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礒部公一

礒部 公一(いそべ こういち、1974年3月12日 - )
広島県出身の元プロ野球選手(捕手→外野手)で、現役時代は大阪近鉄バファローズ、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属した。
2009年を以って現役を引退し、2010年からは楽天の二軍育成コーチ(打撃担当)に就任。


来歴・人物
近鉄時代
西条農高、三菱重工広島を経て、1997年、大阪近鉄バファローズに捕手として入団。ドラフト3位で指名されたが、礒部は当初オリックス・ブルーウェーブ志望であった。しかし、当時の監督佐々木恭介がヘリコプターで近鉄の指名選手中一番先に礒部に会いに行き、その結果説得された礒部は近鉄入団を決意した。

入団から数年間、捕手と、打力・強肩を生かした外野手との併用が続いた。

2001年、正捕手争い激化と盗塁を阻止できなくなったことにより外野手に専念。主に5番打者として全140試合に出場。打率3割2分・17本塁打・95打点を記録し、チーム12年ぶりのパ・リーグ優勝に大きく貢献。礒部はシーズン半ばまでは吉岡雄二と5番か6番を、シーズン後半は5番に固定され打率.320、17本塁打、95打点、リーグ一の得点圏打率.417を記録してその年「最強の5番打者」と言われた。また右投手より左投手からの方が打率が高かったが、日本シリーズ第1戦で左投手の石井一久に完全に抑え込まれ、結局このシリーズ無安打に終わり「逆シリーズ男」の烙印を押されてしまった。また、ベストナインにも輝いた。

2003年、近鉄最後の選手会長となる。2004年6月、近鉄とオリックスの合併計画が浮上。近鉄の選手会長として労使交渉、署名活動など反対運動に奔走するが、結局阻止はならなかった。この年はキャリアハイとなる26本塁打を打って長打力を見せた。

球団合併による選手分配ドラフトの際、礒部ら近鉄の一部の選手は、労使妥結の前提となった「申し合わせ」を引き合いに、近鉄を吸収する側であるオリックスのプロテクト(選手優先保有)を拒否。オリックスも、近鉄のエースであった岩隈久志投手を除いてこれを認め(結果的には岩隈も楽天に移籍)、楽天が彼らを獲得した。「申し合わせ」の経緯や内容の詳細が今なお明らかにされていないことから、礒部・岩隈はじめ彼らの移籍を「わがまま」と批判する意見も一部に存在する(オリックスの選手らも当初は批判していたが、川越英隆・谷佳知ら主力はあくまで球団の対応など成り行き自体に不満をもっていたのであって、同情的な立場であった。なお、礒部はこの際、谷らに電話で直接事情説明を行っている)。

楽天時代
2005年、前年11月に行われた選手分配ドラフトで新規参入球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。近鉄時代に引き続き、チームの初代選手会長となる。4月1日、西武戦(フルスタ宮城)で、岡本篤志から球団第1号本塁打をバックスクリーンに放った。1番で起用されることが多かったが、シーズン終盤は5番に定着。オールスターではチーム唯一出場をファン投票で果たす。第1戦で3打数2安打2打点と結果を出した。また、第2戦では途中出場。場所が関西の阪神甲子園球場だったこともあり、全パを応援するスタンドから大阪近鉄時代の応援歌が流れた。

2006年、FA権を取得。当初「優勝できるチームでプレーしたい」と行使を示唆する発言をしたが、近年の成績不振から最終的には行使せず、残留を選択。なお、チームの選手会長の座は近鉄時代からの同僚でもある高須洋介に譲った。

2007年、前半は3割以上のハイアベレージで首位打者争いに食い込んでいたが、交流戦を境に徐々に打率を落としていった。また夏には踵にデットボールを受け、打撲のため一時二軍落ちもした。シーズン序盤は不動の3番・ライトでの先発出場が多かったが、交流戦以降の不振や守備の衰え(ケガの影響が大きい)から鉄平、草野大輔が3番に置かれた。守備面では左翼手としてスタメンに出場したり、チームの若返りの構想から守備で勝る牧田明久にスタメンを奪われることも増えた。野村克也監督も礒部を守備には付かせたくなかったようなのだが、DHにはこのシーズン絶好調だった山崎武司がおり、結果的にシーズン後半は6番以降や代打で出ることが多くなった。シーズン末に出場機会を求めてFA権の行使をする動きも見られたが「野村監督を胴上げしたい」と2006年に続き残留。

2008年、開幕スタメンには名を連ねたものの打撃の調子が一向に上がらず、早々に一軍登録を抹消されてしまう。また、同年は聖澤諒、横川史学、中村真人などの同じ左打ちで一定の守備力がある外野手が台頭、出場機会が大幅に減ってしまった。同年は自己最少の46試合に出場、打率.234、0本塁打、12打点と楽天移籍後最低の成績となってしまった。楽天外野手最高年俸の座も鉄平に譲ってしまった。

2009年、オープン戦では規定打席に到達しなかったものの、3割を超えるアベレージを残し、見事開幕スタメンの座を勝ち取るが、結果を残せず4月20日に一軍登録を抹消されたのを最後に一軍復帰を果たせず(出場はわずか8試合のみ)。 そして、9月末に球団から戦力外通告を受ける(球団の公式サイトでは未発表)。一時は現役続行を希望するが、その後11月2日に現役引退が発表され、同時に2軍育成コーチ(打撃担当)の就任も発表された。

プレースタイル
1997年~1999年にかけて、外野手・捕手と併用されながらも1998年は3割とそこそこ良い盗塁阻止率を記録していた。2000年には梨田昌孝新監督の希望により捕手に専念となったが、盗塁阻止率が急に1割9厘まで低下した。2001年のキャンプでは梨田監督の現役当時の背番号8を譲り受け、強打の捕手として期待され直々に指導を受けていたが、結局オープン戦で8度盗塁を許し一度も阻止できず、捕手失格の烙印を押されて開幕前日に監督から外野手へ専念することを言い渡された。しかし、結果的にはこの外野へのコンバートが成功。主に右翼手として守備は無難にこなしている。このことについて、梨田は週刊ベースボールで自身が連載していたコラム(後に『梨田昌孝の超野球学-フィールドの指揮官』として刊行)の中で、「捕手としての礒部は送球の際にバックステップするクセがあり、この分の時間のロスでランナーを刺せなかった。どう指導しても直らなかった」と語っている。

1997年は捕手、1998年は外野手&捕手、1999年は外野手、2000年は捕手、2001年以降は外野手とメインのポジションが頻繁に変化し、更に打撃成績も1年ごとに良い悪いを繰り返した。2000年まで(打撃成績はともかく)ポジションがこうも毎年変わった理由には、レギュラー捕手であった古久保健二や的山哲也のバッティングが悪く毎年2割前後の打率しか残さなかったことと、前述した礒部自身の盗塁阻止率の低下の問題が大きく影響している。

タイトル
ベストナイン(2001年)
個人記録
初出場:1997年4月9日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(大阪ドーム)、9回裏に水口栄二の代走として出場。そのまま捕手の守備につき、11回裏に園川一美の前に凡打
初安打:1997年4月26日、対オリックスブルーウェーブ2回戦(大阪ドーム)、5回裏に高橋功一から
初打点:1997年5月25日、対福岡ダイエーホークス12回戦(北九州市民球場)、1回表に田之上慶三郎から
初盗塁:1997年7月15日、対オリックスブルーウェーブ11回戦(大阪ドーム)、8回裏に二盗
初本塁打:1998年6月16日、対千葉ロッテマリーンズ9回戦(藤井寺球場)、3回裏に竹清剛治から
1000試合:2005年7月16日、対北海道日本ハムファイターズ9回戦(札幌ドーム)(403人目)、1番・右翼手として先発出場
1000本安打:2006年4月28日、対千葉ロッテマリーンズ6回戦(千葉マリンスタジアム)、6回表に清水直行から

背番号
22(1997年 - 2000年)
8(2001年 - 2009年)

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