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小林繁

小林 繁(こばやし しげる、1952年11月14日 - 2010年1月17日)は、鳥取県出身の元プロ野球選手(投手)。

目次 [非表示]
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 現役時代
1.3 引退後
1.4 突然の死
2 江川事件とその後
3 詳細情報
3.1 年度別投手成績
3.2 背番号
3.3 タイトル・表彰
3.4 個人記録
4 出演
5 歌
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目


経歴 [編集]
プロ入り前 [編集]
小学校時代にソフトボール、中学で軟式野球を経験。由良育英高校(現:鳥取中央育英高校)から社会人野球の全大丸(大丸神戸店勤務)を経て、1971年にドラフト6位で読売ジャイアンツ(巨人)に指名されたが、「大丸の一員で都市対抗野球大会に出場したい」という思いがあった為、その年は入団を保留。

1972年に全大丸に1年残留してプレーし、都市対抗野球への出場も果たしたことから、その年(1972年)のドラフト会議前に巨人に正式入団した。

現役時代 [編集]
巨人・川上哲治監督の目に留まり、1973年のシーズン終盤にいきなり一軍昇格。特に1973年10月11日の巨人vs阪神タイガース第25回戦(後楽園球場)で、10対10の同点の9回表に登板し、阪神打線を三者凡退に抑えて引き分けに持ち込む奮投を見せ、巨人のセントラル・リーグ9連覇に僅かな望みをつなぐ結果を出した。その後、巨人は最終戦で9連覇を達成するが、小林のこの奮投が9連覇達成のキーポイントになったと評価された。

2年目の1974年に8勝を挙げ、堀内恒夫・高橋一三の後継者として頭角を現す。低い重心の独特の投球フォームから鋭い変化球で打者を詰まらせるサイドスロー投手として活躍した(ダイナミックに首を振り回すため投球時に帽子がよくグラウンドに落ちていたが、本人はこれを調子の良い証としていた)。1976年から2年連続で18勝を挙げ、エースとして優勝に貢献。1977年には沢村賞を獲得した。

1978年11月に起きた『江川事件』(『空白の一日』の言葉で知られる)の犠牲となる形で、1979年2月に江川卓との交換トレードで阪神タイガースに移籍(詳細は当該項を参照のこと)。移籍1年目は22勝で最多勝利、2度目の沢村賞を獲得。特に古巣・巨人に対しては8勝0敗の成績で神懸り的な強さを発揮し、巨人キラーとして活躍。古巣に「巨人のエース」の貫禄を見せつけ脅威の存在となる。また、セーフティバントを狙って左打席に立つという気迫も見せた。また、巨人時代の1976年から現役最終年となる1983年まで8年連続で2桁勝利を記録した。

1982年離婚。大丸の同僚であった元妻とは江川事件の前夜に大喧嘩し、喧騒の中で関係修復の機会もないままであった。同年のオフに突然「来年15勝できなければ野球をやめる」と宣言。翌1983年は13勝と2桁勝利を挙げるが宣言に届かず、また、肩の故障で思うような投球ができないとして、31歳の若さで現役を引退した。同年6月25日の中日ドラゴンズ戦(阪神甲子園球場)において、9回二死の場面で大島康徳に投じたシンカーを同点2ラン本塁打され、これが引退を決意させる。「今まで抑えてきた球を打たれ衰えを感じた」という[1]。

1982年の横浜大洋ホエールズとの開幕戦において、打者高木由一への故意四球(敬遠)が暴投となったせいでサヨナラ負けを喫している[2]。「敬遠暴投によるサヨナラ負け」は、1952年に金田正一が記録して以来、2例目であった。このことから、「暴投サヨナラ小林」と野次られるようになった(但し、この年に小林が記録した暴投はこの1つだけ)。現役時代の背番号は巨人、阪神時代ともに「19」が一般的に知られている。FA制度もなかった当時では、巨人、阪神という人気球団の両方でエース級を務めたのは珍しい事である。
引退後 [編集]
引退後は1984年から1996年までTBS、その後朝日放送で野球解説者を務め、TBS解説者時代にはスポーツキャスターとして『JNNスポーツチャンネル』、引き続き『筑紫哲也ニュース23』の初代スポーツキャスターを務める。その他にはタレントとして『料理天国』の司会、『地球発19時』(毎日放送製作)のナビゲーターとしても活躍した。さらに俳優として『ビートたけしの学問ノススメ』 (TBS) で体育教師役を演じ、『木曜ゴールデンドラマ』(読売テレビ)の『あなたは妻を救えるか』にも出演。

1992年、料理研究家の小林久美子と再婚(その後、離婚)。

1995年7月、巨人時代の監督の川上の薦めでさわやか新党党首として第17回参院選に比例代表区から出馬、落選する。得票率1%未満のため、供託金没収、広告費用自己負担となり経済的に打撃を受ける。

1997年から2001年まで大阪近鉄バファローズ(1998年まで近鉄バファローズ)の投手コーチを務める。当時の監督の梨田昌孝と、打撃コーチの真弓明信と3人で「男前三人衆」として売り出され、モロゾフのイメージキャラクターも務める。2001年にはリーグ優勝したがチーム防御率が5点台であり、責任を取るとして辞任した。辞任後、2003年には経営していた高級クラブや飲食店、不動産業、自動車販売業が破綻し、4億円もの負債を抱え自己破産するも翌2004年には免責決定と同時に復権している。一時は負債が10億円まで膨らんだとされる。

2006年には、自分の半生についての手記を東京スポーツに約1ヶ月連載する。その手記によると、「空白の一日の事件の時は、まさかあの球界の紳士と言われた巨人があんなことをするとは思わなかった。だが、不思議と自分を育ててくれた巨人に対しては恨む気持ちはなかった」と語る。

2007年、韓国のSKワイバーンズで二軍投手コーチを務めた。また、日本酒メーカー『黄桜』のCMで、江川と初共演する。このCMのキャッチコピーは和解の酒で、同年10月11日に放映が開始される。また、2008年から、近鉄時代の同僚梨田の個人事務所「トゥルーマサ」にマネジメントを受ける。

2008年11月8日、北海道日本ハムファイターズ二軍投手コーチに就任し、7年ぶりの日本球界復帰。近鉄時代に続き、再び梨田昌孝の下で働くこととなった。この年は江尻慎太郎や糸数敬作をサイドスローに転向させ、須永英輝や植村祐介なども腕の位置を下げるなどフォーム改革に着手し、江尻は中継ぎとして2007年の大手術から復活、糸数もシーズン終盤に満身創痍のチームを救う大活躍を見せその指導能力を見せつけた。このため一部のファイターズファンの間で「二軍に落ちたらサイドスローになって復活する」「(不調な投手に対して)小林コーチに腕を下げさせてもらえばいい」と言ったジョークが生まれるほどであった。

突然の死 [編集]
2010年より一軍投手コーチに昇格し、新シーズンへ向けて準備を進めていたが、キャンプインを2週間後に控えた1月17日、福井市内の自宅で「背中が痛い」と体調不良を訴え、福井県立病院に救急搬送された。病院搬送時には心肺停止状態であり、蘇生措置が施されたが午前11時頃に心筋梗塞による心不全で死去した[3]。57歳没。亡くなる前日には日本ハム本社のイベントに出席し元気な姿を見せていただけに、突然の訃報は周囲に大きなショックを与えた。告別式は20日に福井市内で営まれ、約500人が参列。法名は球愛院釋静繁[4]。

小林の急死の知らせに、現役時代の上司だった長嶋茂雄をはじめ、日本ハム監督の梨田昌孝、阪神時代のチームメイトだった阪神監督の真弓明信やオリックス監督の岡田彰布など球界関係者等が追悼のコメントを出した[5]。縁浅からぬ江川が司会を務めるスポーツニュース番組『SUPERうるぐす』は、同日深夜の放送でオンエア時間の大部分を小林の追悼企画に割き、前述のCM撮影時の模様、江川の追悼コメントなどを放送した。

江川事件とその後 [編集]
「江川事件」も参照

小林は1979年春季キャンプ前日の1月31日、キャンプ地・宮崎市へ向かう直前の空港で巨人のフロントに呼び止められ、当時阪神の選手となっていた江川との交換トレードを告げられた[6]。記者会見で小林は「自分は(江川事件の)犠牲になったという気持ちはない。同情はされたくありません。野球が好きだから阪神にお世話になります」と気丈なコメントを残している。阪神としても「怪物」江川の代償は「巨人のエース」小林以外に考えられなかった。江川の代償が小林一人だったのは阪神が江川以上に小林を高評価していた証拠でもある。

移籍1年目の1979年こそ巨人相手に無類の強さを見せた小林であったが、翌1980年からは一転して巨人を苦手にし、引退する1983年までの4シーズンで巨人戦5勝15敗と大きく負け越している[7]。デビュー戦で阪神に打ち込まれたが、その後阪神を得意とした江川とは対照的であった(江川の阪神戦の戦績は36勝18敗)。

小林は、その江川とは『江川事件』以来、一度も口をきかなかった。江川の引退時、TBSでスポーツニュースを担当していた小林はこのニュースを自ら伝え、「あれだけの騒ぎを起こしたんですし、もう少し頑張ってほしかったですね。僕は当事者でしたからね」と、江川に対しての心中を述べた。また、『いつみても波瀾万丈』(日本テレビ)に出演した際、「本音としては仲良くなりたくはないですね」と発言していた。

しかし、2007年になって、博報堂の企画による黄桜のCMで共演する事になり[8]、江川は「僕が原因を作ったので申し訳なく思っていた」と、小林は「私たちを知っている世代が、子供たちに野球の話をできるきっかけになれば」「ストレートに心情を言えない人で僕と似ている」と語った。このCMのオファーを受けた際、江川は「小林さんがOKなら」と回答、小林は「江川が入るなら、出るのは俺しかいないと思っていた」との理由から共演を受諾したという[9]。CMの撮影は66分間にも及んだ。江川が謝罪した際には「もう風化してるよ」や「謝ることないじゃん」など温かい言葉をかけた。

産経新聞記者の田所龍一によると、巨人に恨みはないのかと尋ねたところ、「超一流の選手になるには運がいる。その運を自分は長嶋さんにいただいた」と語ったという。

OB戦では阪神OBとして出場する場合(江川出場時の巨人vs阪神)が多いが、巨人OBとしての出場(世界少年野球大会日米OBオールスター等)もあった。

詳細情報 [編集]
年度別投手成績 [編集]

度 球
団 登
板 先
発 完
投 完
封 無

球 勝
利 敗
戦 セ

ブ ホ


ド 勝
率 打
者 投

回 被

打 被


打 与

球 敬
遠 与

球 奪

振 暴
投 ボ

ク 失
点 自

点 防

率 W
H
I
P
1973 巨人 6 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 40 11.1 5 0 2 0 0 6 1 0 0 0 0.00 0.62
1974 44 9 2 1 0 8 5 2 -- .615 538 130.1 125 10 29 5 4 72 2 0 48 35 2.42 1.18
1975 28 12 3 1 1 5 6 0 -- .455 456 106.1 103 8 32 5 14 42 0 0 50 39 3.30 1.27
1976 43 29 7 1 1 18 8 2 -- .692 868 217.1 192 30 47 5 9 129 0 0 77 72 2.98 1.10
1977 42 30 11 3 0 18 8 7 -- .692 897 216.1 197 25 65 9 4 155 0 2 89 70 2.91 1.21
1978 43 31 5 0 2 13 12 2 -- .520 805 191.1 176 23 73 11 12 130 3 1 97 87 4.09 1.30
1979 阪神 37 36 17 5 2 22 9 1 -- .710 1129 273.2 227 23 75 7 15 200 4 0 101 88 2.89 1.10
1980 37 34 21 1 0 15 14 0 -- .517 1127 280.1 241 36 57 3 20 179 1 0 104 94 3.02 1.06
1981 32 30 17 2 2 16 10 2 -- .615 937 230.0 202 15 53 7 14 156 0 1 82 77 3.01 1.11
1982 27 25 4 2 1 11 9 0 -- .550 688 163.1 154 17 47 3 8 95 1 0 72 62 3.42 1.23
1983 35 32 9 3 2 13 14 1 -- .481 890 209.0 202 31 60 3 11 109 0 0 116 94 4.05 1.25
通算:11年 374 268 96 19 11 139 95 17 -- .594 7564 2029.1 1824 218 540 58 111 1273 12 4 836 718 3.18 1.16

各年度の太字はリーグ最高
背番号 [編集]
40 (1973年)
19 (1974年 - 1983年)
70 (1997年 - 2001年)
79 (2009年)
タイトル・表彰 [編集]
最多勝利:1回(1979年)
最優秀投手:2回(1977年、1979年)
沢村賞:2回(1977年、1979年)
ベストナイン:2回(1977年、1979年)
個人記録 [編集]
オールスターゲーム出場 - 7回(1976年 - 1981年、1983年)
日本シリーズ登板試合 - 6(1976年、シリーズタイ記録)
出演 [編集]
吉田照美のやる気MANMAN(コーナー出演)
ビートたけしの学問ノススメ
JNNスポーツチャンネル(メインキャスター)
パパはニュースキャスター(本人役・ドラマ内で田村正和がメインキャスターを務めた、架空のニュース番組のスポーツキャスターとして出演)
筑紫哲也NEWS23(スポーツコーナーキャスター)
料理天国(司会)
赤い秘密
今夜は最高!
修羅の群れ
ABCフレッシュアップベースボール - 出演していたABCラジオのプロ野球中継の現行タイトル。
スーパーベースボール - 出演していたABCテレビのプロ野球中継現行統一タイトル。
TBSラジオ エキサイトベースボール - 出演していたTBSテレビのプロ野球中継現行統一タイトル。
歌 [編集]
亜紀子(1979年)オリコン最高41位、キャニオンレコードによると発売1か月で10万枚突破[10]。B面は「夢に揺られて」。
昨日の女(1980年)
まわり道(1980年)
しのび逢い(1982年)
ゆれて赤坂ナイトパブ(小林繁&よしえ、1984年)B面は「可愛いあいつ」。
脚注 [編集]
^ 自著『男はいつも寂しいヒーロー』より。
^ http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_april/KFullNormal20080325151.html
^ 元巨人軍:小林繁氏が死去 時事通信 2010年1月17日閲覧。小林繁さん急死=57歳 巨人、阪神の元投手 毎日新聞 2010年1月17日閲覧。
^ "梨田監督『やれたらいい』小林繁さん追悼試合ハム vs 阪神". スポーツ報知 (2010-01-20). 2010-01-22 閲覧。
^ 小林繁さん死去 スポーツ報知 2010年1月17日閲覧
^ http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_january/KFullNormal20080102022.html
^ http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_august/KFullNormal20070801151.html
^ [1]
^ デイリースポーツ・サンケイスポーツ・スポーツニッポンのウェブ配信記事より。
^ 【12月19日】1979年(昭54) 阪神・小林繁、オフはステージで“ショー利”投手?、スポーツニッポン。(2009/10/14閲覧)

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