浜ベイスターズのタイロン・ウッズを獲得。一方、関川浩一、酒井忠晴、小山伸一郎、紀藤真琴の4人を東北楽天ゴールデンイーグルスに無償放出した。
マスコミに対しては、試合後のコメントも他の監督に比べ短く、落合の試合後のコメントを毎回掲載する東京中日スポーツの「オレ流語録」コーナー掲載のコメントはほとんど一行のみである。現役時代にチーム事情を敵にばらす記者がいることを知り、自分のチーム事情が漏れるのを警戒しているからであるとされている。[9]また、選手の個人名を出して批判する事はほとんどしない。これは選手時代の気持ちを忘れないようにしている配慮である。しかしそれゆえ、負けが込んでくると貝になったように話さないようになり、上記「オレ流語録」コーナーでも無言で去った旨の記述が散見される。
就任当初は感情をあらわにする事もあったが、2006年頃から寡黙になり、ベンチ内やグラウンドで喜怒哀楽を見せることは非常に珍しくなった。2008年はままならぬチーム事情ゆえ、「何もないよ。何があるんだよ、こんな試合(7月12日)」「(監督に就任して)5年目で最悪の試合だ。見てりゃ分かるだろ。(清水昭信がプロ初黒星を喫したことに関し)お前ら(マスコミ)がチヤホヤするからだ(9月12日)」と、苛立ちを隠せないことが多くなっている。
反面、選手指導には卓越した手腕を持っている。特に無名の選手や若手を発掘し、自らの指導で一人前にすることにこだわりがある。育成した選手は自ら「一番弟子」という愛甲猛の他、小笠原道大、トニ・ブランコ、川井雄太、井端弘和など数多い。岡田彰布は落合と2008年オフに会話した折、巨人のようにマネーゲームで強力選手を取る野球ではなく、選手を育成して勝利するという強い執念を感じたという。[10]現役時代の天才的バットコントロールを生かしたノックの腕前もまた天才的である。
采配に関しては、自身が選手として現役時代を過ごした時の監督である、前述の高木守道の采配を参考としている。[要出典]
負けた試合では誰よりも早く、試合終了後、わずか数秒でベンチ裏に下がることが多い。
2005年の日本シリーズでこの年リーグ2位だった千葉ロッテマリーンズが日本シリーズを制した際、「(ロッテは)日本一じゃなくてプレーオフチャンピオンだろ」「2位で日本一なんかになったって俺はちっとも嬉しくないし、俺が当事者だったら釈然としない」とコメントした。2年後に自身がその当事者になってしまったが、「リーグ優勝できなかったことに不満はある」と語っている。
2006年9月20日の横浜スタジアムでの試合後、監督室に置いてあった財布・お守りなどが入っていたセカンドバッグが盗まれた。その際お守りは家族3人お揃いのものだったため、「お守りだけでもいいから返してほしい」と悲痛な叫びを訴えた。
2度目のリーグ優勝を成し遂げた2006年10月10日の東京ドームにおける勝利監督インタビューにおいて、こらえきれずに泣き出してしまった。実は延長12回の優勝を決定付けるウッズの満塁本塁打の直後からすでに泣いていた。普段は本塁打を打った選手を出迎えることなどは一切無いが、満面の笑顔でウッズを出迎え、抱き合い、その直後から何度もタオルで涙をぬぐう姿が見られた。「今日は絶対に泣くまいと思っていましたが、最初に泣いたのは私でした」、「1位で走っている球団の方が、追いかける球団よりも楽に決まっている」とインタビューで度々答えていたものの、優勝決定直後には「(一時は圧倒的なゲーム差を付けるも、終盤に驚異的な追い上げを見せた阪神に対して)あそこまで追い込まれるとは思わなかった」と本音を漏らした。
週刊新潮の2006年11月9日号によるとスズキ自動車の鈴木修はドラゴンズの応援をやめたとされる。日米経済界から手腕を認められるこの大物は広報を通して「私はビジネスマンは良き社会人でなければならないと考えますが、落合さんは違うようです」とコメントしている。浜松の河合楽器製作所の硬式野球部(2001年に休部)出身者の山井大介を応援するなど郷土への強い愛着で知られる鈴木会長は、同時に現実主義者でもあり落合が財界や有力者への挨拶を嫌い周囲の反発を招いた事を批判したものとされる。地方球団としてのあり方について落合にも一言あるのかも知れないが、「ジジ転がし」の達人とされた星野以降は減収が続く球団では営業部の落合批判は公然とされていると記事はまとめている。
2007年よりセントラル・リーグにもプレーオフ制が導入されたが、落合は常々プレーオフ制度には反対の意向を示しており、「あくまでペナントレースの優勝に価値がある」と自論を展開している。そんな落合いわく、「日本シリーズは今年(2006年)で最後」と発言している。
2007年にオリックス・バファローズとの契約交渉がこじれて自由契約になった中村紀洋を、育成選手(後に支配下登録)として獲得した(中村紀洋と近鉄時代から交流があり、また落合とも親友の梨田昌孝が間をとった)。中村の指導も行い、低迷していた成績を再生させた。なお、中村は2000年から落合の指導を受けている。[11]
だが同年、投手として入団した2年目の金本明博を野手へ転向させる事を決断。それにより今年中の一軍昇格は無理だと判断した事と、もしもの時に備えて70人ギリギリの選手枠に空きを作りたいという事を理由に、ウェーバーにかけた後に他球団から獲得の意思が無ければ育成選手として再契約する事を決めた。だが選手会はこの件に関して、「育成選手の意味を都合良く解釈するな」と猛抗議。落合もこれにひるむ事無く真っ向から反論。「本人と十分に話し合って同意を得た上で、決められたルールに従ってやった事だ。本来なら金本は、8月には整理リストに入っていても(解雇の候補に挙がっても)おかしくない選手。育成選手枠の存在があるからこそ、金本は今も中日のユニフォームを着ていられるんだ」と発言している。
2007年5月1日、セ・リーグの豊蔵一会長は、金本明博のウェーバー公示の取り消しを中日球団に通告。「総合的に判断して決めた。ウェーバー公示の一方的な取り消しは規約違反だと分かってはいるが、承知の上」と弁明。だが落合は「正規のルールに従ってやっている事なのに、何故そういう事になるのか」と激怒。球団に全て任せるとしているが、中日球団は法廷闘争も辞さない構えを見せていたが、結局はこの取り消しを承諾。金本は投手から内野手に再登録して支配下登録のまま中日に身を置いていたが、同年10月29日球団から戦力外通告を受けた。
2007年10月4日、公式戦最後の地元ナゴヤドームでの試合に先立ち、長男、福嗣との約束であり、中日ドラゴンズファンへの公約でもあった「2年連続セントラルリーグ優勝」を果たせなかったとして、ドラゴンズファンへのお詫びの気持ちとクライマックスシリーズを勝ち抜く決意を込めて頭を丸刈りにした。
2007年11月1日、北海道日本ハムファイターズとの日本選手権シリーズ第5戦で平田良介が打った犠牲フライによる1点を守りきり、球団として53年間達成できなかった日本一を成し遂げた。その一方で8回表まで完全試合投球を続けていた先発の山井大介を9回表に岩瀬仁紀へ交代させた采配には、他球団ファンや在京マスコミを中心として賛否両論が巻き起こった(2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投)。
2007年11月13日、プロ野球界最高の賞である正力松太郎賞を選考委員会の満場一致で受賞した。その際、選考委員長であった川上哲治は、「正力さんはいつも『勝負に私情をはさんではいかん』と言っておられた。日本シリーズでも勝敗に徹して、そういう強い信念が感じられた」とコメントし、賞の選考において同年の日本シリーズにおける先述の采配を肯定的に評価したことを明言している。
2008年8月4日、山本昌が完投で通算200勝を達成した際には先述の日本シリーズの件を引き合いに「代えられません! 日本シリーズとは違います。日本シリーズはチームの記録。きょうのは本人の記録です。」と発言して記者たちの笑いを誘った。
2009年、ワールド・ベースボール・クラシックに自軍の選手を誰も派遣しなかったこと、2007年アジアシリーズでもタイロン・ウッズ、川上憲伸など主力選手を出場させなかったことなどもあり、明言はしていないが行動を見ていると野球の国際大会には価値を認めていないようなところがある。
年度別打撃成績

度 球
団 試
合 打
席 打
数 得
点 安
打 二

打 三

打 本

打 塁
打 打
点 盗
塁 盗

死 犠
打 犠
飛 四
球 敬
遠 死
球 三
振 併

打 打
率 出

率 長

率 O
P
S
1979 ロッテ 36 69 64 7 15 3 1 2 26 7 1 0 0 0 4 1 12 2 1 .234 .290 .406 .696
1980 57 188 166 28 47 7 0 15 99 32 1 0 2 2 17 1 23 5 5 .283 .349 .596 .946
1981 127 502 423 69 138 19 3 33 262 90 6 3 1 4 68 6 55 17 9 .326 .423 .619 1.043
1982 128 552 462 86 150 32 1 32 280 99 8 2 0 4 81 5 58 11 7 .325 .428 .606 1.034
1983 119 497 428 79 142 22 1 25 241 75 6 5 0 3 64 2 52 14 7 .332 .419 .563 .982
1984 129 562 456 89 143 17 3 33 265 94 8 1 0 4 98 4 33 14 16 .314 .436 .581 1.017
1985 130 568 460 118 169 21 1 52 351 146 5 1 0 4 101 3 40 16 19 .367 .481 .763 1.244
1986 123 522 417 98 150 11 0 50 311 116 5 1 0 1 101 3 59 15 10 .360 .487 .746 1.232
1987 中日 125 519 432 83 143 33 0 28 260 85 1 4 0 4 81 2 51 10 9 .331 .435 .602 1.037
1988 130 557 450 82 132 31 1 32 261 95 3 4 0 6 98 3 70 11 10 .293 .418 .580 .998
1989 130 559 476 78 153 23 1 40 298 116 4 3 1 6 75 1 69 11 6 .321 .410 .626 1.036
1990 131 570 458 93 133 19 1 34 256 102 3 3 0 8 100 4 87 7 7 .290 .416 .559 .975
1991 112 478 374 80 127 17 0 37 255 91 4 2 0 5 95 4 55 9 5 .340 .473 .682 1.155
1992 116 481 384 58 112 22 1 22 202 71 2 3 0 6 88 3 74 12 3 .292 .425 .526 .948
1993 119 504 396 64 113 19 0 17 183 65 1 2 0 8 96 4 69 13 4 .285 .423 .462 .885
1994 巨人 129 540 447 53 125 19 0 15 189 68 0 0 0 6 81 6 56 13 8 .280 .393 .423 .815
1995 117 483 399 64 124 15 1 17 192 65 1 0 0 8 73 3 87 17 5 .311 .414 .481 .895
1996 106 448 376 60 113 18 0 21 194 86 3 0 0 2 67 3 53 11 6 .301 .408 .516 .924
1997 日本ハム 113 466 397 35 104 14 0 3 127 43 3 0 0 5 61 3 60 16 3 .262 .361 .320 .680
1998 59 192 162 11 38 6 0 2 50 18 0 1 0 2 26 2 22 12 0 .235 .344 .309 .652
通算:20年 2236 9257 7627 1335 2371 371 15 510 4302 1564 65 35 4 88 1475 63 1135 236 140 .311 .422 .564 .987
16位 11位 20位 7位 10位 17位 - 6位 8位 5位 - - - 7位 2位 - 23位 - - 8位 - 4位 -

各年度の太字はリーグ最高
順位は2008年度シーズン終了時
タイトル・表彰・記録
タイトル
MVP:2回(1982年、1985年)※優勝チーム以外から2度以上の選出は王貞治(1964年、1974年)に続いて2人目。
三冠王:3回(1982年、1985年、1986年)※史上最多。
首位打者:5回(1981年 - 1983年、1985年、1986年)
本塁打王:5回(1982年、1985年、1986年、1990年、1991年)※両リーグ本塁打王は史上初。
打点王:5回(1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)※両リーグ打点王は史上初、現在も唯一。
最多勝利打点:3回(1982年、1985年、1988年)
最高出塁率:7回(1982年、1985年 - 1988年、1990年、1991年)
ベストナイン:10回(1981年、1982年=二塁手 1983年、1988年、1990年、1991年=一塁手 1984年 - 1986年、1989年=三塁手)
表彰
月間MVP:6回(1985年9月、1986年5月、1988年8月、1989年8月、1990年5月、1991年8月)
IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回(1991年)
優秀JCB・MEP賞:1回(1990年)
オールスターMVP:2回(1983年第3戦、1995年第1戦)
記録
シーズン打率:.367(1985年)※右打者歴代3位。
シーズン本塁打:52(1985年)※右打者の日本人歴代最多タイ記録。
シーズン打点:146(1985年)※パ・リーグ記録。
シーズン長打率:.763(1985年)※パ・リーグ記録。
シーズン得点:118(1985年)※右打者のパ・リーグ記録。
シーズン塁打:351(1985年)※右打者のパ・リーグ記録。
シーズン得点圏打率:.492(1985年)※日本記録。
シーズン出塁率:.487(1986年)※パ・リーグ記録。
シーズン打率3割以上:11回(1981年 - 1987年、1989年、1991年、1995年、1996年)※歴代5位タイ。
シーズン打率.360以上:2回(1985年、1986年)※日本タイ記録、右打者では史上唯一。
シーズン50本塁打以上:2回(1985年、1986年)※歴代2位タイ。
シーズン30本塁打以上:9回(1981年、1982年、1984年 - 1986年、1988年 - 1991年)※歴代3位タイ。
17年連続シーズン100安打以上(1981年 - 1997年)※歴代4位タイ。
2年連続シーズン50本塁打以上(1985年 - 1986年)※史上初。
両リーグ1000安打以上(パ1096本、セ1275本)※史上2人目。
両リーグ200本塁打以上(パ247本、セ263本)※史上唯一。
1試合6四球(1991年10月13日)※日本記録。
5試合連続本塁打(1989年10月10日 - 10月14日)
通算打率:.3108(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代最高打率、5000打数以上では右打者最高打率。
通算長打率:.564(1979年 - 1998年)※右打者歴代1位。
通算350本塁打到達スピード:1257試合(1990年5月8日)※史上最速記録。
通算1000打点到達スピード:1284試合(1990年6月12日)※史上最速記録。
オールスター出場:15回(1981年 - 1991年、1993年、1995年 - 1997年)
オールスター通算打率:.365 ※100打数以上では、歴代1位タイ。
オールスター通算本塁打:11本 ※歴代4位。
オールスター通算打点:27 ※歴代3位タイ。
初出場 1979年5月29日 南海戦(川崎)※代打
初安打 1979年5月30日 南海戦(川崎) 森口益光から
初本塁打・初打点 1979年5月31日 南海戦(川崎) 山内新一から
通算1000試合出場 1988年5月14日(276人目)
1000本安打 1987年6月2日 大洋戦(ナゴヤ) 高橋一彦から本塁打
1500本安打 1990年9月5日 巨人戦(東京ドーム) 桑田真澄から本塁打
2000本安打 1995年4月15日 阪神戦(甲子園) 久保康生から本塁打
監督としてのチーム成績
リーグ公式戦
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打 チーム
打率 チーム
得点 チーム
失点 チーム
防御率 年齢
2004年 中日 1位 138 79 56 3 .585 (7.5) 111 .274 623 558 3.86 50歳
2005年 2位 146 79 66 1 .545 10 139 .269 680 628 4.13 51歳
2006年 1位 146 87 54 5 .617 (3.5) 139 .270 669 496 3.10 52歳
2007年 2位 144 78 64 2 .549 1.5 121 .261 623 556 3.59 53歳
2008年 3位 144 71 68 5 .511 10 140 .253 535 556 3.53 54歳
2009年 2位 144 81 62 1 .566 12 136 .258 605 508 3.17 55歳

※1 2001年から2004年までは140試合制(2004年は選手会ストライキのため2試合が行われなかった)
※2 2005年から2006年までは146試合制
※3 2007年から144試合制
※4 優勝年のゲーム差は2位とのゲーム差
※5 順位の太字は日本シリーズ優勝
ポストシーズン
年度 チーム 大会名 対戦相手 勝敗
2004年 中日 日本シリーズ 西武ライオンズ 3勝4敗
2006年 日本シリーズ 北海道日本ハムファイターズ 1勝4敗
2007年 セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ 阪神タイガース(セ・リーグ3位) 2勝0敗
セ・リーグ クライマックスシリーズ
2ndステージ 読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) 3勝0敗
日本シリーズ 北海道日本ハムファイターズ 4勝1敗
2008年 セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ 阪神タイガース(セ・リーグ2位) 2勝1敗
セ・リーグ クライマックスシリーズ
2ndステージ 読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) 1勝1分2敗
2009年 セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ 東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ3位) 2勝1敗
セ・リーグ クライマックスシリーズ
2ndステージ 読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) 1勝3敗

※ 2008年、2009年のクライマックスシリーズ2ndステージでは、セ・リーグ優勝の読売ジャイアンツに1勝のアドバンテージが与えられたが、ここではアドバンテージ分は除いた勝数を示した
背番号
6(1979年 - 1993年、1995年 - 1996年)
60(1994年)
3(1997年 - 1998年)
66(2004年 - )
著書
なんと言われようとオレ流さ(講談社 1986年4月 ISBN 4062026295)
勝負の方程式(小学館 1994年6月 ISBN 4093871213)
激闘と挑戦 巨人軍・落合博満が闘った奇蹟の136試合(鈴木洋史との共著、小学館 1995年6月 ISBN 4093871574)
不敗人生 43歳からの挑戦(鈴木洋史との共著、小学館 1997年2月 ISBN 4093872120)
野球人(ベースボール・マガジン社 1998年12月 ISBN 4583035691)
プロフェッショナル(ベースボール・マガジン社 1999年12月 ISBN 4583036213)
落合にきけ!( 朝日新聞社  2000年3月 ISBN 402257478X)
コーチング―言葉と信念の魔術 (ダイヤモンド社 2001年9月 ISBN 4478720215)
落合博満の超野球学(1)バッティングの理屈(ベースボール・マガジン社 2003年5月 ISBN 458303749X)
落合博満の超野球学(2)続・バッティングの理屈(ベースボール・マガジン社 2004年3月 ISBN 4583037910)
落合戦記―日本一タフで優しい指揮官の独創的「采配&人心掌握術」(ダイヤモンド社 2004年11月 ISBN 4478960917)
CM
アートネイチャー「若露」(育毛剤。1983年)
ロッテ 「木の葉」(スナック菓子。1983年)
東海旅客鉄道(1988年3月13日ダイヤ改正)
愛知県警察
中部電力
富士通(パソコン「FMV」。木村拓哉と共演)
愛知県知事選挙CM(2007年。戸田恵梨香と共演)
ディスコグラフィー
サムライ街道/そんなふたりのラブソング(1986年)「そんなふたりの…」は信子夫人とデュエット。5万5000枚を売り上げた[12]
男のララバイ(1987年)
めぐり逢い(1989年12月22日)
恋の広小路(1990年12月12日)中村美律子とデュエット
落涙(1991年12月24日)
縁歌酒(1992年9月21日)多岐川舞子とデュエット
息子へ(1993年1月8日)
夜明川(1994年1月15日)
涙 渇くまで(1996年2月21日)林るり子とデュエット
抱かれて乾杯(1997年3月20日)若山かずさとデュエット
霧の別れ(1998年3月21日)若山かずさとデュエット
サムライ街道/男のララバイ(2004年2月11日)
旅路のひと
落合博満役を演じた俳優
ドラマ
渡辺正行:落合夫妻の悪妻だから夫はのびる(1988年2月25日・3月3日)
布施博:悪妻は夫をのばす!落合博満夫妻物語(1993年12月5日・12月12日)
脚注
^ 落合は高校時代、野球部退部→復帰を通算7回繰り返している。
^ 『プロ野球 これがドラフトだ!』(岡邦行著・1989年11月30日・三一書房 ISBN 4380892492)
^ フジテレビ739「さらば愛しきプロ野球・佐々木信也」より
^ 週刊ベースボール内「落合博満の超野球学」より
^ 1995年 名球会目指してきたわけじゃない 落合博満、資格獲得も入会辞退 スポニチ 日めくりプロ野球09年4月
^ 玉木正之 『プロ野球大大大事典―決定版!!読むプロ野球』(東都書房 1986年3月)
^ 落合博満 『何と言われようとオレ流さ』 講談社 1986年4月
^ 週刊現代『中日・落合の再生工場を見に行く』講談社刊、2009年8月15日発行(158-161ページ)
^ 週刊現代『中日・落合の再生工場を見に行く』講談社刊、2009年8月15日発行(158-161ページ)、巨人軍担当記者の発言
^ 週刊現代『中日・落合の再生工場を見に行く』講談社刊、2009年8月15日発行(158-161ページ)。尚、愛甲と小笠原は日本ハム選手時代からの教え子で、現役時代から指導力には優れていた。
^ 週刊現代『中日・落合の再生工場を見に行く』講談社刊、2009年8月15日発行(158-161ページ)
^ 日めくりプロ野球11月、スポーツニッポン、2007年11月。
関連項目
秋田県出身の人物一覧
千葉ロッテマリーンズの選手一覧
中日ドラゴンズの選手一覧
読売ジャイアンツの選手一覧
北海道日本ハムファイターズの選手一覧
落合博満野球記念館
ジャイアント落合 - 甥にあたる格闘家。練習中の怪我が元で亡くなっている。
欠端光則
関連人物
牧田知丈(バラエティ番組・とんねるずのみなさんのおかげでした内の細かすぎて伝わらないモノマネ選手権で落合のモノマネを行い、有名になった製薬会社勤務の男性。第9回の優勝がきっかけで2006年末のドラゴンズ納会にゲストで招待され、選手・スタッフに大好評だった。また地元のピザチェーン・アオキーズ・ピザのTVCMにも落合選手役で出演したこともある。ちなみに落合は、とんねるずのみなさんのおかげでしたの食わず嫌いに出演した際、罰ゲームとして現役時代のバッティングフォームをやった)
峰竜太(現役時代から落合と交流がある。自身もドラゴンズファンであることから、優勝時のビールかけに参加したり、自身が司会を務めるドラゴンズHOTスタジオでは民放在名テレビ局で唯一、毎年キャンプ前に峰と落合のインタビューを放送している)

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