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張本勲

張本 勲(日本通名:はりもと いさお、本名:張 勲(チャン・フン、장훈、 1940年6月19日 - )は、在日韓国人二世の元プロ野球選手(外野手)、現野球解説者・タレント。

3000安打、500本塁打を共に記録している唯一の選手で、今なお「史上最強の打者」という意見も多い。

愛称は「ハリさん」、あるいは「ハリ(ハリーとも)」。血液型はO型。TBS系『サンデーモーニング』で共演している大沢啓二からは「ハリやん」と呼ばれる事もある。

目次 [非表示]
1 経歴
2 年度別打撃成績
3 タイトル・表彰・記録
3.1 タイトル
3.2 表彰
3.3 記録
4 人物
4.1 幼少期・少年時代
4.2 現役時代
4.3 在日韓国人として
4.4 現在
5 脚注
6 著書・参考文献
7 現在の出演番組
8 関連項目


経歴 [編集]
母親は身重のまま、三人の子を連れて朝鮮半島(当時日本)から海を越えて日本に渡り、広島で勲を生んだ。4歳の冬、急にバックしてきたトラックに押され、焚き火に右手を突っ込み大火傷を負う[1]。1945年8月6日、5歳の夏、爆心地から約2kmの広島市段原新町(現在の南区段原)で被爆[2]。爆風に見舞われ家は倒壊したものの、比治山の影となっていた段原は直接の熱線は届かなかったため、水を汲むために家を出た直後だった張本は無事であった。しかし勤労奉仕でこの比治山にいた長姉は、大火傷を負い翌日に亡くなった[3]。

子供のときから体が大きく、ガキ大将としていつも大勢の子分を連れて歩いた。当時の広島カープの本拠地・広島総合球場の塀を乗り越え、試合のタダ見をしていたという。その折に覗き見た読売ジャイアンツの宿舎の食事風景が、その後の張本の人生を大きく変えることとなった。戦後の物資不足や飢餓をまだ引きずる時代に、選手たちは分厚い肉を食べ、生卵を3つも4つも茶碗に放り込んでいたのである。以来、張本のプロ野球選手への憧れは増大し、「母親に広い家をプレゼントする」、「美味しい食べ物を腹一杯食べる」と言う二つの夢を胸に来る日も来る日も吊るした古タイヤに向かってバットを振り続け[4]、野球へと打ち込んでいった。

地元の段原中学校時代にエースで4番打者として広島県大会で優勝。段原中学出身の後輩には高津臣吾がいる。卒業後は地元の強豪・広島商業、広陵高校への入学を希望したが、素行不良との理由で叶わず。松本商業高校(現・瀬戸内高校)定時制に進学。しかし昼間は暇で街へ繰り出し喧嘩ばかりした。『仁義なき戦い』のモデルになったような人たちに憧れ、あのまま広島に居たらヤクザになっていたと思うと話している[5]。部内の暴力事件もあって同校を1年生の1学期で退学。家族に懇願して広島を飛び出し、大阪府の浪商高校(現・大体大浪商)へ転校した。1年の後半からレギュラーの座に座ると、2年時には4番・エースとなり、秋の近畿大会13試合で打率5割6分、本塁打11本という驚異的成績を残す。3年時の夏の甲子園直前、部内の暴力事件が発覚。当時8人いた3年生のうち、事件において暴力を振るったのは5人。最終的に処分を受けたのは張本1人だったが、全くの濡れ衣であった。張本の退部と引き換えにチームの甲子園出場は認められた。この野球部員の同級生には極道画家として有名な山本集がいる。この時張本は自殺も考えたと言うが、前述の山本に会い、話を聞いてもらっている内に涙が出てきて母校のグラウンドで夜通し走っていたという。

この年、在日韓国人の高校生で構成する日韓親善高校野球の選手に選抜され渡韓、生まれて初めて祖国の土を踏む。主軸として韓国各地を転戦、14勝1敗と圧勝し続け、ここで甲子園出場が叶わず萎えかけていた気持ちを奮い起こした。この時の事を後に張本は「甲子園に出場出来なかった事は凄く悲しく悔しかった。でも一時的に日本を離れ、試合を重ねる内に野球に集中できた。それが良かったんです。生きる気力が湧いてきて、心機一転した上で日本に戻り一からやり直す事が出来たんです」と語っている。

自身の甲子園出場の夢は叶わなかったが、野球関係者の間で「東の王、西の張本」とその名が知れ渡っていた存在をプロが見逃すはずもなく、各球団からスカウトが訪れた。本人は巨人への入団を熱望していたが、叶わず。東京への憧れもあり、1959年同郷の先輩である岩本義行監督の東映フライヤーズに入団することとなった。

当時の松木謙治郎打撃コーチの「打率も残せ、ホームランも打て、盗塁もできる完璧な打者を目指せ」(=今で言う、三拍子揃ったプレイヤー)という指導のもと猛練習に励み、東映大川博社長の意向もあって、1軍に抜擢される。入団1年目から2桁本塁打を放ち、新人王を獲得。2年目には打率3割をマークし、3年目、打率.336で21歳にして首位打者を獲得。以降引退まで、通算7度の首位打者に輝いた。首位打者7度はイチローと並ぶ日本記録である。4年目の1962年にはMVPと、この年から新設された最高出塁率を獲得した。1970年には打率.383、本塁打34本、打点100という自己最高の成績を残している。このうち、打率は大下弘が持っていたシーズン最高打率(.3831)を3毛更新するもので、1986年にランディ・バースが更新するまで16年間日本記録であった。1972年8月19日の西鉄ライオンズ戦で、東尾修投手から史上7人目となる2000本安打を達成。『安打製造機』の異名を取り、南海ホークスの野村克也らと共に1960年代から1970年代のパ・リーグで活躍した。

1976年、高橋一三・富田勝との交換トレードで巨人へ移籍。同年、翌1977年と高打率を残すが、いずれもリーグ2位に終わった。特に1976年においては、首位打者を獲得した谷沢健一との打率差がわずか1毛(厳密には7糸)で、歴代で最も1位と2位との差が小さい記録である。2年連続で惜しくもタイトルには届かなかったものの、親友の王貞治と組んだ「OH砲」は、第一次長嶋茂雄政権の2度の優勝に貢献した。

1980年、ロッテオリオンズに移籍。同年5月28日、地元川崎球場での阪急ブレーブスとの対戦において、山口高志投手より本塁打を放ち、日本プロ野球史上初となる3000本安打を達成。この快挙を記念したメモリアルプレートが同球場に展示された。翌年の1981年に引退。1990年、野球殿堂入り。

東映入団1年目から20年連続シーズン100安打以上を放っており、打率3割以上を16回マークした。脚も速く、1963年に41盗塁(広瀬叔功の45に次ぐ2位)したのを筆頭に、通算で319盗塁を記録している。通算400本塁打以上かつ通算300盗塁以上を記録しているのは張本と秋山幸二の2人のみ、通算500本塁打以上(通産504本塁打は衣笠祥雄(広島東洋カープ)と同数)となると、日本プロ野球史上で張本ただ一人である。また、通算で「トリプルスリー」(3割300本塁打300盗塁)を達成しており、この記録も日本プロ野球史上で張本ただ一人であり、通算3000本安打以上と合わせればこれも史上唯一の「クアドラプルスリー」でもある。

反面、守備と肩は本人も認めるほどお粗末で、「守っても安打製造機」と呼ばれるほどであった。4歳の冬、自宅近くの猿猴川土手でたき火をしていた時、そばに停まっていたトラックが急にバックしてきたのを避けようとしたはずみに、火の中に右手を突っ込んでしまった。この結果、右手の親指、人差し指は完全に伸びず、薬指と小指は引っ付いたままになってしまう。この右手の火傷の影響で、思うようなグラブ捌きができず、元々右利きにもかかわらず、守備でも左投げにせざるを得なくなった。

通算安打は3085本で日本記録である[6]。通算打率は歴代3位(4000打数以上)であり、7000打数以上では歴代1位である。通算打撃部門の全ての上位に名を連ねていることから、日本プロ野球史上屈指の強打者との誉れが高い。

引退後はスポーツニッポン野球評論家となり、現在に至る。また、引退してから2006年までTBSテレビ・TBSラジオ専属解説者を務めていたが、2007年からは専属を解かれ、フリーになっている(ただし、TBSの番組には出演している)。

年度別打撃成績 [編集]


度 球

団 試

合 打

数 得

点 安

打 二

打 三

打 本

打 塁

打 打

点 盗

塁 四

球 三

振 打

率 長

率 出

率 O
P
S
1959 東映 125 418 48 115 18 5 13 182 57 10 34 54 .275 .435 .330 .765
1960 106 384 49 116 25 3 16 195 56 15 29 56 .302 .508 .351 .859
1961 129 473 77 159 31 10 24 282 95 18 51 42 .336 .596 .401 .997
1962 133 472 89 157 24 4 31 282 99 23 90 46 .333 .597 .440 1.037
1963 150 529 90 148 16 7 33 277 96 41 95 47 .280 .524 .389 .913
1964 129 461 85 151 21 6 21 247 72 31 79 42 .328 .536 .426 .962
1965 132 455 61 133 13 3 23 221 88 29 76 37 .292 .486 .394 .880
1966 122 443 67 146 13 2 28 247 90 10 45 31 .330 .558 .391 .949
1967 120 414 72 139 18 3 28 247 88 18 76 30 .336 .597 .439 1.036
1968 114 363 70 122 12 2 24 210 65 13 65 20 .336 .579 .437 1.016
1969 129 480 77 160 27 1 20 249 67 20 73 33 .333 .519 .421 .940
1970 125 459 92 176 16 2 34 298 100 16 72 36 .383 .649 .467 1.116
1971 128 480 73 150 21 3 26 255 78 18 61 32 .313 .531 .390 .921
1972 127 472 93 169 25 4 31 295 89 10 72 37 .358 .625 .443 1.068
1973 日拓 128 441 77 143 18 0 33 260 93 12 99 32 .324 .590 .448 1.038
1974 日本ハム 120 406 64 138 20 3 14 206 62 14 83 28 .340 .507 .452 .959
1975 119 410 45 113 12 2 15 174 46 6 59 26 .276 .424 .367 .791
1976 巨人 130 513 89 182 35 5 22 293 93 8 55 44 .355 .571 .417 .988
1977 122 440 67 153 16 6 24 253 82 3 46 37 .348 .575 .409 .984
1978 115 424 53 131 17 1 21 213 73 1 28 39 .309 .502 .352 .854
1979 77 228 26 60 7 0 8 91 32 1 24 21 .263 .399 .333 .732
1980 ロッテ 102 341 50 89 9 0 12 134 39 0 28 31 .261 .393 .317 .710
1981 70 160 9 35 6 0 3 50 16 2 12 14 .219 .313 .273 .586
通算:23年 2752 9666 1523 3085 420 72 504 5161 1676 319 1352 815 .319 .534 .403 .937
3位 2位 3位 1位 5位 9位 7位 3位 4位 21位 5位 - 3位 13位

各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高
タイトル・表彰・記録 [編集]
タイトル [編集]
新人王(1959年)
MVP:1回(1962年)
首位打者:7回(1961年、1967年 - 1970年、1972年、1974年)※7回は日本タイ記録、4年連続は歴代2位。
最高出塁率:9回(1962年、1964年、1967年 - 1970年、1972年 - 1974年)※歴代最多。
ベストナイン:16回(1960年 - 1970年、1972年 - 1974年、1976年、1977年)
表彰 [編集]
月間MVP:1回(1976年6月)
日本シリーズ技能賞:1回(1962年)
日本シリーズ打撃賞:1回(1977年)
オールスターMVP:3回(1960年第3戦、1962年第2戦、1974年第3戦)
野球殿堂入り(1990年)
記録 [編集]
最多安打:3回(1970年、1972年、1976年)
シーズン打率:.3834(1970年)※歴代4位。
シーズン打率.350以上を両リーグで記録(東映=1970年、1972年 巨人=1976年)※史上唯一。
シーズン打率3割以上:16回(1960年 - 1962年、1964年、1966年 - 1974年、1976年 - 1978年)※日本記録。
シーズン打率.330以上:11回(1961年、1962年、1966年 - 1970年、1972年、1974年、1976年、1977年)※日本記録。
シーズン150安打以上:9回(1961年、1962年、1964年、1969年 - 1972年、1976年、1977年)※歴代2位タイ。
シーズン100安打以上:20回(1959年 - 1978年)※歴代2位。
シーズン20本塁打以上:16回(1961年 - 1973年、1976年 - 1978年)※歴代3位タイ。
打撃ベストテン入り:17回(1960年 - 1974年、1976年、1977年)※日本タイ記録。
9年連続シーズン打率3割以上(1966年 - 1974年)※日本記録。
15年連続打撃ベストテン入り(1960年 - 1974年)※パ・リーグ記録。
20年連続シーズン100安打以上(1959年 - 1978年)※20年以上連続でシーズン100安打を記録しているのは王貞治と張本のみ。入団1年目からに限れば、張本のみ。
20年連続シーズン2桁本塁打(1959年 - 1978年)※歴代4位タイ。
13年連続シーズン20本塁打以上(1961年 - 1973年)※歴代3位タイ。
16年連続シーズン2桁盗塁(1959年 - 1974年)
日本シリーズ通算打率:.370(73打数27安打)※70打数以上では、歴代1位。
サイクルヒット(1961年5月7日)
1イニング2二塁打(1961年5月6日)※日本タイ記録。
9打数連続安打(1974年5月23日 - 5月26日)
30試合連続安打(1976年5月13日 - 6月20日)
13打席連続出塁(1974年5月23日 - 5月26日)
1733試合目で通算2000本安打達成(1972年8月19日)※歴代3位。
32歳2ヶ月で通算2000本安打達成(1972年8月19日)※年少記録歴代2位。
2185試合目で通算2500本安打達成(1976年6月10日)※史上最速記録。
通算安打:3085 ※日本記録
通算打点:1676 ※打点王を獲得していない選手の中では史上最多。
通算得点:1523 ※最多得点を記録していない選手の中では史上最多。
通算猛打賞:251回 ※日本記録。
通算敬遠:228個 ※歴代2位。
通算犠飛:90本 ※歴代5位タイ。
通算打率3割・300本塁打・300盗塁 ※史上唯一。
通算500本塁打・300盗塁 ※史上唯一。
通算打率3割・500本塁打・300盗塁 ※史上唯一。世界史上ではウィリー・メイズと張本の2人のみ。
オールスター出場:18回(1960年 - 1964年、1966年 - 1978年)※1965年にもファン投票で選出されているが、後述の件により出場を辞退。
通算1000試合出場 1966年8月26日(117人目)
人物 [編集]
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。(2007年10月貼付)

幼少期・少年時代 [編集]
来歴の項に記したように、張本は5歳の時に広島で原爆により被爆しており、その後、親類を訪れるため原爆投下直後に長崎入りしたため、放射線被曝については2度経験していることになる(事実であれば二重被爆者と呼ばれ、165名余の存在が確認されている稀な人物)。プロ野球界出身者で被爆者手帳を交付されたのは、張本と濃人渉の2人のみである。
また、これも前述と重複するが、4歳の時の火傷の後遺症で、今も右手の親指、人差し指は完全に伸びず、薬指と小指は引っ付いたままである。そしてこの火傷は張本の守備のみならず、打撃にも暗い影を落としている。後にプロ野球選手になった張本は、ある日母親と談笑している時に「この指がまともだったら、もっと良い成績が残せるのになぁ」と呟いた所、母親が号泣してしまった。まずい事を言ってしまったと反省した張本は、以降、その右手を誰の目にも晒さなくなった。唯一、打撃人として最も尊敬する川上哲治にだけ、現役引退後の座談会で右手を見せたことがある。その時川上は「よくもそんな手で」と涙を流しながら絶句していたという。
浪商時代のチームメイトには、元ヤクザで画家の山本集がいる。Vシネマにもなった山本の自伝的著書「浪商のヤマモトじゃ!」では、張本に関する数々のエピソードが紹介されており、また、山本がヤクザから足を洗うきっかけになったのも張本が諭したからである。
現役時代 [編集]
背番号はプロ1年目から引退まで一貫して10を着用。
現役時代、退場処分を受けたことは1度もないが、日本ハム時代と巨人時代に、それぞれ1回ずつ警察の取調べを受けたことがある。暴言とおぼしき発言をされたとして試合前に城之内邦雄(当時ロッテ)を殴った件と、宿舎に帰るために停まっていた巨人選手の乗ったバスが、試合中の判定トラブルから広島のファンに包囲された際、広島ファンが「張本に殴られた」と騒ぎ立てた件である。
また、プライベートでは1965年7月9日の夜、東京港区赤坂でタクシー運転手と口論になり、運転手と止めに入った一般人2人の計3人を殴り現行犯逮捕されている(この年のオールスター戦を辞退)。そのほか、サウナでプロレスラーと喧嘩し、そばにいたヤクザが止めに入ったという逸話もある。
土橋正幸は、5歳も年下の張本に「マウンドでモタモタしていると、どやされたもんです」と話している[7]。
1974年のオフに大杉勝男・白仁天らが移籍し、次は自分と悟った張本は75年のオフに「もし不要なら出してほしい」と直訴すると、球団社長の三原脩に「希望する球団に行かせよう」言われ、強さへの憧れからファンでもあった巨人に移籍する。
当時阪神監督の吉田義男に誘われ一時は阪神行きを決意し、家まで用意していた。しかし突然巨人からも誘われ、しかも決定項として扱われていた為慌てて吉田に連絡を取るも、憎まれ口一つ言わず「ええ話やないか。巨人に行けよ。」と了承してもらった。今でも吉田とは「あの時、ウチ(阪神)へ来とったら面白かったなあ」という話になる。[8]。
江本孟紀が阪神タイガースに在籍していた時、巨人戦で両軍選手入り混じっての乱闘になった。グラウンドに出た江本のところに張本が近寄ってきて、殴られるかと思ったら、巨人のある選手を差して、「あいつを殴ってやれ!」と言われたという。江本は新人時代1シーズンだけ東映に在籍し、張本とチームメイトであった。
ロッテに移籍した1980年、当時の山内一弘監督や金田正一など多くの評論家が酷評した落合博満の特異な打撃フォームを「素晴らしい、このままのスイングで打てる」と絶賛していた。その後、落合は三冠王に3度輝いた。当時から張本は落合の非凡なる才能を見抜いていたことになる。
『安打製造機』の異名は、張本以前には榎本喜八が取っており、近年ではイチローがそう呼ばれることがある。また、右へ左へと自在にボールを打ち分ける様子から『広角打法』『スプレー打法』という代名詞でも知られた。
通算では3割300本塁打300盗塁を達成しているが、1シーズンでのトリプルスリーの達成は1度もない。惜しかったのは1963年で、33本塁打、41盗塁を記録したが、最も得意分野のはずの3割に届かず(.280)、達成を逃した。
来歴の項の通り、守備に難があったせいで、1962年の日本シリーズ決勝戦の9回にベンチに下げられたことがある(水原監督曰く「点を取るゲームではなく点を取らせないゲームにしたいため、守備のうまい選手が必要だった」とのこと)。また、巨人時代、レフトへライナーやゴロが飛ぶと、よく遊撃手の河埜和正がカバーに入っていた。長嶋監督に失策の理由を聞かれた時には「あれは空中イレギュラーです」と答えていたという。
プロの同期であり同学年、互いに出自を日本以外の国に持ち、巨人時代には共にクリーンアップも形成した王貞治とは、プロ入り当初からの親友同士である。
実績を残し始めやや慢心が見えていた1963年のオールスターの打撃練習で、王が張本とは明らかにレベルの違う打球を連発していた。張本はその打球を見て「何を俺は一流打者面をして甘ったれていたんだ」と改心したという。王が長年の低迷を乗り越え、監督として福岡ダイエーホークスを悲願の初優勝に導いた際には、「今までワンちゃんをバカにしてきた奴は皆坊主になって謝れ」と言い放った。また、雑誌の企画などで「プロ野球最強打者は?」という質問には、いつも王を挙げるほど彼の実力を認めている。
1979年オフ、巨人での4シーズン目、年齢による衰えから成績が落ちたため、ロッテに放出が内定していた。ところが、巨人軍の納会の席で、それまで一回もフロントに意見した事の無かった王が、正力亨オーナーに対し「張本君に巨人で3000本安打を達成させてあげて下さい」と張本の巨人残留を必死に直訴した。この王の異例の発言に対し正力は「王君どうしたんだ?酔っているのか?」と驚いたのに対し、王は「いえオーナー、私は酔っていません、お願いです」と迫った。張本は、思いがけない展開に感動のあまり泣きながら、それを止めたと言う。後年「それ以降、ワンちゃんに対しては、どんな事があっても絶対服従と誓った」と語っている。さらに、2009年のWBC監督には王しかいない、と主張し、王に対しても「(胃がん手術を終えた王に)何かあったら、私があんたの面倒を一生見るから」とまで伝えたという。
安打製造機の異名を持ち、強気な発言の目立つ張本だが、現役時代に打撃のコツについて教えを乞いに行ったことがある。その相手は当時近鉄に在籍していたジャック・ブルームで、張本はブルームの外角打ちの上手さに感心し、外角打ちのコツを聞きに行った。それに対してブルームは、「外角を打つにはまず内角打ちが上手くなければいけない。それは、外角に的を絞っている時に内角にストレートが来ると絶対に手が出ないからだ。相手投手は、こっちが内角打ちが上手いと、内角に投げるのを嫌がって外角に投げてくる。そこを狙い打つのだ」と回答。その後、張本は首位打者の常連となっている。
打撃のコツについては、後年、バッターボックスでの構えについて「雨の日の立ち小便」のように構えるとよい、と語ったこともある。
現役時代、天才または運と呼ばれたことに、「これほどの 努力を人は 運といい」という川柳を残した。キャンプ等でも、張本は布団の横にバットを置いていて、夜もたびたび起き上がって素振りをしていたという。山崎正之は張本とキャンプで相部屋になった際に、張本が毎夜寝ている自分の数十センチ上で素振りを繰り返すため、寝るに寝られず、睡眠不足になったという。また、「あれほど不気味な風の音を聞いたことはない」とも語っていた。
野村克也が用いた「ささやき戦術」に数々の打者が悩まされていた頃、野村は張本にも例外なくそれを行った。それに対し、試合で張本はわざと大きな空振りをして野村の頭をバットで殴った。その後、野村は張本に対してささやき戦術を行う事は無くなった。これについて張本は『サンデーモーニング』の中で「私の現役時代にもね、一人いたんですよ。たちの悪いのが(野村の事である)」「空振りのふりをしてバットでガツーンと叩いてやりましたら、もう二度とやらなくなりましたけどね。殺されると思ったんでしょうね」とコメントしている。
在日韓国人として [編集]
張本はプロ入り前はもとより、幼少期から在日韓国人を名乗っており、現在も日本に帰化していない(国籍は大韓民国)。これは、日本に渡って来て死ぬまで日本語を覚えようとしなかった母親の影響が大きいものと思われる。今でこそ、自らを在日韓国人と明かす者が増えてきているが、張本の時代に始めから出自を公表した人間は極めて稀である。
その一方で、生まれ育った日本に対する思い入れも深く、2004年のアテネ五輪に出場する野球日本代表の選手たちに対して「日本の国威を背負っていると思って欲しい」と語っていた。
民族教育は受けなかったが、家庭内では幼い頃から韓国語で育ち、現在でも韓国語に堪能である。1991年に日本でおこなわれた第1回日韓野球スーパーゲームの中継では、韓国テレビ放送局側の野球解説者として出演し、そのよどみない解説で韓国の視聴者を大いに驚かせた。
高校時代、在日韓国人の選抜チームに選ばれ、韓国へ遠征したことがある。この時、韓国では大歓迎を受けたという。
同胞の力道山にかわいがられ、力道山が東京にいる時は、いつもくっついて回った。初めて力道山の邸宅に招かれ、六十畳程ある居間で飲んでいると、力道山はお手伝いを帰しドアに鍵をかけた。ラジオのつまみを回すと韓国の放送が流れてきて、力道山は軽音楽に合わせて機嫌よく踊り始めた。出自を伏せていた力道山が韓国の人(但し力道山が生まれ育ったのは現在の北朝鮮)と告げられると張本は「うわさは本当だったんだ」と嬉しくなり、高揚した気分で「韓国人なら韓国人と言えばいいじゃないですか」と、口に出すと、力道山は「お前は植民地時代の苦労をろくに知らないから、そんなことが言えるんだ!生意気いうな!」と激怒し張本の肩を突き飛ばした。二人の間で再び民族の話が出ることはなかったという[9]。張本は都内人形町にあった日本プロレスの道場でバーベルを使った筋力トレーニングをしていたことを自伝で語っている。
サッカーの韓国人サポーターの暴動が問題になった際、「まだ戦えるという意思があると感じられた」との発言をした。
2007年、民間人に与えられる韓国最高の勲章「無窮花章」が授与された。韓国プロ野球創設の際の組織作り、人材派遣などの支援等、日韓のスポーツ界並びに在日韓国人社会の発展に貢献した功績によるもの。「無窮花章」は日本の勲一等にあたる。日本のスポーツ選手として韓国の文化勲章を受けた唯一の人物となる。
韓国の野球発展にも多大な功績を残し、1982年から始まった韓国プロ野球は、李容一初代事務総長、李虎憲同次長、張本の3人で立ち上げたものという[10]。「わたしにとって日本プロ野球は『育ての親』、逆に韓国プロ野球にとってわたしは『生みの親』になる」と語っている。
韓国球界の至宝・重鎮と言われ、日本球界(中日ドラゴンズ)で活躍した経験もある宣銅烈も、張本の前では直立不動だったという。
現在 [編集]
現在は、TBS系の『サンデーモーニング』のコーナー「週刊 御意見番」に、大沢啓二と共にレギュラー出演している。また、プロ野球マスターズリーグでは東京ドリームスに所属し試合にも出場している。
同コーナーでは、何年も芽が出ず、ようやく活躍できた男性の選手が感動して、男泣きしているVTRが流れると、不機嫌な表情で「男が人前でメソメソ泣いちゃいかん! 喝だ!! 男が涙を流すのは独りになった時だけにしろ!」という旨のコメントをする。但し、何年も活躍している選手の涙にはあっぱれをいれることもあり、このコメントは番組名物として定着している。
タイトルや記録を守るための敬遠作戦に対しては擁護する発言が多い。曰く「2月のキャンプから歯を食いしばってやってきて、最後の数試合でひっくり返されてタイトルを逃したら、悔しくて夜も寝られない」「(記録を作られた)投手がクビになって、職を失ったら誰が補償するのか?」「(そのような場合でも)真剣勝負を観たいという非難はファンの言い分」。
マスターズリーグの試合で、三振や内野ゴロに打ち取られると、逆にファンから「喝!」と野次られる。また、そのシーンが放送された場合は自分で自分に「喝!」をつけている。
マスターズリーグの試合ではなかなかヒットが打てなかったが、2005年に5年越しの初安打を放つ。本人は「星野伸之(元オリックス)が手加減してくれた」とコメントしている。
プロ野球の試合で始球式をつとめた際、大暴投となったシーンが放送され、この時にも自分に「喝!」を入れた。なお、大沢啓二が始球式でストライクを投げた際には素直に「あっぱれ!」をつけている。
女性には滅法甘いが、最近では女子ゴルフで一時期成績不振が続いた宮里藍に対して「喝!!」と叫ぶ事もあった。
通算最多安打を記録していることを誇りに思っており、「イチローがたとえ日米通算4000本安打を記録しても、日本記録保持者は私ですから」とコメントしている。理由は、「メジャーリーグの野球は日本の野球よりもシーズンの試合数が多いから、イチローの通算安打は参考記録にしかならない」とのこと。
イチローが日米通算2500本安打を達成した際、自分より安打を打っているメンバー(張本を含む)のことを聞かれ、「いかついですねぇ」と笑顔で発言。この時大人げなく(もちろん冗談で)「喝」をつけたことがある。これに対し、スタジオでは「顔のことではなく、威厳があるという意味だ」と、軽く笑いがおきた。2008年7月30日(日本時間)にイチローが日米通算3000本安打を達成した際には、「ヒットを打つことに関しては川上哲治さんも、わたしもかなわない技術。『あっぱれ!』だ」とコメントしている、また「ピート・ローズの記録も超えてほしい。メジャーでも3000本安打打ってほしい」ともコメントしている。
イチローのことは高く評価しており、自著の『最強打撃力』で、「自分の記録を抜くのはイチローだけだ」、「自分よりイチローの技術の方が数段上」などと絶賛している。
打撃タイトルを1度も獲得したことの無い清原和博を「お話になりませんわね」と評していたが(清原については「才能は松井以上」「1度指導してみたかった」とも語っている)、近年は特に何も言わなくなった。なお、清原は、自身が恐れる人として張本を挙げており、「張本氏のどこが恐いんですか」との質問に、「あの人何だか恐いじゃないですか」と答えている。
現役引退後、正式な監督・コーチに就いたことはないが臨時コーチは何度も務めている。中日の沖縄秋季キャンプの臨時コーチを務めた1992年には、一旦挫折しかけた大豊泰昭の一本足打法を完成させるきっかけを作っている[11]。
 自身の著書で監督に打診を受けたことがあったそうだが入り込んでしまうからやめた方がいいと母親に猛反対されたので断っている。また当時ロッテのゼネラル・マネージャーだった広岡達朗からボビーバレンタインの下でヘッド兼打撃コーチの打診を受けたことがあったが張本がトップ(監督)でやりたいと言って断っている。[12]。
プロ野球選手の契約更改時での代理人制度に猛反対したり、2004年のプロ野球選手会のストライキでは選手会側を批判するなど、選手を批判し球団側を擁護する発言が多い。しかし、球団側を援護する理由は全て世間の声や時代にそぐわないものが多い。
日本ハムの後輩に当る新庄剛志には常に手厳しく、「喝」マークをつける様は番組名物になっていた。日本ハムのキャンプに行った際には、バックネット裏にいた新庄から逆に「喝!」と野次られたこともあった。ただ、実際のところは新庄を認めているような発言が多々あり(新庄がメジャーに移籍した年に、同じくその年にメジャーへ移籍したイチローと比べて「案外新庄のほうが活躍するんじゃないですかね」と発言しているなど)、新庄がメジャーリーグで活躍しているときには、「日本へ帰ってこいよぉ」と発言したこともある。また、引退試合となった2006年日本シリーズ最終戦の話題では号泣する新庄に喝こそ付けなかったが、最後まで「あっぱれ」は出さず、顔を真っ赤にして文句を言う姿を「本当は寂しいんだよ」と突っ込まれていた(その後新庄が2008年5月18日に始球式をした際、張本は喝をつけたが、「出てくるのが早すぎる」、「ソフトバンクじゃなくて古巣の日本ハムのユニフォームを着るべきだった」という理由だった)。
顕著な一流選手のメジャーリーグ流出を危惧しており、「日本の野球にお世話になったのに、感謝の気持ちが無い」と問題視している。そのためか、メジャーリーグや日本人メジャーリーガーについてのコメントはあまりしない。一方で、メジャーリーガーによる珍プレーの際には、「しょせんメジャーなんてこの程度です」と、メジャーリーグの質の低下を批判している。
2004年、アテネオリンピックの野球日本代表チーム監督だった長嶋茂雄が脳梗塞で入院した時、番組で他の出演者達が静養のために長嶋を監督の職務から外すべきだとコメントする中で、ひとりだけ長嶋監督続投を主張。「一茂が付き添って医者も連れてきゃいいだろ!」、「これがユニフォーム姿も見納めかもしれないから最後のご奉公だ!」と発言。
亀田三兄弟については一貫して沈黙を守っていたが、2006年10月1日の放送で亀田大毅の試合における観客席での乱闘騒ぎに触れ、不自然な判定に不満をもらした客に「喝」を入れ、6戦目で世界ランカーに挑戦した亀田大毅を擁護するコメントを語った(過去にもノックアウト勝利を逃してふてくされた態度をとった大毅に対して、同番組で「あっぱれ」と言った)。また、観客に向かって暴行をはたらいた協栄ジム関係者については触れなかった。しかし、内藤大助との世界戦における大毅の反則行為には喝こそ入れなかったもののダメだしを行い、謝罪会見後は「礼儀を弁えるように。今後こういう状態が続くのであれば喝を入れる」と釘を刺した。
アニマル浜口に関しては、生き方や精神論などに共感し、いつも褒め称えている。
2008年8月24日の出演で、北京五輪野球で銅メダルすら届かなかった日本代表、投手交代を見誤った星野仙一監督、星野監督になんら助言もしない同級生スタッフの田淵幸一・山本浩二両コーチ、さらには連盟と野球代表だけで4つも喝を入れた。さらに星野監督ら首脳陣には「しばらく出てくるな」といった発言も見られた。この一週間前には「タレントなのか野球監督なのかわからんことやっていると勝てない。負けたらすべて首脳陣の責任」と言っている。
少年時代から巨人に対する強烈な憧れ・愛情を抱いており、そのため松井秀喜が巨人を飛び出してニューヨーク・ヤンキースに入団した時や、川相昌弘が引退を撤回し中日に移籍した際には、猛烈な非難を浴びせていた。
2006年8月15日、テレビ朝日系「徹子の部屋」に出演。被爆体験や幼少期の生活、母に対する思いなどを語った。
それをきっかけとして「われわれの世代が戦争を、そして原爆でやられた体験を語り残さなければならんのです」と決意し、自らの被爆体験を語るようになった。
新潮社発行の月刊誌「新潮45」2009年1月号「私と母」という連載に取り上げられる(取材・構成はライターが担当)。
1980年代の頃から、医学的見地から身体に与える有害性が指摘され、禁止の呼び掛けが行われているウサギ跳びについて、「伊集院光 日曜日の秘密基地」にゲスト出演した際、「ウサギ跳びをやらないから今の選手はダメ」と発言している。
脚注 [編集]
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^ 「クメピポ! 絶対あいたい1001人」、毎日放送、2009年7月15日
^ 毎日新聞、2008年8月2日、13頁。
^ 新潮45、新潮社、2009年1月号、148-154頁
^ 張本の兄がタクシーの運転手だったため、使えなくなったタイヤを譲ってもらっていた。
^ 「クメピポ! 絶対あいたい1001人」、毎日放送、2009年7月15日
^ 2009年にシアトル・マリナーズのイチローが日米通算3086安打を記録し、日本メディアは「日本記録更新」と報道したが、NPBでは日本記録と認められておらず、NPBの最高責任者である加藤良三プロ野球コミッショナーも張本の3085安打が日本記録だと明言している(『週刊現代』2009年5月9日号、講談社)
^ 闘技場の人、佐山一郎、河出書房新社、1992年12月、205頁
^ 週刊ベースボール2009年6月8日号17頁
^ 『力道山がいた』、朝日新聞社、村松友視、2000年3月、306ー308頁
^ スポーツニッポン、2009年3月25日、5頁
^ 東京スポーツ、2009年1月14日、3頁
^ 張本勲著イチロー論―一流とはなにかプロフェッショナルとはなにか

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