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憲史

憲史(けんし、本名:川口 憲史(かわぐち けんし)、1976年6月28日 - )
東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手(外野手)。



来歴

アマチュア時代
小学4年のころ地元チームに入り野球を始める。中学までポジションは捕手。中学3年時に右打者から左打者に転身。また同年に九州硬式少年野球連盟(フレッシュリーグ)大会で優勝する。

柳川高校に進学し、1年から内野のレギュラーをつかむ。3年夏の県大会は4回戦敗退となったが、通算打率.430、48本塁打の強打者として知られた。

近鉄時代
1994年
ドラフト4位で柳川高校から近鉄バファローズに内野手として入団。

1997年
外野手へ転向。

1999年
大村直之の不振や鈴木貴久・村上嵩幸らの衰えもあり、外野の準レギュラーとして一軍に定着。また、8月20日の千葉ロッテ戦(千葉マリン)で小林雅英からプロ初本塁打を記録した。

2000年
前年に続く大村の不振や、礒部公一の捕手再転向の影響もあって出場機会が大幅に増加。しかしレギュラー完全奪取には至らず。

2001年
外野がシーズン通して右翼・礒部、中堅・大村、左翼・ローズで固定されたため、主に7番指名打者として出場。わずかながら規定打席に及ばなかったが、打率.316、21本塁打、72打点の自己最高成績を残し、リーグ優勝に貢献。しかし、2001年をピークに年々成績が低下する。

2002年
日本ハムからウィルソンが加入し出場機会の減少が危惧されたが、最終的には前年に続いて安定した成績を残した。また、前年に礒部の外野専任が決定したことや、元々外野守備がそれほど上手ではなかったこともあり、この頃から一塁の守備練習をすることが増えた。

2003年
開幕スタメンを勝ち取り、4月は好調を維持していたが、5月に肉離れで戦線離脱。結局これが響いたせいか、平凡な成績で終わってしまった。また、不動の4番だった中村紀洋が半月板を痛めたため、彼がスタメンを外れたときは、ローズが4番に座り、川口が3番に座ることがあった。

2004年
ローズが移籍したため、首脳陣からの期待は膨らんだが、極度の打撃不振に陥り、成績が低迷。シーズン終了後、選手分配ドラフトで東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。

楽天時代
2005年
開幕戦、3番ファーストでスタメン出場。楽天球団史上初となる打点を上げる。4月は打率.280だったが、5月は打率.148の絶不調で6月半ばに登録抹消。一軍復帰した8月31日の日本ハム戦で奮起、2安打3打点の活躍をみせ楽天移籍後初のお立ち台にのぼる。その後閉幕まで打率好調を維持した。しかし、出場数67試合、本塁打は0と不本意なシーズンとなった。シーズン後フェニックスリーグに参加。

2006年
登録名を"憲史"に変更。

2007年
開幕一軍を勝ち取り、途中二軍落ちもあったもののそこそこの活躍を見せる。二軍では59打数30安打で打率.508という驚異的な打撃成績を残したものの、一軍では安定した打撃内容を残せず、左翼手、右翼手での出場が多い中、リック・ショート、牧田明久、礒部公一などの活躍によりレギュラーを勝ち取るまでには至らなかった。5月4日のロッテ戦で、プロ入り後自身初となる一軍公式戦での満塁本塁打を放つ(6回の表、清水直行から)。この本塁打は憲史の背番号と同じ、通算61号となるものであった。

2008年
6月7日、横浜との交流戦で豪快な代打決勝3ランなどで横浜に逆転勝ち。貯金を球団史上最多の5に伸ばし、交流戦単独首位に躍り出た。創設メンバーの一人として、チームの着実な成長を見届けてきた憲史が打上げた球はベンチにいた野村監督が「一瞬、見失ったわ」と驚くほどの鋭い打球が、アッという間に右翼席上段に突き刺さった。しかし前年より目立った活躍はできず、本塁打も上記の1本だけに留まった。

2009年
開幕メンバーには名を連ねたが序盤は結果を出せず2軍落ちする。その後の1軍復帰からは代打でそこそこ結果を出し、中盤からはその勝負強さを買われて代打の切り札もしくはセギノールと中村紀洋の不振によって一塁手でのスタメン起用が増えた。その後は一軍に残り続け打率は規定不足ながら.306を記録。特に得点圏打率は.419と勝負強さを見せた。

個人記録
初出場:1996年9月10日、対福岡ダイエーホークス21回戦(福岡ドーム)、4回表に代打として出場
初安打:1996年9月18日、対千葉ロッテマリーンズ20回戦(藤井寺球場)、8回裏に小宮山悟から
初打点:1997年7月1日、対千葉ロッテマリーンズ15回戦(大阪ドーム) 9回裏に井上祐二から
初本塁打:1999年8月20日、対千葉ロッテマリーンズ18回戦(千葉マリンスタジアム)、5回表に小林雅英から
初盗塁:1999年10月3日、対オリックスブルーウェーブ27回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回表に二盗

背番号
61(1995年 - )

エピソード
野球を始めたきっかけはダイエットのため。小学生のころ、相撲部屋からスカウトがくるほどに太っていた。父親からも運動するように勧められ、相撲、柔道、剣道のどれかに入るよう言われたが、どれも格闘技系でなので躊躇。当時好きだった漫画『タッチ』の影響で、野球をすることにした。太っているから動くのも苦手で、ポジションは捕手だった。
1995年のBBMベースボールカードでルーキーカードが登場したが、なぜか表の英語表記が「KENJI KAWAGUCHI」、裏の読み仮名が「かわぐちけんじ」となっているエラーカードである。
プロ入り後11年も経過してからの登録名変更であったが、近鉄時代から応援時は「川口」ではなく「憲史」とコールされていた(近鉄時代の応援歌の歌詞にも「憲史」が入っていた)ためか、ファンにはすんなりと受け入れられたようである。
近鉄時代は中村紀洋の弟分的存在であり、キャンプ前の自主トレーニングを一緒に行っていることが多かった(憲史は福岡県出身であり、中村の妻は同じく福岡県出身。地理的なつながりもある)。なお、中村は2009年に憲史のいる楽天に入団。5シーズンぶりに同じユニフォームを着てプレーすることになった。
2001年9月26日のオリックス戦、9回裏、無死一塁で迎えた打席で一塁線を破る二塁打を放ち、史上初・唯一無二の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームランのお膳立てをした(この試合では7回裏にソロ本塁打も放っている)。
2001年頃から、「憲史の背番号を2に」 という声がファンの間で多く上がった(当時の近鉄において背番号2は栗橋茂 - 鈴木貴久と続く生え抜き和製大砲のつける背番号であり、鈴木は2000年に引退した。しかし、2001年から背番号2は、捕手の守備位置を表す数字つながりで的山哲也が着けた)。
2004年9月24日、近鉄の大阪ドーム最終戦(西武戦)では、1-2とリードされた七回裏一死満塁の場面で永池恭男の代打で登場し、豊田清から、あわや満塁本塁打かという大きな同点犠牲フライを打ち上げた。
2006年8月25日有銘兼久が対ロッテ戦延長12回188球完投の時(スコア1-1)に先制本塁打を打っている。

登場曲
『PROUD OF YOU』 ドリームズ・カム・トゥルー(2007年)
『Come on Stand up!』 長渕剛(2008年)




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