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福留孝介

福留 孝介(ふくどめ こうすけ、1977年4月26日 - )は、シカゴ・カブスに所属するプロ野球選手(外野手)。 血液型はB型。

愛称は「ドメさん」「ドメ」。

目次 [非表示]
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ野球時代
1.3 メジャーリーグ時代
2 人物
3 背番号
4 アマチュア時代の戦歴
5 年度別打撃成績
6 タイトル・表彰・記録
7 CM出演
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク


経歴
プロ入り前
小学校3年からソフトボールを始め、6年には全国大会に出場。中学時代はボーイズリーグの「鹿屋ビッグベアーズ」に所属し、全国制覇。当時PL学園の立浪和義に憧れており、中日のキャンプを見学した際に入団したばかりの立浪(入団は1988年)からバットやサインをもらったこともある。その11年後にチームメイトとして再会する。

1995年名門PL学園の4番として、1年秋から4番を打ち、3年夏の地方予選では7本塁打を放った。この年の高校No.1スラッガーとしてスカウト陣の注目を浴びた。

同年のドラフト会議では指名順位1位で7球団が競合する。高校生選手に対する7球団1位指名競合は1985年の清原和博の6球団1位指名競合を上回る歴代1位。当時大阪近鉄バファローズの監督に就任したばかりの佐々木恭介が当たりクジを引き、交渉権を獲得。この時は指名を断り社会人へ進むが、佐々木は後に中日ドラゴンズの打撃コーチ・監督代行となり、時を経て福留を直接指導することになる。

本人は「希望球団の中日・巨人以外なら社会人」と意思表示していたこともあって断りを入れ(親族や関係者からセ・リーグ向きだとアドバイスを受け、パ・リーグの球団が指名した場合は社会人へ行こうと決めていた事を後年「ベースボールマガジン」誌のインタビューで語った)、日本生命に進む。日本生命に進んでからは、当時史上最年少でアトランタオリンピック野球日本代表に選ばれ銀メダル獲得に貢献した。

1998年のドラフト会議にて中日ドラゴンズを逆指名。ドラフト1位で入団。入団当初のポジションはショートだった。

プロ野球時代
入団1年目の1999年は、当時の星野仙一監督が積極的にスタメンに起用し、また福留も2割8分4厘、16本塁打とこれによく応え、新人としては上々の成績を収めリーグ優勝に貢献した。しかし三振数リーグ1位を記録するなど粗さも目立ち、加えて守備には難があった。肩も足もいいのだが打球勘が悪く、ペナントレースや日本シリーズでも敗因につながるミスが続出。試合終盤は交代させられた。この年のプロ野球珍プレー好プレーにはエラーを連発する彼(及びそれに怒る星野監督)の姿が放送された。

2年目はより守備の負担が少ないサードへコンバートされるものの失策続きは相変わらずで、3年目には守備の不安から打撃にも悪影響を及ぼし不振に陥った。

2002年には、山田久志監督の下、二宮至外野コーチの進言により本格的に外野にコンバートされる。当初もやはり守備に難があったものの、辛抱強く起用され続けると、やがて練習の甲斐もあってライトに定着する。すると本来の俊足や強肩が生きるようになり、強肩の指標とも言われるライトゴロも記録。オフには佐々木恭介打撃コーチの下、大幅な打撃改造を行った。更に守備の上達と共に打撃も見違え、3番に定着する。松井秀喜(当時巨人、現ニューヨーク・ヤンキース)の三冠王を阻む首位打者のタイトルを獲得、一気に素質開花となった。

2003年も3割を達成し、さらに30本塁打も達成。加えてリーグ最多の三塁打を記録し、中軸を担うスラッガーとしての評価を不動のものにした。このころからバックスイング・フォロースルーとも大きく取るフォームを身につけた。

2004年には強打者不在のチーム事情により開幕から4番に座る。またアテネオリンピック野球日本代表の一員として選ばれ、銅メダルを獲得した。オリンピックから帰国しチームに戻るものの、復帰2戦目に阪神の下柳剛投手による死球で骨折。チームは福留を欠いたままリーグ優勝こそ果たすが、西武との日本シリーズでは3勝4敗と惜敗。不在は大きな痛手となった。

2005年は開幕から活躍し、打率.328、本塁打28本、打点103という成績を挙げ、通算3度目のゴールデングラブ賞も受賞。しかし本人はリーグ優勝を逃したからかこの成績にも満足できず、「打率ならあと2厘、ホームランならあと2本を何故打てなかったのか」と、同年の秋キャンプから試行錯誤を重ね、打撃フォームをバットを寝かせて極力無駄を削った広島・前田智徳タイプのものに変更するに至った。

2006年はWBC代表に選出され、スタメン3番として起用されたが、予選リーグでの中国戦の本塁打以外はなかなか結果が出なかった。しかしスタメンから外された準決勝の対韓国戦において、7回に代打で出場し、金炳賢から先制2点本塁打を放ち、日本の決勝進出に大きく貢献。それまで日本は韓国相手に2敗しており3連敗はできない状況だったためか、この本塁打はマスコミにも大きく取り上げられた。決勝戦でも代打で2点適時打を放つなど、持ち前の勝負強さを発揮した。シーズンに入ってからは開幕は5番で起用されるものの、前を打つ2番藤井淳志、3番井端弘和の不調もあり、3番に昇格する。同年6月14日、インボイスSEIBUドームにおける西武ライオンズ戦(第5回戦)で、クリストファー・ギッセルから左中間に二塁打を放ち、通算1000本安打を達成。6月末には太ももを痛め14試合を欠場するものの、復帰後は首位打者争いを独走。同年10月10日、マジックナンバーを1として迎えた対巨人戦で、12回表に決勝点となる勝ち越しタイムリーを放ち優勝を決めると共に、シーズン打率3割5分1厘・長打率6割5分9厘・本塁打30本・100打点・100得点を達成。この内、3割・30本・100打点・100得点は中日の選手として56年ぶりの達成であった。さらには2位以下に大差をつけて2002年以来4年ぶりに首位打者を、2年連続で最高出塁率を獲得。二塁打も47本とし、セ・リーグのシーズン記録を塗り替え、11月14日にはセ・リーグのシーズンMVPも受賞した。ポジションも開幕はライト、その後は元々予定されていたセンターへコンバートされたが、シーズン終盤からはライトに固定となった。

2007年も開幕から不動の3番(ウッズの欠場時には数試合4番で起用された)として活躍するが、7月中旬から右肘に見つかった遊離軟骨の状態が思わしくなく試合出場を見合わせることが多くなり、ファン選出で初めて選ばれたオールスターゲームはウッズの代走から次の打席に指名打者として打席に立った(結果はショートゴロ)。その後も様子を見つつ症状の改善を図っていたが、8月に渡米して内視鏡による除去手術を行う事を決意。これにより、シーズン中の復帰は不可能に。続くクライマックスシリーズ、日本シリーズも出場することはできなかった(日本シリーズ出場選手40人枠には入っていた)。

中日の生え抜き野手としては「ミスタードラゴンズ」と呼ばれる立浪和義を凌ぐ活躍をしていることから、次期「ミスタードラゴンズ」の最有力候補とも言われていた。2006年12月2日の『スーパーサタデー』に出演した際、司会の峰竜太から「メジャーに興味はありますか?」と聞かれ、「興味がないと言ったら嘘になるので、あります。WBCに出場してメジャーへの憧れがより一層強くなった」と答え、FA権取得以降のメジャー移籍に含みを持たせる発言をしていた。2007年シーズン終了後に、2007年から適用されている故障者特例措置によりFA権を取得した。同年10月12日にFA権を行使した。同年11月12日に、5歳年上の女性と入籍したことも明らかにした。同年12月16日に第1子(長男)が誕生している。

ナゴヤドームでの入場曲は2007年シーズンよりレッド・ホット・チリ・ペッパーズの『アラウンド・ザ・ワールド』を使用している(2006年シーズンはホワイト・ストライプスの『ブルー・オーキッド』を使用していた)。

12月12日にシカゴ・カブスと4年、総額4800万ドル(約53億円)の契約に合意したと報じられた。そして渡米後に身体検査を経て12月19日に本拠地で正式契約を交わし、背番号は「1」になることが発表された。なお帰国後の12月22日に報告記者会見を行った。

メジャーリーグ時代
オープン戦ではカブスに左打者がほとんどいなかったために監督のルー・ピネラは2番、3番、5番で起用しどの打順がチームそして福留に合っているかを模索した。結局2008年3月31日開幕戦のミルウォーキー・ブルワーズ戦では5番ライトで先発出場しメジャーデビューを果たした。この試合では複数のカブスファンが福留に対し、カブスファンの常套句である「It's gonna happen」(「何かが起こるぞ」あるいは「ついにその時が来た」)の誤訳と思われる「偶然だぞ」と書かれたサインボードを掲げた[2]。日本から来た福留を応援するファンからの福留への期待の表れであるが、珍事が本人の笑いを誘った[3]。大歓声の中迎えた初打席でベン・シーツからメジャー初安打となる2塁打を記録、3点をリードされた9回2死の場面ではクローザーのエリック・ガニエから起死回生の同点3点本塁打を放ち、最終的に開幕戦に敗れたもののカブスファンに鮮烈な印象を与えるデビューとなった[4]。2008年5月1日には.353の打率を記録し、オールスターにファン投票で選出されるなど前半戦は輝かしかったが、インコースの速球に弱いと見抜かれると徐々に調子を落とし[5]、月を追うごとにほとんどの打撃指標が単調に悪化、9月以降は守備要員としての起用が増えていった。チームはプレーオフに進出し第1戦と第2戦のスタメンを任されるもノーヒットに終わり、ルー・ピネラ監督が「もう福留を使う意味がない」と公言するというホロ苦い幕切れとなった。

人物
この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。(2008年4月貼付)
この記事の内容に関する文献や情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。

日本生命在職時には、シーズンオフに外回りの営業もしていたという。

ルーキーイヤーの1999年9月4日に広島市民球場で行われた対広島戦、9回裏二死一・二塁でレフトの守備に就いた際にフライ性の打球を落球。ランナーを返しサヨナラ試合にしたことがある。こういう経緯から本人はレフトの守備はやりづらいと感じている。

2001年6月26日、札幌ドームで初めて行われたプロ野球の試合となった対巨人戦1回表、ダレル・メイ投手が投じた第1球をライトスタンドに放り込み、記念すべき同球場の第1球を、第1号ホームランボールとした。

2002年の春季キャンプで、長嶋茂雄から「ゴジラになれ。」とアドバイスされ初の首位打者となった。また、同年オフに日米野球に出場しているが、当時まだメジャーにはほとんど名前の知られていなかった福留は「FUKUDOME」の表記からメジャーリーグのスコアラーに「福ドーム (Dome) 」と読まれ、スコアラーの間では「あれは誰だ?」「福岡の選手じゃないか?」とのやり取りがあったという。

2003年シーズン前に1番井端、2番荒木、3番福留で球団が「ブルー・スリー」として売り出そうとしたが、機能せず企画倒れに終わった(この時とは違うものの、2005~2006年にかけては1番荒木、2番井端、3番福留で機能しており、まさに「ブルー・スリー」となった)。

“ミスター失策王”と呼ばれるほど守備の酷さで有名だった内野手時代と、“名手”と呼ばれる現在の外野手としての福留があまりにも対照的であるため、外野手に転向した今でもタイトルの表彰式などで「内野手やめてよかった」と自虐的なコメントを発して周囲の笑いをとっている。また、過去に「内野の動作が外野に生きている」と語ったことがある。

ファンサービスには非常に熱心で、自身が行うチャリティ活動とジョイントさせ、孝介あんかけや孝介カレーなどの食品をプロデュースするなど、野球以外にも多彩な活動を行っている。注:名古屋ドラゴンズ食堂

2006年のドラゴンズファン感謝日では、ドラゴンズの選手が本来とは違うポジションを守り(ちなみにこのときは福留はセカンドを守り、川上憲伸と二遊間を組んだ)、マスターズリーグの名古屋80D'sersと戦う催しで、走者一塁でギャオス内藤から2ランホームランを放った。

2007年のバレンタインデーに中日の宿舎に届いたチョコは70個で3年連続1位であると報じられた。

中日時代の先輩である山崎武司とは、非常に親交が深く、オフシーズンは行動を共にすることが多い。

背番号
1(1999年 - )
17(2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表)
※2006年のWBCでは、岩村明憲・金城龍彦と背番号が重複したため17番をつけた。
アマチュア時代の戦歴
1995年第77回全国高等学校野球選手権大会にてベスト8(高校通算本塁打40本)
1996年アトランタオリンピック銀メダル
1997年第68回都市対抗野球大会優勝
年度別打撃成績

度 球
団 試
合 打
席 打
数 得
点 安
打 二

打 三

打 本

打 塁
打 打
点 盗
塁 盗

死 犠
打 犠
飛 四
球 敬
遠 死
球 三
振 併

打 打
率 出

率 長

率 O
P
S
1999 中日 132 526 461 76 131 25 2 16 208 52 4 7 8 2 50 1 5 121 3 .284 .359 .451 .810
2000 97 368 316 50 80 18 2 13 141 42 8 5 2 2 45 3 4 79 5 .253 .350 .446 .796
2001 120 442 375 51 94 22 2 15 165 56 8 4 4 3 56 4 4 90 4 .251 .352 .440 .792
2002 140 608 542 85 186 42 3 19 291 65 4 2 0 5 56 2 5 96 4 .343 .406 .537 .943
2003 140 617 528 107 165 30 11 34 319 96 10 5 1 6 78 1 4 118 5 .313 .401 .604 1.005
2004 92 404 350 61 97 19 7 23 199 81 8 3 1 2 48 0 3 93 3 .277 .367 .569 .936
2005 142 612 515 102 169 39 6 28 304 103 13 5 0 3 93 3 1 128 8 .328 .430 .590 1.020
2006 130 578 496 117 174 47 5 31 324 104 11 2 0 3 76 4 3 94 4 .351 .438 .653 1.091
2007 81 348 269 64 79 22 0 13 140 48 5 2 0 4 69 3 6 66 5 .294 .443 .520 .963
2008 CHC 150 590 501 79 129 25 3 10 190 58 12 4 2 5 81 9 1 104 7 .257 .359 .379 .738
NPB:9年 1074 4503 3852 713 1175 264 38 192 2091 647 71 35 16 30 571 22 34 885 41 .305 .397 .543 .940
MLB:1年 150 590 501 79 129 25 3 10 190 58 12 4 2 5 81 9 1 104 7 .257 .359 .379 .738
通算:10年 1224 5093 4353 792 1304 289 41 202 2281 705 83 39 18 35 652 31 35 989 48 .300 .392 .524 .916

2008年度シーズン終了時
各年度の太字はリーグ最高
タイトル・表彰・記録
MVP:1回(2006年)
首位打者:2回(2002年、2006年)
最高出塁率:3回(2003年、2005年、2006年)
ベストナイン:3回(2002年、2003年、2006年)
ゴールデングラブ賞:4回(2002年、2003年、2005年、2006年)
月間MVP:1回(2002年9月)
サイクルヒット(2003年6月8日)
5試合連続本塁打(2003年9月9日~9月13日)
シーズン47二塁打(2006年) ※セ・リーグ記録。
シーズン186安打(2002年) ※球団記録。
オールスター出場:4回(1999年、2002年~2004年)
MLBオールスターゲーム選出:2008年
通算1000試合出場 2007年4月6日(415人目)
CM出演
メナード青山リゾート(ラジオCM)
アーレックス(ラジオCM、同僚の山本昌投手とともに、2007年から出演中。なおCMではかつて出演していたアレックス・オチョアのモノマネを聴くことができる。バックの音楽は私設応援団による自らの応援歌)
脚注
^ [1]
^ "Fukudome debut spoiled by Cubs' loss to Brewers Fukudome starts fast, but Wood, Howry fail". Chicago Tribune. 2008年4月19日 閲覧。
^ "福留、「偶然だぞ」ボードに笑う 開幕デビューをブログで報告". MSN産経ニュース. 2008年4月19日 閲覧。
^ "Fukudome soon to be household name Cubs fans are already treating new right fielder like rock star". The Official Site of The Chicago Cubs. 2008年4月19日 閲覧。
^ “Fukudome’s Hitting Is Downside on the North Side”. ニューヨーク・タイムズ. (2008年9月17日). http://www.nytimes.com/2008/09/18/sports/baseball/18cubs.html?ref=sports

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