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福本豊

福本 豊(ふくもと ゆたか、1947年11月7日 - )は、元プロ野球選手(外野手)。

通算盗塁数の日本記録保持者(達成当時は世界記録)で、「世界の盗塁王」の異名を持つ。引退後はコーチを経て主に野球解説者、野球評論家として活動している。

現役通算2,543安打、通算208本塁打を記録した確実性とパンチ力を兼ね備えた打撃、歴代1位の通算1065盗塁と通算115三塁打を記録した俊足、主に中堅手として足を生かした広い守備範囲を誇る外野守備で、長池徳二・山田久志・加藤秀司らと共に阪急黄金時代の主力として活躍した。




目次 [非表示]
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
1.3 現役引退後
2 プレースタイル
2.1 盗塁術
2.2 打撃・守備
2.3 記録など
3 解説者として
4 福本語録
5 年度別打撃成績
6 タイトル・表彰・記録
6.1 タイトル
6.1.1 アマチュア時代
6.1.2 プロ時代
6.2 表彰
6.3 記録
7 背番号
8 現在の出演番組
9 過去の出演番組
10 脚注
11 関連項目


経歴 [編集]
プロ入り前 [編集]
大阪府大阪市生野区出身。大鉄高等学校時代は野球部員のあまりの多さからレギュラーを諦めて球拾いに専念していたが、練習中に右翼手の守備に就き内野を守っていた選手の一塁手への送球が逸れた際にいつもの球拾いの感覚でボールを追いかけたところ、監督に「福本はきちんとファーストのカバーに入るから偉い」と評価され、それ以降右翼手のレギュラーに指名された。3年夏に同校初の甲子園出場となる第47回全国高等学校野球選手権大会出場を果たすも、初戦で4強入りした秋田高校に延長13回サヨナラ負けを喫した。

卒業後は社会人野球の松下電器に進む。松下時代、既にアマチュア野球のスター選手だった後輩の加藤英司を目当てに来たスカウトの目に留まったことが、プロ入りのきっかけだった。スカウトが見ている時に限って本塁打を打ったりホームへ好返球をしたりという偶然が重なり勘違いで認められ、「君はもう少し背があればねえ」と言われたことに対し、相手がスカウトと知らずに一喝して逆に「プロ向きのいい根性を持っている」とまたも勘違いされ、これも指名される要因になったのではないかとのこと[1]。社会人3年目の1968年には富士製鐵広畑の補強選手として第39回都市対抗野球大会に出場し優勝。社会人ベストナインのタイトルを獲得しているが、「アマチュア時代は注目の選手ではない」と語っている。同年秋のプロ野球ドラフト会議で阪急ブレーブスに7位指名を受けた。他に南海ホークスも早くから俊足に注目していたが、168cmの小柄な身長がネックとなり鶴岡一人監督に獲得を却下されていた。

本人はドラフトで指名されたことを全く知らず、翌朝会社の先輩がスポーツ新聞を読んでいるのを見て「なんかおもろいこと載ってまっか?」と尋ねたところ、「おもろいことってお前、指名されとるがな」と返され初めて知ったという。更にドラフト指名後も阪急から連絡がないまま数日が過ぎ、同僚も本人も何かの間違いではないかと疑う始末だった。その後ようやく獲得の挨拶に来た阪急の球団職員から肉料理をご馳走され「プロなったらこんなにおいしい肉が食えるのか!」と思ったものの、様々な理由から態度を保留しているうちに何度も食事に誘ってもらい断りにくくなり、4回目の食事の時に入団を決意した。

入団時、父親は他球団の系列の食堂で働いていたが、息子の入団に際して阪急への恩を感じ職場を退職した。一方、夫人は一切野球に興味がなく夫が野球選手であることも知らず、福本も夫人に「松下から阪急に転職する」としか説明しなかった。そのため夫人は夫が阪急電鉄の駅員として働いているものと思い、各駅を探し回っているうちに駅員から「もしや、あなたの探しているのは盗塁王の福本では?」と教えられ、初めて事実を知ったという。

プロ入り後 [編集]
1年目の1969年から一軍に出場。初出場は代走で盗塁を試みるも失敗に終わった。

1970年からレギュラーに定着し、同年75盗塁で盗塁王を獲得。1972年に日本プロ野球史上唯一の3桁、当時の世界記録となるシーズン106盗塁を記録してチームのリーグ優勝に貢献、史上初となるMVPと盗塁王のダブル受賞を果たした。1977年7月6日の南海戦でそれまで広瀬叔功が保持していた通算最多盗塁の日本記録を更新、その後も1982年まで13年連続で盗塁王を獲得する。

1983年6月3日西武ライオンズ球場での西武ライオンズとの試合で、当時ルー・ブロックが保持していた世界記録を更新する通算939盗塁を記録。この試合では大差でリードされていたにも関わらず何度もしつこい牽制球が来るため、それに反発して走ってやろうかという思いに駆られ、また、わざわざ記録達成を楽しみに見に来てくれたファンにも報いなければという気持ちもあったという。記録を達成した瞬間には、同球場で初めて西武以外の選手を祝福するための花火が打ち上げられた。

盗塁の世界記録を更新後、当時の中曽根康弘首相から国民栄誉賞を打診されたが「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる」と固辞した。また、世界記録達成を記念して特例による名球会入会が認められたがこれも固辞し、同年9月1日のロッテオリオンズ戦で田村勲から中前打を放ち、史上17人目となる通算2,000本安打を達成して正式に入会した。

1984年8月7日には1,000盗塁に到達。その後記録を1,065まで伸ばした。1992年にリッキー・ヘンダーソンによりこの記録は破られたが、その折には渡米してヘンダーソンを直接祝福した。福本はヘンダーソンの身体能力、特に盗塁の1歩目を「自分の筋力ではできない」と絶賛、ヘンダーソンも福本について「尊敬に値する人物」と評している。

1988年、阪急ブレーブスとしての阪急西宮球場最終戦、試合後の挨拶で上田利治監督が「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまいチームのみならずファン・マスコミを巻き込んだ大騒動に発展した。福本は殺到するマスコミを前に「上田監督が言ったなら辞めます」と言い、そのまま40歳で現役を引退した。

後年、この時のことについて「引退を取り消すのが面倒くさかった」[2]とも、「体力的にはあと3年はやれたけどね」[3]とも語っているが、これ以前から引退について考えていたかは不明なままである。

福本の引退後、ヒッティングマーチはイチローへと引き継がれた。

現役引退後 [編集]
引退後は1989年にオリックス・ブレーブスの打撃コーチ、1990年から1991年まで同二軍監督、1998年から1999年まで阪神タイガースの打撃コーチや守備走塁コーチを歴任した。阪神のコーチ時代、1999年に就任した野村克也監督に現役時代の盗塁術を買われて三塁ベースコーチを任せられたが、選手に打撃指導ばかりしていたため同年限りで辞任させられた。ただし、これは「安打を打てなければレギュラーになれない。レギュラーになれなければ出塁出来る確率も少ない。出塁が出来なければ盗塁も出来ない」という持論に沿ったものであった。

その後はABC・サンテレビの野球解説者、スポーツ報知で野球評論家として活動している。辛口ながらも軽妙な語り口とコメントは、ファンの間で「福本語録」(後述)として親しまれ、人気を博している。

2002年に野球殿堂入り。現役時代からボランティア活動に熱心に取り組んでおり、日本身体障害者野球連盟の名誉理事長も務めている。また、2006年1月からは阪南大学野球部特別コーチを務めている。2007年、第5回グッドエイジャー賞を受賞。

2009年、ベースボールマガジン社より著書『走らんかい!』(ベースボールマガジン新書、ISBN 978-4583101705)を出版。

プレースタイル [編集]
盗塁術 [編集]
打力が付きレギュラーに定着したが出塁すると牽制死、盗塁失敗を繰り返していた。ある日、自分が野球選手だったという証を残すために8ミリカメラで試合を撮影してもらい、自宅でその映像を見ていた時に投球と牽制で投手の体の動きが違う「癖」に気づき、これにより盗塁を仕掛けるタイミングをつかんだ。その後フィルム撮影は球団の手で行われることとなった。

1年目の2盗塁から2年目にいきなり75盗塁できたのは、東京オリンピックの400メートル競走選手が阪急の春季キャンプに臨時コーチでやってきて、腕が横振りであったのを矯正されたのと、腿上げを繰り返しさせられたのがきっかけと語っている。また、福本の足はチーム内でも特別俊足というわけではなく、走塁時に左右の歩幅が一定で横に広がらない陸上短距離選手が理想とするような走り方であると足跡を収めた映像を交えて検証されたこともある[4]。

106盗塁を達成した年は神部年男が大の苦手で、神部から何としても盗塁をしたいと考えて何回も8ミリフィルムの映像を観察した結果、軸足が2mmほど動いたら投球する癖を見抜いて翌年は神部の攻略に成功した。

リーグでも牽制が上手い東尾修を盗塁における1番のカモにしており、顔を合わせるごとに「オレの弱点は何なのか教えてくれ」と東尾にしつこく聞かれ教えてしまい、それを基に東尾は次の対戦までに癖を直してきた。しかし、癖の修正によって生まれた新たな癖を発見したという。ただし、この件に関しては発見したのが互いの引退間近の頃だったため、再び隙をつく機会が得られず引退後もたびたび悔しがっていた。

つま先からやわらかくベースに触れる、足を傷めないスライディングを独自に編み出した。ヘッドスライディングは怪我しやすいと嫌い、ほとんどしなかった。ヘッドスライディングの危険性については引退後もたびたび解説の場などで口にしている。

南海時代の野村克也は福本の盗塁に対抗する手段として、現代野球で広く投手に用いられているクイックモーションを考案した。それ以前にも野村はイニングの先頭打者として迎えたくない思いから、当時のパ・リーグは指名打者制導入前だったため二死走者なしの状態で9番の投手を四球で歩かせ1番の福本と勝負するという策や、福本が二盗を試みると二塁にわざとワンバウンドの送球を投げ、脚にぶつけることも考えていた。しかし、前者は1度成功したものの、2度目には狙いがばれて阪急の西本幸雄監督が投手を盗塁させたため盗塁死させざるをえなくなり、後者は「脚に球をぶつけて怪我をさせようとしたが実際には背中に球が当たってしまい(怪我させるという)狙いがばれてえらい怒られた」という[5]。

読売ジャイアンツは日本シリーズで阪急と対戦することを想定して牽制球で一塁にわざと勢いのある悪送球を投げ、一塁側の内野フェンスに跳ね返ったボールを送球して二塁で福本を封殺する練習を繰り返していたが実行されることはなかった。

近鉄バファローズの梨田昌孝は二塁送球の時間を短縮するため、福本が出塁すると右足を半歩下げて構えていたという。

以上の通り、福本の盗塁術は徹底した研究と高度な技術によって完成されたものだったが、何よりも大切なのは思い切りだという。福本の盗塁成功率は106盗塁した1972年で.809、通算で.781と優秀ではあるが飛び抜けて高くはなく、通算盗塁死299も日本記録である。これらのことから盗塁数の多さは同時に盗塁企図数の多さを示しており、思い切りの良さが現れている。

1979年のオールスターゲームの時、やはり俊足を売りにしていた広島東洋カープの高橋慶彦が福本に盗塁術の教えを請うたところ、答えはたった一言「気合いや」だったので面食らったという(ちなみに、高橋は歴代5位の通算477盗塁を記録しているが、福本に次ぐ歴代2位の通算206盗塁死を記録している)。なお、第1戦の3回裏、安打で出塁した福本はすぐに盗塁を成功させ、高橋も9回に三盗を成功させている。

若くして結果が出始めた頃は増長して失敗したこともあった。盗塁を目論んで一塁から良いスタートを切れたにもかかわらず、打者の大熊忠義が投球をファウルボールにしたことに対し、ファウルでなければ盗塁が成功したという意味で「あれ、いけましたで」と言った結果、しばらく盗塁へのアシストを得られなくなったという。なお、大熊とは後に和解している。

1972年に球団はPRのために、福本の足に1億円の保険をかけた。この保険は福本が引退するまで継続されたが、人一倍体調管理に神経を使った福本は現役中一度も足を怪我しなかったため、保険金も支払われることなく終わっている。

一方、ホームスチールの成功率は低く7回試みて成功は1回のみである。

堀内恒夫は「福本はクロスプレーも巧い。福本は、クロスプレーの際に相手の捕手がベースを覆い隠していた場合には、相手の脚の関節をスパイクの裏で蹴るらしい。そうすることにより、自然に相手の足が動いて隠れていたホームベースがあらわれる」と語っている。

打撃・守備 [編集]
盗塁だけでなく打撃においても優秀な選手であったことは、2,500本安打を達成したことや、8,000打数以上の選手中で歴代4位となる通算打率.291の数字などからも証明されている。特に現役後半は藤原満らが使用していた径の太い「つちのこバット」を用い、単打で出塁してから盗塁を狙うというスタイルで相手投手から警戒された。この戦法は後の俊足打者にも強い影響を与え、大石大二郎らもつちのこバットを愛用していた。

小柄な体格のわりには長打力もあり、シーズン2桁本塁打を20年間で11度記録し、2007年に高橋由伸に更新されるまではシーズン初回先頭打者本塁打の日本タイ記録(1972年の8本)保持者でもあった。なお、通算43本は2008年現在も日本記録である。

通算4回の最多安打はイチローに抜かれるまでのパ・リーグ記録で、2008年現在も榎本喜八、ブーマー・ウェルズと並ぶパ・リーグ歴代2位の記録である。また、1977年にはプロ野球歴代4位タイ、パ・リーグ歴代3位の30試合連続安打を達成している。

1974年7月22日に阪急西宮球場で行われたオールスターゲーム第2戦では、阪神の田淵幸一が放った本塁打性の打球をフェンスの上までよじ登りキャッチしてアウトにし、これを見た巨人の長嶋茂雄は「あれは人間業ではありません」とコメントした。この試合ではファインプレーに加えて本塁打も1本放ちMVPを受賞した。

1985年に三塁打、現役最後となった1988年に二塁打の通算記録を更新し、一時は盗塁と合わせて3つの日本記録を保持していた。このうち二塁打は2005年に立浪和義に破られたが、2008年現在もパ・リーグ記録である。立浪は記録更新に際して「福本さんの足があと少し遅ければ、この記録更新はなかった」とコメントしている。これは通常の選手なら三塁打が難しく二塁打になる当たりでも三塁打にできる、という福本の走塁能力の高さを指している。

投手の癖を盗んで盗塁につなげることはできたものの、打撃では癖を盗むことにより球種などを読めたことで逆に気負ってフォームが崩れるなどして結果にはつながらなかったと語っている。

打撃練習の際に三塁側へ「当て逃げ」のような打撃を繰り返していたところ、西本監督から「そんな楽な練習しかしていなかったら力など絶対つかない」と叱られたと引退後に野球中継の解説中に語っており、文春ビジュアル文庫「巧守好走列伝」にも同趣旨の記述がある。

記録など [編集]
17年連続規定打席到達、シーズン全試合出場8度のパ・リーグタイ記録をそれぞれ持っている。また2008年現在、阪急・オリックスの生え抜き選手として唯一2,000本安打と2,000試合出場を記録している。

現役時代の背番号「7」はオリックス・ブルーウェーブの準永久欠番待遇であったが、引退前後に親会社が阪急電鉄からオリックスに変わったことなどがあって、正式な永久欠番とはなっておらず、これについては阪急・オリックスファンから根強い批判があった。2001年には本人公認の上で進藤達哉が背番号7を着けたが、進藤は同年に横浜ベイスターズから移籍してきたばかりの選手であったため、これもファンの間で物議を醸した。進藤が引退した後は日高剛が背番号7を着け、2004年に球団が近鉄と合併してオリックス・バファローズになって以降は準永久欠番扱いも失効している。

解説者として [編集]
ヘッドスライディングを行った選手に対して「到達時間が変わらないのに怪我をする確率が高くなる」、牽制球に対して手からの帰塁に関して「手から行かず、足から帰る。怪我をするだけ」と、この2つに関しては度々語っている。

ユニフォームの着用について、ストッキングを見せるクラシックスタイルを「正しいユニフォームの着方」「あんなに格好いいものはない」と強く推奨している。理由として「膝下まで引き上げたストッキングがストライクゾーンの目安となる」「足が速そうに見える」などを挙げ、特に赤星憲広や前田大和の様に俊足を売りにしている選手に対しては、「パジャマ着て野球しとる」と度々発言している。

技術的な説明を求められると「ゴーン」「カーン」などの擬音で表現することが多く、一部では祗園祭をもじって「擬音祭」と呼ばれることもある。

主に吉本興業所属芸人の半生を、本人を交えた今田耕司・東野幸治らとのトークと再現VTRで振り返る番組「ナンバ壱番館」では、芸人ではないにも関わらず取り上げられた。

上記の通りひょうきんなイメージが定着しているが、赤星に対してよく酷評する。もちろん好き嫌いで評価しているのではなく、攻走守すべてで高いレベルのプレーを要求している現れであり、特に盗塁及び外野守備については熱く語る傾向である。また赤星とのツーショット対談の際はひょうきんなイメージとかけ離れた、緊張感のある真剣な対談であった。

これら福本に関する様々なエピソードについて、はなわが「解説の男 〜福本豊伝説〜」としてまとめ、歌ったことがある。メロディは「伝説の男〜ビバ・ガッツ〜」のものをそのまま使い、曲中の福本の台詞はますだおかだの増田英彦が担当していた。後にますだおかだがパーソナリティを務めていた「どーだ!ますだおかだ」にゲストで呼ばれた福本がこの歌の正誤を解説。また、野球漫才で知られるストリークも福本の解説時の逸話をネタに使ったりしている。

福本語録 [編集]
野球中継の解説においては上述のような実体験に裏打ちされた優れたコメントだけでなく、およそ解説者らしからぬユーモラスなコメントも多く残しており、関西では川藤幸三と並んで人気が高い。特に楠淳生アナウンサーや中田良弘・中西清起や吉田義男とのコンビは、放言・脱線の多さから「居酒屋中継」の名で呼ばれている。

阪神対横浜戦、投手戦で0が並んだスコアボードをみて「たこ焼きみたいやね」。本人曰く「長い試合でね、寒いわ、腹減るわで『どっちが勝ってもええから早よ終われ』思てたらポッと出たんですわ」。その後この試合で1点が入り、スコアボードの「1」を見て「たこ焼きに爪楊枝がついたな」。これ以降、ゼロが並ぶスコアボードが各所で「たこ焼き」と呼ばれるようになった。
東出輝裕が振り遅れのスイングをして「着払いやね」(キャッチャーミットに球が着いてから払った=振った、の意味)。
シーズン終盤に規定打席に到達し、打撃成績の上位に位置した選手を「覆面パトカー」。
阪神が大型連敗を脱出して「(黒星が続いた後に白星が1つ付いて)オセロならひっくり返るんやけどね」。
阪神甲子園球場で試合が長引いた時に観客席を見て「(甲子園から遠い)加古川より向こうの人帰られへんね」。
日曜日の東京ドームでの巨人対阪神戦で、試合終了前に早々と帰る観客を見て「明日仕事やもんね」。
打ち込まれた投手3人がベンチで並んで座っている様子に「左から“アン、ポン、ターン”って感じやね」。
序盤でリードしている展開で雨脚が強くなり、早く試合を成立させなければならない状況で粘って四球を選んだ田中秀太に「選球眼はええけど頭は悪いね」。
アナウンサーの「福本さん、今のプレーどうですか?」に対して、選手の守備位置など他の箇所を見ていたため「ごめん、見てへんかった」。
アナウンサーの「福本さん、今のプレーまずいですね」に対して「まずいねぇ。うどんの方がよっぽどうまい」。
アナウンサーの「林威助はさらなる打撃向上のためどうしたらいいですか?」に対して「これ以上て……5割目指すん?」。
4点差がついた状況で、アナウンサーの「この回どうやって攻めていきましょうか?」に対して「まず4点取らないかんね」。このセリフはラジオコマーシャルでも用いられている。
阿部慎之助の全力疾走姿を見て「いっこも前に進んでへんがな」
大雨の中、グラウンドに砂を大量に入れて整備中「砂ないんちゃうか?明日買いに行くんやろ」。
ナゴヤドームで勝てない阪神について「どうしてですかね?」と尋ねられ「屋根があるからちゃう?」。
阪神の快進撃に話が及んで「タイガース突っ走りそうですか?」と尋ねられ「突っ走ったらえらいこっちゃやで。せないかんこといっぱいあるで」。
「6月に入ってきました、福本さん6月はどんなイメージですか?」と尋ねられ「雨降ったら中止!」。
阪神対巨人戦で阪神が猛攻のとき「止まりませんね」と尋ねられ「止まらんがな」。
阪神の連勝が続いたことに対して「確変やね」。
阪神の夏季長期ロードを乗り切るための秘訣を問われ「横になる(横たわって寝る)こと」。
アナウンサーの「福本さん、好きな歴史上の人物は?」という質問に対して「親父」(実父と、敬慕する西本幸雄元監督の2人のこと)。
阪神対巨人戦ラジオで解説の時、マーク・クルーンが投げてアナウンサーが「156キロ」と驚いたのに対して「ほんまに(球速が)出てんのかいね」。
このような発言から、明石家さんま・島田紳助などに注目され、数々のバラエティ番組に出演し、朝日放送「クイズ!紳助くん」のレギュラー解答者を長年務めた。服装はコミカルな服装が多く、ピンクのジャケット、アロハなどを着る。「クイズ!紳助くん」の出演時には、きまって左胸に「m」マークが入ったミズノのゴルフシャツにスラックスであった。

年度別打撃成績 [編集]


度 チ

ム 背

号 試

合 打

数 得

点 安

打 二

打 三

打 本

打 塁

打 打

点 盗

塁 犠

打 犠

飛 四

球 三

振 打

率 順

位 長

率 出

率 O
P
S
1969 阪急 40 38 39 8 11 3 0 2 20 4 4 0 0 2 6 .282 .513 .317 .830
1970 127 423 92 116 23 3 8 169 41 75 3 3 60 71 .274 12 .400 .364 .764
1971 117 426 82 118 18 5 10 176 45 67 0 4 51 49 .277 20 .413 .354 .767
1972 7 122 472 99 142 25 6 14 221 40 106 3 2 65 69 .301 5 .468 .385 .853
1973 123 497 100 152 29 10 13 240 54 95 0 2 67 56 .306 8 .483 .388 .871
1974 129 477 84 156 19 7 8 213 52 94 1 1 60 57 .327 3 .447 .402 .849
1975 130 491 79 127 26 4 10 191 51 63 1 3 54 74 .259 26 .389 .332 .721
1976 129 489 88 138 23 9 8 203 46 62 0 3 75 66 .282 9 .415 .378 .793
1977 130 541 89 165 21 9 16 252 54 61 1 2 53 74 .305 7 .466 .367 .833
1978 130 526 107 171 35 10 8 250 34 70 3 1 65 65 .325 2 .475 .399 .874
1979 128 493 101 142 27 9 17 238 67 60 7 3 84 63 .288 19 .483 .392 .875
1980 128 517 112 166 29 6 21 270 58 54 4 3 79 64 .321 7 .522 .411 .933
1981 130 495 90 142 22 7 14 220 48 54 6 2 81 65 .287 18 .444 .387 .831
1982 127 476 97 144 31 7 15 234 56 54 8 1 90 46 .303 5 .492 .413 .905
1983 130 493 89 141 26 7 10 211 59 55 7 1 86 40 .286 19 .428 .392 .820
1984 130 488 93 126 22 2 9 179 41 36 8 2 87 41 .258 25 .367 .463 .830
1985 130 425 95 122 15 7 11 184 51 23 5 6 95 40 .287 15 .433 .417 .850
1986 130 454 75 120 18 2 8 166 29 23 5 3 58 55 .264 30 .366 .348 .714
1987 101 349 53 100 25 3 5 146 33 6 2 2 33 35 .287 .418 .348 .766
1988 92 174 23 44 12 2 1 63 21 3 0 0 32 18 .253 .362 .369 .731
通算成績(20年) 2401 8745 1656 2543 449 115 208 3846 884 1065 64 44 1277 1054 .291 - .440 .381 .821
8位 6位 2位 5位 2位 1位 - 14位 - 1位 - - 7位 - - - - - -

太字はリーグ最高。
赤太字は日本記録。
タイトル・表彰・記録 [編集]
タイトル [編集]
アマチュア時代 [編集]
社会人ベストナイン:1回(1968年)
プロ時代 [編集]
MVP:1回(1972年)
盗塁王:13回(1970年 - 1982年)
最多安打:4回(1973年、1974年、1977年、1978年)
ベストナイン:10回(1972年 - 1974年、1976年 - 1982年)
ゴールデングラブ賞:12回(1972年 - 1983年)
表彰 [編集]
日本シリーズMVP:1回(1976年)
日本シリーズ優秀選手賞:2回(1977年、1984年)
日本シリーズ技能賞:1回(1975年)
日本シリーズ打撃賞:1回(1976年)
オールスターMVP:3回(1973年第2戦、1974年第2戦、1982年第1戦)
※シーズン、オールスター、日本シリーズでのMVPは川上哲治、大下弘に次ぐ史上3人目の記録(後に松井秀喜が達成)
記録 [編集]
日本記録
通算盗塁:1065(1969年 - 1988年)
通算三塁打:115(1970年 - 1988年)
通算盗塁死:299
通算初回先頭打者本塁打:43本(表24本、裏19本)※表24本は日本タイ記録、裏19本はパ・リーグ記録。
盗塁王:13回(1970年 - 1982年)
ゴールデングラブ賞:12回(1972年 - 1983年)
シーズン20二塁打以上:14回(1970年、1972年、1973年、1975年 - 1984年、1987年)※タイ記録。
シーズン三塁打リーグ1位:8回(1971年、1973年、1974年、1977年 - 1979年、1982年、1983年)
シーズン50盗塁以上:14回(1970年 - 1983年)
シーズン盗塁:106(1972年)
1試合3盗塁死(1980年6月19日)※タイ記録。
11試合連続盗塁:2回(1971年4月27日 - 5月12日、1974年4月10日 - 4月28日)
13年連続盗塁王(1970年 - 1982年)
12年連続ゴールデングラブ賞(1972年 - 1983年)
14年連続シーズン50盗塁以上(1970年 - 1983年)
3年連続シーズン三塁打リーグ1位(1977年 - 1979年)※タイ記録。
パ・リーグ記録
通算得点:1656(1969年 - 1988年)
通算二塁打:449(1969年 - 1988年)
シーズン得点リーグ1位:10回(1972年 - 1980年、1982年)
シーズン100得点以上:4回(1973年、1978年 - 1980年)
シーズン100安打以上:18回(1970年 - 1987年)※タイ記録。
シーズン全試合出場:8回(1975年、1977年、1978年、1981年、1983年 - 1986年)※タイ記録。
シーズン初回先頭打者本塁打:8本(1972年)※タイ記録。
1試合5盗塁(1972年5月3日)
17年連続規定打席到達(1970年 - 1986年)※タイ記録。
3年連続シーズン100得点以上(1978年 - 1980年)※タイ記録。
18年連続シーズン100安打以上(1970年 - 1987年)
9年連続シーズン得点リーグ1位(1972年 - 1980年)
その他
通算猛打賞:178回 ※歴代5位。
通算盗塁成功率:.781(1065盗塁299盗塁死)※300盗塁以上では歴代4位。
サイクルヒット(1981年5月21日)
30試合連続安打(1977年5月18日 - 7月10日)
2試合連続初回先頭打者本塁打(1980年8月9日 - 8月10日)
日本シリーズ通算盗塁:14(1969年、1971年、1972年、1975年 - 1978年、1984年)※歴代1位。
日本シリーズ3試合連続盗塁 ※シリーズタイ記録。
オールスター出場:17回(1970年、1972年 - 1987年)
オールスター通算盗塁:17 ※歴代1位。
オールスター通算得点:26 ※歴代1位タイ。
オールスター9連続盗塁成功(1976年第2戦 - 1979年第1戦)
背番号 [編集]
40(1969年 - 1971年)
7(1972年 - 1991年)
87(1998年 - 1999年)
現在の出演番組 [編集]
スーパーベースボール
サンテレビボックス席(サンテレビ)
ABCフレッシュアップベースボール
虎バン
熱血!!タイガース党(サンテレビ)※シーズンオフに放送。
ぶっちぎりプレイボール(ABCラジオ、木17:30-17:55)
過去の出演番組 [編集]
クイズ!紳助くん(レギュラー解答者)
脚注 [編集]
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^ 「ナンバ壱番館」や講演会での本人の発言。
^ 「ナンバ壱番館」での発言。
^ 日本テレビ「いつみても波瀾万丈」での発言。
^ 「NHK特集 盗塁王・福本豊〜939世界新記録」より。
^ 2003年9月放送の「NANDA!?」における野村の発言。

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