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掛布雅之

掛布 雅之(かけふ まさゆき、1955年5月9日 - )は、千葉県千葉市出身の元プロ野球選手(内野手)。現在はスポーツ報知の野球解説者(2010年より毎日放送の野球解説者として活動予定)。

新潟県三条市生まれ、大阪府豊中市在住。4代目ミスタータイガース。

目次 [非表示]
1 経歴
1.1 アマ時代
1.2 プロ入り後
2 エピソード
2.1 現役時代
2.2 楽天からの監督要請
2.3 背番号31
2.4 好敵手・江川卓
2.5 人間関係
2.6 人物像
2.7 家族
3 詳細情報
3.1 年度別打撃成績
3.2 タイトル・表彰・記録
4 過去の出演番組
5 現在の出演番組
6 ゲスト出演番組
7 歌
8 CM
9 漫画作品
10 著書
11 脚注
12 関連項目


経歴 [編集]
アマ時代 [編集]
少年時代から、指導者経験を持つ父親に野球のトレーニングを受ける。習志野高2年生時の1972年、夏の甲子園に4番・ショートで出場したが、1回戦の東洋大姫路高戦に敗退(東洋大姫路高にはのちに阪神でチームメイトとなる山川猛がおり、この試合で満塁本塁打を放った)。3年生時の1973年は県予選で敗れて甲子園には行けなかった。

同年秋、父親が千葉商業高校の野球部長兼監督だった頃の教え子でヤクルトの二軍監督だった小川善治に入団を頼み込んだが断られ、千葉商の野球部監督経験者の篠田仁にプロ球団への仲介を依頼。篠田は懇意にしていた阪神タイガースの安藤統男(同年限りで現役引退し、コーチ)に口利きを頼んだ結果、金田正泰監督へ話が伝わり、入団テストを受けて合格した。ドラフト6位指名。契約金500万円、年俸84万円で契約。

プロ入り後 [編集]
入団後、1974年の春季キャンプで徹底的に鍛えられる。オープン戦初出場は対南海戦。掛布と同年南海ドラフト1位の野崎恒男から代打でオープン戦初安打を放つ。オープン戦初スタメンは3月21日の対太平洋戦(鳴門球場)。中軸を打つショートの藤田平が結婚式で休みのため7番・ショートでの代役だったが、東尾修から4打数2安打を記録。そして3日後の対近鉄戦(日生球場)では内野の要であった野田征稔(後にマネージャー)が母を亡くして帰郷。再び代役で8番・サードとして出場することになったが、その試合で4打数4安打の大活躍を見せる。オープン戦が終わってみれば18打数8安打2二塁打の活躍で開幕一軍入りを果たし、高卒1年目にして一軍定着。同年のジュニアオールスターにも出場した。高卒新人としての一軍での本塁打は3本で、球団記録の8本(1957年・並木輝男)には及ばなかった

1976年に王貞治を上回る打率5位(.325)に食い込んでブレイクし、その年のベストナインに選ばれる。さらに翌1977年にも大活躍し、応援歌「GO! GO! 掛布」も売り出された。

1979年、田淵幸一が移籍した後の主砲としてチーム新記録となる48本塁打(それまでのチーム記録は藤村富美男の46本。その後1985年にランディ・バースが54本で更新。しかし、現在も日本人選手の球団記録)を放ち、本塁打王となる。それ以降、1982年と1984年にも本塁打王、1982年は打点王にも輝くなど「ミスタータイガース」として人気を博した(当時はミスタータイガースから田淵を除外して、掛布が3代目ミスタータイガースと呼ばれたが、現在では田淵を含めて掛布を4代目とすることが一般的である)。1980年代前半は不動の4番打者。また、同学年でもある江川卓との対決は、両者が全盛期だった1980年代前半の名勝負と言われた。

元々どちらかと言えば中距離打者だった掛布が長距離打者となったのは、田淵の移籍というチーム事情が大きい。体格的に決して恵まれていなかった掛布は、猛練習による強靱な体力(特に手首)で打球をスタンドまで叩き込んだのである。しかしこの打法は体への負担も大きく、選手寿命を縮める一因となったとも言われる。後述するように、引退の発端となったのは手首への死球であった。手首の保護目的でリストバンドを着用してプレーした野球選手は、掛布が初めてである(一方、手袋は引退まで使用しなかった)。また、現役後半にはローカットタイプのストッキングを愛用。それが掛布スタイルの代名詞となり、草野球や少年野球の中でも(独特のバッティングフォーム同様に)真似をするファンがいた。

阪神甲子園球場でホームランを量産するために、浜風とケンカするのではなく利用しようと研究を重ね、レフトスタンドへホームランを量産する掛布独特の芸術的な流し打ちを身に付けた。以後レフトへのホームランが飛躍的に増え、球界を代表するホームランバッターとなった。

1985年には3番・バース、4番・掛布、5番・岡田彰布からなるクリーンナップの一角を担って強力打線を形成し、リーグ優勝・日本一に貢献した。同年のバックスクリーン3連発(掛布はバックスクリーン左に入ったため、賞金をもらい損ねていたが、スポンサーの計らいでもらっている)ではバースに続いて本塁打を叩き込み、この年の象徴のように語られている。1986年4月、対中日戦でルーキーの斉藤学投手から手首に死球を受けて不振に陥る。実質これが選手生命を絶たれる原因となる。それ以降、華麗なバッティングは影を潜める。1988年にはプロ入り以来初めての二軍落ちも経験したが、故障続きでかつての打棒は甦らず、現役引退。通算349本塁打は阪神の球団最多記録となっている(後に金本知憲が442本[2009年現在]で更新したが、阪神一筋では最高成績。)

引退後は野球評論家を生業とし、監督、コーチの経験は一度たりともない(アメリカ・マイナーリーグの臨時コーチを務めたことはある)。

エピソード [編集]
現役時代 [編集]
阪神所属の特定の選手に対するヒッティングマーチは掛布が最初と言われる[要出典]。最初の応援歌は「GO! GO! 掛布」のサビであったが、のちに変更。

現役時代は金鳥の蚊取りマットのテレビCMに長期にわたり出演した。プロ野球選手は「憧れのかっこいい人」という印象が強かった時代に、当初から三枚目的な役どころとして起用され、好感度を上げることになった。しかし、1980年に放映された同CMでは「これで安心して眠れるなぁ」と三塁ベース上で居眠りする場面があり、この年ケガなどで成績を落としたことから、その内容がファンから不評を買った。

1980年のオフに、さるスポーツ紙の大阪版に「掛布を南海に放出、投手数名とトレード」という「スクープ」が1面に出たことがあった。球団は即座に否定したものの、江夏豊や田淵幸一の放出劇がまだ記憶に新しい頃で、ガセネタでは済まされない内容であった。掛布自身も大きな衝撃を受け、そうした話が出ないようにするため摂生に努め、翌年から1985年までは5年連続で全試合出場を果たすこととなった。

プロ15年間、公式戦でサヨナラ本塁打を打ったことが一度もなく、サヨナラ安打も1本のみである(ただし、オールスターゲームでは1981年の第2戦でサヨナラ本塁打を打った)。オールスターゲームには強く、1978年には3打席連続本塁打の記録を残している。また、1981年にも第2戦 - 第3戦にかけて3打席連続本塁打を記録しており、そのうち2本目が上記のサヨナラ本塁打であった。

山本浩二が1983年4月30日の対阪神戦で、あとは三塁打さえ出ればサイクル安打達成という場面において第5打席に左中間に長打を放ったが、現役晩年の山本では三塁まで狙うのはかなり厳しい打球であった。それでも果敢に塁を狙い、三塁で掛布雅之とのクロスプレーを制して悲願のサイクル安打達成となったのだが、この時の掛布のタッチの動作が非常にゆっくりとした追いタッチであったため、このシーンは今でもファンの間で語り草となっている。そもそもサイクル安打は達成の前にその機会を作ること自体が難業である。山本は前の打席で中前打を放ち三塁まで進んできた時に「カケよ、次の打席で外野を抜いたらどんな打球でもココへ突っ込むから、よろしく頼むで」と言ってそれを実行した。試合はこの時点で広島が12-0と大きくリードしており、かつ終盤でもあったため、山本に三塁打を許しても流れは変わらないと判断した掛布が独断で「粋な配慮」を見せたと言われている。このプレーに関し掛布は「送球が逸れ、捕球時に前につんのめったためタッチが遅れた。八百長ではない」と言及していた(1983年5月1日・朝日新聞関西版より)。しかし2008年7月6日放送の「中居正広のブラックバラエティ」において、掛布は山本浩二と同席のもと、わざとタッチをしなかったことを告白した。その際、「この当たりでは三塁まで来ないだろうと思ったら走ってきたので焦った」、「タッチを遅らせるためわざとベースから離れファウルゾーン側に下がったが、それにもかかわらず真弓明信からの送球を捕球した段階で完全にアウトのタイミングであった」という状況が重なり、かなりの葛藤があったことも語っている。

1984年には宇野勝と激しく本塁打王を争い最後の直接対決2連戦では両者敬遠攻めに遭い、本塁打王を分け合った。この敬遠の応酬についてはセ・リーグ会長が両監督(安藤統男と山内一弘)に注意し、最終的には記者団に謝罪するほどであった。

1987年3月22日、飲酒運転で現行犯逮捕された(その時乗っていたのはフェラーリ)。マスコミからの非難のみならず、久万俊二郎オーナーにも「欠陥商品」と痛罵されてしまう。公共交通機関を運営する会社の社長(当時)として、社員の重大な交通違反を許す訳にはいかなかったのであろう。この件は、掛布がタイガースに愛着を持ち続けているにもかかわらず、未だ一度も現場復帰できていない一因となっている。

1988年の引退時に、ヤクルトのヘッドコーチとなっていた安藤統男は、33歳という若さでの引退を惜しみ、環境を変えればまだ働けるのではないかと考えて掛布に移籍を打診したが、掛布は丁重に断っている(2003年に安藤と掛布が出演したラジオ番組での発言)。偶然ながら、プロ入り時に断られたヤクルトに今度は掛布の方から断る形になった。

楽天からの監督要請 [編集]
2004年秋に発足当初の東北楽天ゴールデンイーグルスから監督要請があったように報じられるが、結果的に田尾安志が監督に就任した。この件について実のところ、掛布は楽天の三木谷浩史オーナーによって玩具まがいの扱いをされていたことが、先輩である加藤博一から1年後の10月に伝えられた。

背番号31 [編集]
長嶋茂雄の3番と王貞治の1番を足して31番とした、と言われる事があるが、掛布本人は、球団から提示された空いている背番号の中で一番若い番号だったから、と語っている。小学館『月刊コロコロコミック』に掲載された漫画「掛布選手物語」(たがわ靖之)では掛布の父の教えとされる「人の3倍練習しろ、それで初めて一番になれる」という教訓と上記「長嶋と王の番号」説を兼ねた感動的な説明になっている。掛布の前に付けていたのは、入団直前の1973年のシーズン限りで退団した外国人選手ウィリー・カークランドであった。また、入団当時の選手名鑑には上田二朗のユニフォームを借り、背番号「16」で写っているものもあった。本人はゲン担ぎで、よく試合前に背番号31にあやかりサーティワンのアイスクリームを食べていたらしい。

永久欠番とはならなかったものの、野球ファンの間で背番号31と言えば掛布という印象が強い。その印象の強さを表すエピソードに、サッカーの大黒将志が2005年に初めてサッカー日本代表に選出されたときの背番号が31だった事に「掛布と同じですね。縁起えぇわ」と喜んでいる。ちなみに所属していたガンバ大阪での背番号は岡田彰布のつけていた16であった。

なお1976年オフ、掛布は球団首脳から「背番号を『3』に変更しないか」と打診を受けている。憧れの長嶋と同じ背番号ということで掛布は悩んだが、「入団時にもらった背番号『31』を自分の顔として育てていきたい」として固辞している。[1]

好敵手・江川卓 [編集]
高校時代、練習試合で江川卓と対戦機会があったが、怪我のため掛布は打席に立てなかった。もしこのとき打席に立っていたら自信を喪失してプロ入りしなかったのではないか、と掛布は語っている。プロ入り後、江川は掛布に対する初球は必ずカーブを投げた。しかし、掛布はそれを見送り、ストレートを待って勝負したという[2]。また、掛布によると一度江川が自分を敬遠した時(1982年9月4日、甲子園球場での試合)にはその球が異常に速く、「本当は勝負したい」という意思を感じたという[3]。掛布と江川の通算対戦成績は、167打数48安打で打率.287、14本塁打21三振33打点。このうち本塁打数は山本浩二と並んで江川の最多被本塁打打者である。

江川とは現在も親友の間柄であり、TVにおいて共演した際には江川に向かい「たまには阪神のOB会に来い」と江川のプロ入りの際のゴタゴタをネタにからかったりしている。

人間関係 [編集]
若手時代に、江夏豊の登板した試合で三塁ゴロをトンネルしてサヨナラ負け、江夏に黒星がついたことがある。試合後、ロッカールームで「江夏さん絶対怒ってる、怒ってるに決まってる」と思って震えていると、当の江夏がズカズカと掛布の所に歩み寄り、正面から顔を睨みつけ、掛布の肩をボン、と叩き「怒ってねぇよ!」と言った。掛布は「ああ、やっぱり江夏さん怒ってる」とますます落ち込んだ、とのこと。

長嶋茂雄のことを敬愛している(このことが「長嶋嫌い」を公言している岡田との確執の噂の元の一つとなったとの見方もある)。デビューした年の5月21日の対巨人戦でプロ入り初安打を記録した時、掛布は三塁を狙ったが長嶋にタッチアウトされた。しかし、「憧れの長嶋」にタッチされたことが嬉しくてたまらなかったという。同じく新人時代、対巨人戦で安打で出塁した際、王貞治に「うまくなったね」と、声を掛けられ、「あぁ、見てくれていたんだ…」と感激したそうである。その後三塁まで進塁した際、長嶋には「若いねぇ、歳いくつだぁ~?」と、言われたそうである。

長嶋が評論家に転じたのち、スランプに陥っていた掛布は長嶋に電話で助言を求めたことがある。すると長嶋曰く「そこにバットある? あったら振ってみて」。首をかしげながら掛布は素振りの音を電話越しに長嶋に聞かせた。音を聞いた長嶋は「雑念を取り払え、無心で振れ!」と言う。今度は無心でバットを数度振り、音を聞かせる。すると「そうだ、今のスイングだ。忘れるな!」と言い、電話は終わった。その後、掛布はスランプを脱したという。

巨人の阿部慎之助の父親は掛布の習志野高時代の同級生で、同じく野球部に所属していた。高校時代は阿部の父親が4番を打っており、掛布は3番打者だった。今でも阿部の父親とは深い親交があり、阿部が子供の頃から掛布に憧れていたのはこの縁に由来する。

タレントの松村邦洋にものまねされているが、「阪神よりも下半身がいいですねー。(下ネタ)」など絶対言わないことまで言うので本人は少々迷惑がっている。だが、これをきっかけに親交は深くなった。松村の話によると、自分の家に一般人が平気で訪れたり悪戯電話をかけるなど嫌がらせが絶えなかった時代に、掛布の声で電話があり、はじめは悪戯と思ったが、本物の掛布であることが分かり感動したという。

人物像 [編集]
“雅之”という名前は掛布の父親が俳優の森雅之の大ファンだったことから名付けられた。幼少時に父親によって利き手を左に矯正。田中好子と共演したミツカンのテレビCMでは左手で箸を持ってちらし寿司を食べる一幕があった。実家があった場所は現在、ミスタードーナツ京成千葉中央店となっている。

酒癖は悪いようだが、ギャンブルとタバコは全くやらない。

現役時代から球界屈指の大変な車好きとして有名。豊中市にある自宅のガレージには日本、海外の希少な旧車・珍車から最新型のスポーツカー、高級車まで常に10数台の愛車が保管されている。実物の車のみならず、模型やラジコンカーも好み、自身のカスタムカーには31のゼッケンを入れているほど。なお、自宅の表札は榊莫山の筆による。

プロ入り後初めての広島遠征で、広島風お好み焼きを食べ「こんなウマイものがあるのか」と感動。当時は全国的には広島風はほとんど知られていない時期だったが、広島遠征では必ず通い、広島の有名店「へんくつや」では、掛布の好きなニンニクいっぱい入りの「掛布スペシャル」というメニューがあった。チームメイトにも薦めた影響で、今も阪神の選手は広島風お好み焼きの愛好者が多い。掛布はこれが高じて大阪・豊中の自宅近くにある通称・ロマンチック街道沿いに「掛布企画」名義で「ほっとこーなー」という広島風お好み焼きの店を持っていた。隣には同じく掛布のスポーツカジュアル用品店「スポーツハウス・フィールド31」もあった(現在は京阪天満橋駅近くに「参拾壱 ほっとこーなー」という地鶏の店を経営している)。他、プロダクション会社『掛布』も経営していた。しかし、2009年には週刊誌において、これらの店舗の経営不振により多額の負債を抱え、自宅も2008年に差し押さえを受けていると報じられた[4]。この事が関係してかは不明ではあるが、2008年いっぱいで長らく担当していた読売テレビの野球解説者としての契約を解除された。この債務について、掛布は、債務保証したコンサルタント会社から大阪地方裁判所に訴訟を起こされた。掛布は「コンサルタント会社が実質経営していた」と主張したが受け入れられず、同地裁は2009年9月11日に、掛布側全面敗訴の判決を言い渡した[5][6]。

野球解説の際にはファーストの事を「ホワスト」と発音する。また、「ひじょうにこう」「やはりこの~」「ですからその~」といったフレーズを多用。末尾は「ええ」で完了することが多い。ものまねをする松村邦洋は「掛布さんは『ひじょうに』を1試合の中継で27回以上は言っている」と話している。2007年9月23日放送の着信御礼!ケータイ大喜利の最後のお題に出た際、「げっ、延長ですか…」等の投稿されたネタを言った直後に「本音ですね」とか「これは無いな」などと勝手に付け足して喋った。

サイン色紙に常に記す言葉は「いつもあこがれ」である。

家族 [編集]
現夫人は米田哲也に紹介された。

長男は大阪学院大学高等学校から大阪学院大学を経て社会人野球の三菱重工神戸で2008年までプレーしていたが、彼がつけていた背番号も31だった。大阪学院大学時代にも、主将を務めた4回生時を除けば、1回生から3回生までは背番号31をつけた(4回生時には主将の慣例で1をつける)。

詳細情報 [編集]
年度別打撃成績 [編集]

度 球
団 試
合 打
席 打
数 得
点 安
打 二

打 三

打 本

打 塁
打 打
点 盗
塁 盗

死 犠
打 犠
飛 四
球 敬
遠 死
球 三
振 併

打 打
率 出

率 長

率 O
P
S
1974 阪神 83 194 162 13 33 8 0 3 50 16 1 1 0 2 28 2 38 3 .204 .325 .309 .633
1975 106 344 317 34 78 15 3 11 132 29 0 0 3 0 22 2 68 8 .246 .299 .416 .716
1976 122 469 406 69 132 20 7 27 247 83 5 7 2 3 54 4 52 7 .325 .407 .608 1.015
1977 103 439 381 59 126 18 4 23 221 69 4 4 0 6 50 2 58 9 .331 .405 .580 .986
1978 129 532 465 73 148 17 2 32 265 102 7 5 0 2 63 2 86 5 .318 .400 .570 .970
1979 122 530 468 107 153 20 3 48 323 95 10 4 0 4 58 0 61 13 .327 .398 .690 1.088
1980 70 288 258 27 59 7 0 11 99 37 2 1 0 2 26 2 47 9 .229 .302 .384 .686
1981 130 549 458 84 156 25 1 23 252 86 1 1 0 4 85 2 54 8 .341 .443 .550 .993
1982 130 549 464 79 151 27 0 35 283 95 6 6 0 4 79 2 69 11 .325 .423 .610 1.033
1983 130 560 483 72 143 25 2 33 271 93 6 3 0 3 72 2 81 5 .296 .388 .561 .949
1984 130 549 442 79 119 14 1 37 246 95 3 2 0 3 102 2 83 11 .269 .406 .557 .963
1985 130 579 476 102 143 16 4 40 287 108 3 1 0 6 94 3 62 12 .300 .415 .603 1.017
1986 67 285 254 33 64 11 1 9 104 34 0 2 0 3 25 3 40 7 .252 .323 .409 .732
1987 106 424 387 33 88 14 3 12 144 45 0 1 0 3 33 1 61 9 .227 .288 .372 .660
1988 67 283 252 28 63 13 0 5 91 32 1 0 0 3 28 0 37 7 .250 .322 .361 .683
通算:15年 1625 6574 5673 892 1656 250 31 349 3015 1019 49 38 5 48 819 29 897 124 .292 .381 .531 .913

各年度の太字はリーグ最高
タイトル・表彰・記録 [編集]
本塁打王:3回 (1979年、1982年、1984年)
打点王:1回 (1982年)
最多出塁数:2回 (1981年、1982年)
ベストナイン:7回 (1976年 - 1979年、1981年、1982年、1985年)
ダイヤモンドグラブ賞:6回 (1978年、1979年、1981年 - 1983年、1985年)
月間MVP:1回 (1979年4月)
1イニング2本塁打 (1982年8月24日、対ヤクルト戦。史上9人目)
4打数連続本塁打 (1978年8月31日 - 9月1日) ※日本タイ記録。
10打席連続四球 (1984年10月3日 - 10月5日) ※セ・リーグ記録。
10打数連続安打 (1981年8月5日 - 8月7日)
12打席連続出塁 (1981年8月5日 - 8月7日)
オールスターゲーム出場:10回 (1976年 - 1985年)
オールスターゲームMVP:3回 (1978年第3戦、1981年第2戦、1982年第3戦)
通算1000試合出場:1983年4月16日(233人目)
初安打:1974年5月21日 対巨人戦(後楽園) 高橋善正から
初本塁打:1974年6月3日 対広島戦(広島) 佐伯和司から右越ソロ
過去の出演番組 [編集]
PRIDE&SPIRIT 日本プロ野球(日本テレビ・読売テレビ、1989年 - 2008年)
紳助の人間マンダラ(関西テレビ)
コロッセオ(日本テレビ)
大スポんちゅ(スポんちゅ金曜版)(日本テレビ)
スポーツMAX(日本テレビ)
掛布の遊びたいし!(テレビ大阪)
掛布雅之のホットコーナー(ラジオ大阪)
現在の出演番組 [編集]
ちちんぷいぷい 月曜日(毎日放送)
ゲスト出演番組 [編集]
おかえり!(2007年8月12日、テレビ朝日)
松本ひでおのショウアップナイターネクスト!最終回(2008年3月27日、ニッポン放送)
ニッポン放送ショウアップナイター(2008年のみ不定期解説、ニッポン放送・NRN)
とんねるずのみなさんのおかげでした(2003年11月13日、「新食わず嫌い王座決定戦」)
MBSタイガースナイター(ゲスト解説・但し、上記の通り2010年より専属解説者として活動予定。)
探偵!ナイトスクープ(顧問として不定期出演)
歌 [編集]
1977年、遠藤良春が掛布の応援歌「GO!GO!掛布」(作詞・作曲:中山大三郎)を歌い、関西を中心に126万枚の大ヒットとなった[7]。掛布本人も1978年、はらたいらのプロデュースで「掛布と31匹の虫」(作詞:はらたいら、作曲:長戸大幸)を発売したが、こちらはヒットには至らなかった。なお、「掛布と31匹の虫」はオムニバスCD「えっ!あの人がこんな歌を・・・。」(1990年7月21日発売)にも収録されている。
CM [編集]
大日本除虫菊 - 『コックローチS』(1978年 - 1979年)、『金鳥蚊取りマット』(1980年 - 1987年)
JA和歌山 - 『ジョインジュース』、『和歌山の柿』(関西ローカル)
ミツカン『おむすび山』
オートバックスセブン
武田薬品工業『タケダ胃腸薬 ザッツ』(江川卓と共演)
大正製薬『リアップ』(中村雅俊と共演)
ソノヤコーポレーション
漫画作品 [編集]
本人をモデルとした漫画「若トラ 掛布雅之物語」がさだやす圭により『週刊少年キング』で連載されていた。また、『月刊コロコロコミック』の第2号(1977年)にはたがわ靖之の「掛布選手物語」が掲載されている。
テレビアニメ『新・巨人の星』では右投手として復活した星飛雄馬のライバルとして登場、飛雄馬の殺人スクリュー・スピン・スライディングを自らも同じように高速回転でタッチを行い、打ち破った。引退後、「テレビ探偵団」のゲストでこの場面を見た掛布は「ボクってすごいことやっていたんですね」と苦笑いしていた。
いしいひさいちの『がんばれ!!タブチくん!!』にも長期にわたって登場した。当初は「若トラ」のイメージ通りのスマートな姿であったが、現役晩年には顔や体がいかついデザインに変わっていた。
このほか、水島新司の『野球狂の詩』や、江口寿史の『すすめ!!パイレーツ』などにも登場している。後者では千葉県ネタに絡むシーンがあった。
著書 [編集]
猛虎が吼えた―熱球悲願(恒文社・1982/09) ISBN 4770405030
掛布雅之の楽しい野球〈打撃・守備編〉(小峰書店・1989/07) ISBN 4338085010
掛布ライス―“おもてなし”のすすめ(日本テレビ放送網・2001/03) ISBN 4820397753
脚注 [編集]
^ プロ野球チームをつくろう!ONLINE2特別インタビュー
^ 2009年4月刊行の『阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎列伝 Vol.3』(講談社)に収録された掛布と江川の対談で両者が認めている。
^ 『Sports Graphic Number』No.270(1991年7月5日)、P28-32(筆者は二宮清純)
^ 『週刊新潮』2009年5月7・14日号
^ 掛布さん側会社に1億5300万円賠償命令 産経新聞 2009年9月11日
^ 掛布雅之さん:大阪地裁 約1億5000万円の返済命令 毎日新聞 2009年9月11日
^ 一ツ橋猛虎会『阪神タイガースへぇ〜77連発!!』小学館、2003年、37-38頁。ISBN 4-09-102354-1

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